石窯は、星の降る夢を見る   作:灯火011

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第九話:星祭りの夜に

 その夜は、一年で最も闇が深い、冬至の夜だった。

 

 森の木々は、凍てついた枝を天に掲げ、まるで祈りを捧げているかのように静まり返っている。空は、ベルベットの布地を広げたようにどこまでも黒く、しかし、それゆえに星々の輝きは、砕け散ったダイヤモンドのように、異常なほどの光を放っていた。雪は数日前に止み、今は硬く凍った雪面が、その満天の星の光を反射して、森全体が青白い燐光に包まれている。音のない、光だけの世界。

 

 パン屋の主人は、いつも通り、日没と共に店の扉を開け、かまどに火を入れた。

 

 炎は、ぱちぱちと心地よい音を立て、冷え切った石の店内を、ゆっくりと温め始める。だが、その夜は、いつまで経っても、店の扉を開ける客はいなかった。雪の上には、人の足跡も、獣の足跡さえも、一つとしてつかなかった。

 

 森全体が、この特別な夜のために、固唾を飲んで静まり返っているかのようだ。

 

 主人は、客が来ないことを気にする素振りも見せず、ただ静かに、特別なパンを作り始めた。それは、誰かのために作るパンではない。この夜そのものに捧げるための、祈りのパンだった。

 

 

 彼女は、大きな木の鉢に、冬小麦の粉を山のように盛り、そこに、夏の太陽をたっぷりと吸った干し葡萄や無花果、体を芯から温めるシナモンやナツメグ、そして、生命力の象徴であるクルミやアーモンドを、惜しげもなく加えていく。こね上げられた生地は、まるで夜空に星々を散りばめたかのような、豊かな様相を呈していた。

 

 彼女は、その生地を丁寧に三つに分け、それぞれを長い一本の紐状に伸ばす。そして、その三本を、まるで自らの銀色の髪を編むかのように、滑らかな手つきで、一本の美しい三つ編みに編み上げていった。最後に、その両端を繋ぎ、終わりのない円――生命の再生と、永劫の時を意味する、リースの形に整えた。

 

 パン生地を、かまどのそばの温かい場所で、ゆっくりと発酵させる。その静かな待ち時間、主人は、いつものように、壁に飾られた思い出のかけらたちへと、その視線を向けた。

 

 彼女は、すっかり乾燥したローズマリーの枝に、そっと指で触れた。夫を亡くしたイリーナの、その後の日々を思う。悲しみと共に、けれど確かに息づく温かい思い出を胸に、彼女は今、穏やかな時を過ごせているだろうか。

 

 寄り添うように置かれた二枚のカエデの葉。喧嘩した姉妹は、今頃、温かい暖炉の前で、笑い合っているだろうか。

 

 小さな野バラの花びら。恋に悩んだ少女リーナの想いは、あの狩人の青年に、無事に届いただろうか。

 

 ぶつかり合うように置かれた二つの小石。父を亡くした兄弟は、互いの悲しみを支え合い、力強く冬を越そうとしているだろうか。

 

 そして、小さな道化師の仮面。偽りの自分から解放されたフィニアスは、今、心からの笑顔で、誰かを、そして何より自分自身を、笑わせることができているだろうか。

 

 

 ―――壁の思い出たちは、みな、今はここにはいない人々の物語。

 

 エルフの永い、永い時の中では、それは瞬きのような、束の間の出会いに過ぎない。だが、その一つ一つが、確かにこの場所で輝き、温かな光を残していった。主人は、その光のかけらを、まるで自分の宝物のように、慈しんでいた。

 

 ふと、店の窓の外を、黒い影がすっと横切った。一瞬見えたその姿は、以前ここを訪れた子狐よりも、一回りも二回りも大きく、逞しくなっているように見えた。主人の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。森の友もまた、元気に生きている。

 

 

 やがて、リースパンが、ふっくらと発酵した。主人はそれを、熱くなったかまどへと静かに入れる。甘く、スパイシーな香りが、祈りの言葉のように、店中に満ち満ちていった。

 

 パンが焼き上がる。表面はこんがりとした狐色に、そして、生地から顔を覗かせたドライフルーツは、熱せられて、まるで宝石のようにきらきらと輝いていた。主人は、その完璧なリースパンを、大きな木の皿の上に乗せた。

 

 だが、彼女は、それにナイフを入れることはなかった。

 

 彼女は、パン屋の扉を開け、外に出た。そして、リースパンから小さな一片をちぎると、雪が降り積もった、森で一番大きな岩の上に、そっと置いた。それは、この森に息づく、名もなき全ての精霊たちへの、感謝の捧げものだった。

 

 次に、彼女は店に戻り、もう一片をちぎると、それを、かまどの燃え盛る炎の中へと、静かに入れた。パチリ、と一際大きな音がして、パンは炎に抱かれて消えていく。それは、命の源である、火の魂への祈りだった。

 

 そして最後に、彼女は、残ったリースパンを、さらに小さな欠片へといくつもいくつも分けていった。そして、そのパンの欠片を、壁に飾られた思い出のかけらたちの前に、一つずつ、供えるように置いていった。

 

 ローズマリーの枝のそばに。寄り添うカエデの葉の前に。道化師の仮面の、すぐ隣に。

 

 それは、この場所を通り過ぎていった、すべての魂への祝福だった。

 

 

 すべての儀式を終えた時、主人は、自分自身のためには、一杯の温かいハーブティーを淹れるだけだった。彼女は、かまどの前の揺り椅子に深く腰掛け、静かに目を閉じた。

 

 彼女がこの場所でパンを焼くのは、誰かを救うためという、おこがましい思いからではない。ただ、永劫の時を生きる自らの宿命の中で、束の間交差し、そして去っていく、温かく、儚い命の輝きに触れたいだけなのだ。その輝きを記憶し、祝福し、そして、この星々の下で、静かに共に在りたい。そのための、ささやかな儀式。それが、このパン屋のすべてだった。

 

 一年で最も長い夜が、ゆっくりと明けていく。

 

 東の空が、再生の光を帯びて白み始める頃、主人は、ふと壁に目をやった。

 

 不思議なことに、思い出たちの前に供えられていたパンの欠片は、すべて、跡形もなく消えていた。店の外、大岩の上に置いたパンも、雪の上に、その姿はもうなかった。

まるで、森と、炎と、そして訪れた客たちの魂が、その捧げものを、確かに受け取ってくれたかのように。

 

 パン屋の主人は、静かに微笑んだ。そして、再生した光に照らされた森に向かって、誰にともなく、小さく、しかし、はっきりと呟いた。

 

「……ありがとう」

 

 その声は、冬の澄み切った空気に、清らかに溶けていった。

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