石窯は、星の降る夢を見る   作:灯火011

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第六話:勇気を灯す木苺のタルト

 秋が、その最も美しい衣を森に広げる頃。

 

 夜空の星々は、氷の粒のように鋭く、そして近く瞬いていた。パン屋のかまどのそばの壁には、いつの間にか、ささやかな思い出たちが静かに飾られている。

 

 乾燥してより深い香りを放つようになったローズマリーの枝、寄り添うように置かれた二枚の紅葉したカエデの葉、そして、今はもう持ち主もわからない、小さな獣の柔らかな巻き毛。

 

 それらは、この場所を訪れた者たちの物語のかけらであり、パン屋の主人が紡いできた、静かな時間の証だった。

 

 

 その夜、店の扉を、おそるおそる、ほんの数センチだけ開けて中を覗き込む、小さな影があった。

 

 村に住む、花屋の娘のリーナだった。彼女はパンを買いに来たわけではない。ましてや、何か大きな悩みを相談しに来たわけでもなかった。ただ、居ても立ってもいられず、村の喧騒から逃れるように、そして何かにすがるように、森の中を彷徨っているうちに、この不思議な灯りを見つけたのだった。

 

 彼女の両手は、固く、何かを握りしめている。それは、彼女が今日一日かけて作った、小さな花冠だった。

 

 明日は、村の年に一度の「狩人祭」。若者たちが、日頃の感謝や、秘めた想いを、獲物や手作りの品に託して、意中の相手に贈る日。リーナは、幼馴染である若い狩人の青年のために、この花冠を作ったのだ。彼の狩りの無事を祈るタイム、誠実な愛を意味するリンドウ、そして、自分の秘めた情熱を表す、小さな赤い野バラ。

 

 けれど、いざ完成してみると、それを渡す勇気が、どうしても湧いてこなかった。

 

 ―――もし、受け取ってもらえなかったら?

 

 ―――もし、彼の隣には、もう別の誰かがいたら?

 

 ―――もし、この花冠に込めた想いが、彼にとってはただの迷惑だったら?

 

 考えれば考えるほど、足は鉛のように重くなり、心は冷たい水に沈んでいくようだった。

 

「……あの」

 

 リーナは、蚊の鳴くような声で、店の中に呼びかけた。

 

「いらっしゃいませ。どうぞ、中へ。外は冷えるでしょう」

 

 中から聞こえたのは、穏やかで、心を落ち着かせるような声だった。リーナは、意を決して、店の中に一歩足を踏み入れた。

 

 

 銀色の髪を持つ、店の主人は、リーナの姿を見ると、その手に握られた花冠に、静かに視線を落とした。彼女の瞳は、リーナが言葉にするずっと前から、その花の冠に込められた少女の祈りも、不安も、切ない恋心も、すべてを理解しているかのようだった。

 

「とても、美しい花冠ですね」

 

 主人は、静かに言った。

 

「一つ一つの花が、あなたの心の声で、ささやいているようです」

 

 その言葉に、リーナの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 

「私……どうしたらいいのか、わからなくて……。渡したいのに、怖くて……」

 

 ぽつり、ぽつりと、リーナは悩みを打ち明けた。主人は、ただ黙って、その言葉の一つ一つを、まるで大切なものを拾い上げるように、丁寧に聞いていた。

 

 一通り話し終えると、主人は静かに立ち上がり、奥の厨房へと姿を消した。そして、すぐに戻ってくると、その手には、小さな円形のタルトが乗った皿があった。

 

 それは、芸術品のように美しいタルトだった。さっくりと焼かれた黄金色の生地の器に、滑らかなカスタードクリームが満たされ、その上には、森で採れたばかりの木苺や、飴色に煮詰められた小さな森林檎が、まるで宝石のように、惜しげもなく散りばめられていた。

 

「秋の森の、木苺のタルトです」

 

 主人は、リーナの前にそっとそれを置いた。

 

「今のあなたに、必要な味がします」

 

 甘いクリームの香りに混じって、木苺の、胸がキュンとなるような甘酸っぱい香りが、リーナの鼻先をかすめた。その香りは、リーナが抱える、甘くて、少しだけ切ない恋心そのもののようだった。

 

 

 リーナは、添えられた小さなフォークで、おそるおそるタルトの一片を口に運んだ。

 

 サクッ、と小気味よい音を立てて崩れる生地。舌の上でとろける、優しい甘さのカスタードクリーム。そして、次の瞬間、プチリと弾けた木苺の果実が、鮮烈な甘酸っぱさを口いっぱいに広げた。

 

 甘いだけじゃない。酸っぱいだけじゃない。その二つが合わさって、初めて生まれる、胸のときめくような、切ない味わい。

 

「……おいしい」

 

 涙で濡れた声で、リーナは呟いた。

 

「想いというのは、このタルトに乗った果実と同じです」

 

 主人は、静かに語りかけた。

 

「一番美しく熟した時に摘み取らなければ、鳥に食べられてしまうか、雨に打たれて地に落ちてしまう。そして、ただ土に還るだけになってしまうのです」

 

 リーナは、タルトから顔を上げて、主人の顔を見つめた。

 

「あなたのその想いは、今が、一番美しく熟している。あなたの手で摘み取り、あなた自身の言葉で届けるからこそ、その甘酸っぱさが、一番輝くのですよ」

 

 その言葉は、リーナの心に、小さな灯りをともした。

 

 ―――そうか。私は、自分の想いを、自分でないがしろにしようとしていたんだ。結果がどうであれ、この気持ちは、今の私にとって、何よりも大切で、美しい宝物なのだ。だったら、一番輝いているこの瞬間に、ちゃんと届けてあげなければ。この想いに対して、失礼だ。

 

 リーナは、残りのタルトを、一口一口、確かめるように味わった。甘酸っぱい果実が、彼女に勇気を与え、滑らかなクリームが、彼女の不安を優しく包み込んでいくようだった。

 

 

 タルトを食べ終える頃には、リーナの顔から、迷いの色はすっかり消えていた。彼女は、それまで不安げに握りしめていた花冠を、今度は、まるで大切な宝物のように、愛おしそうに両手で持ち直した。

 

「私、行ってきます」

 

 リーナは、椅子から立ち上がると、力強い、澄んだ声で言った。

 

「ちゃんと、渡してきます。この気持ちを、自分の言葉で」

 

 その瞳は、涙のあとで清々しく洗い流され、秋の夜空の星のように、強く輝いていた。

 

「ええ、きっと大丈夫」

 

 主人は、店の棚から、乾燥させたハーブの小さな包みを取り出すと、リーナに手渡した。

 

「これは、お守りです。きっと、あなたの言葉に、優しい香りを添えてくれますよ」

 

「ありがとうございます!」

 

 リーナは、深く、深くお辞きをすると、今度は村へと続く道を、迷いのない、しっかりとした足取りで駆け出していった。その背中は、もうか弱くなどなかった。

 

 

 主人は、客が去ったあとのテーブルに、小さな赤い花びらが一枚、落ちているのに気づいた。リーナが握りしめていた花冠から、こぼれ落ちたものだろう。野バラの花びらだ。

 

 彼女はそれをそっと拾い上げると、かまどのそばの壁へと向かった。そして、これまでの思い出たちの隣に、その小さな赤い花びらを、そっと置いた。

 

 また一つ、甘酸っぱく、そして勇気に満ちた物語のかけらが、パン屋の静かな歴史に加わった。壁に飾られた思い出たちは、まるで、これから生まれるであろう若い恋の行方を、静かに見守っているかのようだった。

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