拳願会。
それは日本最大の、そして世界でも有数の、裏格闘技団体である。古くは江戸時代にその端を発する拳願会は、企業同士の抗争に代理として闘技者を派遣することで、その行き過ぎた抗争を防ぎ、また管理してきた。近年は大手の裏格闘技団体「煉獄」と提携を結び、日本最大の裏格闘技団体としての名を確かなものとした。
その拳願会に、危機が訪れていた。
「闘技者が、襲われている……?」
山下一夫は、思わずそう聞き返した。
乃木グループ本社、最上階の会長室。壁一面に取られた窓から、陽の光が燦々と差し込んでいる。雲一つない空。だがその窓を背にデスクに腰を下ろした細面の男は、不機嫌そうに顔を歪めていた。
拳願会会長、乃木秀樹。窓からの日差しが逆光となり、その表情の細部までは見えない。しかしいつもの鉄面皮は、今日の会長にはない。そのことは見て取れた。
「その通りだ、山下くん」
乃木はそう言った。
「私も昨日、報告を受けたばかりだ。確認できているだけで、3名。何者かの襲撃によって重傷を負わされた。いずれも単独、しかも素手の相手に、だ」
「……」
山下は言葉を失う。同時に、その脳裏に浮かんだのは、かつての忌まわしい記憶。
「まさか、また蟲が……」
「それは私も考えた」
乃木は頷き、
「だが、現状ではその線は薄いようだ。こちらの情報網にやつらの動きが引っかかってこない。おそらくこれは、別口のものであると判断している」
「そ、そうですか」
山下はほっと息をつく。正直なところ、また蟲のような連中の相手をする経験は御免だと考えていた。相手の正体が何者かはともかく、蟲よりはマシだ。
「とにかく、これは由々しき事態だ」
乃木は話を続けた。
「見過ごすわけにはいかない。何者であれ、この3人を襲った者は……単独かどうかもわからないが……相当な実力者であることが予想できるからだ」
乃木は机の上から1枚の書類を取り出し、山下の前に置いた。顔写真がみっつ、縦に並び、名前と簡単なプロフィールが併記されている。3人のうちふたりは、山下が辛うじて名前だけは覚えているような、マイナーな闘技者だ。
だが、残り1名の名前を見て、山下は絶句した。
*
「まあ、ご覧の通りや」
大久保直也は、ギプスで覆われた右腕を上げてみせた。
「情けない話やけど、やられてしもうたわ」
成島光我はギプスをまじまじと見て、言った。
「大久保くん、これしばらく治らない感じ?」
「粉砕骨折、全治二ヶ月や」
大久保は自嘲気味に唇を歪めた。
「まあ、この程度ですんで良かったかもしれへん。もっとひどいことになるよりはな」
殺風景な病室。その一角にあるベッドを大久保の巨体が占領していた。ベッドの上にあぐらをかき、眠そうにあくびを噛み殺している。見たところ、右腕以外に大きな怪我はなさそうだ。
「ほんで? 話を聞きに来たんやろ?」
「ああ、そうそう」
光我はうなずいた。
「社長が詳しく聞いてこいってさ。襲われた状況とか、相手がどんなやつだったか、とか」
「まあ、だいたいは乃木はんに話した通りなんやけどな」
大久保の弁によると……
昨日の夜半。
ジムでの練習が終わり、帰宅する途中。薄暗い住宅街。すでに寝静まった通りには人影もない。
大久保はそこを歩いている。練習によって微かに体には疲労が残っているが、翌日に引きずるほどではない。帰ってのんびりとテレビでも見よう、ビールの一本も開けていいかもしれない。そんなことを考えながら。
そのとき。
不意に、風が冷たくなった。大久保は立ち止まった。
道の真ん中に、大男が立っていた。さながら大久保の行く手を阻むかのように。
体格は大久保と同じくらいか。がっちりした筋肉質の体を、XLサイズのパーカーに包んでいる。フードを目深に被り、その顔は見えない。
「誰や、あんた?」
「大久保さんですね」
問いかけられる。同時に足が踏み出される。間合いが狭まる。5メートル、4メートル……
「なんやなんや、俺のファンか? すまんけどな、サインとかは受け付けてないんやけど」
「いえ」
男はわずかに笑ったように見えた。
「あなたにお届けものです」
それは右の拳だった。
(なにっ)
素早い踏み込みからの、右ストレート。ほとんど予備動作がなく、咄嗟に反応しそこねた。ボクシングの心得ある大久保でなければもらっていただろう。それでも。
ガードしたのは、判断ミスだった、と大久保は述懐する。
「一発や」
大久保は言った。
「結果はこの通り。腕の骨がコナゴナや」
左手の指で、ギプスをこつこつと叩く。
光我はうめいた。
「一発のパンチで? 普通こんなんなる?」
「なるわけないわ、アホ。といっても、なってしもたからしゃあないねんけど……」
大久保は頭をかいて、
「次はもう、本能的な判断や。ケツまくって逃げるしかなかったわ。相手が何者かしらんけど、右腕壊れた状態で勝てる相手やない」
「相手は? 追ってこなかったんだ」
「そうや。目的は果たした、ってことやろな……」
大久保は声を低くして、
「動画、もう出回ってるんやろ」
「らしいよ。俺はまだ見てないけど」
大久保は皮肉げに顔を歪めた。
「拳願会の闘技者が、一発でやられて、尻尾を巻いて逃げたんや。誰やしらんけど、宣伝としては十分すぎるわな。癪やけど……」
「……」
「光我、お前も気いつけえや」
大久保は言った。
「会長の言うことがホンマなら、もう戦争は始まっとるんや」
「わかってるよ。社長からも同じこと言われてるし」
成島は腰を上げる。
「じゃ、俺は帰るから。あとなにか、社長に伝えておきたいことない?」
「そうやな……」
大久保は少し考えて、
「昨日一晩考えたんや。パンチ一発で人の体ぶっ壊すような、そんないかれたやつがそうそういるわけない。ただ、ひとりだけ、拳願会にも同じことができるやつがおるやろ」
「ああ」
成島は言った。
「ちょっとだけ、俺も同じことを考えたよ」
大久保は頷いた。
「そう、若槻はんや」
*
山下と乃木は、しばし、黙ったまま顔を見合わせていた。
大久保ほどの闘技者を一撃で戦闘不能に至らしめる。そんな真似ができるのは、おそらく……
「闘技者のうちでもせいぜい数名、と言ったところだろう」
乃木はそう言った。
「わかるかね山下くん。これは拳願会に対する、紛れもない攻撃なのだ」
「はい、しかし……」
山下は口ごもった。
「いったい、何が目的なのでしょう? 蟲でないとすれば、また、以前のように」
山下は思い返していた。数年前、乃木による拳願会の支配をよく思わないグループによる造反が計画されていた。拳願会は必ずしも一枚岩の団体というわけではない。大世帯であればこその、仲間割れも茶飯事である。またぞろ、反抗勢力が動き始めてもおかしくはない。
「私もそれを考えた。その方向で調査を進める予定だったのだ。……だが、思わぬところから、情報がもたらされてね」
「情報? ですか」
「そう、僕からね」
いきなり背後で声がして、山下は飛び上がりそうになった。
振り向けば、いつのまにか褐色に日焼けした大男が、そこに立っている。
「と、豊田様!? いつのまに……」
「かずっち、久しぶり。いやね、こっちもこっちで、同様の問題をかかえてるんだよね」
そこに立っているのは、豊田出光……日本有数の資産家にして、裏格闘技団体「煉獄」の主催者その人だった。かつて拳願会と煉獄は対立していたが、現在は友好関係にある。……より正確に言えば、煉獄は拳願会の傘下に近い位置にいる。数年前の、対抗戦の結果であった。
豊田は、部屋の隅にあった椅子を引っ張りだすと、その巨体をおろした。小さな椅子がぎしぎしと鳴る。
「まあそのね、こちらも先月の終わりくらいから確認してるんだ。煉獄闘士が、何者かに襲撃されてるってことをね」
「な、なんですって?」
山下は仰天した、
つまり、事は拳願会だけの問題ではない、ということだ。
豊田は皮肉げに口を歪める。
「いずれもC級で、言っちゃあれだけど木端選手だったから、大事だとは思わなかったんだよね。でも何か急にいやな予感がしてきて、拳願会さんと連絡を取ってみた。そしたら」
「双方で同様の状況が起きていた、と、いうわけだ」
乃木がそう言った。
「それでようやく、ひとつ合点がいったと言っていい。これは拳願会だけではなく、日本の裏格闘技団体そのものに対する、攻撃なのだと」