どちらも何も言わなかった。
無言のまま、構える。黒木は後屈立ち。尊鷹は半身に。
武術家であれば、言葉ではなく拳で語るべし。などという陳腐な言い習わしも、このふたりにはいらないのかもしれない。
月の光が両者の間に差す。どこかで犬が鳴く。いるはずのない野犬の声。風は凪いでいる。埃のひとつひとつが、なにかを見守るかのように、ゆっくりと下に落ちる。
尊鷹が飛んだ。
浮いた、と言ったほうがより相応しい。踏み込みはなかった。ただその体が人の背丈より高く宙に浮いていた。重力という枷から解き放たれたかのように。
蹴り。
常人には見えぬほど、速い蹴りである。空気を切り裂く音だけが聞こえる。それが連続で、黒木玄斎に襲いかかる。
そのすべてが、当たらなかった。
黒木の動きも、常人には見えぬほどである。繰り出される蹴りを最小限の動きでかわし、すかし、叩き落とす。はたから見れば、それは連続する蹴りが黒木の体をすり抜けたようにさえ見えた。
尊鷹の体がゆっくりと下降する。というようなことは、起きなかった。壁を蹴った。更に高く舞う。そして再び蹴る。頭上から落ちてくる蹴りを、黒田は受けた。その太い腕で。破裂音。尊鷹の動きが宙で止まる。黒木の右腕が引かれた。槍のような貫き手が装填される。だが。
「!!」
巌のような黒木の顔が、かすかに歪められた。見れば、蹴りを受けた黒木の左腕……そこに大きな傷が走っている。血がしぶき、埃とともに舞う。その僅かな動揺を、尊鷹は見逃さない。
黒木の体が吹き飛んだ。
尊鷹の横蹴り。それを受けた黒木の体が、軽々と宙に舞った。数メートルは飛び、壁に叩きつけられる。
黒木の胸元には、尊鷹の足裏のあとが、くっきりと刻まれていた。がくり、とその上体が揺らぐ。だが膝はつかない。表情も変わらない。並の人間であれば、内臓破裂ののち絶命してもおかしくない威力の蹴りである。それでも、黒木の表情は平静を保っている。
「この脚を、卑怯と思うか?」
尊鷹は聞いた。
その左足は、銀色に輝く。機械式の義足。人工筋肉と特殊アクチュエーターを組み合わせたその出力は、常人の数十倍にも及ぶ。
黒木は、ゆっくりと体を起こした。表情を変えぬまま。
「いいや」
黒木は言った。
「その蹴りは……機械の力だけで、できるものではあるまい。いくら力があろうとも、それを十全に扱えないようでは、無意味」
再び、後屈立ちに構える。
「来い。その脚、この黒木が叩き砕いてくれよう」
「……」
尊鷹が動いた。
滑るように前へ。重心を崩して前にでる古流の歩法。大空を舞う鷹が地を這った。床スレスレの低い姿勢から、太刀の斬撃を思わせる蹴りが飛んでくる。一度でも受け損ねれば、死が待っている。それほどの蹴りである。
だがやはり、黒木には当たらない。一見すると鈍重にみえる黒木の体が、霞のようにゆるやかに動いた。尊鷹の蹴りがすりぬける。見切りによって最小限の動きでかわしているのだ。
黒木が前に出る。繰り出す。その異名である魔槍……岩に穴を穿つ貫き手である。
だがこれも当たらない。尊鷹もまた霞のように動いた。人の体ではなく、空に描いた写し絵のように。そして貫き手は、尊鷹の体を通り抜ける。
幽玄新影流、朦朧拳━━
人の目の錯覚を利用したその動きは、初見で対処することを不可能とする。瞬きの間に、尊鷹の体は黒木の背後を取っていた。無防備な後頭部に、蹴りが撃ち落とされる。
「ぬうっ」
その声はどちらのものであったか。
激突音がして、ふたりは離れた。尊鷹の顔が驚愕に歪んでいる。彼の左足━━特殊チタン合金製の脚に、穴が穿たれていた。
完全に不意をついた、はずであった。だが振り向きざまに、黒木は蹴りを貫き手で迎え撃ったのである。
尊鷹は驚愕を押し殺した。朦朧拳を初見でかわした者はいない。誰一人として。
(まさか……)
疑念が尊鷹の胸にきざす。
(この男は知っているのか? 幽玄の技を)
「……」
黒木は何も言わない。表情も変わらない。ふたたび後屈に構え、尊鷹を待ち受ける。
しかしその心中には、かつての苦い思い出が、蘇っていたのである。