「波のまにまに漂う。」

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短編。


海葬

 海は好きだった。今でも好きだ。あの時折表情を変える気ままな姿も、命が凝縮された潮風の臭いも、頬を撫でる潮風も。それはきっと、父が船乗りだったことに起因しているのだろう。典型的な海の男だった父は、荒々しい海を前に怖気もせず、むしろ高揚すらしていうようだった。その背中はどこか頼もしく、小さい頃はそんな父が自慢ですらあったのは、今でも克明に覚えている。帰ってくるたびに表情を変える海の土産話を聞かされた。

 空の星にも負けず輝く海の眩しさ、そして自分たちに牙を剝いて襲い掛かってくる荒波や大渦巻を前にした時の命がけのやりとり。

 そんな数々の、僕にとっては冒険譚にも等しい数々の土産話の中でも一番のお気に入りだったのは、海に潜む魔物の話だった。

 

『いいか?魔物に出会ったらそれはもう終わりだ。陸ならまだいい。走って逃げりゃあまだ無事でいられるからな。だが、海は別だ。何しろ逃げるにしたって船が沈んじまえばそれでお陀仏だ。泳ぎが得意だとか言っても、そんなもんは関係ない。あっという間に海の底に引きずり込まれておしめえさ。

 だがな?時にはそれを羨む奴すらいる。どうしてだかわかるか?魔物は皆、別嬪さんなのさ。お世辞抜きで目が眩んじまうほどのな。まあ下世話な話だ。魔物は俺たち人間に敵意すら最近はないって話もある。だが、それでも俺は進んで海に飛び込んだりはしねえ。

 どうしてかわかるか?

 それはな、てめえ一つの矜持すら貫けない男に、別嬪さんは振り向いてもくれねえからだ。少なくとも俺は、そう思う』

 

 今思えば、豪快で真っ直ぐな父が唯一ちょっと捻くれたところを見せた話だった。そんな父が今は形を変えて僕の手元にあることが、ひどく現実感を欠いていた。

 父はつい一昨日、死んでしまった。家の屋根の修理をしていたところ、足を滑らせてしまい、頭を強打。打ちどころが悪かったらしく、即死だったそうだ。

 あんなに快活で、生きるエネルギーに満ちていた父が、あっという間に別れの言葉一つ残さず去ってしまったのを、僕は不謹慎にも父らしいと思った。

 うじうじと未練がましく言葉を残すよりも、去り際は余韻すら残さずにあっさりと退場していく。それをらしいと感じてしまうのは、きっと僕がセンチメンタルになっているからでは、ないはずだ。

 日本の出だった母の頼みで、父は日本式の葬式で手厚く葬られた。骨だけになり、そこから更に細かくなり壺に収まった父は、その質量を十分の一以下にして僕に抱えられている。

 これから父は大好きだった海に戻るそうだ。海葬、と言うらしい。

 まあ、あれだけ海の話を聞かせてくれた父だ。きっとこういうことになっても本望だろう。草葉の陰から、にやりと笑っていたりするかもしれない。

 母は足腰を悪くしてしまっているので、僕一人で散骨を行うことになった。親族での(とは言っても僕と母の二人だけだが)こっそりとした葬式は、僕が船で沖まで行き、父の骨を海へ還すことで終わる。

 思春期に入って、人並みに父を疎ましく思いながらもしっかりと船の仕事を手伝っていた僕にとって、少しの間沖に出ることは簡単だった。

 この海は父親にとっての棺桶になるのだろうか。くだらない妄想に痙攣ともつかない笑みを自分に刻んで、真っ直ぐただ水平線を見つめた。

 どこまでも平面に伸びていく一本の線。今は波が穏やかだからよく見える。どこまで進んでいけてしまいそうな錯覚を感じさせる広さ。

 あまりに広すぎるせいで、人が介入する余地なんてきっとたかが知れているのだろう。僕が乗っている小舟なんて、虫眼鏡を使ってやっと見える点の一つでしかない。

 虫眼鏡で見えるなら良い方かもしれないが。

 骨壺から父の骨を取り出す。そよ風のひと吹きで音も立てずに消えてしまいそうなほど細かい、父の粒子。あの豪快だった船乗りが、今はこんなに覇気を感じさせない姿に変わってしまった。それがなぜか不条理に思えて、自然と歯を食いしばった。そんなことをしても何も変わらないと頭の隅で冷静に理解しつつも、行動自体は抑えようがなかった。ここまで父を悲しそうな姿に変えるのが、死ぬことなのか。そう感じた刹那、それでも死に際は父らしかったのだからこれで本人も納得しているはずだと、自分の中に響いた声に僕は脱力した。

 父の粒子は、僕が海へ放る前に風に吹かれて海へと旅立ってしまった。せめて一掴みだけでもと思っても、それらは僕の手によって葬られるのが癪なのではなかという思惟を感じさせるほどにあっさりと手から逃れてしまう。

 父なりの照れ隠しだろうか。それともいつまでも感慨に浸ってうじうじとしている僕を叱咤しているのだろうか。父らしいのはどう考えても後者だったけど、今だけは前者であってほしい。父の怒った顔が目に浮かぶようだったが、せめて今は身勝手でありたかった。

 そんな身勝手を天の父が悟ったのか、とうとうすべての粒子が僕の手の内におさまることなく海へ還っていった。一瞬で飲み込まれ、跡形もなく海に溶けた父。最後まで父を追い越せなかったことが後悔になって積もるわけではなかったけれど、奇妙な息苦しさを感じずにはいられなかった。

 波のまにまに揺られる船の上で、父の名前を呟いてみる。返事はなく、代わりに波が小さな飛沫を上げていた。

 海の魔物に逢えば、父のようになれるのだろうか。ふと、そう思った。舟の重心が傾きすぎて海に転覆しないよう、細心の注意を払いながらそっと海面を覗き込む。無数の魚影などは確認できたが、残念ながら魔物となるとそう簡単に見つけることはできなかった。そもそも、存在そのものが御伽噺のようなものだ。

 父は最後まで船乗りの矜持は貫いていたと思うから、海の底に落ちていった粒子は海の魔物に迎えられているのかもしれない。

 なんだかんだと言いながらしっかりと父の死に傷ついている自分にようやく気付き、僕は深い溜息を吐いた。

 大きく息を吸うと、潮風の少ししょっぱい臭いが鼻腔に纏わりつく。僕は不思議な息苦しさを感じた。

 




そんな話でした。楽しんで頂ければ幸いです。

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