森の木々が、燃えるような赤や、黄金の色にその身を染める季節が訪れていた。
夜の空気は水晶のように澄み渡り、月光は、色とりどりの葉を一枚一枚、くっきりと照らし出す。日中の賑わいが嘘のように静まり返った森に、時折、乾いた落ち葉がカサリと音を立てて舞い落ちる。
吐く息が、うっすらと白く見えるほどに、夜はもう肌寒かった。
■
その夜、パン屋の扉を、ほとんど叩きつけるように開けて入ってきた客がいた。
歳の頃は十六、七だろうか。亜麻色の髪を無造作に束ねた少女で、その大きな瞳は怒りと悲しみで潤み、赤く縁取られていた。上等な仕立てのドレスは、慌てて家を飛び出してきたのか、少し着崩れている。
彼女は、パン屋の主人を見るなり、叫ぶように言った。
「何か! 何か甘いものをください! 頭がかっかして、もうどうにかなりそうなんです!」
パン屋の主人は、いつものように静かな佇まいで、その感情の嵐のような少女を受け止めた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ。まずは落ち着いて、温かいお茶でもいかがですかな」
主人の、凪いだ水面のような声に、少女の興奮も少しだけ鎮まったようだった。彼女――名をアリアという――は、乱暴に椅子に腰を下ろすと、俯いてしまった。その肩が、小刻みに震えている。きっと、こらえきれない涙と戦っているのだろう。
主人が、カモミールの優しい香りがするハーブティーを彼女の前に置こうとした、その時だった。
カラン、と。今度は、先ほどとは対照的に、ためらうような、控えめな鈴の音が鳴った。アリアは、はっと顔を上げて扉の方を見た。そして、その表情がさっと凍りつく。
そこに立っていたのは、アリアと瓜二つの亜麻色の髪を持つ、少し年上の女性だった。
アリアよりも落ち着いた雰囲気の、姉のリゼだ。彼女は、きっちりと着こなしたドレスの上にショールを羽織っていたが、そのショールが少しずれているところに、内心の焦りが窺えた。
「……アリア。こんなところにいたの」
リゼの声は、冷静を装ってはいたが、硬く、震えていた。
「……お姉ちゃんは関係ないでしょ!」
アリアは、ぷいと顔をそむける。店の中は、一瞬にして、氷のように張り詰めた空気に満たされた。姉妹の間には、目に見えない、けれど厚く冷たい壁が存在しているかのようだった。
喧嘩の原因は、些細なことだった。
亡き母の形見である、小さな銀のペンダント。それを、アリアが姉に黙って持ち出し、友人とのお茶会につけていったのだ。それに気づいたリゼが、アリアを厳しく咎めた。
『どうして勝手なことばかりするの!』
『少しくらい、いいじゃない! お姉ちゃんだって、いつも使わないくせに!』
売り言葉に買い言葉。お互いに、相手を傷つけると分かっている言葉を、わざと選んで投げつけ合った。そしてアリアは、
「お姉ちゃんなんて大嫌い!」
という最後の一言と共に、家を飛び出してきたのだった。
「お客様、お二人ですね」
二人の間の凍てついた空気を破ったのは、パン屋の主人の静かな声だった。彼女は、まるで何もなかったかのように、もう一つ、温かいハーブティーのカップを用意し、リゼの前に置いた。
「私は、別に……」
「甘いものなんて、いりません」
二人は、示し合わせたかのように、それぞれ反対の言葉を口にした。主人は、そんな二人を穏やかに見つめると、ふっと微笑んだ。
「お二人には、こちらのパンが良いでしょう。ただし、このパンは、お一人では召し上がれません」
そう言って、主人がかまどのそばから運んできたのは、一つの大きな、丸いパンだった。
それは、大人の顔ほどもある、巨大なシナモンロールだった。
年輪のように美しい渦巻きを描く生地の間には、シナモンとブラウンシュガーがたっぷりと挟み込まれている。表面には、雪のように真っ白な砂糖衣(アイシング)がとろりとかかり、その上を、溶け出したバターが黄金色の川となって流れていた。湯気と共に立ち上る、甘く、そして少しだけスパイシーな香りが、店中にふわりと広がる。
主人は、そのシナモンロールを、姉妹の間のテーブルの真ん中に、ことりと置いた。
「さあ、どうぞ。お二人で、お好きなだけ」
ナイフとフォークも添えられてはいたが、そのパンは、手でちぎって食べるのが一番美味しいのだと、誰もが直感でわかるような見た目をしていた。
しかし、姉妹はどちらも、動こうとしなかった。
気まずい沈黙が、店を支配する。アリアは俯いたまま、リゼは窓の外に視線を向けたまま、お互いに意地を張っている。
ただ、シナモンの甘い香りだけが、容赦なく二人の心をくすぐる。その香りは、不思議なことに、二人の脳裏に、同じ記憶を呼び覚ましていた。
――それは、二人がまだずっと幼かった頃の記憶。
風邪をひいて寝込んだ二人のために、母が焼いてくれた、シナモンアップルパイの記憶だ。一つのパイを、半分こにして食べる。
『お姉ちゃんのほうが、リンゴが多い!』
『アリアこそ、パイの皮の美味しいところばっかり!』
そう言って、些細なことで口喧嘩をしたこと。でも、最後には、お互いの皿から一切れずつ交換して、二人で顔を見合わせて笑い合ったこと。あの頃、自分たちは、何でも二人で分け合ってきた。喜びも、悲しみも、そして、母の焼いてくれたパイも。
気まずい沈黙の中、先に口を開いたのは、妹のアリアだった。
「……お姉ちゃん、また、大きく取ろうとしてる」
それは、幼い頃と全く同じ、少し拗ねたような口調だった。その一言が、リゼの心の固い殻に、小さなひびを入れた。彼女は、窓の外からアリアへと視線を戻すと、憎まれ口で返した。
「あんたこそ、真ん中の、一番甘いところばっかり取る気でしょ」
その声は、自分でも驚くほど震えていた。目頭が、じんと熱くなる。
リゼは、震える手で、シナモンロールの外側の一巻きに手をかけた。アリアも、おずおずと、中心に近い部分に指を伸ばす。
ふわりと温かいパンの感触が、手のひらから心に伝わっていく。その温かさが、二人の意地を、最後のひとかけらまで溶かしてしまった。
「……ごめんなさい」
どちらからともなく、同じ言葉がこぼれた。
「ペンダント、勝手に使って……ごめんなさい」
「私こそ、あんなにきつく言ってしまって……。本当は、アリアが傷ついていないか、心配で……」
二人の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ち、テーブルの上にぽたぽたと染みを作った。喧嘩の原因なんて、もうどうでもよかった。ただ、愛する姉妹を傷つけてしまった後悔と、仲直りできた安堵感で、胸がいっぱいだった。
二人は、泣きながら、笑いながら、一つのシナモンロールを分け合って食べた。
甘いパンは、涙で少ししょっぱくなったけれど、それがまた、たまらなく美味しかった。
分け合うこと。それは、喜びを二倍にし、悲しみを半分にすることだと、彼女たちは、パンを食べながら思い出していた。
やがて、大きなシナモンロールは、綺麗に二人の胃に収まった。
「ごちそうさまでした」
顔を見合わせ、声を揃えて言う。その表情は、店に来た時とは比べ物にならないほど、晴れやかで、穏やかだった。
「外は冷えますから、これを」
主人は、自分の肩にかけていた、温かなウールのショールを、リゼのずれたショールの上からふわりとかけてやった。それは、二人を優しく包み込むのに、十分な大きさがあった。
姉妹は深く礼を言うと、今度は寄り添うようにして、店の扉を開けた。秋の夜寒も、二人でいれば、もう怖くはない。楽しげに囁き合いながら、一つの影となって森の中へ帰っていく後ろ姿を、主人は静かに見送った。
■
客が去った店に、まだシナモンの甘い香りが、幸せの余韻のように漂っている。
主人は、店の外に出て、月明かりに照らされた落ち葉の中から、よく似た形の、美しいカエデの葉を二枚拾い上げた。
そして、店に戻ると、かまどのそばの壁――ローズマリーの枝と、子狐の毛が置かれているその隣に、二枚の葉を、そっと寄り添うようにして置いた。
まるで、仲直りした姉妹のように。また一つ、温かい物語が焼き上がったパン屋は、静かに夜明けを待っていた。