この世界がつまらないと思っている人間は、案外大勢いると思う。
大抵、そういう人間が語る世界の像というものは、表象的に描かれたチーズに似ている。穴だらけで、単純化は為され過ぎていて、何より変に匂う。……アレはなんであんなに魅力的に見えないのだろう。美味しそうだと思えないのは何故だろう。
「言いたいことは分かるけど知らないよ。……で、結局君は何が言いたいの?」
そう言った人種を何よりも嫌悪しているのである。
大体の事象に反例が存在するような、百面ダイスどころではない側面を抱えているこんな世界を、ただ独善的な言葉で語ろうだなんて──そんなことは、あまりに傲慢なことであると思える。加えて、そう言った連中は大概、さも自身は真理に到達したと言わんばかりの得意満面な顔でそんなことを言うものだから、失笑を禁じ得ない。それがもし自分自身だったなら、あまりの羞恥心に失神するね、自身の臭いで気絶するカメムシと同様に。
そんなだから、世界がつまらなく感じるのだ。
その程度のことにも気付けないような知性の欠如、自身のことすら碌に満足させられない身勝手さ、世界の方から勝手に変わってくれることを期待するだけの、真っ先に蹴落とされる雛鳥に似た愚昧さ。声だけは大きい辺り、猶更それに似ている。
世界の方には、幾らでも側面が隠されている。何を言っても反例が存在する。即ち、こういった事例を取り扱うには、また別の視点から論じる必要があると言えるだろう。
要するに、受け取る側の感性が死んでいるのだ。
世界の方では無く、世界を感じる五感が、センサーが、死んでいるのだ。感覚神経の受容体が摩耗していて、だから受けられる刺激が物足りないのだ。どれほど綺麗な景色が映してあったところで、モノクロ写真で見れば味気ないのと同じだ。どれほど美しい音楽が録音してあったところで、再生機器が酷く古臭いものであればただの雑音に聞こえる。それと同じだ。
「それじゃあ、君は──この世界の全部が、美しくて愉しくて、仕方が無いって思って日々を生きてる、そういうこと?」
「今まで貴方は何を聞いていたんだ?」
特段特徴がある訳ではないのに、よく耳に馴染む声。
僅かな所作に合わせて、ふわりと立ち上る香り。
「今の話を聞いてそう思ったのなら、貴方は俺のことを全く理解していないものと判断するけど」
「……うん、あんまり話は聞いてなかったかな。その割にはつまんなそうな顔してるねって思ってたけど、それだけだね」
「今のは壮大な自己紹介だ。俺は俺以外の話をするのが非常に苦手でね、どんな会話を振られたとして全て俺の話に着地する悪癖を持っているよ」
「いや、なんでちょっと誇らしそうなの。発言内容はともかくそっちが鬱陶しすぎて死ねばいいのにって思っちゃった」
「可愛い顔でよく吼えるな。犬か」
「シベリアンハスキー?」
「良いとこマルチーズだろ」
昼下がりのカフェ。雨が降っている外を眺めながら、手元のコーヒーカップを持ち上げて、黒くて苦い熱湯を喉へと注ぐ。
単にそう形容したとして、貴方はどのような景色を想像するだろうか。しとしとと雨が降って少し薄暗い雰囲気の中で、洒落たランプシェードが灯るような──そんな優雅で静かな空間を思い浮かべたかもしれない。しかし現実とはそんなに甘くはない。それは今こうして飲んでいるコーヒーに似ている。
外は雷交じりの土砂降りで、カフェの中はなんかもうよく分からない店主のセンスに基づいたジャズがガンガンに掻き鳴らされていて、そんなセンスだからやはり内装も暖色系のよく分からない古めかしいモニュメントやらステッカーやら写真やら色紙やらなんやらが所狭しと重なって並べられている。加えて向かい合う我々も髪やら服やらが酷くぐしゃぐしゃに濡れてしまっている。総じて、もう全然優雅じゃない。突然のゲリラ豪雨に降られて雨宿りをしようとしたところまでは良かったのに、とても残念だ。
「私は、好きなんだけどね。こういう在り来たりじゃない感じ。理解の範疇に収まる人生の方がきっとつまんないよ」
二人掛けの机。その対面に座る少女は、足を組んで酷く尊大に、雅に手首を振った。
「そりゃ貴方は一般人の理解からは死ぬほど遠いだろうけどさ。俺等のような凡人にとっては、そういう異常事態はストレスに感じられるんだよ。全部予定調和に上手く行って欲しいものさ」
苦い顔で応える。耳に手を触れる。赤いイヤーカフが確かに質量を返す。
「嘘が上手だね、随分と」
釣られたのか、少女も耳元に手を触れる。形の良い耳には、星を象った銀色のピアスが揺れている。
客は、俺と彼女の、ずぶ濡れな二人だけ。
正面に座る彼女の名前は、
年齢は若いという印象以外は不詳。人間の女性というものは身長と風格がある程度に成長すると、以降は自称が何歳でも通じるものだ。
黒と蒼の海月模様のブラウスを羽織っていて、嫌になるほどに身綺麗だ。
全身全霊で美しくて、清廉で、けれど吐く言葉は鋭い。
「変態女装お兄さんが言ってもなあ。説得力とか全然ないね」
「表層だけの俺じゃ、生来から違う貴方には届かないだろ」
両手で同じコーヒーカップを握る彼女は、その泥水を一口啜って、それから無感情な瞳孔でこちらを覗いた。
地毛だと言うクリーム色の長い髪に、長い睫毛に、常に光と水分の行き届いている明るい赤茶の瞳。細くてよく動く眉毛。鼻筋の通った綺麗な顔、その中央で映える桃色の厚い唇。血色の良さが分かる白い肌。歯触りの良さそうなアーモンド形の爪。ベレー帽とかいうこの世界で顔の良い女以外身に纏ってはならない装備を頭に乗っけていても罪に問われない理想の女。
彼女が触れば硬水は軟水になる。彼女がいるだけで世界から角が消えて丸くなる。あまりに存在感が浮世離れしていて、地面から数ミリ浮いているのではないかと錯覚する。そういうタイプの女。
「それと、俺のことは変態女装お嬢様と呼べと言っている筈だが」
「自認が酷いね」
「歪んでるだろ。俺はそういうことを愛してる。俺は俺を特別だと思いたいから」
ふうん、と、感情の読めない声を上げた思惟は、首から提げたバスタオルの毛羽立った表面を指先で摘まみ始めた。
外でまたビシャーンと雷が轟いた。少しだけ肩を上げた彼とは対照的に、少女は変わらずマイペースに視線を下に向けている。
「世界、つまんないんだ」
「世界はつまらない。人間はもっとつまらない。でもそれは俺の責任だ。あまり舐めるなよ」
「何を言ってるんだろうね、君は」
「俺にもよく分からない。あとバスタオル貸してよ」
まるで予報にもなかった豪雨を予期していたみたいな少女の恩恵に、卑しくも与ろうとする。その頭は、今日の待ち合わせの瞬間に「なんでタオルが必要なんだよ。プールにでも行く気なのか? 行きたいならラッシュガード取りに一回帰らせて」と半分バカにしたような口調で言ったことを綺麗に忘れている。
「死にたいってことなら、私も手伝うよ」
勿論、完全にスルーされることになる。
エアコンの効いた部屋の中で凍える身体を震わせる時間はまだ続くらしい。
「寂しいけどね」
頬杖を突いて、細めた瞼の隙間から、自身を射抜いている。
そんな彼女の口調が、声のトーンが、酷く迫真に迫っているものだから──身体を支配する凍えすら忘れて、背筋が伸びる。
「……興味本位で聞くけど、例えばどんなことをしてくれるわけ?」
「君にできる最後のことだからね。なるべく頑張るよ。君の自殺を誰かの冤罪にでっちあげて処刑まで持って行ってあげる」
「じゃあ俺は死ねないな……そもそも死ぬ気は無いし。今は、だけどね」
「そうなんだ。意外だな」
斜めに向かい合う視線が、妙に重苦しく艶めかしい沈黙が、その男を魅了している。
濡れて薄暈けた視界の中で、睫毛の残像の向こう側で、少女の彩度だけが酷く鮮明に浮かび上がっている。彼女の姿はどこか油絵に似ているように見えた。輪郭は粗雑なのに、その色合いの集合体が、何よりも強い印象を与えている。痛烈に、美しく。
「そういう人って、大抵は自殺に走るものだと思っててさ。特に、君は生き方の不都合を、社会じゃなくて自身に還元してるタイプだから。要するに、君は社会に不適合だって自分に烙印を押してるんでしょ。逃げ道も無ければ逃避行動も無い。スリップダメージをどこかに分散させる気が一つも無い、みたいな。なんか、呼吸するだけで辛かったりしない?」
「辛いね。俺は身勝手だから」
「死んだら楽になるよ」
「貴方は死ぬことに享楽を見出してるのか知らないけど、俺は痛くて辛くて惨めな方が好きなだけ」
同じタイミングで、コーヒーカップを傾ける。
流れていたジャズが途切れて、冒頭に戻る。
硝子の一枚向こう側で、雷が鳴る。
「死ぬと、痛みがすぐ終わるから?」
「死ぬときの痛みに俺は耐えられないから。痛いのが好きなのと、痛いのが嫌なのは両立するものだから」
「一理あるね、人間と一緒」
ソーサーの上に、からんと小気味のいい音がして、陶器の底が置かれる。
微妙に大きさが嚙み合っていない気がする。見ていて、何とも居心地が悪い。
「私も私の話をするけど、」
「好きにすると良い。黙って聞くくらいはできる」
「相槌くらいは打って欲しいけどな」
「そうか」
瞬きの度に、一瞬だけ切り離された世界と意識の狭間の内に、目の前の少女が消えてしまうのではないかと思えてしまって、少しだけ怖かった。
「好きと嫌いって相反する感情じゃないよね」
「好きの反対は無関心って奴?」
「人の言葉を我が物顔で披露する奴嫌いだから何か適切な言い換えが欲しいなあ。私だけの奴。好きの反対に位置する言葉、ね。……君はどう思う?」
「軽蔑」
「良いね、だから私は君が好きだよ。じゃあ私は侮蔑にしようかな」
ウィンドウショッピングに似た気楽さで、気軽さで、楽し気に彼女は脳に浮かぶ言葉を選ぶ。
それまでの沈鬱的な無気力さからは解放されたようで、彼女の瞳は楽し気に揺れている。
「例えば。私は君が嫌いなんだけど、そういうところが何より好きだね」
「俺は生憎、貴方に嫌いなところは見いだせないでいるけど」
「あはは、君ってば本当に愚かだね」
「そりゃどうも。他人に興味が無いからね」
コーヒーカップの輪郭を、指先でなぞる。
頬に添えた手が、リズムを取って動く。
その全身が、呼吸と、鼓動と、生きている蠕動に伴って、微かに揺れている。震えている。不定形に姿を変えて行く。刻み刻みのエントロピー。不可逆性の輪郭破綻と、地続きの存在証明。チョコレートに似て甘い気配、魅力的な黒。
「で──何の話だったっけ。いや、元から筋書きとか無かったんだけどさ」
紅涙思惟は、視線の先で、そう言って笑った。本当に綺麗な笑顔だった。
探る様に、底を見せない尋問官に似ている。
「話題は色々あったけど、具体的にどれのことが言いたいんだろうね」
「ああ。私は私の世界がつまらなくて嫌いだけど、それは誰の所為なんだろうねって。君の世界がつまらないのが君の所為だとするんだったら、それも私の所為?」
分かっている。
彼女は、怒っている。
それは、彼自身にでは無いし、彼女自身にでもない。きっと最も近似値的な表現を述べるなら「世界に対して」なのだろうけれど、それはいまいち芯を食った回答ではない筈だ。
「俺としゆいは違う」
「そうだね」
「良い悪いはともかくとして、この世界にはしゆいを満たす義務があると思ってる。それが未だに果たされていないなら、残念ながら世界側の怠慢だと言わざるを得ないと思ってるよ」
一息に言い切って、ちびちびと嵩を減らし続けていた焙煎液を飲み干した。
そうして正面への視界を再び取り戻すと、目の前の少女は先刻までの笑顔を引っ込めて、どこか拗ねたようにそっぽを向いた。
視線の先には、窓。雨粒が入れ替わり立ち替わりに貼り付いては滑ってゆく。雷が轟いて、青白く空間を染める。
「何というか」
そこに映し出された虚像と、彼女は向かい合っている。
機嫌を損ねた猫に似ている。瓜二つな二人の差異は、実在と非実在。
「君は私にあんまり興味がないね。やっぱりさ」
会計を終えた思惟が歩いてくる。店の扉に手を掛ける。
彼女は愛想よく店主と会話をしていたので、一人で入り口の方で待っていたのである。
彼女は何かを沢山貰っている。人間が嫌いな癖に、こういう人間関係を厭わないのは──果たして美徳なのか。
「ねえ、しがみ」
その肩に手を触れて、彼女は言った。
「……何」
「もしこの扉を開けて、そこで人が死んでたら、どう思う?」
そんな訳ない。とか。
突拍子が無い、とか。
そんな理性よりも先に、引き攣った溜息が漏れる。
「二度とこの店には来れないなって思う」
「あはは。違いないけど、それとは関係なくここにはもう来れないよ」
じゃ、行こっか。と、最初から返事を想定していたような、そもそも聞く気が無かったような、そんな速度で返事を返して、紅涙思惟は酷く良い笑顔で笑った。
そして、一人の愚かな女装男性──
背後からふわりと清楚な香りがして、
がらんがらんと古風なベルの音が鳴って、
雨の音が強く聞こえていて、
それらの音は、けたたましいサイレンの音で、一瞬にして掻き消された。
目の前には潰れた自家用車があって、
光の塩梅や曇天の暗闇でよく見えていなかったけれど、
そのフロントガラスは真っ赤に染まっていたように見えてしまった。
▲▼▲
英国に憧れていたことがある。
何故かというとそれはもう嫌になるほど幼稚で単純な動機なのだが、ヨーロッパには沢山の妖精の伝承があって、その中でも英国には特段多くの妖精が生息しているものだと思っていたからである。
別にお嬢様になりたいからではない。紅茶は好きだが。
妖精と友達になりたかった。可愛らしくて、俺にしか見えない。
イマジナリーフレンドとは違う。俺には無い視点と言葉。奇想天外で美しい生き方。そういうものを欲していた。誰にでもある欲求だろうけれど、俺にとっては何よりも顕著な形質だった。
生憎、英語が致命的に下手くそだったもので、未だにイギリスの地を踏むことはできないでいる。
けれど──今は、それでも良いと思っている。
「あのさ。さっき、私が言ったでしょ。君の自殺を手伝ってあげたいってさ」
「…………そんな話もしたね」
Keep Outのビニールテープを横目に歩道を歩く。小雨になってくれなかった土砂降りの中を、傘も差さないで。
厚い雲の向こう側に夕日が沈んでいるような時間にしては、気分を反映させるように、視界は暗い。
「私はさ、死ぬんだったら、一人で死にたいんだ」
「樹海にでも行くと良いよ」
「色んな人が死んでる場所だよ、あそこ。だから絶対に、一人にはなれないよね」
サイレン。パトランプ。クラクション。ハイビーム。
雷鳴すら掻き消すほどの人工音と電光色。耳障りでやかましい、目障りで鬱陶しい。
「だから死に場所は死ぬまでに見つけたいよね。何年後かなあ。……ん、なんてことだ、あと数十年はある」
「明日死ぬかも分からない俺たちなのに?」
目を逸らせば、──きっとそこには酷い有り様が待っている。
極端に悲観的になれば、一歩間違えて自分だったかもしれない、そんな人間だったモノがいる。
「凡夫はそう。でも、少なくとも、君と私は死なないよ」
多くの群がる野次馬と同じように、幸縺の本能は意識をそちらに向けようとしている。
「随分、……随分はっきり言い切るんだね、しゆい」
「勿論さ」
けれど、それよりも強い何かが、彼の全身全霊を支配していた。
雨粒の中で乱反射する極彩色の光たちが、轟雷に張り合ってけたたましく泣き叫ぶ警報が、その全てが、目の前の少女を美しくしていた。
「君はどう? 君は誰と死にたい?」
ごうん、と、音がした。熱が感覚を灼いた。
石油臭い、とにかく熱い。自家用車から漏れたガソリンに何かが引火したのか、数分前に立っていた空間でド派手な爆発が起きたようだった。引き延ばされた刹那の間にそこまで考えて、「それとは関係なくもうここには来れない」と思惟が言ったことを思い出す。
感覚器官で摩耗した幸縺にとっては、それですらやはり、どうでもよかった。
丈の長いロングスカートを翻して、水溜まりに反射した爆砕に、一瞬ですら視線を惹かれたことすら、勿体無いと思ってしまった。
「しがみは寂しがり屋だからさ!!!」
尚更世界は煩い。聞くまでもないくだらないノイズで満ちている。
それら全てをぶち抜くように、数歩先、少女が叫ぶ。
「死ぬなら誰かと一緒に死にたいんでしょ、きっと」
目を細めた。
露悪的に細められた赤茶色の瞳の色があんまりに透き通った澱を宿しているものだから、その有様に思わず目が眩んだ。
「……一緒に死んでくれる人を探さないとね」
「なんてことだ、あと数十年残ってるぜ!!!」
「さあ。しゆいはともかく、俺は十数年くらいしか残ってないんじゃないかな?」
妖精と称される種族は、必ずしも良いものと限らない。
悪戯っぽかったり、邪悪だったり、そういうものだって少なからずいる。
連絡先は知らない。どこに住んでいるかも知らない。けれど、二週間に一回は必ず何処かで会えて、その日を一緒に過ごす羽目になる。そんな日々を、もう何度繰り返したのか分からない。
その時にはいつも決まって、身の周りであまり起こり得ない事象が起きる。飛行機が墜落する。山火事が起きる。人が死ぬ。
それはきっと彼女のせいでも何でもない。けれど事実として、彼女と居ると、普段では滅多に無い偶然ばかりが起きる。
それらの一つ一つは、まともに巻き込まれたなら、大きく人生を変えてしまうものなのだろうとも思える。
「はーあ、それ以外に張り合いがない人生ってのは哀しいね。終活の期間が長すぎて嫌になるよ」
「どうせ人間ってのは長い死に様を歩いてるだけの生命だからね」
「言えてるね」
くっくっく、と、人相を歪めて思惟は笑う。
「退屈だ、退屈だ、退屈だ♪」
思惟は節を付けて、そう歌う。
漠然と顔と頭が良いことを知っている。だから、彼女がそう言うことも当然だと思う。
喫茶店で言ったように、それは世界の方が悪いのだと思う。紅涙思惟を飢えさせるなんて、と、その一点だけで世界を軽蔑できてしまう。本当はしたくないのに。
「ほら、君も歌おうよ。こんな雨に唄おう、くだらない世界に唄おう」
「……じゃあ俺は、惨めで愚かな俺に唄うよ」
するりと手を握られる。今更何とも思わないで、呟くように、退屈を吐き出してみる。
隣の少女を垣間見る。彼女は意味深に笑っている。
だから、こちらも微笑んでみる。コスプレみたいにド派手な文様が浮かぶ女物の衣服に身を纏った男の、引き攣ったような笑みが滑稽すぎたみたいで、視線の先で、彼女は一層破顔した。
雨脚が強くなった。着衣泳でもしているような感覚にはいい加減慣れた。思惟の方も、せっかく乾かした髪が台無しになっていて、それでも楽しそうだ。
全身がビリビリと痺れていた。ただでさえ鈍い五感が更に脆弱になっている感覚を覚える。舌が震えている。視界が歪んでいる。酷く気分が良い。彼女もそうらしい。だってこんなにハイテンションだ。訳も無く叫んでみたい。
稲光と同時に音が落ちた。一瞬だけ世界が光に染まった。340m圏内に墜落した神の光は、──これは後日知ったことだけれど──大きな街路樹を一本焼き焦がして、ナニかを壊してしまったらしい。
「びっくりしたね」
「欠片も思って無い癖に」
「君を気遣ったんだよ」
隣の思惟は、やはり笑う。
笑って笑って笑っている。空虚な世界の中に一点、美しい場所があるとするならば、きっとこの座標以外にあり得ない。
退屈で空虚で無理解で不適合。
社会不適格者の紅涙思惟と十星幸縺の世界には、
本当に、
壮大に、
意味深に──何も起こらない。
▲▼▲
「やっほ」
「毎度毎度思うけど、よく見つけるもんだよね。俺のことなんて」
「見慣れちゃったからかもね」
交差点の中腹で、人混みに紛れて、ばったりと出会った。
紅涙思惟。相変わらずお洒落でふわふわとした容貌だ。レースの施された白と黒のセットアップが清楚な印象を与えている。見た目だけ見れば無害。
「結構、近いね。こんなに早く会えるなんて、嬉しいよ」
「七日前だったか、前の喫茶店は。まさかとは思うけど、俺の行動をストーキングしてるわけじゃああるまいな?」
「割と心外だなあ。私と君は、こうして偶然に惹かれ合う運命なのに。それにわざわざ手を加えるなんて野暮なこと、私がするわけ無いのに」
くい。と、垂直に立てた親指で、今来た道を彼女は示した。そして、無言で回れ右、歩き出してしまう。ひらりと翻されたスカートの裾が雅で嫌になる。
幸縺もまた、無言のうちに、一歩を踏み出す。追い付く。──二人、並んで歩き出す。
「しがみは、何する予定だったの? 相変わらず決めた格好しちゃって」
「いや、特に予定は無かった。強いて言うならば、貴方に会えたら良いなって思ってたくらいだな」
「うえっへぇ?」
頓狂で冷淡な声。
咳払い。
見下ろす幸縺は冷たい目。
「いやあ、その発言を聞くと、君の方がよっぽどストーカーじみてるように見えるねえ。宛もないのにこんな格好までしちゃって。暑くない?」
よく言う。
そう言いたいのを堪えて、隣の少女を見落ろす。
彼女は、いつものようにいたずらっぽく自身を見上げているのだろうと思っていた。が、……存外、その視線が幾らか不機嫌そうなように見えて、困ってしまう。
「悪かった」
「何が?」
「さては会話が通じないな?」
「謝るようなことがあったかな? 私には身に覚えが無いんだけどな」
「……そうか。じゃあ良いんだ」
悪趣味の似た厚底のブーツを鳴らして、人の多い往来を闊歩する。
「というか、さっきも言ったけど、最近暑くない? よくそんな冬服で外出られるよね」
「まあ暑いさ。だが俺は吸血鬼だからしょうがない」
「ん?」
「冗談だ。期待を込めた目を向けるな」
「バレた?」
「そりゃな」
十星幸縺のイメージカラーは黒。ひたすらに黒。
身体の丈に似合わないサイズの長袖で、ボディラインや素肌を隠し続ける。
「……はぁ」
残像が通り過ぎてゆく。数秒で忘れる──否、そもそも覚える価値の無い顔が向こう側へと消えてゆく。その気配を頼りに、思惟から視線を逸らさないまま、歩いている。
「他の趣味でも見つけて、それで無聊が慰められるなら良いんだろうがな。前も言った通り、この世界は俺にとってはつまらない」
炎天下。じーわじーわと泣き叫ぶ蝉の声が耳障りで嫌になる。
思惟は、眩しそうに目を細めて、
「あはは。君には無理だよ」
自然体のままそう言った。
「……なんで試す前から折るようなことを言うかな」
「君が言った通りだからだよ。まずは感性の受容体を恢復させるところから始めないといけないのに、未だにそれと違う方向で足掻こうとする様はそれは勿論滑稽に見えるものじゃない?」
「だからと言って始まる前から否定されると反発もしたくなるってものだよ」
「もう少し君に配慮して欲しいってことね。嫌だ」
「そう」
嫌味っぽさも、不満も、あざとさも──その他たくさん、この世界で特段の感情を示すような言葉たちは、
そこにある二つの声には交じっていない。
「そんなだと嫌われるよ、俺に」
「私のことを本気で嫌いそうになったら言ってね。私はそういうところ、あんまり敏感じゃないから」
「分かった」
そこにあるものを、敢えて言葉にするなら。
きっと──慰め。
「仮にそれを俺が言ったとして、どうするつもりなんだ」
「そうだなあ。特に何も変わらないと思うけど」
「強いて言うなら、そうだね。私はきっと、君の前では笑えないと思うよ」
脅迫に似ていた。
それはとても。
「そう」
酷く大きな入道雲が、向こう側に見えていた。
それに向かって足を進めながら、
「じゃあ今のうちに笑っててくれ」
「良いよ」
▲▼▲
人々を、見下していた。
内心でという意味ならいつものことだが、今回は物理的な意味で。
ロープウェイから。
「莫迦と煙は高いところが好きだと言うよね」
「言うと思ったよ」
ガラス張りの匣の中には、二人だけ。
それぞれ東西に分かれて、向かい合って座っている。
「だけど、私は高いところが好きでさ。どうにかして否定しないといけない立場にあるんだよね」
「なるほど」
誤解を生じては困るので言っておくが、この「なるほど」は別に納得したという意味での「なるほど」ではなく、取り敢えずその先は聞いてやろうという意味である。
「で、ね。私は頭がいいでしょ」
「そうだな」
「なんで馬鹿が高いところが好きだって言われてるかって言うと、態々無謀なことをするような奴はバカだってことでしょ」
「多分な」
「ってことはだよ。この言葉を使っている人間は、現代ではさほど危険でもない高所を、因習に従って未だに怖いものだと思ってるって考えることができるよね。思考停止とビビりの合体技って訳だ」
「そうやって考えなしに行動する奴がここで言う馬鹿なんじゃないのか。あと、ここで言うバカはおだてられてすぐに調子に乗るバカも含まれるらしいが、どう思う?」
「私がそれだって言いたいんだ?」
「他に解釈があったか?」
「君は? 高いところ、どう?」
「俺の脚を見れば分かるだろ」
ロングスカートの癖に尊大に組まれた脚元へ、思惟は視線を下した。
その表情が、少し強張る。
「死ぬほど怖い」
「震えすぎでしょ」
▲▼▲
労せず、山頂に到達した。
向こう側に海を臨む高所からの光景に、特段の感慨もなさそうに、思惟は視線を向けた。
赤茶色の瞳が藍を映して、綺麗だった。しかし、その潤んだ瞳は、どこか平坦だ。
「海、綺麗だな」
「ん? ああ、そう?」
標高を示す小さな石碑に、並んで座ってみる。
あまりにもロケーションに不釣り合いな靴底が、じゃり、と音を鳴らす。
「そう? って」
「私はあんまりかな」
紅涙思惟には、そういう性質がある。
「貴方は海、嫌いなのか?」
「特段嫌いって訳じゃないけど。なんかさ、海が綺麗だって素直に言うの好きじゃないな。海だからって何でもかんでも綺麗って言われるの、海の側からしても不本意じゃないの?」
「ふむ」
困ってしまう。
大概こういう天邪鬼なことを言う時の紅涙思惟というのは、そうと本気で思っている以上に、何か嫌な思い出があってこういうことを言っていることが多い。
「こういうロケーションで飲む珈琲も良いよね。飲む?」
「貰うけど。……何、ハマったのか?」
「ぜーんぜん。この魔法瓶に入ってるのが私の生涯で最後の一杯かも。特性ブレンドだよ」
「美味しい?」
「……まあ、美味しいんじゃないか。俺には良し悪しは分からんが」
トラウマとか、ありふれた悪い出来事を連想するのとは、少し違う。
彼女にとっての嫌な思い出とは──要するに、「凡俗な」話だ。
「ご両親かクラスメイトと何かあったか? 海絡みで」
「海絡みか海縺れか知らないけど、どうなんだろうね? ご想像にお任せするけど、あんまり面白い話じゃないと思うよ?」
「大方波打ち際で盛り上がってちゃぱちゃぱして写真撮ってしたんだろうに」
「BBQは美味しかったけどね」
周りと馴染もうとする努力はちゃんとする辺りは偉いのだが。
彼女は、冷めているとか、達観しているとか、大人びているとか、そういう次元を遥かに超越している。
それを表す言葉が追い付かないから、やはり社会不適格者なのだ。自身と一緒で。
「……俺はさ。海は良いものだと思ってるんだけど」
「ふうん?」
相変わらず、無感情な視線を、彼女は向ける。
普段も、こんな視線で他者と関わっているのだろうか。それは一体、どういう風に見えるのだろうか。
「それは光景としての意味合いが強くてな。勿論、浸かろうとは思わねえんだけど。きったねえし」
「それは本当に透き通ってる海を知らないからだと思う」
「そりゃな。沖縄とか行ってみたいような、暑いのは嫌なような」
「それで?」
「自然界であそこまで鮮明な青って、希少でさ。当たり前にあるのは海と空だけなんだよ。俺等の可視光線の範囲内に限ると」
一つ、瞬き。
興味を惹いた。
「青い薔薇が自然に作られないみたいに、紫までは天然でも、海と空よりも青らしい青は存在しない。体毛の青い動物がいるか、花があるか」
「紫陽花とか、川蝉とか」
「紫陽花は紫の範囲を逸脱しないし、川蝉は実は羽毛の構造が青に見せてるだけだ」
「勉強になるね」
「だろ」
立ち上がる。目下のさざ波を見下ろしてみる。
「でも屁理屈だね」
「そうだな」
説得したい訳では無い。
ただ、少しでも彼女にとっての刺激になれば良いと思っているだけだから。
「まあ、でもさ。そういう風に思うと、海も空も当然のものとも思えないものさ。貴重なものとして最低限の畏敬は払わせてもらおうとは思うよ。こんなバカでかい蒼、あんまりお目にかかれないからさ」
「神秘的、とか。好きじゃない言葉だけどね」
「もっと現実的な話だ。きっと際限のない空と海には、何かがある筈だと思う。誰も見たことないこと、もの。それらを、再発見、新定義してみたいとは少し思う。俺と貴方だけしか見いだせないものを見つける余地がある。そのキャンバスに、相応しいだろ」
同じように立ち上がった少女が、少し低い目線から、覗き込んでいる。
紅涙思惟の赤茶色の鏡は、世界を映し出す。その半分には奇形の人影が映っている。もう半分は、海の青。
「相変わらず、君は面白いね」
くすりともせず、彼女は言った。
僅かに歪んだ口角は、何を思っているのかも分からない。
「好きだよ、しがみ」
さらりと吐いて、彼女はやはり華やかに、歩いてゆく。
「……ん? ここが目的地じゃなかったのか?」
「違うよ。なんでこんなとこに来なきゃいけないの」
「この靴で……?」
「うん。頑張ろうね」
拗ねたみたいに、彼女は言った。
それから、頬を膨らませたまま、振り返った。
「今度、本当に綺麗な海を見せてあげるよ。一緒に行こうね」
▲▼▲
如何にも。みたいな掘っ立て小屋が立っていた。
鬱蒼と茂る木々の群れ。その只中に。
「……よく見つけたな、こんな場所」
「でしょ。人脈は広いからね」
俺みたいな奴を沢山誑かしてるんだろうな。
「君は世界に一人だよ。陳腐な言い回しになるけどね」
思考を読んでいるのかそうでないのか、とても微妙な発言だった。
彼女はこちらに視線もくれやしない。だから、自ずと感情を読み取れなくて困ってしまう。
「何のお店?」
「珈琲の店。君にも、少しだけ関連がある」
「────」
「はい。この銘柄のものです」
「────────」
「え、良いんですか? じゃあ、お言葉に甘えさせて貰いますね」
「試飲して良いってさ」
「見てくれと人当たりは良いんだよな」
「何か悪いところがあるみたいな言い方だね?」
「性格は悪いだろ。俺も、お前も」
窓側の席からは、僅かに海の青が見えた。
店内には微かにノイズの混じった音楽が聞こえている。
「君ってば、その対人能力は心配になっちゃうよ。一人でいるときはどうやって生きてるのさ」
「あのね。今はしゆいがいるからこうやって対応してもらってるだけで、俺一人でいるときは普通に人と話すくらいできるさ」
「そうなんだ。……ねえねえ、見てみたいって言ったらどうする?」
「貴方といる間に貴方以外と敢えて言葉を交わしたいとは思わない。諦めてくれ」
その正面に、紅涙思惟が陣取っている。向かい合って、互いに脚を組んで、座っている。
つい先日と同じ構図。どこか懐かしくなる。感慨深くなる。それだけが人生のハイライトであるかのように。事実としても体感としてもそう長い時間が経っているわけでもないのに、訳もなく貴重な体験に思える彼女との時間は、まるで幼児期の記憶の中で燦然と輝く掛け替えのない思い出に思えてしまう。
……懐かしい。
「ま、割とその通りなんだよ。ここで手に入るブレンドコーヒーが、この前の喫茶店の名物だったんだって。私たちも飲んだアレだよ。嗅覚から記憶を励起させられてるって言っても過言じゃない」
「……へえ。しゆいには珍しく、興味が湧いたんだ?」
「うーん。多分だけど、君が思ってるのとは違うと思うよ」
彼女は困ったように目尻を下げて、小さく笑う。
「これ、見て」
そうして、スマートフォンの画面を差し出して見せつけてくる。
「……悪いのは趣味もだったか」
「否定はしないよ」
廃屋。
完膚なきまでの焼け跡。
それは一つの──見知った景色。
「あの日、ガス爆発が起きてたのは見てたでしょ。アレのせいで、あの辺一帯が凄い被害を受けたみたい。喫茶店は全焼しちゃったみたいでね。店主もお釈迦になっちゃったって。運悪く、唯一の死者だって。火事の方ではね」
にこにこと笑いながら、特段大きな声を発している訳でもないのに妙に反響の無い声で──即ち、幸縺にしか聞こえない声で、思惟は言う。
「で、ここに来たって訳。私達が恐らく最後の客だったんだろうからさ。最期にあの珈琲を飲んだ私達には、何となくここに来る義務があったんじゃないかなって」
「……言っちゃぁなんだが。あの珈琲にはそんなに特別な味がしたようには思えなかった。少なくとも、俺には」
「だよね。だからお客が少なかったんだと思うよ」
漂う珈琲豆の香気。
溢れる蒸気。沸騰の泡沫。
山中の密室空間に、人影は三人。
「さて。君は見ていたかな? あの店内にところ狭しと並べられた写真立てたちを、さ」
「認識はしてたよ」
「名前は知らないけど、有名人が多く来店していた証もあった。よくわかんないけど、仲間も沢山いたんだろうね。そんな場所が孤独に結末を迎えたんだ。最期の客たる私たちが看取ってあげないと浮かばれないよ」
可愛らしい顔で、愛嬌のある声で、世界中に祝福されているような瞳で、彼女こそが世界の方位磁針で、地殻で、すべての消失点であって、三次元世界の奥行きの始発点で、都合の良い妄想の産物であるかのように、彼女は宣う。
その身体が独特のリズムを刻むように揺れる。その度に、十星幸縺の視界がぐるりぐるりと回転する。まるで、魚眼レンズを覗いているような。
「この世界は、君が言う通りつまらないよね」
彼女は手を伸ばす。ぴんと立てた人差し指の先で、こつんこつんと、手の甲を突く。
緊張で強張って開いたその右手を犯すように、するりと指の隙間が埋められる。
「だけど、そうじゃない人も沢山いるから──というより、そんな人ばっかりだもん。そんな人達の生き方の片鱗を覗いてみたいよね」
挑発的で蠱惑的。少し怖い。
貴方が愛おしくて恐ろしい。
「……無理だよ」
「何が?」
「残念ながら、貴方には無理だよ。人並みの人生、人並みの満足。そういったものに、存在の根本から、向いてない」
「……そうだね。君と一緒だよ」
そのウインクは淋しそうで、眩しかった。
▲▼▲
湯気の立ち上るコーヒーが二つ、向かい合わせに並べられた。
愛想の良さそうな女性の店主が奥へと引っ込んで行く。思惟と二、三言何かを話していたような気もしたが、哀しいかな、幸縺の感覚器官はそれをわざわざ聞き取ることにも覚えておくことにも、どちらにも適していない。
「いやあ、お茶菓子まで用意してもらえるなんて、ね。素直に嬉しいな」
「随分仲良くなってるみたいで何より」
「……まあ、ね。君がそれで良いなら良いんだけど」
卓上の消毒液が掌に染み込んだ。
思惟は静かな仕草で、小さな皿に盛られたクッキーを摘み上げる。
「含みがあるような言い方をするね?」
「うーん。あの人、話し相手が欲しいだけなんだと思うんだよ。きっとね。だから極論、私が相手じゃなくても良いような気がして。私はそういう慰め合いに手を貸す気があんまりないんだよね」
「なんてことを言うんだ」
そんな訳で姿勢を正し、二人でコーヒーカップを手に取った。
口元に持って行って、一口、啜ってみる。
「ふーん?」
「うん」
僅かばかりに、瞼の筋肉に力が籠もる。目の前の思惟も同じような感想を抱いたみたいだった。
「私には、珈琲の良し悪しはよくわかんないんだよね。私の味覚は間違っているのかな」
「いや。そんなことは無いだろ」
「じゃあそういうことか」
「そもそも、一般的に理想とされているかどうかはさておき、俺達の主観が一週間で変化してたまるかって話ではあるな」
「あの店で提供されていた珈琲は最早別物。風味も味わい深さも段違いだったことが分かったね」
「そうだね」
「さっき私があの人と話した内容、聞いてなかったでしょ。繰り返してあげるよ」
ちらりと店の奥を垣間見た。
そこに居るはずの人影を探す。見渡すまでもなくそこにいる。所在なげに手元を覗いている。相変わらず幸縺は人の年齢を推し測るのが苦手で、その相手に対してどのような印象も抱くことができないでいた。少なくとも若くは無いだろう、その程度。
「元は私達みたいに、あの喫茶店経由でこの店に来てくれる人も多かったんだって。味に惚れ込んで、ってことなんだろうね。メディア媒体で紹介されるくらいの人気はあったみたい」
「それで?」
「時間が経って客足が減るのは当たり前。だけど、にしても不自然過ぎる減少幅と、本人と疎遠になったのと、その辺が変だなーって思ってたところに飛び込んできた訃報。心に整理がつかないし、このお店も畳みたい、みたいなことらしいよ」
アンバランスだ。
何処迄も歪だ。
可愛らしい顔で、例えば若者の繁華街でやたら甘ったるい飲み物でも飲んでいるのが似合うような、そんな顔で──とても楽しそうに人の不幸を口にする。
「急に珈琲の淹れ方が下手になった?」
「まあ、そうだろうね。事実だけを抽出するなら。でも、それがどうして起こったのかまで、知りたいとは思わない?」
「あんまりだが。どうでも良いだろそんなこと」
「君ってばさぁ……ええ~?」
「でも、貴方が興味があるというのなら、俺はそれを聞き届けたいとも思ってる」
コーヒーは、好きじゃない。
こういったものは中々難しいもので、上物であればあるほど、苦手な人間に不向きな味わいになってゆく。
それでも、こうして付き合っているのだ。
何に興味があって何に興味が無いのかくらい、きちんと理解して欲しいと思うのは傲慢なことだろうか。
「じゃあ、始めようか。虚妄の空論の解決パート」
「どうぞ。貴方のワトソンは黙って聞いておくから」
▲▼▲
「とはいえ、さ。こればっかりは単純でね。もう一つ、違和感がない?」
「ないな」
「ヒントは音楽」
「音楽?」
耳を聳ててみた。
流れているのは静かな調子のジャズ音楽。
「……聞き覚えは無いけど?」
「ね。私も最初はそう思ったんだけど、実は聞いたことがあるんだよね。あの喫茶店で」
「言、われてみれば……?」
「音量が違い過ぎてイメージが全然変わってるんだよね。こんなにうるさい曲だと思ってなかった」
思惟は、ご機嫌に指を鳴らした。
何度も。
何度も。
弾ける音が、何度も狭いログハウスの中を反響して消えて行く。
「これが私の推理の根拠。多分、前々からあの店もこのくらいの音量で流してたんだと思う。でも、とある事情から音量を上げ続けていた。」
「まあ……聴覚が衰えてたってことか?」
「私はそう思ってる」
誹謗である。
ただの妄想で、故人を貶す行為。
「全体的に、感覚が鈍くなってたんじゃないかな。聴覚が足りないから、大きな音でレコードを聴く。視覚が覚束ないから、置物とか写真とかの配置が宜しくない。感覚が機能していないから、ソーサーとカップが合ってないことに気付けない」
けれど──同じ喫茶店に腰を下ろしていた幸縺には、それに妙な説得力を以て理解される。
一つ一つは取り留めも無い、己の所為とすら思えた居心地の悪さに、他責的な理由付けが為されている。その全てに、思い当たる節がある。
人生の解体。
或いは──陳腐化。
「当然、味覚も摩耗していただろうと?」
「年を取るにつれて味音痴になるってのは、割と珍しくない事例らしいよ。コーヒーなんて風味も大事だから、猶更ね」
幸縺は、考える。
証明しようの無い憶測の是非──ではなく。
「それで?」
ただ、興味のある事象を。
目の前にある、特異点を、解析する。
「君は酷いね」
「俺の知っている紅涙思惟は、そんなことで興味を持つような女じゃない筈だが」
なるほど、面白い推理だ。
観察眼と、遠慮と忌憚のない視点から作られる余興。
「……君はどう思う?」
「俺が?」
「君だよ。当然でしょ。私が興味を持ってるのは君だけなんだから」
──それで作られた舞台に、今、自身が招かれている。
その目が射抜いている対象が、他でもない自分自身であることが、とても光栄に感じられる。
「丁度、君はあのお店でこう言っていたね。自身の五感が摩耗している気がする、って。だからこの件については、──うーん、数ミリくらい? だけ、私よりも君の方が近いんじゃないかな。感覚がさ」
「……それで?」
「意見が聞きたいなって思ってね。君はどう? 五感が摩耗して、その自覚があったのかは分からないけど、もし君がそんな状態に陥ったとしたらさ──それでも、今行ってる惰性を続けられるものなのかな。全てを畳んでしまいたくはならないのかな。なんてことを、思ったんだよね」
紅涙思惟は。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も強調したような美しい赤い瞳で、可愛らしく微笑んで。
相変わらず、十星幸縺の、愚かで醜い生涯の、特異点だった。
その中で燦然と輝く、ステンドグラスだった。
「──五感が摩耗したって、摩耗し切らずに残るものはあるものだ」
きっと。
このとてもくだらない存在が抱え続けている、一つのダイアログには。
彼女の姿だけが映り続けているのだと思っている。
「それは、何?」
試すように挑発的に蠱惑的に笑った。
その口角の端から覗いた白い歯が眩しい。鮮烈な印象を以て脳髄を焦がす。
「記憶だよ。現実から受ける刺激がどれほど物足りなくなったとしても、いや、寧ろそうであるからこそ、記憶の中の景色だけは美しいんだ。記憶の中の自分自身は思っていたよりもよっぽど格好良くて、何に対しても新鮮でいられて、何に対しても、美化された感度に夢中でいる。あらゆる印象が素敵に感じられる。今の自分はそれと比べると酷く惨めなんだ。そういった自分が、今の自分に連続している訳でもないのに、ただ単に切り離された偶像でしかないのに、なのにそれが自分の本質だったんだって、そう思いたくて仕方が無いんだ」
尊大に側頭部を人差し指で抉りながら、宣ってみる。
それは祝詞。それは呪い。
現実に対して、名声も金も権力も人脈も筋肉も誇りも、その他様々、現実を書き換え得るファクターを持っていない敗北者には、ただ怨嗟に似た言葉だけが許されている。
「多くの人が離れて行っても、自身の生み出すものがどんどん受け入れられなくなっていっても。それを受け容れることは、とても難しいんだよ。いつまでも、過去に浸っていたいものなんだよ」
紅涙思惟はまたいつも通りに見透かしたように目を細めた。
敗北者と言うよりは解脱者だと思うけどね、なんて。毒に薬にもならないようなことを言う。
「良い案だね」
「貴方と俺にはね」
「じゃあ、そういうことで。助かるよ。君はなんだかんだ、人情派だからね」
空になったマグカップと平皿。
それらを二人で見下ろして、それから示し合わせたかのように立ち上がる。
▲▼▲
「俺は降りる方が苦手なんだよね。落ちたときのことが想像しやすいから、猶更怖い」
「じゃあさ、怖い話で気を紛らわせようよ」
「唐突だな」
手土産に渡された紙袋を膝の上で弄びながら、降下してゆくロープウェイの中で、退屈そうに唇を尖らせた思惟が言う。
「いや、ね。感覚が摩耗してたから、死んじゃったのかなって。逃げ遅れたんだろうか、なんて思ってさ」
「他に被害者もいなかったのにさ。一人だけ逃げ遅れちゃったんだとしたら、そういうことなんじゃないかなって。熱いのにも、周りの音にも、気付けなかったのかなって」
「まさか。嫌なことを言うなよ。……逃げきれなかったんだろ、相当お年を召していたみたいだし。いや、それでも嫌なんだが。何にせよ、持病でそんな眼先すら覚束なるほど酷くなったとするなら、他に色々影響が出ている筈だろ」
「私ね。あの日の帰り道、妙に機嫌が良くてさ。全身がやたらふわふわするような不思議な感覚だったんだ」
「彼の五感の麻痺は、本当に自然的に発生していたことなのかな。私はそれが凄く気がかり」
「……何が言いたい? それはあんまりに冒瀆すぎるだろ」
「あはは。私の言いたいことも全部判ってるくせにね。君は可愛いというか初心というか。まあ、ただの妄想だと思って聞いてよ」
──全身がビリビリと痺れていた。ただでさえ鈍い五感が更に脆弱になっている感覚を覚える。舌が震えている。視界が歪んでいる。
「珈琲って、良いよね。苦いし。カフェインのおかげで依存性も高いし、真っ黒だし。何かを隠すには条件が整ってると思うんだ。君は確か紅茶が好きなんだっけ。紅茶じゃ難しいよね。茶葉の薫りとか、透明な見た目とか、そういったものを上書きしちゃうもんね」
酷く気分が高揚していた。
けれど、あの喫茶店のコーヒーは、やたら泥水のように思えて。
それは自身が疎いからじゃなくて?
「…………怖いな、それは」
「まあ、証拠も何も無いけどね。なんせ全部燃えちゃったしさ」
「そうだな。この話はもう終わりで良いだろ。変なことに関わりたくは……」
視界を逸らした。
その視線の先で、何かが燃えている。
「……しゆい」
「なぁに、しがみ」
「何をやった?」
「んー? 何にもしてないよ」
「そうそう。あの店主さんにね。私の作った珈琲、飲んでもらったんだ。美味しかったらしいよ?」
「…………待って。お前さ、もしかして──」
「変な味がしなかったのなら、成功なんだよね。サンプルが二人いて、どっちも変な顔しなかったってことはつまり、そういうことなんだと思う。いや、寧ろそもそもそういう調整ができるように作られてたのを、味覚が鈍って下手になった結果、猶更変な味がするようになったんじゃないかなあ。にしても、死んだ店主のことを色々聞いてきて、どんな感情だったのか考えて欲しいとかさ、なんかすごい執着を感じるよね。犯人は現場に戻るっていうけど、結局、気にせずにはいられないのかなあ。妄想だけどね」
意味が分からないなりに、身体が変だった。
プラシーボ効果だと思い込みたい頭。急激に全身から力が抜ける。
「大丈夫。しがみのことはちゃんと私が介抱するから。コンロでお湯を沸かしている最中に気絶するなんてことは起きないよ」
「……そんなに強い効能な訳ないだろ」
「うん。だから言ったでしょ、特性ブレンドだって」
気付けば、その少女の声が、耳元の傍にいた。
そうでないと聞き取れないほどに、その声は遠かった。
「おやすみ。」
▲▼▲
背中に担いだ女装男性は──いけない、変態女装お嬢様だった。は、思ったよりは軽い。肩から下げたショルダーバッグも小さくて軽量だ。非常に助かる。
「しっがっみ♪ しっがっみ♪」
鼻歌にも精が出るというものだ、何せ現在進行形でラリっている。
ある日。いつも通りの直感に無理矢理従わされてから出会った一人のよく分からない人。
私が唯一出会えた異星人。私と同じ周波数の君。
「しっがみとしっゆいで♪ なっかよし♪」
『今の自分はそれと比べると酷く惨めなんだ。そういった自分が、今の自分に連続している訳でもないのに、ただ単に切り離された偶像でしかないのに、なのにそれが自分の本質だったんだって、そう思いたくて仕方が無いんだ』
こんなにつまらない社会で、世界で、惑星で。
ただ一人、このつまらなさを共有できる君。
私の予感に、抗えるだけの素養だけを持ってしまった、不適格者。
「ずうっと♪ なかよし♪」
取り留めも無く哲学をしよう。
取り留めも無く倫理を壊そう。
意味も無く一緒に考えよう。
言葉だけを交わして嬲り合おう。
そうして、私と君だけの世界を回し続けよう。
私たちの人生は、そうやってできている。
「……しゆいぃ……もう食えない……」
「あはは‼ 今度は一緒にスイパラでも行こっか?」
「…………」
寝言に返事をしてしまうと、された側が死んでしまうらしい。
だとしても、私は君と喋りたい。君が死んだとしても、君と一緒にいるこの今を、沢山の言葉で埋め尽くしていたい。
もしそれで君が死んだら、そうだね。リンボの淵で逢ってあげる。
嘘。逢ってくれないと泣いちゃう。私は寂しくて泣いちゃうよ。
社会不適格者の紅涙思惟と十星幸縺の世界は、引き合い続ける。
私たちにしか観測できないカオスの思索の縺れが繰り返している。
何が言いたいかって言うとね。
君たちの世界には何も起きないってこと。羨ましいでしょ?
読了ありがとうございます。本気の本気で取り組んだ一次創作としては処女作ですね。
ジャンルはよく分からなくなってしまったのですが、取り敢えず登場人物の二人の会話劇やキャラクター性を愛して、楽しんでくれるととても嬉しいです。
次回があるかは未定。感想等くださると幸いです。