嘘物語   作:嘘烏

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嘘物語、最終決戦。
ここまで追いかけて下さり、ありがとうございました。


第再話 でいしゅうリターン 其ノ伍

014

午前二時。

丑三つ時という、怪異が跋扈するにはこれ以上ないほどに使い古された、そしてそれゆえに抗いようのない強制力を持った時間帯に、俺たちは再び蝦蟇山の登山口に立っていた。

 

三月という時期を考えれば、深夜の山は肌を刺すような冷気に包まれているのが道理だが、この蝦蟇山だけは例外だった。

立ち込めるのは、ねっとりと肌にまとわりつく湿った熱気。

それは夜になっても引く気配がないどころか、時間が経つにつれて濃度を増している。

山全体が巨大な肺胞のように、あるいは粘膜に覆われた内臓のように、ゆっくりと、しかし確実に粘り気のある呼吸を繰り返していた。

 

「……気持ち悪いね。空気そのものが唾液みたいだ。山全体が誰かの口の中みたいだよ」

斧乃木余接は、無表情のままオレンジ色の帽子を指先で直して言った。彼女のような死体人形にさえ不快感を与えるとは、この山の変質もいよいよ末期らしい。

 

「ここはすでに地図に載っているような現実の山ではない。阿久津という少女を『入り口』として、この世の理から外れた、蝦蟇の消化器系そのものだ。俺たちが今踏んでいるその土も、いずれは奴の血肉に書き換えられる予定の暫定的な地面に過ぎん。うっかりしていると、靴の裏から消化が始まるぞ」

俺は喪服のポケットから、一束の「偽物の迷子札」を取り出した。

ただの厚紙に、俺が適当な筆致で十五人の名前を記したものだ。だが、その紙片には斧乃木から買い取った八九寺真宵の「属性」――すなわち、目的地に辿り着けない「『迷い牛』の呪い」が、俺の嘘によって精巧に塗り込められている。

 

「さて、斧乃木。お前の仕事だ。この十五枚の札を、俺が指示する地点に配置しろ。いいか、ただ配置するんじゃない。そこに執着を『落とす』んだ。あたかも、必死に逃げようとした迷子が、極限状態の不注意で落としてしまった遺留品であるかのようにな」

 

「リアリティの追求だね。でも、ただ落とすだけで本当に『迷路』になるの? 僕はもっと、物理的な壁でも作るのかと思ってたよ」

 

「物理的な壁を作る必要はない。怪異の世界において、定義は事実に勝る。十五人が『まだここにいて、迷っている』という定義が一度確定すれば、蝦蟇の胃袋は彼らを『消化済み』として処理できなくなる。食ったはずのものが、いつまでも口の中で暴れ、喉の奥に引っかかっているという論理矛盾――それが、奴の食道を逆流させ、存在そのものを内側から食い破る吐き気(バグ)になる」

 

「了解。吐き気を催すような嘘を、僕が丁寧にバラ撒いてくるよ。ピースピース」

 

斧乃木は影縫直伝の跳躍力で、闇の中に消えた。

俺は一人、懐中電灯の細い光だけを頼りに、歪な勾配を登り始める。一歩進むごとに、足元が「ぐちゃり」と、土とは思えない不快な音を立てて沈み込む。肺に流れ込む空気は、もはや酸素としての機能を果たしておらず、希釈された胃液が気化したもののように喉を焼いた。

 

「……おや。またお会いしましたね、貝木さん。夜這いにはいささか無粋な身なりですが、そんなに急いで私の『中』を歩き回って、何を探しているんですか?」

 

「深夜の山に制服姿で立っているお前がそれを言うのか。記号としては満点だが、TPOとしては零点だ。お前は怪異になったつもりだろうが、俺にはただの『演出過剰な素人』にしか見えん。滑稽なまでの場違いさだぞ」

展望台の手前。

闇が最も濃い場所に、彼女は立っていた。

だが、昼間に調査した「女子高生」としての瑞々しさは、もはや微塵も残っていない。肌は土気色を通り越し、月光を不自然に反射してヌルヌルと光っている。大きく見開かれた瞳の中では、黒目だけが意思を失った生き物のように独立して回転し、俺の背後を探っていた。

 

「十五人の迷子札……。ふふ、聞き耳を立てていましたが、そんな紙切れで私のお腹が壊れるとでも思いましたか? 貝木さん、あなたは詐欺師のくせに、案外夢見がちな人なんですね」

 

「壊れるどころか、地獄のような胸焼けを起こすはずだ。お前は彼らを飲み込んだつもりだろうが、残念ながら彼らは今、この山の至る所で『帰り道』を探している。お前が食ったのは、彼らが恐怖のあまり脱ぎ捨てた絶望という名の抜け殻、その残滓に過ぎない」

俺は立ち止まり、眼鏡を指で静かに押し上げた。

 

「昼間、お前のいた形跡を洗わせてもらったよ、阿久津渚。お前の家、お前の部屋、お前が誰からも名前を呼ばれなかった教室の隅までな。……驚いたぜ。お前の部屋には、何一つとして『自分』がなかったんだからな。趣味も、友人との思い出も、自分を定義するための執着さえもない。……お前は、孤独だったんだろう? だがそれは、誰とも繋がっていないという平坦な孤独ではない。そこにいながら、誰の記憶にも残らない。透明人間として扱われるという、剥製のような孤独だ。お前は怪異に魅入られる前から、すでに自分自身を食い潰していたわけだ。空っぽの器だからこそ、山の主は居心地が良かったんだろうな」

 

「……勝手な憶測を。何も知らないくせに。私がどれだけ、この孤独を大切にしていたか」

阿久津の表情が、ピクリと凍りついた。

 

「大切にしていた、だと? 笑わせるな。お前は孤独を楽しんでいたんじゃない。孤独という殻に引きこもって、他者から拒絶される恐怖から逃げていただけだ。阿久津……お前、自分の名前の由来を考えたことはあるか?」

俺は一歩、滑る地面を踏みしめて近づく。

 

「阿から始まり、津で終わる。五十音の始まりと、港や境界を示す終わり。その始まりから終わりまでを飲み込み、その中間に潜む苦――苦痛だけを抽出して味わう。阿久津という地名は、本来『低湿地』、つまり泥の溜まる場所を指す。お前自身もまた、この蝦蟇山という巨大な『あくつ』に飲み込まれた、最初の迷子に過ぎんのだ。名前という呪縛が、お前をこの泥沼に縛り付けているんだよ」

 

「は――」

阿久津は、不気味に裂けた口元で笑った。

 

「あはははは! 傑作ですね、貝木さん。相変わらずの詐欺師っぷりだ。名前の由来? 阿から津? そんなもの、ただの言葉遊びでしょう。こじつけも甚だしい。私の名前が何であろうと、私がこの山の主と溶け合い、一つになった事実は変わりません。あなたの吐く安っぽい嘘で、私の腹が膨れるとでも?」

 

「こじつけだと言い切れるなら、なぜそんなに声が震えている? 阿久津。俺の嘘はお前にとっての真実よりも、よっぽどお前の本質を突いているはずだ」

 

「黙ってください……! 私は、私はこの山の神様なんです! 欲深い人たちを、私の内側で『あるべき形』に直してあげているだけなんです! 一人じゃない、私はもう、一人じゃないんだ!」

阿久津が絶叫すると、周囲の木々が一斉に「ゲコ、ゲコ」と鳴き始めた。

合唱ではない。それは、何百、何千という蛙の「咀嚼音」だ。

地面が大きく波打ち、俺の足首までを泥のような粘液が覆い尽くす。

蝦蟇の本体が、ついにその「胃壁」を剥き出しにして、侵入者を排除しようと襲いかかってきたのだ。

 

「斧乃木、今だ!」

俺の合図と共に、山の各地で異変が起きた。

十五枚の迷子札が、斧乃木の「例外のほうが多い規則」による衝撃波と共鳴し、虚空に青白い光の筋を描く。それは、迷子たちが歩いた「偽物の足跡」。

 

「ぐ……あ、あああぁぁッ!?」

阿久津が腹部を押さえて激しく悶え出す。

蝦蟇の体内という閉鎖空間の中に、出口のない無限回廊が構築される。

飲み込んだはずの獲物が、内側から出口を求めて暴れ回る。

 

「……っ、熱い! 体の中が、掻き回される……!」

阿久津が腹部を押さえて蹲る。

彼女の背後の影から、巨大な蝦蟇の輪郭がせり出してきた。だが、その姿は至る所が膨れ上がり、内側からの拒絶反応でボコボコに変形している。

 

「言ったはずだ、ひどい胸焼けになると。阿久津、お前が『神様』として振る舞える時間は終わりだ」

蛙は蛞蝓を食う。

だが、飲み込んだ蛞蝓が「神の属性を持った迷子」であった場合、その粘り気は蛙の消化器官を癒着させ、呼吸を止める猛毒へと変わる。

 

「三竦みの反転だ。蛇がいないこの山で、お前は生態系の頂点に立ったと錯覚した。だが、蛇がいないということは、お前を適正なサイズに抑え込む天敵もいないということだ。肥大化した欲望は、自らが飲み込んだ『迷い』という毒によって、内側から自壊する。今からお前には、自分が飲み込んできた『孤独の重み』を、もう一度思い出してもらう……さあ、吐き出せ。お前が飲み込んだ、十五人の中身を」

俺は、崩れゆく展望台の上で、冷徹に阿久津を見据えた。

 

015

「嫌だ……返さない……! 私は、一人になりたくない……!」

蝦蟇の体内という閉鎖空間の中に構築された、十五の偽物の足跡。それが彼女の……いや、この山そのものである蝦蟇の「消化順序」を致命的に狂わせた。

逆流。

彼女がこれまでに飲み込み、自分の一部として飼い慣らしてきたはずの「過去の残滓」が、制御を失って体表へと溢れ出し始めた。

 

「……ゲコ、ゲコ、ゲコゲコゲコッ!」

阿久津の背後の闇から、それは這い出してきた。

一匹や二匹ではない。

それはかつてこの蝦蟇山に取り込まれ、自我を溶かされ、山の主の眷属へと成り下がった「先代の迷子たち」だ。

しかし、その姿はもはや人間ではない。

手足は異常に長く節くれ立ち、肌は湿った泥の色。顔があった場所には巨大な単眼、あるいは無数の吸盤が蠢いている。

彼らは阿久津の苦悶に呼応し、俺を排除すべき異物と見なして、一斉に跳躍した。

 

「いぇーい。想定外の二次災害だね。不法投棄されたゴミが意思を持って襲ってくるなんて、環境問題も深刻だよ」

上空から降ってきた斧乃木が、俺の目の前で「眷属」の一匹を蹴り飛ばした。

骨が砕ける嫌な音が響くが、泥の化物は怯むことなく、即座に肉を再生させて再び襲いかかる。

 

「斧乃木、奴らの相手はお前に任せる。俺は本体の説得を続行する」

 

「無茶を言うね、貝木。こいつら、一人一人がこの山の呪いをそのまま小分けにパッケージされたようなもんだよ。数も多いし、何より……」

 

斧乃木は飛来する粘液を間一髪で避け、無表情のまま告げた。

「……こいつら、みんな『寂しい』って鳴いてる。同調したら、貝木、あなたも胃壁の飾りになっちゃうよ」

 

「俺に同情心があるとでも思っているのか? 心外だな。俺が興味があるのは、この仕事の完遂と報酬だけだ」

俺は懐中電灯を投げ捨て、喪服の懐から一束の封筒を取り出した。

空はいつの間にか煮えたぎるように赤くなり、もはや懐中電灯は必要ない。

中身はただの白紙だ。だが、今のこの異界においては、俺が「これは契約書だ」と定義すれば、それは強力な縛りとなる。

 

「阿久津。 見ろ、これがお前の求めていた『孤独の解消』の成れの果てだ。自分の中に他人を詰め込み、個を失い、ただの消化器官の一部として蠢くゾンビどもだ。 これが、お前の望んだ救いか」

 

「違う……私は、私はただ……!」

阿久津の額が割れ、そこからせり出してきた「第三の目」が激しく明滅する。

艶のある短い黒髪が、脱色されたかのように白く染まっていく。

ろくな思い出が無い色だ。

次第に毒々しい緑色の紋様が白髪に浮かび、その姿はいつか図鑑で見た毒蛙のようだった。

周囲を囲む眷属たちが、彼女の悲鳴に同調して、奇怪な合唱を始める。

それは物理的な音波を超え、脳髄を直接揺さぶる精神的な重圧だった。

足元の泥が俺の膝までを飲み込み、眷属たちの細長い腕が、俺の喪服を掴もうと伸びてくる。

 

「……ア、ク、ツ……! 戻、レ……!」

眷属の一体が、聞き取れないほど掠れた声で呟いた。

それは数十年前に消えた、かつての村人の声か。あるいは、阿久津と同じように「自分」を捨てた誰かの末路か。

 

「見ての通りだ、阿久津。お前が取り込んだ連中は、お前を神として崇めているのではない。自分たちの空白を埋めるための『共犯者』を求めているだけだ。泥沼で溺れる奴は、誰彼構わず道連れにしようとする。……お前が今やっているのは、神の慈悲ではなく、ただの心中だ」

 

「うるさい……うるさいうるさいうるさい! あなたに何がわかる! ずっと、ずっと透明なまま生きてきた私の絶望が!」

阿久津の影が膨れ上がり、巨大な蝦蟇の腕が眷属たちをなぎ払いながら俺へと振り下ろされる。

俺は動かない。

詐欺師の武器は、暴力ではない。

相手が信じ込んでいる「真実」という名の「嘘」を、より強固な「嘘」で上書きすることだ。

いや、その「真実」とやらも所詮は嘘だ。

ただの嘘と嘘のぶつけ合いだ。

 

「ああ、わからんな。わかるはずもない。だが、阿久津――」

俺は迫り来る巨大な掌を見据え、冷酷に言い放った。

 

「お前が今感じているその『重み』は、他人の絶望だ。お前の本当の絶望は、もっと別の場所にあるはずだ。……自分自身を救おうとしなかった、その怠慢という名の孤独だ」

 

例外のほうが多い規則(アンリミテッド・ルールブック)

斧乃木余接の、感情を排した無機質な声が湿った闇を叩き割った。

彼女の身体が、物理法則を無視した角度で膨張する。変形した右腕が、蝦蟇の影を振り祓い、襲い来る泥の眷属たちの中心を捉えた。

ドォォォォン!

という、大気がひしゃげるような衝撃波。

かつて人間だったはずの、節くれ立った泥の塊どもが、一撃で肉の破片となって飛散する。だが、ここは蝦蟇の胃袋の中だ。撒き散らされた肉片はすぐさま足元の粘液と混ざり合い、呼吸を整える間もなく、また新しい「歪な形」へと再構成される。

 

「いぇーい。不毛だね、貝木。こいつら、自分の命を投げ打つことに一点の躊躇いもない。まるで、最初から死んでいるみたいに攻撃的だよ」

斧乃木は返り血ならぬ、どろりとした胃液をオレンジ色の帽子で弾きながら、俺の背後を守るように着地した。

 

「ああ、実際死んでいるんだろう。肉体的な意味ではなく、精神的な意味でな。奴らは阿久津という『殻』に安住することを選んだ、堕落した迷子たちだ。自分という個を維持するストレスから解放されたがっている」

俺は喪服の懐から、一掴みの五円玉を取り出した。

本物ではない。俺が「本物らしく」メッキを施した、ただの真鍮の円盤だ。

だがこの空間では、俺が「これは百人の執着を買い取る代価だ」と定義すれば、それは一時的に黄金以上の価値を持つ。

 

「斧乃木、奴らの足元にこれをバラ撒け。『執着の対価』だ。自分を捨てた奴らほど、安い代価に縋りたがるものだ」

 

「了解。――無駄遣いは美徳じゃないけど、今回は特別だね」

斧乃木が超人的な速度で円盤を四方に弾き飛ばす。

ぬちゃ、ぬちゃ、と泥に刺さる粘着質な音。

さらに円盤同士がぶつかり、金属質な音を立てる。

すると、襲いかかろうとしていた眷属たちが、一斉に動きを止めた。

彼らの単眼が、泥の中に落ちた偽の硬貨を凝視する。それは「救い」でも「光」でもない。ただの、彼らがかつて持っていたはずの「世俗的な未練」を模した擬似餌だ。

 

「……ア……ア……」

 

「カ、ネ……カエ……レ……」

眷属たちが、互いの体を踏みつけ合いながら、偽の五円玉に群がり始めた。

醜い争いだ。かつて阿久津を「神」と崇め、一体化していたはずの連中が、俺の投げたゴミ一つで、たやすくその絆を反転させる。

とんだ「誤縁玉」だ。

こいつらは死んでなお金に執着するのではない。金という幾らでも代わりがあり、誰にでもわかる共通言語に縋ることでしか、彼らは自分が人間であった証明ができないのだ。

 

「醜いな。だが、これが人間だ。阿久津、見ているか? お前が守ろうとしている『孤独の解消』の正体は、この程度の物質的な執着にさえ勝てない、薄っぺらな同調に過ぎん」

俺は阿久津に異形どもを指差した。

彼女の「第三の目」が、仲間割れを始めた眷属たちを見て、激しく動揺に揺れる。

 

「そんな……嘘だ……みんな、私と一緒にいたかったはずなのに……!」

 

「嘘なものか。お前が一番よく知っているはずだ。お前の部屋にあったあのノート、あれに書かれた呪詛の中に、誰か一人でも友人の名前があったか? なかったはずだ。お前は誰のことも見ていなかったし、誰からも見られたくなかった。お前が求めたのは『繋がり』ではなく、『同化という名の消滅』だ。お前は結局、自分一人で自分を支えるコストを払いたくなかっただけだろう。だが、残念ながら、人間は死ぬまで個を捨てきれん」

 

「黙れ……黙れぇっ!」

阿久津の叫びに呼応し、地面がさらに激しくのたうち回る。

偽の硬貨に群がっていた眷属たちが翻る。

彼女の怒りに煽られ、今度は巨大な一つの「壁」のように積み重なり、俺たちを押し潰そうと雪崩れ込んできた。

 

「貝木、次のが来るよ。……今度は防ぎきれない」

斧乃木が両足を泥に深く沈め、踏ん張る。

彼女の小さな肩が、まるで山を背負うかのように怒りに満ちた巨躯と対峙する。

 

「お前は奴らを引き止めろ。俺はその間に、阿久津の『こじつけ』を完全に破壊する」

俺は、崩壊し始めた展望台の残骸を駆け上がった。

背後では、斧乃木の「例外のほうが多い規則(アンリミテッド・ルールブック)」が、再び爆発的な衝撃音を立てていた。

 

016

「押し潰されそうだよ。僕の体重じゃ、この物量は重すぎる」

斧乃木余接の無機質な呟きが、肉の壁に反響してこもる。

積み重なる眷属どもの重圧は、もはや一つの生物的災害だった。数十年分の後悔と、数百年分の泥濘が、阿久津という少女の激情を燃料にして俺たちを圧殺しようとしている。

だが、俺は不敵に、そして冷徹に、喪服の内ポケットから一束の「赤い札」を取り出した。

昨日駅前の駄菓子屋で、泣き喚くガキから五円玉一枚で買い叩いたものだ。

 

「斧乃木、奴らの眉間にこれを貼れ。一枚たりとも余らせるな」

 

「赤い札? それ、ただの千代紙を細長く切っただけじゃないの。貝木、また子供騙しの工作?」

 

「そうだ。連中の『存在意義』を崩壊させる」

俺は阿久津とその眷属によく見えるように、瓦礫の上に登って声を張り上げた。

 

「いいか、阿久津。そしてそこに転がっているゴミ共。あくつに棲まうのは蝦蟇だけではない。泥沼の底、水気の極まる場所には、古来より別の主が潜んでいるものだ。古事記にもそう書いてある」

俺は言葉を編む。

その間に、斧乃木が札を手に跳躍した。

空中で見事な捌きで投げつける。

積み重なる異形どもの額、胸、あるいは触手の先端。斧乃木の指先が触れるたびに、赤い紙片が吸い付くように貼り付いていく。

連中は俺に釘付けになり、斧乃木の工作に気づいていない。

詐欺師の独壇場。

真実という糸に、虚偽という色を付けて織り成す「騙し」の衣。

 

「それは――『蛇』だ」

 

「――蛇…!?馬鹿な!この山に蛇はいない!」

阿久津の第三の眼の瞳が収縮する。

彼女は神としての格がある。そのため俺が嘘をついていることもお見通しだろう。

しかし、眷属はどうか。

 

「……ア、アァ……? 蛇……ヘビ……?」

眷属たちが、一瞬の困惑を見せた。

その隙を俺は逃さない。俺の言葉は、赤い札という「触媒」を通じて、彼らの貧弱な自我に浸透していく。

 

「蛇の名を教えてやろう。……『阿朽津』だ。お前の名前と同じ読みだが、意味は正反対だ。阿は生命の始まり、朽は崩壊と腐敗、津はそれらが流れ着く果て。お前が『阿久津』として孤独を溜め込む低湿地であるなら、この蛇はすべてを朽ちさせ、無へと還す執行者。お前が取り込んだ不純物どもを、内側から溶かす劇薬の名だ」

当然、そんな蛇は存在しない。

民俗学の端くれにも載っていない、今この瞬間に俺の脳内で捏造された、産地直送・賞味期限五分のデマゴーグだ。

だが、この山という名の密室においては、俺の言葉が辞書であり、俺の嘘が聖書となる。

 

「お前たちが纏っているその泥の体は、蛇の毒に侵されている。溶ける。朽ちる。阿から始まり、津で終わる。その中間の『朽』がお前たちの本質だ。崩壊しろ。朽ち果てろ。自分という形を保つことを、今すぐ放棄しろ」

 

「ゲコォッ!? ゲコゲコォッ!!」

阿久津が悲鳴を上げた。

彼女という「本体」には、俺の言葉遊びなど大した効果はない。彼女はまだ自らの孤独という強固な意志で繋ぎ止められているからだ。

だが、彼女にぶら下がっているだけの、意志なき眷属たちは違った。

札が貼られた箇所から、ジュクジュクと黒い煙が立ち上がる。

異形どもは、自分が蛇に噛まれたのだと、蛇の猛毒によって内側から溶かされているのだと、俺の言葉によって「確信」させられた。

プラシーボ効果の怪異版。

あるいは、集団催眠による自己崩壊。

 

「ア……ガ……トケ……ル……ボクガ……トケ……」

多くの蛇の毒は酸性だという。

蛇毒とは唾液から進化したものだからだそうだ。

唾液。

つまるところ消化液である。

噛み付いて、牙から消化液を注入し、獲物の肉を溶かす。

それと同じように、俺の嘘はさながら蛇毒が筋肉組織を溶かすように、眷属らの「阿久津の眷属である」という繋がりを分解した。

音が溶けるような音を立てながら、積み重なっていた肉の壁が、足元からドロドロの液体となって崩落していく。

かつて人間であった誇りも、怪異としての悍ましさも、すべてが「阿朽津」という偽りの蛇の名によって否定され、元の泥濘へと還っていく。

阿久津渚の支配下にあった軍勢が、たった数枚の紙切れと、俺のこじつけの言葉遊びだけで、音を立てて瓦解した。

 

「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ! 私の、私の家族が……! 私を守ってくれるはずの、みんなが……!」

阿久津の額の第三の目が、恐怖に血走って回転する。

眷属という名の盾を失い、彼女の「空っぽの正体」が、月光の下に剥き出しになった。

 

「家族だと? 笑わせるな。お前が従えていたのは、お前の孤独を肯定するためだけに使い潰された、都合のいい幻覚だ。蛇の毒は、その幻覚という不純物を綺麗に掃除してくれた」

 

「……あ、阿朽津なんて蛇……聞いたことも……」

 

「ふん。ではお前は文字通り『井のなかの蛙』だったということだな」

そりゃ聞いたこともないだろう。

俺がついさっきでっち上げた怪異なのだから。

そう思いながら、俺は阿久津の震える肩を冷酷に見据えた。

泥の支配を失い、彼女の姿は再びか細い女子高生のそれへと戻りつつあった。だが、その背後にはまだ、この山そのものである巨大な「蝦蟇」の気配が、断末魔の咆哮を上げようと身構えている。

 

「阿久津。お前のその孤独、時価では二束三文だが、俺の温情で十円で買い取ってやろう。どうだ?」

俺は泥濘の中に立ち、震える少女――阿久津渚に、事務的な、あまりに事務的な声で問いかけた。背後では斧乃木が、溶け残った眷属の残骸を無機質に処理し続けている。周囲の木々は、俺が捏造した蛇の呪詛によってその枝を撓ませ、山全体が「阿朽津」という偽りの毒に侵され始めていた。

 

「………金で……? 私のこの痛みを、お金で解決するって言うんですか………?」

阿久津は、縋るような、あるいは嘲るような、歪な笑みを浮かべた。

その瞳は、もはや人間の光を宿していない。

 

「解決ではない。ただの清算だと言っている。お前の人生に端数が出るのが目障りなだけだ。お前が抱えているその重荷は、お前自身が作り出した『自分への言い訳』であり、孤独を免罪符にして、化物の腹の中に逃げ込んだ代償だ。いいか、阿久津。もう辞めろ。そんな不釣り合いな神の座は降りて、ただの、空っぽで、つまらない人間に戻れ」

俺は一歩、彼女のパーソナルスペースを侵食するように踏み込む。

 

「ただの人間に戻って、自分がいかに無価値で、誰からも必要とされていないかという現実を直視しろ。泥を食うよりはマシな苦痛のはずだ。それが、お前が唯一、この地獄から生還するための切符だぞ」

 

「……人間に戻る?」

阿久津の声が、急激に低くなった。

それは地を這うような、這いずるような、湿った音だった。

嫌な予感がする。

 

「戻って……どうするの? 誰も私を見ない。誰も私に触れない。私は、いてもいなくてもいい、ただの背景。……それなら、化物のまま、みんなを飲み込んで、みんなの一部になった方が、ずっと、ずっと……!」

俺の嘘が効きすぎたか。良薬口に苦しとは言うが、過剰摂取は毒でしかない。

 

「それが甘えだと言っているんだ、阿久津。お前はただ――」

嫌な予感にも関わらず、俺の口は止まらない。

不味い。この流れは非常に不味い。

 

「黙れッ!!」

突如、空気が爆ぜた。

激昂した少女の悲鳴は、もはや人間の声帯が鳴らせる音域を超え、鼓膜を内側から突き破るような衝撃波となって俺を襲った。

吹き飛ばされ、瓦礫に叩きつけられる。

阿久津と呑み込まれた十五人の絶叫が、頭の中で酷く反響する。

 

「黙れ!この詐欺師、嘘吐き、偽物!オ前に私の気持ちガ分かるもノかァァァァ゙ァ゙ァ゙ァ゙!」

阿久津の叫びは、もはや人間の言葉ではなく、湿った破裂音――破裂した粘膜が空気を震わせるような、おぞましい音へと変質していた。

崩壊が始まる。

古い展望台の木材が、周囲を囲む鬱蒼とした木々が、そしてこの異界を支えていた禍々しい赤色の空が、まるで高熱に晒された蝋細工のようにドロドロの液体となって溶け出し、巨大な渦を巻き始めた。

俺の足元も、もはや確かな土ではない。底なしの、粘り気のある漆黒の沼だ。

古代からこの蝦蟇山に引き摺り込まれ、消化され、苗床とされてきた百人の怨念。彼らの呪いが一斉に声を上げ、俺の鼓膜を内側から突き破らんとする。

 

「……貝木、来るよ。彼女、もう限界を超えて『中身』を曝け出そうとしている」

隣に立つ斧乃木余接の声が、激しい地響きにかき消されそうになる。

阿久津の細い身体が、内側から風船のように膨張する。

バキバキと骨が組み換わる不快な音が夜の森に響き渡る。

ついに耐えきれなくなった皮膚が弾け、そこから悍ましい色彩が溢れ出した。

セーラー服は紙切れのように引き裂かれ、彼女の肉体は、この蝦蟇山そのものを体現するような巨躯へと変貌していく。

山の一部、あるいは怪異の集大成。

ついに月光の下に姿を曝け出したそれは、もはや「阿久津渚」ではなかった。

 

017

現れたのは山を飲み込むほどに巨大な、醜悪極まる「大蝦蟇」の姿だった。

皮膚は無数のイボに覆われ、そこからは常に不快な腐敗臭を放つ毒液が滴り落ちている。

だが、その異形の中でも最も異様なのは、その頭部だった。

肥大化した二つの金色の眼球――その中間、眉間のあたりが「ぴりり」と裂け、そこから巨大な「第三の眼」が剥き出しになった。

血走った瞳が、ギョロリと回転し、俺という存在の『嘘』を見透かすように固定される。

 

「ゲ、コォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」

咆哮一閃。

衝撃で周囲の木々が薙ぎ倒され、展望台の残骸が粉々に砕け散る。

人間に戻ることを拒絶し、孤独を神格化した果ての、狂気の発露。

その巨躯は、俺がついた蛇の嘘さえも物理的な質量で押し潰さんとしていた。

 

「話し合いは決裂だね。貝木、あなたの交渉術も、このサイズ相手じゃ説得力に欠けるんじゃない?」

斧乃木は、瓦礫の雨の中を軽やかに飛び跳ね、俺の隣に並んだ。

そのオレンジ色の帽子は、わずかな土埃さえも寄せ付けない。

巨大な蝦蟇は、その裂けたような口から、古代の泥のような悪臭を放ちながら、俺たちを「食糧」として認識した。

 

「……ふん。交渉が決裂するのは慣れっこだ」

 

「千石撫子の時もこんな感じだったの?」

 

「もっと酷かったな。ただ、少なくとも泥にまみれることは無かった」

 

俺は喪服を翻し、正面から迫り来る「絶望」を見据えた。

 

蝦蟇が、その巨大な舌を鞭のようにしならせて、俺たちを捕らえようとする。粘液に覆われたその舌は、触れるものすべてを腐食させる猛毒を帯びているのが見て取れた。

 

例外のほうが多い規則(アンリミテッド・ルールブック)

斧乃木の両手が爆発的に膨れ上がり、巨木の如き鉄拳へと変貌した。

彼女の小さな体が、巨大な蝦蟇の眉間――第三の目へと向かって弾丸のように射出される。

ドォォォォン、という空間を震わせる衝撃音。

斧乃木の拳が蝦蟇の顔面に直撃し、周囲に飛び散ったのは血ではなく、凝縮された「悪意」の塊のような黒い粘液だった。

だが、大蝦蟇は怯まない。

第三の目から放たれた不可視の波動が斧乃木を弾き飛ばし、同時にその巨大な舌が、音速を超えて俺の立っている地点を薙ぎ払った。

俺は間一髪で後方へ跳んだが、かつて展望台があった場所は一瞬にして消滅し、ただの空洞へと成り果てた。

 

「……なるほど。三竦みの三点目というわけか、あるいはこの山の淀みの中心点か」

 

「……あれは不味いよ、貝木。あの目は『過去』と『未来』を同時に見ている。あなたの嘘がつく前から暴かれてしまう」

背後に着地した斧乃木の言葉は、珍しく余裕がない。

俺は足元を侵食する泥に抗いながら、喪服の襟を正した。

詐欺師の土俵が物理的な破壊ではないことは百も承知だが、ここまで「誠意」のない怪物を前にしては、多少の力行使も必要経費と言える。

 

「ゲコォッ!」

蝦蟇が、裂けたような口を大きく開いた。

その内部には、かつて飲み込まれた百人の怨念が凝縮された、禍々しい紫色の光が収束していく。それは、山そのものの呪いを具現化した、広範囲殲滅型のブレス攻撃だ。

彼女の身体は、ブレスの収束する光の渦へと、迷うことなく突っ込んでいく。

斧乃木の小さな拳が、凝縮された怨念のブレスを撃たんとする蝦蟇の顔面に叩き込まれる。

ブレスは直撃する直前で進路を僅かに逸らされ、夜空へと向かって爆散する。

暗闇のキャンバスに、一瞬だけ禍々しい紫色の花火が打ち上がった。

 

「斧乃木、奴の第三の目を封じるぞ! あれがこの異界の『ピント』を合わせている! 視界がぼやければ、奴は俺たちの存在という『嘘』を見失う!」

 

「了解。でも、あの目、僕の攻撃を予測して回避してるよ。 相当な動体視力、というか未来視に近い力がある」

斧乃木が空中を蹴り、多角的な方向から打撃を叩き込む。

だが、大蝦蟇の第三の目は、まるで斧乃木の動きを最初から知っているかのように、常にその先を見据えていた。

 

巨蝦蟇が、その巨大な舌を射出した。

音速を超える一撃。避ける暇もない。

だが、斧乃木は俺の襟首を掴み、文字通り「空を蹴って」跳躍した。

蝦蟇の背中から無数の毒の触手が伸び、空中の斧乃木を絡め取ろうとする。

俺は懐から一束の偽札をぶちまけた。

ただの紙切れではない。俺がこの夜、斧乃木のアイス付き添いの中で編み上げた、十五人の「迷子」の定義を定着させた呪符だ。

 

「火を噴け、とは言わん。だが、こいつらはすべて『爆薬』であるという嘘を信じろ!」

俺が指を鳴らす。

化学反応でも霊力でもない。ただ、俺の言葉を信じ込んだ「世界」が、ばら撒かれた紙切れを小規模な爆発へと変えた。

目眩ましの閃光。

その隙に斧乃木が離脱し、再び俺の隣へ戻る。

 

戦闘は混迷を極めた。

崩壊する異界の中で、俺たちは泥を噛み、毒を浴び、死の淵を綱渡りする。

だが、蝦蟇は斧乃木の攻撃を学習していた。

巨大な前肢が、まるで人間のように器用に、地を這う斧乃木を叩き潰そうと迫る。

斧乃木は蝦蟇の爪と爪の間を縫うように、縦横無尽に空中を飛び交う。

その動きはまるで、蝶が舞うかのようだった。

蝦蟇は巨躯を振り回し、地を叩き、山全体を揺さぶる。

展望台は跡形もなく消え去り、俺たちが立っている場所は、もはや蝦蟇の体表の一部と化していた。

 

「流石にこの質量を相手に、単身での抑止はコストパフォーマンスが悪すぎるよ、貝木。僕を使い潰すつもりなら、もっと高価なアイスを前払いしてくれないと困る」

斧乃木余接の身体が、巨大な蝦蟇の放つ衝撃波によって弾丸のように吹き飛ばされた。しかし、空を蹴って不自然な制動をかけると、再び地表――いや、もはや生物的な脈動を始めた蝦蟇の体表へと着地する。その無機質な瞳が、僅かに焦燥の色を帯びていた。

斧乃木も、俺も泥にまみれ、傷だらけになっていった。

ここで死ぬと二千万円が紙屑になる。それだけは避けるべき損失だった。

 

「ゲコォォォ、ゴォォォォッ!!」

山鳴りのような咆哮。

大蝦蟇が、その巨体に見合わぬ跳躍を見せた。

その着地の衝撃だけで、周囲の空間がひび割れる。

蝦蟇と化した阿久津の攻撃は、もはや単なる暴力ではなかった。

それは「山そのものが、自らの中に住まうノミを潰そうとする」ような、不可避の自然現象に近い。巨大な前肢が振り下ろされるたびに地響きが轟き、その亀裂からは腐食性の胃液が間欠泉のように噴き出す。

俺は、崩落し続ける展望台の支柱に辛うじて背を預け、猛り狂う巨獣を見据えた。

 

「……阿久津。お前がその姿を維持するたびに、この山は死んでいくぞ。お前自身を、この蝦蟇という名の墓標で葬りたいのか」

俺の言葉は届いているのか、届いていないのか。

巨大蝦蟇の第三の目が、憎悪を込めて俺を睨みつける。

だが、その瞳の奥には、未だ少女だった頃の「恐怖」と「迷い」が、微かに揺らめいているように見えた。

 

「……ふん。力押しでは埒が明かんか。斧乃木、奴の『耳』を塞げ。これから俺が吐く言葉は、余計な雑音に邪魔されたくない」

苦しむ巨大蝦蟇がその裂けたような口を開き、凝縮された怨念の咆哮を放とうとした、その時だった。

 

「了解。耳があるのかは不明だけど、意識の孔くらいは塞いであげるよ」

斧乃木が再び跳躍し、蝦蟇の側頭部へと肉薄する。

例外のほうが多い規則(アンリミテッド・ルールブック)で、蝦蟇の注意を撹乱している隙に、俺は一歩、泥の海へと踏み出した。

 

「阿久津! 聞こえるか! お前が今、その醜悪な姿で得ようとしているのは、力ではない。ただの『最期の言い訳』だ!」

俺の声は、蝦蟇の咆哮に掻き消されそうになりながらも、鋭く、冷徹に、彼女の核へと届くように響かせる。

 

「いいか、阿久津渚。お前はさっき、自分がこの山の神だと言った。だが、俺が調査した事実は、それとは正反対の真実を語っている。お前は神などではない。ましてや、百人の怨念を統べる王でもない。お前は……この山に、『捨てられた』だけだ」

巨大な蝦蟇の動きが、一瞬だけ止まった。

血走った「第三の目」が、憎悪と困惑を交えて俺を捉える。

 

「お前は、自分が孤独ゆえに怪異と一体化したと思っているだろう。だが違う。事実はもっと滑稽だ。この山に棲まう古の蝦蟇は、お前を取り込んだのではない。……あまりにもお前の『中身』が空っぽで、不味そうだったから、一度飲み込みかけて、『吐き出した』んだよ。今のお前の姿は、吐き出された後の残飯が、必死に自分の存在を証明しようと、周囲のゴミを掻き集めて作ったハリボテに過ぎない」

 

「…………ッ!? ウソだ……ソんな、ハズは……!!」

阿久津の、いや、蝦蟇の喉の奥から、複数の人間の声が混じり合ったような、不協和音が漏れ出した。

 

「嘘だと思うか? ならば教えてやろう。お前の部屋にあったあのノート、あれを書いたのはお前じゃない。あれは、お前の存在を完全に無視し続けた、この街の『悪意』が形を成したものだ。お前は誰にも相手にされなかったんじゃない。お前という存在そのものが、最初からこの街の歴史から消去されていたんだ。お前がここでどれだけ叫ぼうと、誰一人としてお前の失踪に気づいていない。十五人の家族は泣いているが、お前のために涙を流す人間は、世界にただの一人も存在しない。お前は、死ぬことさえ許されなかった、ただの空白だ」

嘘である。

阿久津が蝦蟇と一つになり、神になったのは正真正銘、紛れもない事実である。

だが俺の言葉は、毒となって蝦蟇の巨躯を侵食していく。

怪異にとって、自身の「成り立ち」を否定されることは、存在そのものの基盤を失うことに等しい。俺がついたこの「嘘」は、彼女が唯一の拠り所としていた「特別な孤独」という矜持を、無価値なゴミへと貶めるための劇薬だ。

 

「……お前の孤独には、一銭の価値もない。お前は、誰の記憶にも残らず、誰の心も動かせず、ただこの山の一部として、名もなき泥に還る。それがお前の、唯一にして絶対の真実だ」

 

「ヤメ……テ……。ヤメテ、ヤメテェェッ!!」

巨大な蝦蟇の身体が、内側から激しく震え始めた。

「捨てられた」「不味い」「無価値」。

俺が吐いた、彼女の存在を根底から否定する嘘が、彼女を怪物たらしめていた「孤独という名の信仰」を完全に粉砕したのだ。

世界という名の原稿用紙から、彼女という文字が滲んで消えていくような内部崩壊。

彼女が纏っていた「神」という名の皮が、俺の言葉による「定義の破壊」に耐えきれず、ひび割れていく。

蝦蟇の巨躯は、自らの質量を支えきれず、泥濘の中へと崩れ落ちていく。

その額の「第三の目」は、憎悪ではなく、純粋な「絶望」を湛えて俺を見つめていた。

 

その瞬間――世界から、音が消えた。

 

018

真空。

あるいは沈黙の極致。

蝦蟇の背後から、一切の音を奪い去るように「それ」は降りてきた。

月光を背負い、漆黒の空から舞い降りたのは、巨大な、あまりにも巨大な、純白の鳥。

それは、俺が描いた伏線という名の嘘が呼び寄せたのか、あるいはこの歪んだ生態系が自浄作用として産み落とした「強者」なのか。

ともあれ、それは俺の嘘が作り出した「空白」という名の獲物を狩るために、今、この場に降臨した究極の捕食者だった。

真っ白な羽毛、鋭利な槍のような嘴。

鷺の怪異――「喰白(クウハク)」。

それは蝦蟇の眉間――第三の目の直上に、音もなく着地した。

 

喰白の白い羽毛は、夜の闇を拒絶するがごとく輝き、その存在そのものが「無」を定義しているかのようだった。

一切の音を吸収するその羽ばたきは、周囲の空気を凝固させ、時さえも止まったかのような錯覚に陥る。

 

「やっと出番だね。本当に『空白』を食いに来るとは、なかなか律儀な怪異だよ」

斧乃木は、瓦礫と化した蝦蟇の残骸の上から、喰白を見上げて呟いた。

その声さえも、鷺の放つ「沈黙」によって、半分ほど吸い込まれて消える。

 

「……ゲ、ゲコォッ!?」

蝦蟇が身悶えする。

喰白は不動だ。水辺に佇むその姿のまま、ただそこに在るだけで、百人の怨念をその細い脚で押さえつけている。

これこそが三竦みを超えた、圧倒的な生物的階級差。

喰白の一撃は、物理的な破壊ではない。

「言いくるめる」という概念の暴力だ。

三竦みを超越した頂点の乱入により、事態は平面上ではなく三角錐――生態系ピラミッドの縮図へと化した。

蛇、蛙、蛞蝓の怪異がピラミッドの底面なのだとすれば、この『鷺』は頂点だった。

 

喰白が嘴を一閃させた。

その槍のように鋭利な嘴が、蝦蟇の額――「第三の目」を、迷うことなく貫く。

絶叫。

その断末魔さえも、喰白の放つ沈黙によって途中で刈り取られた。

嘴が貫いた瞬間、蝦蟇の体表を覆っていた禍々しい色合いが、急速に「白」へと塗り替わっていく。

毒々しい緑、赤黒い怨念、泥の腐敗臭。そのすべてが、鷺の白い羽毛に触れるたびに、まるで最初から存在しなかったかのように消え去る。

空間が激しく明滅し、阿久津が放とうとした呪いの光線と、鷺の放つ「無」の波動が衝突し、溶けかけた展望台が分子レベルで霧散していく。

 

阿久津渚という少女が、蝦蟇の怪異と一体化し、百人の怨念を飲み込んだという「事実」が、喰白という名の白い鳥によって、無慈悲に「無かったこと」へと書き換えられていく。

それは、俺の吐いた嘘ですら及ばぬ、絶対的な消去だった。

俺が阿久津に与えた「救いの嘘」も、喰白の純白の前では、ただの黒いシミに過ぎない。

俺という詐欺師が、存在理由すら否定されるような、圧倒的な虚無だ。

潔癖すぎて反吐が出る。

 

「……やれやれ。完璧な掃除屋だな。俺が撒いた汚物を、何もかも白紙に戻しやがる」

俺は、喰白の放つ「沈黙」の圧力の中で、皮肉を呟いた。

その言葉が、虚しく空気に吸い込まれていく。

蝦蟇の巨躯が、純白の泡となって夜空に溶けていく。

阿久津の、苦痛に歪んだ少女の顔が、俺に向けたのは、怨嗟でも憎悪でもなく、ただひたすらの「空虚」だった。

彼女は、俺の嘘によって神の座を追われたが、その「神であった事実」さえも、喰白によって奪い取られたのだ。

 

喰白は、その巨大な翼を広げ、静寂を振り撒きながら悠然と滞留していた。

それは阿久津渚という少女が作り出し、肥大化させた「巨大な空白」を、ただ黙々と、機械的に回収していく。阿久津の額を貫いたその嘴は、彼女が抱え込んでいた百人の怨念ごと、存在の輪郭を白く削り取っていく。

 

「怪獣大決戦もあっという間に決着だね。僕たちは観客席で見ているだけでいいのかな?どうやらお食事のメニューに、胡散臭い詐欺師と死体人形は含まれていないみたいだし」

斧乃木の言う通り、喰白の無機質な視線は俺を通り越し、崩壊しつつある蝦蟇の巨躯へと注がれていた。俺という不純物は、この圧倒的な「白」の前では、食う価値さえないただのノイズに過ぎないということか。

しかし。

 

「……不愉快だな」

地を這うような俺の呟きに、斧乃木が僅かに首を傾げた。

 

「不愉快? どうして。あいつは僕たちを襲ってこない。リスクなしで怪異を処理してくれる、最高の助っ人じゃない。何がそんなに不満なの」

 

「斧乃木。俺は詐欺師だ。嘘を吐くことで飯を食っている」

俺は、沈みゆく蝦蟇の肉を、一歩ずつ踏みしめて前へ出る。

背後で斧乃木が「知ってるよ、今更」と呆れたように漏らすが、俺の言葉は止まらない。

 

「だが、詐欺師にとって、一番我慢ならないことが何か知っているか。……それは、『自分が吐いた嘘が誰にも受け止められず、ただの空白として処理されること』だ」

嘘というものは、それを受け止め、騙され、傷つき、あるいは救われる「他者」がいて初めて完成する。

だが、こいつは詐欺師が心血を注いで構築した精巧な偽物を、その意味さえ汲み取らずに「なかったこと」にして食い荒らす。

この白い鳥がやっていることは、俺の仕事に対する最大級の侮辱だ。

 

「俺が阿久津に吐いた嘘は、あいつが人間として生きていくための血肉になるはずのものだ。それをこんな無機質な消去プログラムに食わせるわけにはいかない」

 

「……へぇ。要するに、自分の作品を勝手にゴミ箱に入れられたのが腹立たしいってわけだ。偏屈な芸術家みたいだね、貝木」

 

「黙れ。これはビジネスの美学の問題だ」

 

崩落し、粘液となって溶け出し始めた蝦蟇の肉に足を取られ、喪服の裾が泥に汚れようとも、俺は阿久津の「核」へと歩みを進めた。

本来、俺がここまでしてやる理由は存在しない。

仕事は終わった。報酬の二千万円は手に入り、怪異の処理は喰白という名の掃除屋が勝手にやってくれている。ここで踵を返し、斧乃木の跳躍に掴まって山を降りれば、俺の日常は何の痛みもなく再開されるはずだ。

しかし、大人として子供に当たり前のことを言ってやる必要がある。

それが大人の最低限の責任というやつだ。

 

俺は神になる奴が大嫌いだ。

千石撫子。

阿久津渚。

今日までに、神になった奴は上の2人しか見たことが無いが、ともかく嫌いだ。

自ら化物の道を選ぶ奴も、救いようがないほど嫌悪している。

なぜなら、それは「人間であることを、途中で放棄した」敗北者の姿だからだ。

自分の足で歩くことを辞め、孤独という安易な繭に逃げ込む――その怠慢が、かつて俺が愛した光景を、どれほど無残に壊してきたか。

俺がかつて守れなかったもの、あるいは俺自身が壊したものの残骸が、目の前で発狂し、化物へと成り果てた少女の姿と重なり合う。

俺は、喰白によって動きを封じられた蝦蟇の、その剥き出しの額へと疾走する。

走る、などという若々しい動詞は俺の喪服には似合わないが、背に腹は代えられない。

奴が彼女の存在を消去するスピードよりも早く、俺の言葉を叩き込まなければならない。

貝木ストライドは泥のような不安定な地面でこそ、真骨頂を発揮する。

消滅しつつある巨大な化物の肉に、泥に足をとられ、腰ほどまで埋まりながら辿り着くと、そこでは喰白が蝦蟇の核をついばんでいた。

喰白は振り向いて俺を見ると、興味がなさそうに再びついばみ始める。

斧乃木の言った通り、奴のメニューには俺は含まれていないようだった。

阿久津を探し、ついに泥にまみれた緑交じりの白髪の姿を見つける。

 

「阿久津渚。お前に、いいことを教えてやろう」

俺は崩れゆく肉の塊の上で、静かに、しかし冷徹な声で語りかけた。

その声は、かつて雪降る街で戦場ヶ原ひたぎに告げたものとも、千石撫子という蛇の神を騙し抜いたものとも違っていた。

俯いていた阿久津がゆっくりと俺の方を向く。

 

「いいか、よく聞け。お前が今やっているのは、高尚な神の試練でも、悲劇のヒロインの最期でもない。ただの『逃げ』だ。自分の人生が思い通りにいかないからといって、世界を道連れにして自分を消そうとする、最悪に身勝手なワガママだ。付け加えるならば、その世界も道連れに出来ていないから余計に質が悪い」

 

「違う…………私は、飲み込まれただけ……。みんなが私を、神様にしたんだ……。私は独りになりたくなくて、だから、みんなを……」

阿久津は、俺の言葉を拒絶するように、あるいは自分に言い聞かせるように、うわ言を繰り返す。

 

「……独りになりたくなくて、他人を取り込むか。それはお前の勝手な理屈だ。他人のせいにするな。お前はただ、独りでいる勇気がなくて、みんなという名の背景に溶けたかっただけだ。いいか、かつて俺が関わった連中も、お前と同じように勝手だった。戦場ヶ原という女は重さを失い、羽川という女は猫を生み、阿良々木暦というお人好しは自らを切り売りしてまで他人を救おうとした。だがな――」

 

俺は一息つき、阿久津の濁った瞳を正面から見据えた。

「忍野メメという、とびきり軽薄で無責任な男が言っていた。『人は一人で勝手に助かるだけ』だとな。冷たい言葉に聞こえるだろう。 だが、これは真理だ。人は勝手に助かるだけであり、裏を返せば、人は助かろうとしなければ助からない」

「だから、助かるためには自ら助かろうとしなければならない。他人に食いつき、他人と混ざり合い、そうやって『自分』という個を曖昧にして逃げているうちは、お前を助けられる奴はこの世に一人もいない。たとえ神だろうが、鷺だろうが、俺のような詐欺師だろうがな」

 

「……自ら、助かる………?」

 

「そうだ。助かろうとする意志のない救済など、ただの甘やかしだ。お前は今まで、山に迷い込む奴らを食い物にすることで、自分の孤独を誤魔化してきた。だが、お前が本当に欲しかったのは、百人の怨念の合唱か? 違うだろ。お前が欲しかったのは、お前自身として、誰かと向き合うことだ」

 

「……でも…私はもう……」

阿久津の瞳から涙が溢れ出す。

 

「……もう遅いだと?抜かせ。お前が人間に戻るのに、早いも遅いもあるか。お前がどれだけ無価値で、空っぽで、誰にも気づかれない存在だとしても、それはお前が『人間として』生きている証拠だ。神になれば孤独は消えるだろう。化物になれば痛みはなくなるだろう。だがな、そんなものは生きているとは言わない。ただの現象だ。俺が嫌いなのは、そんな『機能』に成り下がるお前の姿だ」

阿久津の瞳から溢れた涙は、彼女がこれまで溜め込んできた「孤独」という名の泥を洗い流すかのように、彼女の頬を伝い落ちた。

 

「人生を諦めるな。人間を諦めるな。何もかもを諦めるな。絶望なんていう安っぽい感情に身を任せるのは、ただの怠慢だ。お前がやるべきなのは、山に籠もって他人を待つことではない。この醜い皮を脱ぎ捨て、泥を払い、自分の足で山を降りることだ。そしてもう一度、人生をやり直すんだ。だってお前は人間なんだから。人間は、人間だからいくらでもやり直せる――いくらでも買い直せる」

 

「…………やり、直せる…?……そんな、勝手なこと」

阿久津の喉から漏れたのは、抗議というにはあまりに弱々しく、しかし拒絶というにはあまりに切実な、かすれた声だった。

 

「私には……何もないのに……。空っぽで、不味くて……誰にも気づかれないまま、消えるはずだったのに……」

そうだ。こいつは戦場ヶ原のように強かでもなければ、羽川のように賢くもない。千石撫子のように、秘めた激情で世界を塗り替えるエゴイズムさえ持っていない。

ただの、どこにでもいる、影の薄い子供だ。

 

「消えるはずだった、か。……そんなに綺麗に、何事もなかったかのように消えたいのか。ならば阿久津、お前が今吐いたその格好いい、いかにも『孤独の怪異』らしい台詞は、この紙切れの前でもう一度言えるのか?」

俺は懐から1枚の紙を取り出した。

彼女の教科書の中に挟まっていた、ボロボロに読み込まれたアイドル雑誌。その付録の、住所まで書き込まれたオーディションの応募用紙。

結局出せず、しかし捨てることもできず、丁寧に保管されていた「夢」の残骸だ。

それを見て、阿久津が凍りつく。三つの目が同時に、信じられないものを見るように見開かれた。

 

「何で……そんな、もの―――」

 

「『特技:笑顔、趣味:ダンス』。……反吐が出るほど凡庸だな。お前が本当に求めていたのは、山と一つになることじゃない。きらびやかな衣装を着て、ライトを浴びて、大勢の人間に名前を呼ばれることだ。お前は、自分が特別な人間になれないと悟ったから、代わりに特別な化物になることを選んだ。……お前はただの、夢に破れることさえ怖がった、臆病な『自称・特別』だ」

「いいか、阿久津。お前は神様になるには『人間』が過ぎるんだよ。その醜い、恥ずかしい、誰にも見せたくないドロドロした執着こそが、お前が生きている唯一の証拠だ。その泥を捨てて、綺麗な白紙になろうなんて思うな。……泥を啜って、その恥を抱えたまま、無様に地上を歩け。阿久津渚。化物に逃げるな。アイドルを目指すよりは、人間に戻る方がまだ難易度は低いぞ」

阿久津の瞳から溢れた涙は、彼女がこれまで溜め込んできた「孤独」という名の泥を洗い流すかのように、彼女の頬を伝い落ちた。

 

「………助けて。………私は、歩きたい………!」

掠れた声。だが、それは間違いなく彼女自身の意志だった。

巨大蝦蟇の肉塊から物理的に、概念的に切り離されようとしている。

俺は一歩、彼女へ歩み寄り、最後の一押しを告げた。

 

「言ったはずだ。人は自ら助かろうとしない限り、助かることはできない。だがいいか。これから俺は、特別にお前に最高の『嘘』を吐いてやる。失踪者はただの迷子で、お前は彼らを救おうとした勇敢な少女だった。……どうだ? お前の過去すべてを、俺が塗り替えてやる。もちろん、これは真っ赤な偽物だ。真実はお前の中に泥のように残るだろう。だが、その偽物を一生かけて本物にしていく気概があるなら、その時は――俺がお前の手を引いてやってもいい。もしお前が詐欺師を信用するような愚かな人間、しかし確かな人間であるなら、騙されたと思って乗ってみるのも良いかもな」

俺の言葉は、彼女が縋っていた「神」という名の虚像を微塵に砕き、代わりに「一人の人間」という、重くて不自由な現実を彼女の掌に押し付けた。

白に毒を散らしていた彼女の髪が黒に戻っていく。

――そして阿久津は震える唇で、絞り出すように答えた。

 

「………それなら。それなら、あなたに――騙されてあげる」

どいつもこいつも、詐欺師にそんな甘えた台詞を吐きやがって。

………だが。

 

「……契約成立だ」

俺は阿久津の額を、指先で強く、弾くように突いた。

待ち構えていたかのように、横から喰白の嘴が阿久津を貫こうとしたが、奴の嘴は阿久津の細い身体を、まるで陽炎を突くかのようにすり抜けた。

喰白が食うのは、定義を失った「空白」であり、実体のない「無」だ。

しかし、今この瞬間の阿久津渚は、俺という詐欺師の嘘を信じ、自らの足で歩くことを決意した「意志を持つ人間」として、この世界に再定義された。

彼女を縛り付けていた肥大化した肉の塊が、ついに霧散していく。

彼女はもはや、喰白のメニューに載るような「何者でもない空白」ではなくなっていたのだ。

 

興味を失ったかのように、喰白は嘴を引き戻し飛び立つ。

次の瞬間、視界を埋め尽くす圧倒的な白。

それは雪の冷たさではなく、すべてを等しく無価値な空白へと帰す「無」の輝きだった。

巨大な蝦蟇の咆哮も、百人の怨念が奏でた不協和音も、泥濘の底から這い上がってきた腐敗臭も、鷺の羽ばたき一つで掻き消えていく。

 

「……あ」

阿久津の唇から漏れた小さな吐息さえも、その白に吸い込まれた。

古代から積み上げられてきた呪いの地層が、嘘のように軽やかな羽毛へと書き換えられていく。

それは怪異の消滅というよりは、事象そのものの「編集」だった。鷺という生態系の頂点に君臨する者が、この山に記された不名誉な歴史を、一閃の嘴で丁寧に削り取ったのだ。

俺の足元を掴んでいた泥が、乾いたコンクリートの感触へと戻る。

 

気づけば、俺は蝦蟇山駅のホームに立ち尽くしていた。

粘つくような湿気も、鼻を突く腐敗臭も、耳障りな蛙の合唱も。

それら全てが、初めから存在しなかったかのように、音もなく霧散していた。

足元には、数名の人影が重なるようにして眠っている。

行方不明になっていた十五人の住人たち。そして、その中心には、あのセーラー服の少女――阿久津が、深い眠りに落ちていた。

 

ともあれ、予定とはだいぶ違ったが、斧乃木余接の依頼を完遂した。

 

019

「……終わったね。貝木。あの『鷺』が全部元通りにしてくれた」

隣に立つ斧乃木余接が、無機質な声を落とした。

その視線の先には、もはや「山」も「化物」も存在しない。

ただ、春の夜明け前の冷たい静寂が、厚い毛布のように世界を覆っている。

 

「元通り、か。随分と都合のいい言葉だな。詐欺師としては、これほど不愉快な解決法もない」

俺は額の汗を拭い、眼鏡の位置を直した。

鷺の怪異による「言いくるめ」。

それは、起きた事象を消し去るのではない。起きたことを「起きていなかったこと」として世界に納得させる、巨大な嘘だ。

俺のような小悪党が吐く嘘とは、規模も格も違いすぎる。

俺はゆっくりと立ち上がり、眠る阿久津の傍らへ歩み寄った。

彼女の表情は、憑き物が落ちたように穏やかだ。

つい先刻まで、この山そのものに変貌し、百人の怨念を代弁していた化物とは思えない。

睫毛の長い、ただのどこにでもいる、少しばかり目立たない少女の顔。

先ほど俺が彼女の額を突いた時の感触が、指先に微かに残っている。

それは「怪異」という記号ではなく、確かに「人間」という現実だった。

 

俺はさっき阿久津に言った数々の嘘を反芻する。

彼女は千石撫子と同じく「騙されてあげる」と言った。

千石の場合は「漫画」という杖がすでにあったが、そうすると阿久津の場合は自分を赦すために、俺の嘘を杖として選んだということなのだろう。

ならば、俺がつくべき嘘は一つしかない。

 

「おい、斧乃木。警察と救急に、匿名の通報を入れておけ。内容は『山道で迷子を数名発見した』でいい。……余計な尾ヒレはつけるなよ」

 

「了解。貝木お兄ちゃんの優しい嘘、高くつきそうだね」

 

「黙れ。優しさなど、俺の辞書にはない。ただの顧客満足度の追求だ」

俺は一度も振り返ることなく、改札へと向かった。

全身が猛烈に痛い。

この治療費は後でまとめて臥煙先輩に請求するとしよう。

 

駅舎はボロボロの廃屋ではなく、ただの「古ぼけた現役の駅」としてそこにある。

自動券売機からはかすかな待機音が漏れ、電光掲示板には始発電車の時刻が表示されている。

昇りつつある朝日に、舞い落ちる鷺の白い羽毛が光っていた。

駅舎を出る直前、ふと白む空を見上げると、そこには鷺の姿も、禍々しい赤い空もなかった。

肺を焼いていた湿った熱気は春の夜明け前の澄んだ空気に戻り、あるのは、どこまでも透明で、どこまでも無関心な、三月の朝焼けだけだった。

 

世界は、何事もなかったかのように動き出す。

一人の少女の絶望も、俺がついたこじつけの嘘も、すべては朝日に溶けて消えていく。

阿久津渚は、数時間後には「遭難者を救った勇敢な少女」として目を覚ますだろう。

その記憶の奥底に、消えない泥の味が残っていたとしても、それは俺の仕事ではない。

彼女自身が向き合うべきことだ。

 

……さて。

井戸の底の淀みは消えたが、俺の財布の淀みは増すばかりだ。次の仕事へ行くとしようか。

俺は傷で痛む身体を引きずって始発電車に乗り込んだ。

 

020

その後ホテルに戻り、広いベッドで十分に睡眠をとった俺は、斧乃木と駅ビル内の喫茶店で合流した。

昭和の純喫茶とは一線を画す、無機質で清潔なチェーン店である。

俺は窓際の席で、手帳に数字を書き込んでいた。

 

「はい、これ。今回の経費一覧だよ、貝木お兄ちゃん。……あ、一応言っておくけど、これには『死体人形の尊厳毀損料』は含まれていないからね」

向かいに座る斧乃木余接が、無造作にレシートの束を差し出した。その一番上には、コンビニのロゴと共に『アイスクリーム 100個』の文字が踊っている。

………これ、経費で落ちるか?

 

「尊厳だと? 100個も食っておいてよく言う。お前の胃袋はブラックホールか何かか」

 

「いぇーい。中身がないからね、詰め込めるだけ詰め込めるんだよ。ピースピース。それより、臥煙先輩からの報酬はどうだったの?」

 

俺は手帳を閉じ、溜息と共にスマートフォンの画面を見せた。

そこには、銀行の入金通知が表示されている。

2千万円と端数の1670円。

「……相変わらず、端数まで正確だな。今回の報酬は、俺が動かした十五人の『失踪偽装』の工作費と、蝦蟇の怪異の除霊代行費用。それから……阿久津の記憶上書きに対する、特例の『口止め料』だ」

 

「臥煙さんにしては、羽振りがいいね」

 

「その分、次の仕事が厄介だということだ。先輩の金は、常に次の火種への前払いだからな」

臥煙伊豆湖という女は、いつだって『答え』しか言わない。そしてその答えは、往々にして俺たちのような現場の駒が、泥を啜りながら導き出した結論をあらかじめ予見していたかのような、嫌味な鮮やかさに満ちている。

今回の件にしてもそうだ。二千万円という大金。普通に考えれば、一介の詐欺師が数日山に籠もって女子高生の悩み相談に乗った報酬としては、破格を通り越して異常だ。だが、この『端数』の意味を考えれば、背筋に冷たいものが走る。

 

千六百七十円。

俺が昨日、駅の売店で買った安物の傘と、道中で消費した缶コーヒー等の飲料等々。

その合計額と、一円の狂いもなく一致している。

つまり、あの女は見ていたわけだ。

俺がどの地点で、どの程度の小銭を使い、どの程度の『偽善』を働いたか。すべては彼女のネットワークという名の監視網に捕捉され、管理されていたという証明。報酬の振り込みという名の、これは無言の圧力だ。

この端数分、俺はあの女に借りを作らされたわけだ。

不愉快極まりない。

『私は何でも知っている。お前が吐いた嘘の数も、その裏にある僅かな計算違いもね』と、そう耳元で囁かれた気分だった。

 

「……毎回思うけど、気持ち悪いね。まるで神様気取りだ」

斧乃木が、空になったグラスの縁を指でなぞりながら呟く。

 

「神様じゃないさ。ただの、情報過多な人間だ。だからこそタチが悪い」

俺は手帳を閉じ、冷めたコーヒーを最後の一滴まで飲み干した。

今回の事後処理は、臥煙先輩によって既に完璧にパッケージングされている。

失踪した十五人は『集団迷子』として処理され、阿久津渚は『遭難者を救った勇気ある少女』という、俺が捏造した役職を公的に付与された。

目玉しか帰ってこなかった5人の専門家連中(カカシども)も復活したらしい。

連中が先輩から大目玉を食らう絵面は容易に想像できたが、結末は知らない。

俺の知ったことではない。

 

怪異の残滓は、あの『喰白』の羽ばたきによって物理的にも概念的にも抹消され、今やこの町で蝦蟇の咆哮を覚えているのは、俺と、目の前の死体人形と……そして、すべてを『知っている』あの女だけだ。

怪異の正体を見破り、それを既知の現象へと貶めることで無力化する。

俺が阿久津渚に施した「救済」も、結局は臥煙先輩が描いた巨大なパズルのピースの一つに過ぎなかったというわけだ。

 

――だが事実、阿久津は救われた。

否、自らを救った。

それは彼女が自力で泥の中から這い上がった結果だ。

俺が「そうあるべき」という偽物のレールを敷き、臥煙先輩がそのレールが脱線しないように世界を補強した。

しかし、それを踏まえて自ら助かることを選択したのは彼女自身だ。

人間に戻った彼女は、もしかしたら今回の一件で孤独から脱出するかもしれない。

あるいは、再び孤独な人生を送ることになるかもしれない。

だが、少なくとも。

彼女が再び蝦蟇に魅入られることは無い。

勝手ながらそう思った。

阿久津の今後など俺のあずかり知らぬことだが。

 

「じゃ。僕はこれで」

斧乃木がオレンジ色の帽子を被りなおし、席を立つ。

 

「……おう。じゃあな」

依頼を完遂した今、「株式会社偽善社」はたったの3日で解散である。

株式会社どころか、とんだ有限会社だった。

感情も感傷もない終わり方だが、別に寂しい気分になるわけではない。

引き止める理由があるわけでもないし、また何処かで会うこともあるだろう。

ただの古い付き合い。

こいつとはそういう縁だ。

 

「あ、貝木。その…今回の依頼を完遂してくれてありがとう。一応、僕からも礼を言っておくよ」

 

「…ああ」

喫茶店を出た彼女の姿は、あっという間に雑踏の中に消えていった。

あの派手な格好からは信じられないほどの速さだった。

俺はレシートの束を財布にしまい、コーヒーを飲み干した。

 

021

後日談、あるいは今回のオチと言うべきだろうか。

1ヶ月後。4月15日。

世間が新学期等々で浮かれている中、俺は何の因果か、再び井戸海町に来ていた。

蝦蟇山での一件の後、新たな詐欺の仕事で立ち寄ったのだ。

仕事は無事に終わり、1ヶ月前に喫茶店で俺はコーヒーを啜っていた。

カラン、と乾いたドアベルの音がなる。

視線を店の入り口へと移す。

店に入ってきたのは、ジャージ姿の少女だった。

短く切り揃えられるも、痛めつけるように茶に染められた髪。

松葉杖を使っているとは信じられない程に軽い足取り。

だが、その足取りには、生きている人間が持つべき「重み」すら欠落している。

 

「……沼地」

俺の呟きに、少女――沼地蠟花が足を止めた。

3ヶ月前、千石撫子を騙す直前に会った時よりも、彼女の存在は希薄になっている。

 

「『悪魔様』と呼んでくれと言っていたろ。久しぶりだな、貝木。……なんだ、そんな幽霊でも見るような目で私を見るなよ」

彼女は不敵に笑う。

生意気なガキである。

自らがすでに、この世の理から外れていることなど、微塵も気づいていない様子で。

 

「…いや、相変わらず不幸そうな面だと思ってな。何かいいネタでも拾えたのか」

 

「ああ、山一つ分の巨大な不幸を期待して来たんだけどな。どういうわけか、白一色に塗り潰されていた。お前の仕業か?」

 

「知りたいか?教えてやる。金を払え」

 

「まあいいさ。不幸は腐るほど転がっている。お前のその『嘘』が、いつか自分自身の首を絞めるのを、特等席で見物させてもらうよ」

沼地はつまらなそうに鼻を鳴らし、ホットコーヒーを注文した。

その一瞬だけ、彼女の身体が陽炎のように透き通ったような気がした。

俺が3ヶ月前に沼地と再会した際には、彼女はすでに幽霊と化していたが、その頃はまだ「生」の残り香があった。

しかし彼女も今はもうただの収集装置、コレクターに過ぎない。

だが、そんな彼女にさえ「また会おう」と言わせてしまうのが、この街の澱の深さなのだろうか。

 

「…気が変わった」

 

「は?」

きょとんとした顔で口を開ける沼地を見て、俺は初めてこいつの事を「可愛らしいガキ」だなと思った。

窓の外では、井戸海町の空が、嵐の後の抜けるような青空を見せている。

その平穏な空の裏側で、つい数週間前まで一人の少女が山そのものに変貌し、百人の怨念と共に世界を食い潰そうとしていたなどと、誰が信じるだろうか。

 

「……阿久津渚という、空っぽな器の話だ」

俺は淡々と、しかし詐欺師特有の、真実と虚偽を綯い交ぜにした語り口で、蝦蟇山での虚虚実実の三日間を話し始めた。

夕暮れの駅舎、蛙が人間を着込んだような悍ましい影。

阿久津渚という孤独な少女が、いかにして山の空腹に同化し、いかにして「神」という名の巨大な皮袋に成り果てたか。

そして、三竦みのルールを逆手に取った俺の毒と、沈黙と共に現れた白い鷺の介入。

沼地は注文したホットコーヒーに口もつけず、身を乗り出すようにして俺の言葉を食い入るように聞いていた。その瞳には、彼女が渇望してやまない「純度の高い不幸」への飢えが、不気味な輝きを灯している。

 

話し終えると、店内を流れる安っぽいジャズのBGMが、妙に耳についた。

沼地は数秒の間、呆然とした表情で固まっていたが、やがて噴き出すように笑った。

 

「くっ……ははは! 傑作だな、貝木。お前らしい、実に悪趣味で不愉快な話だ。救いを与えたふりをして、その実、一生消えない『嘘』という呪いを背負わせたわけか。最高じゃないか、その不幸」

 

「不幸だと? 俺は彼女を救ったつもりだがな」

足元を掬ったつもりでもあるが。

 

「いいや、不幸だよ。真実を奪われ、偽物の幸福を強制される。これ以上の悲劇がどこにある? ……ああ、いいな。その阿久津って子の不幸、いつか私が回収しに行きたくなったよ。お前のその、恩着せがましい『善行』ごとね」

 

沼地は満足げに、冷めかかったコーヒーを一気に飲み干した。

「……しかし、不思議だな。その『喰白』ってのは。お前の嘘が呼び寄せたのか、それとも……」

 

「さあな。だが、そいつが現れた瞬間、すべてが『無かったこと』になった。あの山を覆っていた澱みも、彼女の罪も、すべてが白い羽毛に呑まれて消えた。……お前が今、そのジャージにこびりつかせている執着と同じようにな」

 

「私の執着? 何を言ってるんだ。私は今、最高に気分がいいぞ。お前の話のおかげで、足取りがもっと軽くなりそうだ」

 

「……お前、本当に――いや、何でもない」

 

「何だよ、お前らしくもない」

そう言って笑う彼女の輪郭は、午後の強い日差しに透けて、今にも消えてしまいそうに思えた。

彼女は自分がすでに「終わっている」ことに気づいていない。

自らの死という最大の不幸さえ、彼女の毛むくじゃらのコレクション袋は飲み込み、無効化してしまったのだろう。

 

「じゃあな、貝木。お前のその『首を絞める嘘』が、いつか破綻するのを楽しみにしているよ」

彼女は松葉杖を小脇に抱え、本当に羽でも生えているかのような軽やかさで店を出て行った。

カラン、というドアベルの音が、現実への帰還を告げる。

俺は残ったコーヒーを飲み干し、伝票を掴んだ。

沼地蠟花。

彼女にあの話を語ったのは、餞ではない。

いつか彼女が自らの正体に気づき、この世から消え去るその瞬間に、せめて「面白い嘘を聞いた」という記憶だけは残るようにという、俺なりの、極めて質の悪い慈悲だった。

 

しかし、数分もしないうちに、カランと再びドアベルが鳴った。

引き返してきた沼地が、ニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、俺のテーブルに身を乗り出す。

 

「言い忘れていた。今の話の礼――というわけじゃないが、とっておきの情報を教えてやるよ、貝木」

 

「礼? お前が他人に何かを返すなんて、明日は槍でも降るんじゃないか」

 

「酷い言い草だな。だが、これはお前にとって、どんな金よりも価値がある情報かもしれないぞ」

沼地は俺の耳元に顔を寄せ、その透き通るような唇を動かした。

耳に囁く彼女の吐息は、氷のように冷たかった。

 

「お前が探している『忘れ形見』――神原駿河なら、今このすぐ近くにいるよ」

 

俺の心臓が、わずかに揺れたのを自覚した。

「――臥煙の忘れ形見が…?」

 

「驚いたか? この駅の改札付近だ。オープンキャンパスに行く途中らしい。…彼女、数日前から左腕の重みが消えたとかで、ひどく困惑した顔をしてる。……くくっ、あの戸惑い、あの喪失感。あれもまた、いい不幸だったよ。

「あいつは今、戸惑っているはずだ。数日前から、自分の身体の一部が、まるで最初からなかったかのように『空っぽ』になったことにな。今のあいつは、お前がさっき言った『阿久津』ってガキと同じくらい、中身がスカスカだぜ。しばらく待てば、帰る途中に鉢合わせるはずだ。お前が煮るなり焼くなり好きにしろ」

 

「……そうか」

 

「幸運を祈るよ。あるいは不幸を。また会おう、詐欺師」

沼地はそれだけ言い残すと、今度こそ本当に雑踏の中へと消えていった。

俺は一人、店内に残された。

神原駿河。

臥煙の忘れ形見である彼女の左腕から「悪魔」が消えた。それが何を意味するのか。沼地蠟花というコレクターが、その呪いの一部をすでに『回収』したということか。

物語は俺の関知しないところで、すでに次のフェーズへと加速しているらしい。

俺は携帯電話を取り出し、馴染みの店――といっても、かつて戦場ヶ原を騙すために何度か使った、高級を装った焼肉屋に電話を入れた。

 

「……ああ、俺だ。二名で予約したい。……いや、一人は子供だ。時間は3時間後。……ああ、最高級の肉を用意しておけ。払いは臥煙の経費だ」

まずは腹ごしらえだ。これから対峙するのは、単なる「怪異の被害者」ではない。母の面影を追い、悪魔に腕を食われ、そして今はその悪魔さえ失って途方に暮れている、迷子の少女なのだから。

 

その後。

次なる詐欺の計画を立てることで時間を潰し、頃合いを見て俺は会計を済ませ、喫茶店を出た。

エスカレーターを降り、人混みの激しい駅の改札へと向かう。

自動改札機の傍ら。

多くの人々が足早に通り過ぎる中、一人だけ、時間の流れから取り残されたように立ち尽くす少女がいた。

友達らしき女子高生に手を振っていたところを見るに、ちょうど今別れたところらしい。

左腕を、まるで壊れ物を扱うように右手に抱え、包帯の上から「人間の」肌を確かめるように摩っている。

――さて。

どんなに精巧な嘘を吐こうとも、どれほど完璧な偽物を作り上げようとも。

腹が減っては戦はできず、肉を食わねば人間は救えない。

無愛想な仮面を貼り直し、声を整える。

俺は、戸惑いの中に立ち尽くす少女に、冷徹な声を投げかけた。

詐欺師としてではなく、例えるならば「親切な肉好きのおじさん」として。

 

「――やっと会えたな。臥煙の忘れ形見」

こちらを見て、驚きに目を見開く臥煙の忘れ形見。

これほどまでに瑞々しく、これほどまでに真っ直ぐな「光」を放つ人間を、俺は他に知らない。

思わずサングラスをかけたくなるが、生憎と喪服に似合うのは安物の眼鏡だけだ。

さて無料パートの「嘘物語 でいしゅうリターン」はこれにて終了だが、この後の展開を知りたい読者諸君がいるならば俺から講談社BOX出版『花物語』、あるいはアニメBlu-ray BOX上下セットを購入することを強く推奨しよう。

販売価格は500万円だ。

 

……安心しろ。今言った500万円というのも、もちろん真っ赤な嘘だ。

俺のような詐欺師の言葉をいちいち真に受けるなよ。

それが――今回の件から諸君らが得るべき教訓だ。

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