石窯は、星の降る夢を見る   作:灯火011

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第八話:道化師のための黒いパン

 森が、沈黙に支配される季節が来た。

 

 空から舞い降りる雪は、音という音をすべてその内に吸い込み、世界を真っ白な静寂で満たしていく。木々の枝には、綿帽子のような雪が降り積もり、月明かりを浴びて青白く、そして幻想的に輝いていた。

 

 パン屋のかまどのそばの壁に飾られた思い出たちも、この静寂の中で、じっと息を潜めているかのようだった。

 

 

 その夜、パン屋の扉は、まるで喜劇のワンシーンであるかのように、芝居がかった仕草で、しかし音もなく開かれた。

 

 入ってきたのは、一人の男だった。色鮮やかだが、雪に濡れて少しみすぼらしくなった、道化師の衣装を身につけている。その顔には、職業柄の陽気な笑顔が貼り付いていたが、その瞳だけは、凍てついた冬の湖のように、何の感情も映していなかった。

 

 男――宮廷道化師のフィニアスは、今宵も開かれた王の宴を、こっそり抜け出してきたところだった。

 

 貴族たちの、中身のない会話。上辺だけの笑い声。その中で、彼はいつものように気の利いた軽口を叩き、滑稽な仕草で人々を笑わせた。だが、宴が華やかであればあるほど、彼の心は、逆にどんどん冷え、虚しくなっていく。自分は、誰かの笑顔のために存在する、ただの操り人形なのではないか。本当の自分とは、一体何なのだろう。

 

 そんな息苦しさから逃れるように、気づけば、雪の降る森の中を、当てもなく彷徨っていた。

 

「いやはや、これは驚いた!こんな雪の夜に明かりが灯っているとは!まるで、凍えた旅人を誘う、雪女の茶屋ですな!」

 

 フィニアスは、店に入るなり、癖で道化の仮面を被った。軽薄な言葉を並べ立て、自分の本心をひた隠しにする。

 

 パン屋の主人は、そんな彼の言葉には乗らず、ただ静かな眼差しで彼を見つめていた。その瞳は、彼の派手な衣装も、貼り付けた笑顔も、その全てを通り越して、仮面の下で疲れ果てている、本当の魂を見ているかのようだった。

 

 主人のその静けさの前では、フィニアスの饒舌な言葉は、空虚に響くだけだった。

 

「何か、温かいものを。ああ、そうだ。何かこう、食べただけで愉快になるような、笑いがこみ上げてくるようなパンというのは、ありますかな?」

 

 彼は、あくまで道化を演じ続けようとした。主人は、その言葉には答えなかった。ただ、ゆっくりと、一つのパンを彼の前に差し出した。それは、ずっしりと重く、黒々とした、素朴なパンだった。まるで、雪の下から掘り起こした、凍った土の塊のようだ。何の飾り気も、陽気さも、そこにはない。

 

 

 フィニアスは、その黒いパンを見て、内心で自嘲した。

 

 ――まるで、今の俺の心の中みたいじゃないか。

 

 黒く、重く、何の面白みもない。

 

「人は時として、自分を守るために、硬い殻を必要とします」

 

 主人は、静かに、しかし芯の通った声で言った。

 

「ですが、本当に大切なのは、殻の中にあるもの。その人だけの、本当の温かさです」

 

 その言葉は、フィニアスの心の仮面を、一枚、静かにはぎ取った。

 

 彼は、促されるままに席につき、黒いパンを手に取った。ずしりとした重みが、彼の虚しい心に、確かな存在感を持って響く。

 

 意を決して、一口、かじりついた。

 

 パンの表面は、予想通り、硬く、素朴な穀物の味がした。酸味も甘みもほとんどない、ただ実直なだけの味。だが、二口、三口と食べ進めるうちに、彼の口の中に、予期せぬ変化が訪れた。

 

 硬い殻を突き破った先から、凝縮された、濃厚な甘みが溢れ出してきたのだ。

 

 それは、パン生地にたっぷりと練り込まれた、ドライフルーツの甘みだった。天日で干された無花果のとろりとした甘さ、レーズンの濃密な甘酸っぱさ。そして、それらを包み込むように、ナツメグやシナモンの、スパイシーで、体を芯から温めるような香りが、ふわりと広がった。

 

 

 外側の素っ気なさとは裏腹の、豊かで、複雑で、そしてどこまでも温かい味わい。その味は、彼が心の奥底の、さらに奥底に、鍵をかけて封じ込めていた、本当の感情を呼び覚ました。

 

 ――幼い頃、ただ純粋に、母親の笑顔が見たくて、初めて覚えた拙い手品を披露した時の、胸のときめき。

 

 ――初めて自分の言葉で、誰かを心から笑わせることができた時の、誇らしさと、温かい気持ち。

 

 ――そして、いつしか、道化であることが「役割」になり、「仕事」になり、仮面を外せなくなってしまった、深い孤独と、悲しみ。

 

 自分は、人を笑わせるための「道化」という役割を演じるうちに、自分自身という人間を、すっかり見失ってしまっていたのだ。外側の仮面ばかりを必死に磨き上げて、その内側にある、不器用で、本当は少しだけ甘くて、温かい部分を、自分自身でさえ、忘れてしまっていた。

 

 この黒いパンは、そんな、忘れ去られた自分自身の味だった。

 

 パンの温かさが、彼の凍りついた心を、ゆっくりと溶かしていく。貼り付いていた道化の笑顔が、音もなく剥がれ落ちた。そして、その下から現れた素顔の頬を、一筋、また一筋と、本物の涙が静かに伝っていった。それは、彼が、もう何年も流すことのできなかった、自分自身のための、しょっぱくて、温かい涙だった。

 

 彼は、泣きながら、パンの最後の一片までを食べ終えた。

 

 食べ終えた時、彼の表情は、まるで憑き物が落ちたかのように、穏やかで、静かになっていた。もう、そこに道化師の仮面はなかった。ただ、一人の、疲れ果てた男がいるだけだった。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 彼は、軽口ではなく、生まれて初めて口にするような、素直で、静かな声で礼を言った。

 

「私は……少し、疲れていたようです」

 

 

 主人は、ただ静かに頷いた。やがて、フィニアスは、ふらり、と立ち上がった。

 

「私はもう、行きます。……帰るべき場所が、分かった気がしますので」

 

 それは、宮廷の宴ではない。彼自身の、心の中にある、素顔の自分が待つ場所だ。彼が店を出ていく時、その外套のポケットから、ことり、と小さなものが床に落ちた。それは、彼が宴で使っていたのであろう、鳥の羽で飾られた、小さな仮面だった。

 

 フィニアスの姿が、深々と降る雪の向こうに消えてから、主人は、床に落ちたその小さな仮面を拾い上げた。

 

 そして、かまどのそばの壁へと歩み寄り、思い出たちの隣に、その仮面をそっと置いた。

 

 それは、偽りの自分から解放された魂の抜け殻のようにも、あるいは、これからは本当の自分で生きていくのだという、静かな決意の証のようにも見えた。

 

 新たな思い出が加わった壁は、ただ黙って、降りしきる雪と共に、夜の静寂に溶け込んでいた。

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