この世界では、壮大に何も起こらない。   作:人格分裂

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「錠剤と標本」

 こつこつと踵を鳴らして、夕焼けが無神経に辺りを燃やしている、そんな街を歩いている。

 伸びる影は一人分。周りに人影の数がどれほど多くても、彼の視界には留まっていられない。実像がヒトのカタチをしているだけの肉塊と、実際に人間であることには、相当大きな乖離がある。それは自身も例外ではない。この肉体は、今この瞬間、真っ当に人間たり得ているのだろうか。果たして。

 そんな思想に溺れている。思春期が終わってくれないで困っている。

「…………」

 それにしても気温の高い日だった。

 こんな時間では、とっくに制汗剤の効果も薄れてしまっている。全身の汗腺が恨めしい程に湿っていて、不愉快なことこの上ない。

 未だに残暑どころか本命の熱が続いているこんな猛暑日に、わざわざ厚底ブーツを履いてまで出歩いていたというのに、長袖のかわゆい女性服を着てそれはそれはキメていたというのに──、それで得られた成果は、あまりにも失意に満ちた結果が一つだけ。

 会いたい女に会えなかった。

 ただそれだけ。本当にそれだけ。

 

 途切れ途切れに、時折を繰り返しながら、路の両側から硝子窓が迫ってくる。

 常に、自分の身体と容姿を気にして生きている。だから、その真横を通過する最中に、そこに映る人影に視線を移す癖が抜けないでいる。その度に、変な格好の醜い男と目が合って、嫌な想いをする。

 変態女装お嬢様の今日の服装は、黒無地のロングスカートに黒のTシャツ。胸元に大きくド派手な銀色の髑髏と十字架と王冠のマークが入っている他、腕周りにはリボンの模様が幾つも付いているのが可愛らしい。ここにチェーンが意味もなくじゃらじゃら鳴るようなチョーカーを巻いてやれば、たちまち超可愛いファッションモンスターが完成である。そこそこちゃんとした男な骨格と顔であることに目を瞑れば、ではあるのだが。

 新調した銀色のイヤリングも、整えた前髪も、薄く顔に塗布したコンシーラーも、見せる相手がいないのであれば何一つとして意味はない。

 

「……」

 

 スカートの裾を引き摺りながら、苛立ったように耳からイヤリングを外す。口元を乱雑な手付きでなぞって、早足になる。

 手元に付着して引き伸ばされた淡い薄橙の痕跡が、何故だか勘に障る。

 

 乗客の多いバスに乗ると、自身が大きな肉の塊の一部にされて出荷されていくような気分がして、酷く気が滅入る。

 そこに馴染めるのであれば、まだそれを受容することもできるのかもしれないが、生憎、そんなことは殆ど有り得ない。そうと知っている以上、やはり自分から他の肉塊に心を開くということも、同じように有り得ない。

 そういう病気。

 そういう星の下に生まれてしまった、異星の社会不適格者。

 それこそが、十星幸縺という男の運命。

 

 ▲▼▲

 

 一つの、くだらない地獄の話をしよう。

 

「ただいま、セリカ。起きてる?」 

 玄関前で作り直した笑顔を貼り付けたまま、買い物袋を手から提げて、玄関から部屋に入る。

 大通りから少し入った場所に高く聳えるマンションの一室。玄関先に散らかったアルミ缶を忸怩たる思いで拾い集めながら、息苦しい一歩一歩を進む。

「あれ、ガミさん。おかえり〜」

 冷房の効いた部屋。その中央を陣取って、殆ど何も着ていないと言っても過言ではない酷い薄着の格好で、何とも目に毒な様相で、一人の女性が出迎える。身目麗しく若々しい美少女。皺ひとつない綺麗な皮に、瑞々しい肉。

「今日も可愛い服着てるんだね〜。こっちおいで、おいで?」

 

 十星幸縺の母親、十星芹華は愚かである。

 

 小学生の頃、自身の名前の由来を親に聞くという宿題が課されたことがあった。

 以前から、自身の名前に使われている漢字と読みが一致していないことを不思議に思っていた十星幸縺が告げられたのは、こんな言葉だった。

「ガミくんの人生が、幸せで一杯になるように、幸せが絡んでくる、って意味にしたんだよ〜」

 縺れると絡まるの違いも分からないで自身の子供に命名するほど、彼女が学が無かった。

 そのことに、十数年気付かないまま、恥じ入ることもないまま、自身の子供に告げてしまうほど、彼女は悪意なく、端的に愚かだった。

 十星幸縺が現在19歳で、彼女は35歳。彼女は幸縺を16歳で産んだことになる。どう形容しても最悪な結果を招く、そんな逆算が、裏もなくそのまま普通に正しい。反吐が出る。そんな人生を呑気に幸せに生きている。あまりに現実味の無い白々しさを以て、彼女は無垢に呆けている。少なくとも、幸縺はそう思っている。

 

「そうそう。お得意さんがなんか美味しいもの置いていってくれたらしいよ。一緒に食べようね」

 広げられた腕を無視して台所に立つ。買い物袋から買ってきた食材やら調味料やらを取り出して、区別して、収納しながら、背中でその言葉を聞いている。振り返らずとも、人畜無害な若々しい笑顔で彼女が言っているその様子が分かっている。

 人間とは面白いもので、ストレスを感じる程の知能がその人間の脳に追いついていないと、ここまで美しく若々しいまま年齢だけを重ねることができるのだ。女とは恐ろしいもので、一定以上の肉体年齢を重ねれば以降は何歳を自己申告したところでバレやしない。幸縺はその年齢を知っているからその様子があまりに年齢を鑑みて幼く歪であることを理解できるが、そうでない人間は彼女が気まぐれに実年齢を偽ってしまうと、途端にそうとだけ見えてしまうという魔力を秘めている。20代どころか、女子高生と言われたって、きっとそのまま通る。床のあちこちに散らばっている手書きのカードにも、可愛らしい丸文字で、「せりか 22歳」と書いてある。

「……そう。分かった。冷蔵庫?」

「そうそう。なんだろうね? 楽しみだなあ。お肉より、お魚が良いよね。ガミさん、海鮮系大好きだもんね」

「受け取ったなら、自分で確認くらいすればいいのに」

「食べられたら何でも良いもん。その辺は全部ガミさんが確認してくれるでしょ~?」

 後ろから、噎せ返るほど濃厚な甘い香りがして、生温い温度が抱き着いてくる感触がした。

 整えた髪型をなるべく崩さないように優しい手つきで、頭を撫でられていた。折角無視した抱擁を、けれど振り払う気にはどうしてもなれないでいた。

「ガミさんは私よりもよっぽど頭良いもんねぇ?」

「そうだよ」

「言うね~~~? んんん、かわいいかわいい生意気~~~」

 

 十星幸縺の唯一の肉親である十星芹華は、本当に愚かである。

 

 自身と血を分けた父親の顔を、十星幸縺は知らない。一度も顔を見たことは無いし、名前も知らない。

 当時を知らない幸縺からしてみれば、あまりに──酷くあまりに候補になる人間が多いものだから、その意志のある無しに拘わらず、それを特定することは殆ど不可能である。最早探すことは諦めた。

 

 十星芹華はそれについて何かしらの確信を持っているらしい。

 どうでも良いが。

 だが、その素振りを彼女が見せるだけで、十星幸縺は不愉快である。

 その確信というものは、頭の弱い者の縋る、醜い幻想であることを知っているから。

 

「ガミさん、ガミさん」

 背中に縋り付く肉塊が、そんな音を発している。

 甘えるような、媚びるような声。十星芹華の魂に染み付いて離れなくなってしまった発声方法。

「今日はどこに行ってたの?」

「適当に。特に面白いものも無かったよ」

「ええ~。それは可哀想に。……じゃあ、うちにいてくれたらよかったのにね」

 指先が徒に濡れている。

 手を洗う仕草が中断されて、石鹸に塗れた指を折り畳み、強く握りしめる。

「あたし、寂しかったんだよ? ガミさんと一緒に居たかった、な」

 

 誰にでも言っているのだろう。

 とは、聞けずにいた。ただ無言で蛇口を閉じて、ぽたりと垂れた水滴に反射する自分の顔が醜くて嫌だった。

 

「……聞いてる?」

 

 十星幸縺は。

 母親である十星芹華に、記憶の限り、

 

「……聞こえてるよ」

「あは。意地悪だ? 傷付いちゃうなー」

 

 息子として扱ってもらえたことが無い。

 

「……ねーえ、ガミさん。……私のこと好き? それとも、嫌いになっちゃった?」

 

 可愛らしい女の手が、自身の顎元をなぞって、艶美に微笑んでいる。

 

 

 一つの地獄の話をしよう。

 

「…………好きだよ。当たり前でしょ」

「やん、嬉しい♡ ありがと♡ んーま♡」

 

 頬に付けられた唇の湿り気を、なかなか拭えないで、困っている。

 

 十星幸縺は、それでも、十星芹華を愛している。

 十星芹華は、何も疑わず、無邪気に十星幸縺を愛している。

 しかし、それは母親としてなのだろうか。それとも、女としてなのだろうか? このキスにはどんな意味合いがあるのだろうか?

 ──これが地獄でなくて、何なのだろうか。

 

 ▲▼▲

 

「……カント。フロイト。ユング。エスがどうこう、無意識がどうこう。……ふーん」

「…………何か文句が?」

「自分の精神状態を説明するのに他者の論理を利用するのは、あんまり好きじゃないんだ。私ってさ」

 胸が高鳴っていることを、なんとか隠し通そうとしている。

 無暗に激しくなる動悸と、呼吸を求めて暴れる肺。必死に抑え込んで、言葉を用意する。

「他の人の考え方を知る事が悪いことだと、俺は思わないんだが。……まあ確かに、わざわざ自慢気に引用して自分の言葉みたいにするのは、それはそれでどうかとも思うけど」

「ふーん。……そういうもんかな。それじゃあ、まだ否定の段階は取っておくね」

「柔軟な思考の持ち主で助かるよ」

 

 市民図書館。

 少なくとも、ここら一帯の中では最も規模の大きい本棚の繁殖地。そういうルールとは無関係に閑散としているので、冷たい寂寞に満ちている。平日の昼間からわざわざ図書館に来る人間はほとんどいないのだ。何せ屋外は出歩くことが憚られる程度には酷く暑いのだから。

 

「あはは。一週間くらいぶりかな? 会いたかったよ、私のしがみ」

「そりゃどうも。嬉しいよ」

 

 小脇に抱えた本のタイトルを覗き込む姿勢のまま、明るい声で挨拶を一つ。

 酷く眩しい、魅力的で魅惑的な女。紅涙思惟である。今日は大人びた深緑のシャツに似た色のロングスカートを纏っている。一見無地に思えるが、所々に紋様が入っていてお洒落だ。何より、腰のベルトのお陰もあってか、普段よりも比較的ボディラインが見易くなっているように見える。

 ……こんなことを言うと誠にアレなのだが、あくまで因みに追記しておくと、彼女はあまり胸元が豊かであるという訳では無い。

 身内に一人、ドが付くほどの巨乳がいるもので、常人よりも色々麻痺しているのだとは思うのだが、それにしたって。

「……それはどういう感情の顔?」

「…………いや。しゆいは何しにここに来たのかなって思っただけですけど?」

「そうなの? まあいいか。今日はね、君に会えそうだと思ったんだ。当たりだね」

「相も変わらず凄い嗅覚だな」

 会いたいと思う時には会えないが、全く意図のない時には逆に会えてしまう。

 気儘な野良猫に似た習性を持つのが、この紅涙思惟という女である。こちらから会いたいと思うだけでは会えない。この女側が同じように気が向いてくれない限りは。そしてそのスパンはこちらが求めるよりもよっぽど長いのである。

「しがみは、今日も可愛くて素敵」

 耳元からまるで水滴のように垂れさがるイヤリングにそっと指を添えて、彼女はそう言った。

「お世辞抜き」

「ありがとう。しゆいも綺麗だよ」

 この瞬間の為に生きている。そう思えるほど、嬉しい。

 だから、常に服装に気合を入れる必要がある。そんな訳で、昨日と同じパンク系の衣装をまとっている。どんだけ見せたいんだと思ってしまって惨めでみっともないが、しかし事実は事実なので受け入れざるを得ない。仕方ないことなのだ。必要経費だ。

「んふ。そうだ、君はこの一週間で、変なこと誰かに言われたりした?」

 悪魔か。

「……俺の不適格具合を再確認しようとするのはやめろ。それ聞いて嬉しいの多分しゆいだけだ」

「言われなかった?」

「そういうNPCかよ。あー……そうだ。母さんの知り合いが酔った挙句にそういう趣味があるなら云々かんぬん言われたから殺したろうかと思ったくらいか」

 未だに消化しきれていない殺意を濁しながら伝えてみる。

 すると、たちまち隣の少女の口角が吊り上がる。とても意地の悪い表情。

「わあ、災難も災難だったね。可愛そうに」

「漢字から感じが滲み出てんだけど。嬉しそうにしてんなよ、同罪だ同罪」

「それにしても、多様性だのダイバーシティだの言われてる時代でも、やっぱりそういう低能はいるもんなんだぁ。大変だね」

「かと言って他者を責める権利があるとは言えないくらいには俺が悪い部分も大きい。理解して欲しいとも思わんから、まあ流しておくに限る。直接品位も何もないような不愉快なことさえ言われなきゃ良いんだが」 

「言われちゃうんだ」

「……まあ、良いんだよ。俺はね。根本的な話、変なこと言われるのが嫌だって話じゃない。馬鹿が馬鹿なのが嫌だって話なのさ」

 

 喋りながら、横歩きになって、ぱらぱらと手に取った本のページを手繰る。

 一方の思惟は、本当に幸縺に会うためだけにこの図書館に来館したらしい。本棚の方には一切意識を向けないまま、ただただちょこまかと幸縺に着いてくる。そもそも心理学や哲学には興味が薄いと言っていたし、自然なことだ。

「楽しい?」

「楽しいとは思わないが。やらなきゃいけないから仕方ない」

「……本読むの、好きなんだ?」

「昔はそうだった。今はあんまりだ。少なくとも、今の俺にそれを名乗る資格はない」

 横滑りしてゆく意識。

 思惟がいるから──とは関係無く、幸縺は読書に向いていないのだ。その魂そのものが。

「昔に比べて、印刷されてる文字を視線でしっかりと捉えるのが苦手になった気がする。書かれていることをどんどんどんどん読み飛ばして行って、頭に何も残らないまま読むのを途中でやめる、そんなことばっかりで嫌になった。れっきとした俺の恥だよ」

「相変わらず卑屈なんだから」

「俺の美徳だよ」

「変な価値観だなぁ」

 本の乗ったカートを押して歩く司書が、本棚の隙間から顔を見せて、不思議そうな顔をして去ってゆく。

 一度途切れた会話の間に挟まる音は、その静かな足音と緩やかなBGMだけだった。やはり依然として、この場所には他に人がいないらしい。

 

「……」

 嫌な気分がする。

 その沈黙が、

 一瞬にも満たない寂寞が、

 意識することをやめていた脳機能を復元させてしまった、そんな感触。

 脳の奥が、じゃりりと音を立てて抉れる音。

「まだ見てく? 私はどっちかって言うと星とか生物とかの本が好きなんだけどね、」

「いや、もう大丈夫」

 溜息を一つ吐いて、歩き始める。

 手元に積み上げた幾つかの書籍を、返却用の書架に押し込む。

「あれ。借りないの?」

「良い。そういう気分じゃなくなった」

「私に構わなくて良いんだよ? 君以外がこんなの借りてたらちょっとアレだなって思うけど、君ならまあ赦すよ?」

「構わないって言う割にはかなり上からだな……いや、別に良いんだ。またそういう気分の時に借りに来る」

「そっか」

 薄々、なんとなく、察していた。その上で、やはり彼女の顔が見ていたくて、ゆっくりと視線を下げた。

 隣を歩く紅涙思惟は──見抜いていたみたいに、こちらを見上げていた。

 そして、いつものように意地悪く、口角を上げて、微笑んでいた。

「そういう気分の時に、また借りに来ればいいもんね」

「だな」

 

「……? どうしたの?」

「見蕩れた」

「……わーお」

 自身の感情の機微ですら、彼女の想いのままであるらしい。

 主体性が無い男というのは、得てしてこうなる宿命にあるのだろう。

 

 ▲▼▲

 

 かたん、と気味の良い音がして、冷気を纏った菓子が落ちてくる。

 目線を下げると、しゃがんでいる紅涙思惟の手元から、まっすぐな軌跡を描き、色彩豊かな円錐が飛んでくる。

「何味?」

「木苺のチーズケーキ」

「……女の子みたいだねって言ったら怒る?」

「貴方なら良いよ。許す」

「可愛いね」

「ありがとう」

 白い立方体。この夏の中で燦然と太陽の光を照らし返して輝くオアシス。

 要するに──それはアイスクリームを販売する自動販売機である。

「貴方は?」

「私はねー、そうだなあ。無難にチョコレートにしよっかな。そういう気分」

「分かった」

 かたん、と、音は二度目。

 取り出して、よっこらせと彼女は立ち上がる。

「いくら?」

「200円」

「たっかいよね。昔は130円とかだったのにね」

 と、悪態を吐きながら、別に彼女自身の財布は痛んでいないのだった。

 シャッター外にぽつんと取り残された機械の前で、軒下の陰に入っている。雨宿りならぬ日光宿り、とでも言おうか。二人共やはり人の気配の多い場所が好きではないため、必然的にこうして寂れた過疎地帯に身を寄せることが多くなるのだった。

 じーわじーわと蝉が鳴き、太陽の光が肌を焼く。炎天下。図書館と言う名の避暑地を出て歩くこと数分、まだ若い筈の自分たちですらあっさりへばってあっけなく小休憩が挟まってしまうとは、何とも情けない話である。

「ねね。一緒に太陽殺しに行かない?」

「結果が出るころには俺らはとっくに死んでる筈だが」

「うーん、確かに。数億年も経ってたら、流石の私でも死ぬよね」

「人類史がそもそも残ってないと思うがね。次の支配種どころか、次の次の代とかでもおかしくない」

 二人でべりべりと包装紙を剥がして、隣のゴミ箱に押し込む。

 口に含んだアイスクリームが口の中で溶解して、味蕾に刺激を与える。甘酸っぱい。ぼやけた脳天にも直に効く刺激がそこにはあって、ただそれだけが感じられる全てに上書きされていて、まるで最初からそういう生物であるという風に生まれたみたいな繰り返しの咀嚼行動。

「ん〜。でも、味は変わらず美味しいね」

「まあ、そうだな。……」

 溜息を吐きながら、溶け入りそうな声で答える。

 一瞬、失敗したと思う。冷たい態度に受け取られてしまいそうだ、なんて──そして、ふと隣を見た。そこにいる少女は、幸縺に対してとても不思議そうな視線を向けていた。

「……ずっと気になってたんだけど、今日は妙にテンションが低いよね、君。大丈夫なの? 何かあった?」

「……あ、……いや、駄目だな」

「うんうん。暑さで機嫌が悪い、は──残念ながら通用しないんだなぁ。よく分かってるね、偉いよ」

 冷たい粘液と共に飲み込んだ言葉の中身ですら、彼女は見抜いてしまっている。

 何を言うべきか、何と表現すべきか、言葉に詰まる。

 それでも、ある意味容赦なく、目の前で少女はこちらから視線を外してくれない。だから、いっそ滑稽にすら思える自身の愚かしさを愛撫するみたいに、普段より幾文か回転の鈍い脳を回して言葉を紡ごうとしている。──それはなんだか、機織り機の動きに似ている気がした。

「しかし、実際なんでなんだろうな。今はとにかく精神の状態が宜しくない。考えてないことを考えてばかりいる、というか。何も浮かばないのに、脳の働きはビジー状態に陥っているというか」

「変なの」

「そりゃそうだ。俺だぞ」

「君だしねー」

 

 蝉が鳴いている。

 一口に蝉が夏に鳴く生態を持っていると言っても、夏の初めか、終わりか、秋口か、時期によってその活発に活動している種類は異なるものなのだが──しかし今のこの国はあまりに暑すぎて、その周期が大きく崩れている。暦上の季節と実際の気候が比例していない。今鳴いている蝉の声がどの種類のもので、彼が今をどんな時間だと思って鳴いているのかも、定かではない。

「季節に似合う話をしようか」

 入道雲が、その向こう側で立ち昇っている。

「正直さ、こういう奴はベタ過ぎるから好きじゃないんだけどね。でも──ほら。君となら、楽しくなってくれるって、信じてるから」

 嫌味な程に鮮やかな青と白。高温多湿を気にも止めずに晴れ晴れとする快晴の天蓋に、爽やかにきっぱりと、飛行機雲が線を引いてゆく。

「……む。なんか恥ずかしいね」

「そうでもないさ」

 思惟と幸縺。

 彼女は、自分たちは同じく社会不適格者であって、同じ星の下に生まれた者であると信じて疑わない。変な話だが、この点にだけは彼女は楽観的で明るくて、無邪気なのだと思う。

 けれど、一方の幸縺は──性差などのカタログスペックを度外視しても尚、自分たちの間には大きな相違点があるように思えて仕方がない。本当に。嫌な気分になる。

「……しがみ? なーんか、ずっとぼうっとしてない?」

「……はぁ。今日の俺はもう駄目みたいだ、しゆい。折角会えたのに、ごめんな」

 そう。折角会えたのに。

 わざわざ、こんなに美しい少女が、会いに来てくれたのに。

 十星幸縺はいつにも増して醜くて、独り善がりで、本当に嫌になる。いっそ泣きそうになるほどに。乾いて死んでいると思っていた涙腺が、初めて自分にもあるのだと実感してしまう。

「ねえ、嫌なこと、あったんでしょ?」

 笑顔が覗き込む。

 アイスを頬張りながら、どこかいつになく真面目な顔で。

「君の人生の障害は、なるべく私以外に存在していて欲しくないんだけどな。なにかあったんなら、私は君の敵を今すぐ一緒に殺しに行くよ」

「流石。前科持ちが言うと説得力が違うな」

「一緒に埋めようね。山でも海でもない場所。私と君だけの花園」

「……そこまでしてもらわなくて良い。俺の罪くらい自分で背負う。……いや、そもそも殺す前提なのがちゃんちゃらおかしいが」

 陽炎の中で、その輪郭が揺れる。

 不安定に怪しく、美しく華々しく。有無を言わさない。

「でも、君だって──私が同じように、どこかの誰かの所為で今日は笑えないや、君に折角会えたのに。ごめんね、なんて言ったら、そいつのこと殺しに行くでしょ?」

「嬲り殺しにする。俺だけが罪を被る」

「ね。一緒だよ。君が私を大事に思うくらいには、私はしがみのことが大事だからさ」

 莫迦みたいな服の裾をぎゅっと握りしめて、わななく唇を噛みしめる。

 気持ち悪く伸びた前髪を、首を前に突き出すことで顔を隠すのに使う。子供みたいに意地を張って、手の甲に垂れるマーブルの粘液の源泉を齧る。甘酸っぱい味と冷たい感触が口腔内に溢れて広がってゆく。

「……なんでも言ってよね。私は君のことだったら、何でも知りたいな」

 脳が冷えている。

 冷静に思考を回し続けている。

 何故なら──。

「……本当にくだらないことで誠に申し訳なくてですね」

「なんで敬語?」

 いや、もう。

 本当につまんねえことなんだ、これが。

「図書館が苦手でさ、俺。本屋も本棚に本がいっぱいあると無条件で憂鬱な気分になるのさ」

 

 

 

「え、そんだけ? あんだけ死にそうな顔だったのに? しかも、自分から行ってたのに?」

「まあ、大学の課題の影響でさ。俺の意志とは無関係に向かわざるを得なかったんだという事情は加味して欲しいけどね」

「因みに、理由は?」

「これがよく分からねえんだよ。なんで俺あんなに嫌なんだろう。昔はよく通ってたものだったんだけどな。最近は急激に息苦しさを感じる体質になってしまった」

「なんだそれ。相変わらず変だね、君は」

 

 ……こんな理由で、自分勝手なことに会話相手に鈍い反応しか返せなくなってしまうのだから、やはり自身は人間に向いていないのだと思う。

 

「……はぁ。安心するね」

「褒めてないな」

「この文脈で褒めてあげられるわけないよね」

 

 呆れた声で言う紅涙思惟の視線が冷たい。

 拗ねたみたいな目で睨んでいる。アイスを片手に。

 

「……うーん、本が怖い、ねえ。何かトラウマでもあるの?」

「全然。思い当たる節は全くない。本が怖いというか、……何だろうな。本買うのは好きなんだけどな」

「未読の本が沢山あるのが怖いのかな。全部読まないといけない、みたいな強迫観念でもあるのかな?」

 相変わらず、人の心理を──真理を。解体することにご執心の紅涙思惟だった。明瞭な理由を先刻言った通り思い付かないので良いものの、本当に何かしらの心的外傷を抱えていた場合はどうする気だったのだろう。こういった軽率さは妙に危なっかしく見えて、少し心配になる。

「でもさ、本って結構興味深いツールではあるんだよね。日記とかもそうだけどさ。紙ペラ一枚を束ねて思想を煮詰めるっていう行為が延々と時代を超えるっていう部分は何だか感じ入ると言うか痛み入るというか」

「本のこと思想って言うの、間違ってはないんだけど最近の思想って言葉の使われ方が悪いせいか妙に嫌な気持ちになるからやめないか」

「私も日記とか書いてたら後世に残って伝説になったりしないものかな。まあ継続するっていう行為が全部得意じゃないから絶対無理なんだけどね」

「何の話だったの」

 一気に微妙な雰囲気が漂ってくる。

 何分、ここは本当に人通りのない裏通りである。二人が黙ってしまえば、後はもう蝉の声だけが岩に染み入るだけだ。車の音すら聞こえてこない。

 隣の紅涙思惟は特有の拗ねたみたいな表情をこちらに向けている。毎度毎度その目をされるととても悪いことをしたような気がするのでやめてほしい。

「あんだけ丁寧に前振りしてたの無碍にするのもアレだし一応聞いとくね。君、夏と冬どっちが好き?」

 そして彼女は、アーティストのジャケ写にもなりそうな恰好で、そんなことを聞く。

 本当に様になるし目の保養になるしで嫌になる。

 

「どっちが好き?」

 考える時間も、自分を嫌悪する時間もくれはしないのだ。彼女は。

 だから、最も単純に、最も最初に浮かんだ、莫迦みたいに安易な答えを口にする。

「しゆいが好きな方」

「つまんないね、君」

 こうなることは分かっていた上で、促された以上は答えを発しなくてはならない気持ち。

 ふくざつな感情。

「切腹するところだったぞ今」

「介錯してあげよっか」

「しゆいは俺のこと殺した過ぎるだろ」

「勿論殺したいに決まってるよね。どうにかこうにか、しがみのラストヒットだけは私に譲って欲しいなぁ、殺してあげたいなぁ。って感じだよ。毒でも包丁でも縊死でも事故死でも突然死でも何でも良いから君の死因が私であって欲しいなぁ、というか。ん、あれ? ……逆に聞くけど、しがみって私のこと殺したくないの?」

 晴れ渡る空には似つかわしく無い言葉だった。

 蝉の声の反響がまた大きくなる。鼓膜が酷く揺れている。

「……どう考えても嫌だけどな。そんな畏れ多いことなんて、機会があっても願い下げだ。何か、一生呪われそうな感じもするし」

「いやいや。君が死後、地獄の淵でもう一回逢ってくれるって約束してくれるなら──私がいないしがみのつまんない生涯を、ずっと見守ってあげる気はあるよ。どっちかと言えば祝福が受けられるってことになるんじゃない? 加護って言っても過言じゃないよ」

「何を言ってるんだ貴方は。人は一般的にそれを呪いだって言うんだ。自分が殺した相手のお陰で将来安泰、なんて──最悪の気分だと思うけどな」

「んー、罰が当たったほうが嬉しい? 君らしい意見だけど、そんな暗い考えを一般的とするのは少し酷かな。君くらい殊勝な人間って、多分、絶滅危惧種だよ」

「殊勝というか身勝手というか……結局、罪の意識がどうこうとか言ってる間は幸せにはなれないものだけど、それであたかも償いになってると思い出すと終わりだ。そういう終わった人間は多い気がする」

「何の呵責も感じない奴より良いと思うけどね」

「それはもう人じゃねえよ」

「そういえばそうだった。君、人間認定のハードル高いんだったね」

 ことん、と音がした。紅涙思惟が、持ち手になっている紙製の円錐を、汚いゴミ箱に押し込む音。

 その足元に、蟻が集っている。溶けたアイスに群がっているのだろうか。二の腕の辺りが訳も無くぞっとする。

 隣では、厚くて、鮮やかな照りを返す薄紅色の唇が、薄黄色のコーンを侵食して抉っている。その様子が、そこはかとなくエロティック。ビビッドな色合いが、とても美しく感じられる。

 可愛い。

 美人だ。

 可憐だ。

 眩しい。

「私はさ、これでも夏は結構好きなんだよね」

 その言葉が、やたら深い地味を以て耳に届く。

 荒んだ十星幸縺の魂を、少しだけ、本当に少しだけ──癒してくれる。それは声質が、存在が、何よりもその価値観が。

「夏って、何でもできる気がするっていうか、万能感が得られるっていうか、そんな季節だよね。やっぱり冬ってのはどうしても寒いのが先行しちゃうからさ、自分を矮小化してしまうきらいがあるように思う」

「俺は結局何もできないから、冬の方が身の丈に合っててまだマシだって思うよ。他の人間のアクティブさに置いて行かれる嫌な季節が夏だ。スイカが美味しいくらいしか良いところはない。あと長袖着るのが辛いから嫌だ」

「ふーん。じゃあ冬は?」

「自分が更に嫌になる季節。鬱々とする季節。でも夜が長いのは好きかもしれない」

「へえ。夜の長さ、か」

 ふむ、と。

 なだらかな顎のラインに指を添えて、少女は頷く。端正な横顔。長い髪が風に揺れる。爽やかな香りが漂っている──。

「確かに。私も、夜は長い方が好きかな」

 微笑む。

 息が、──。

 

「あ、まずい。しがみ、ちょっとここから離れよっか」

「ん? え?」

「良いから。えっと、そうだな……ん、大体……三歩くらい、かな。早く」

 緩やかな表情のまま、先刻までの会話が続いているかのような自然さでそう言って、紅涙思惟は十星幸縺の腕を取った。

 柔らかい感触が神経を乱して、全身から力が抜ける。自然、彼女が引っ張る力に抵抗できず、そのままたどたどしい数歩を刻んでたたらを踏んだ。

 そうして、ふらつきながら庇から出た。

 眩しい太陽が瞼を差した。手をサンバイザーの形にして、思わず恨めしく上を向く。

「……は?」

 妙に大きな黒い影が、視界の端から中央に向けて、急速に飛び込んできた。

 

 鼓膜が割れた。

 そう誤認する程の大きな衝撃波が全身に叩きつけられた。続け様に走った颶風が派手にスカートを揺らして、慌てて両手で抑える。上向きに吹き抜けた風が、長い前髪を跳ね上げる。それは、ちょっとした地震が発生したのかと勘違いするほどの威力で。

「あらら。ぱんちらしなくて残念」

「何処の何に需要があるんだそれは。……で、何が起きた?」

「ほら、そっち」

 

 呆然を必死に追い出そうとする幸縺の身体に肌を密着させたまま、その肩に顎を載せて、酷く酷く楽しそうに思惟が笑う。

 でろでろとした毒を煮詰めたみたいな、そんな笑顔で。

 

 その魅惑から、べりべりと視線を引き剥がして、彼女の爪の先の方角を見る。

「飛行機かな、ヘリコプターかな? 何かの部品が落ちて来たんだと思うな。しかも結構大きな部品だったし、うーん、大丈夫なのかなあ。部品が当たって怪我する人が出る、みたいなことにならなかったのは不幸中の幸いだけどね」

「……まあ、俺の目の前で死なれるよりはまだマシだから良いか。いや、……うん。これもこれで、精神に来るな」

 で。

 今までそこに居た人間たちが消えたとばっちりを受けたのは、氷菓を販売していた白い自動販売機。

 元より人気の無い裏通りで、一人稼働していた機械は──頭から突き刺さった金属片によってその全長の半分程度を占める程の大きな穴を空けられ、誰が見ても明らかに、その稼働を停止していた。

「お疲れ様でした」

「……ねえ、あの穴から手突っ込んだらアイス食べ放題なんじゃないかなこれ」

 手を合わせて拝む幸縺。

 その隣で、あまりにも煩悩に忠実な思惟である。

「そんなこと言われたってなあ。そこまで卑しくなってたまるかよ。……筐体の横の電話番号に連絡してやった方が良いんだろうな。しゆい、やっといて」

「えー? 面倒事を私に任せるのは卑しくないの?」

「貴方の交渉次第でタダでアイス何個か持って帰れるかもしれないだろ。最悪な物言いだけどどうせ廃棄になるんだし。俺よりも上手だろ、そういうの」

「卑しいね、乗った」

 

 スキップでもし始めそうな足取りで、思惟は筐体の向こう側に回り込んでいった。

 その小さな人影は、簡単に白い直方体の陰に隠れてしまう。

 

「…………なんだこれ?」

 

 声がした。

 嫌な声だ。異常を引き込む声だ。紅涙思惟がわくわくしている。見なくても分かる。その目を輝かせている。

 嫌になるほど美人なのだろう。なんとも様になるのだろう。この寂れた世界の一画に、きっと似合っているのだろう。

 

「しゆい」

 

 俺は夏が嫌いだよ。

 冬も春も秋も多分全部嫌いだよ。

 

 貴方の前ではその全ては等しく塵と変わりない。

 貴方が幸せになれない季節に価値はない。

 

 四季折々、全てに似合う少女。

 その美しさの全てが、何故だか酷く、心を苛む。貴方の美しさが、どうにも──そう。

 

「何があった?」

「見てよ、これ」

 彼女の足元に、黒くて太い曲線が生まれていた。

 細かく蠢動する文様。細かく震える波模様。

「蟻、か?」

 

 小さな蟻の群れが、列を成している。

 その行き着く先は、自動販売機の残骸の更に後ろの方。シルエットが大きく削られたことで、日差しが入り、それによって辛うじてようやく目に見えるようになった、影の陰。そこには、更に多くの蟻が纏わりついて、一つの小さな塊になっている何かが鎮座している。

 

「しがみ、じゃんけん」

「言われなくても俺が行くが。しゆいはとっとと電話しろ」

 

 袖を僅かに捲る。 

 薄い腕毛から目を逸らしながら、数歩、歩みを進める。

 ぬるり、と、手を伸ばして、五本の指先で円状のそれを掴む。ゆっくりと蟻を払って恐々持ち上げる。泥沼の中からゴミのペットボトルを拾い上げるような感覚がする。

「……瓶?」

 後方では、もうすでに距離を縮めたらしい思惟が、上辺だけは楽しそうに通話先の誰かと会話を繰り広げている。

 一方の幸縺は壁の方に向かって、訝し気に持ち上げたそれを眺めている。凄く嫌な気分がする。凄く嫌な気分がする。頭に、嫌な様子が目に浮かぶ。

「しがみ、十個持って行っていいって」

「貴方凄いよね本当に」

「近くのスーパーから、氷とレジ袋貰ってこようね。私、自分でもびっくりするくらい今わくわくしてる」

 半分だけ上の空。幸縺の意識は、自然と目の前に集中する。

「で、結局何だったの?」

「これもんよ」

 回れ右。掲げた小さな小瓶を、思惟の目の前で揺らす。

「…………錠剤?」

 瓶の底から、最後の小蟻が地面に落ちた。

  

 ▲▼▲

 

 場所を移して、近くの公園。

 アイスの入ったビニール袋をぶら下げながら、他に誰もいない小さな空間に二人きり。

「しゆい、手袋」

「はい、どうぞ。気を付けて作業しますか」

 向かい合わせに座る。

 ベンチに敷いたラップの上へ、手に持った硝子の円柱を傾ける。

 ばらばらと音がする。瞬く間に、白とピンクのカプセル錠が山積みになって鎮座する。

 

 当然だが、カプセル錠剤は両端を引っ張ることで、中身を露呈させることが可能である。

 マスク・手袋・ゴーグル完備。完全な安全体制の元、一番欠如してはならない筈の倫理観が欠けている状態で開始するカプセル錠剤の解体ショー。凄く当たり前のように、おもちゃの箱を開けるみたいに、その中身を検分してみようという運びになった。我ながら危険すぎる。

 普通、どころか一定以上の危機管理能力のある人間は人気の無い路地裏で見つけた錠剤をバラしたりしない筈なのだが、二人──というか主に紅涙思惟は頭がおかしいので。

 よい子は真似しないでね。

 傍から見ると完全に不審者だし。

 通報された方が安心できるくらいには致命的な絵面な訳だし。

「やっぱり相場は毒物だよねぇ、こういうのって。えっと、確か……舌の上にちょっとだけ乗っけて、ぴりぴりしてきたら舌の端っこごと削り落とすんだったかな?」

 そんな状況下でも、紅涙思惟はいつも通りに普通通りに狂っている。

「貴方は修羅の国生まれ修羅の国育ちなのか?」

「でもほら、アイスで冷やせるから多少は」

「だから身を削ってまで毒見する前提なのやめようってば。変な粉出てきた時点で刑法の管轄に回すからな」

 腕組みをして、溜息を吐いて、いつも通りに軽口を叩く。

 嫌な強迫観念に襲われて、心臓が痛む。十星幸縺の感性は、こういう時に頼りない。驚くほど普遍的。

「俺は、そりゃ市販の薬の可能性が一番高いけど──もしも普通じゃないものだったら、毒よりも薬物の方が先に思い付いた」

「うんうん、濫用されるタイプの奴だよね。その線もあり得なくはないと思う」

「でも、この瓶って相当な時間放置されてるだろうから、それはそれで意味が分からん。相場がよく分からないけど、ああいうのって1グラム単位から凄い値段で流通してるんじゃないの。この量だったら幾らになるんだ」

「うーん。脳がラリってた可哀想な人が頭おかしいまま隠して、そのまま忘れちゃったか死んじゃったかとかの可能性は全然有り得ると思うけどね」

「そんなリスがどんぐり隠すみたいな話……いや有り得ないとも言い切れないが……」

 ふう、と、一息。

「一応聞いとくけど、もしこれがさっき言ったみたいな、ある意味でお宝の山だったらどうする? 当分は遊んで暮らせるかもよ」

「どこに目付けられるかも分からないからなるべく関わりたくないししゆいにも関わって欲しくないんだけど」

「良かった良かった。ここが一致してないとね、もう終わっちゃうからね、色々と」

 そして──徐に、山の中から一粒を取り上げる。

「まあ、取り敢えず始めるか」

「気を付けてね」

 向かい側、紅涙思惟はにこにこと眺めている。

 中身がはっきりと分かるまで、幸縺は彼女にこの錠剤を触らせる気が無い。彼女もそれを知っている為、下手に手を出さないというポーズを取っている。

 ……言うことを聞く気は、少なくとも今の段階ではあるようだ。

 一方で聞かないときは全く意に介さないため、この程度は気休めにしかならないのだが。

 

「何だった?」

「……何だこれ」

「白い粉?」

「違う」

「触って良さそう?」

「多分」

 

 ビニール手袋の上に、それは転がり出てきた。

 それは、三つある身体の節を曲げて、

 眠る様に干乾びた、黒い塊で、

 端的に言えば、死んでいる、

 

 大きい類の種族の、蟻だった。

 

 ▲▼▲

 

 装備はそのままに、二人で黙々とカプセルを解体する。

 ぷちぷちと。引き剥がした殻を左に、蟻の死骸を右に。

 

 何も語れない幸縺に対して、思惟はただ熱中しているから言葉を発さないだけなように見えた。幸縺の目から見ると、少なくとも──彼女の様子は冷静だった。カプセルを開けることに慣れた上で、妙に指が震える、そんな彼よりもよっぽど。汚れたプラスチック、安物のゴーグル、その向こう側の瞳が綺麗で困る。きっとこちらの目は淀んでいるのだろうに。

 

 

「何を連想する?」

 小さなカプセル錠剤の山が無くなって、第二波を瓶から積み上げたタイミングで、紅涙思惟は静かに口火を切った。

「……何が?」

「いやいや。説明要らないでしょ?」

「……中国の漢方みたいな奴の中には、生物由来の成分も入ってて、そういうのも身体に良いってされてたこともあったって聞いたことある。蝉の抜け殻を煎じた奴とか有名だな」

「セミって美味しいらしいよ。羽化したてが一番柔らかくて美味しいって聞いたことあるな。まあエビみたいなものだよね」

「甲殻類ではあるからな。俺は食べないけど」

「確かにそうなんだよね。もしも蝉が海で暮らしてたら、寿司ネタとして重宝されてたかもだしさ」

「食べないけどな」

「昆虫食は反対派?」

「海老が好きじゃない。アレルギーとかじゃなくて。蟹はまあ好きだが」

 

「へえ、他にも色々あるんだね。ちょっと調べただけでぽんぽん出てくる」

「何が?」

「生物を使った漢方。カマキリの卵とか、ヒルとか。んと……ハチノコ、蜂蜜は分かりやすいね。サソリにムカデ。マムシまで。この辺は、毒にも薬にも、ってことかな。あとは……冬虫夏草もそうなんだ。そこまで来るとゲテモノ感の方が強いなあ」

「中国は如何せん国土が大きいし人口が多い。その分生態系も多様だし南北で文化も異なる。そりゃ傍目には意味の分からんものも出てくるさ」

「……それでいえば、赤ちゃんとかもだよね」

「なんでカプセル解体しながら人肉カプセルの話するんだよ」

「アリさんカプセルなんだから良いでしょ?」

「いやどっちかと言うと気持ちの問題なんだが。さん付けも何か嫌だし」

 

「逆に、しゆいは何を連想した?」

「ん? 私はね、標本」

「標本?」

「そう。昆虫標本。ヘルマン・ヘッセの少年の日の思い出。クジャクヤママユ。作ったことある?」

「それこそピンポイントにセミの抜け殻で作ったよ。小学生時代」

「じゃあ生きてる奴はあんまりか。私、学校でさっき言ったエーミールの奴習ったのきっかけに、モンシロチョウで作ったことがあってさ。あれ、すごく大変だったんだよ。丁寧に殺して乾かしてラベル付けする。根気もいるし展翅もめんどくさい。それで、結局できたものは図鑑に出てる奴と大差無いの。がっくりだよね」

「……君はそういう奴なんだな」

「そうだよ。当時の私は、寧ろエーミールを否定するために作ったんだよ。綺麗な虫を殺す為だけに育てて、それが駄目になったからと言って、あんな台詞まで吐かなくて良いじゃんって思ったんだよ。中学生だったからね」

「そういう構成にはなってるからな」

「やられたね。でも、実際やってみて、こう思った。私も同じことされたら、なるべく頑張って、相手の人格を否定するだろうなって」

 

「私がそれで分かったことは、すごく簡単なこと。生物の死ってのは、どうしても綺麗にはならない、ってこと。綺麗に保存し続けることは殆どできないし、手間がかかるし、その為には生きている間すらコントロールされてないといけない。生前と死後の惨めさってのはトレードオフなんだよ」

「惨めに生きて惨めに死ぬ奴もいっぱいいると思うけど」

「それは自業自得だから知らない。えっとね、要するに──自由に生きている間は綺麗に死ねないって言えば良いのかな。少なくとも、生きている間から死ぬときのことを考えたり、理想の死を考えたり、それを実現しようとしたり、もしくは死ぬことを前提に管理されてたり。──まあ、要するにさ。何かしらの形で、生きながら死に固執してないと、美しい死体は残らないんだなって思ったんだ。死に囚われる、って言い方をすればいいのかな?」

 

「だからね。その標本を作ってからは、衝動的に自殺したニュースとか、蟻に食べられてる虫の死骸とか、そういうものを見ると、……変な気持ちになるようになったな。ああ、この人って、死ぬ瞬間が怖くなかったんだろうな、とか、それなりに、真っ当に、生を謳歌してたんだろうな、って。安心するような、だけど、自分の将来を見ているようにも思えるような、……凄く複雑な気分になる」

 

 そんなことは無いんじゃないか、と、率直に思った。

 彼女が口にする例には、幾らでも反例がある様に思った。誰だって生を謳歌できなくて無様に死ぬことはあるだろうし、誰だって死ぬ瞬間は恐ろしいだろう。

 けれど、彼女の言葉を否定するには、何かが足りない気がする。それが何なのかは分からないまま、ただ、そんな気がしている。

「私は、我儘だからさ。自由に生きて綺麗に死にたいんだ。でも、こう思ってる時点で、間違ってるんだろうね」

「間違ってるってことは絶対にないだろ。誰だって綺麗に死にたいものさ」

「君は?」

「俺個人で言うと、死ぬ瞬間が痛くなけりゃ遺体がどうなろうが関係ない」

「ドライだね」

 

「ああ、それで言うと」

「ん?」

「俺の身近に一人、本当に死ぬことを何とも思ってないような人がいるよ」

「その人、綺麗に死ねそう?」

「そりゃあもう」

「そっか」

「でも、俺は貴方にああなって欲しくないと思ってる」

「……難しいね」

 

「それこそさ。この蟻たちがこのカプセルの中で餓死してたなら、それは他者による管理で綺麗に死なされてる訳だよね」

「……カプセル違いのコールドスリープとかそういうことを思ってる?」

「あー。まあ、そう。無酸素カプセルとか笑えないね。でも、少なくとも、この状態なら簡単に標本にできそう。まあ、大きさって言う別の問題があるから、多分脳が千切れるくらい面倒だけどね」

「とはいえ、わざわざカプセルに詰める方が手間だろうに」

「連想したってだけで、別に本気でその為にこんなことしたとは思ってないからね」

 

「ん?」

 

 それもそうか、と、言おうとした言葉が途切れて、間抜けな吐息が漏れた。

 

「しゆい、」

「どうしたの?」

 

 それは、奇しくも最後のカプセルを解体した瞬間の出来事。

 ビニール手袋に包まれた掌の上で、蠢く生命がいた。

 

「生きてる」

「は? 動いてるってこと? 見間違いじゃなくて?」

「いやいや、流石にそんな馬鹿じゃないって。ほら見ろ、何なら手の中で歩いてる」

「そんな訳ないって」

「いや、だから見てみろって……」

「しがみこそ、これ見てよ」

 

 弱々しく動く足と触覚。

 その向こう側で紅涙思惟が掲げて見せるのは、その小瓶の蓋の裏。

 

「流石に有り得ないと思うよ」

 

 そこには、ラベルが貼ってあった。

 

 Since 2018/10/9。

 

「約七年前に作られてるカプセル錠。標本を作った経験があるから言うけど、わざわざ意味も無い日付を使う意味もない。……まあ、こんなもの作ってる人に常識も何も無いと思うけどね。その中のアリが生きられる訳ほんとだ生きて」

「いったッ!!」

「うわあ、何やってんの君⁉」 

 思惟の方へ向けた掌から鋭い痛みが走った。思わず、意識が追い付くよりも先に身体がその手を振るった。

 貫くような、神経を嬲るような、そんな激痛。慌ててその指先に視線を遣る。

 当然、小さな虫の姿は無かった。

 その代わりに、手に嵌めた薄いビニール手袋には、針の先で空けたような小さな空気穴があって。

 その奥から、だらだらと、とめどなく、鮮血が流れている。

 血の気が引く。

「しゆい、探せ‼ アレ野に放ったらまずい‼」

「大袈裟だね。アリ一匹くらいでまずいってことは無いでしょ」

「違うんだって、良いからその大きい目で探してくれ」

 思惟の顔は、当たり前だが緊迫感に欠けていた。当然だ。彼女の視点では、ただ、蟻が一匹逃げたに過ぎない。

 その蟻に──刺されたのか咬まれたのかは判然としないにしても──攻撃されていない思惟には、分からないだろう。その痛みが、明らかに異常だという事実が。

 

 だが。

 そこで、声がした。

「君たち、ちょっといいかな?」

 背後から背中を叩かれて、幸縺が振り返ると──そこには、

「公園に怪しい二人組がいるって通報があったんだけど、どう見ても君たちだよね。身分を証明できるものとかある?」

 公務に励む警察官がいたのだった。

 良かった、この街の善性も捨てたものでは無いらしい。と、他人事のように安心して、そういえばそれどころではなかったことを忘れかける。しかし、今ここで蟻がどうのこうのと抜かしたところで、残念ながら理解なんて得られる訳も無いし、

「……え、待ってしがみ。血、それどうしたの。大丈夫? ちょっと、舐めてあげるからこっちに」

 これで誰かに被害が出たら──

 そもそも今の不審者すぎる自分たちをどう説明すれば──

 というかどんな種類の蟻が──

「怪我してるのか? 絆創膏くらいなら持ってる筈……いった、なんだ?」

 今更のように焦る思惟、全速力で思考をぶん回す幸縺、

 その目の前で、青い制服に身を包んだ警官は身を屈めた。

「うわ、なんだ。革靴に穴が空いてる。針でも踏んだか?」

「ちょ、お兄さん足どけてください‼」

「え、なんだなんだ?」

 幸縺と思惟は、二人で身を乗り出した。

 思わず数歩後退した警官の足元を、舐めるように、目を皿のように見開いて隈なく探して──。

 

「……これ?」

「うん、多分これだよね」

「……どう思う?」

「流石に無理なんじゃない? じゃ、止血しようよ。ね、しがみ」

 

 それっぽい蟻を見つけた。

 警官に踏まれて、あっけなく死んでいた。

 

 ▲▼▲

 

 ──蠱毒。

 有名な話で、大きな壺の中に毒虫を大量に入れて競い合わせて、残ったものがより強い毒性を持つようになる、という、そんな話。

 今回遭遇した状況に一番近しいのはそれだったのだろうという結論で、合意に至った。

 軍隊蟻で同じようなことをされていたら本当に終わっていただろうが、これに関しては日本の生態系に助けられたと言って良いだろう。

「まあ、アリ自体が毒虫ってイメージ無いし、種族同士でのバトロワでも無いし、殺し合っても無いし。疑問は残るよね」

「意味は分かんないけど、分からない方が良いだろうな」

「暇つぶしとしては良かったよ」

「どうだか」

 

 事情聴取されながら、そういう話をしたのだった。

 

「そう言えば、しゆいが作ったって言う標本、ちょっと見てみたいな」

「ん? ああ、アレ無くなったよ。家の火事でね」

「…………そうか」

「君が死んだら君の標本でも作ってあげるよ」

 

 そういうことを言うのが、死に囚われるということなのではないだろうか。

 とは思ったが、そんな思惟だからこそ魅力的なんだろうな、とも、思った。

 

 

 

「おかえり、ガミさん」

「ただいま」

「あれ、絆創膏? 指、どこかで怪我したの? 可哀想に。飛んでけしてあげる?」

「……いや、もう痛くないから。気にしないで」

 

 帰ると、相変わらず酷い格好の女が待っていた。

 老いを感じさせない、真っ白な肌が──見たくないところまで見えそうで。

 

「……ねえ、セリカ」

「なあに?」

「セリカは死ぬのが怖いって思ったことある?」

 

 手を洗いながら、ふやけた絆創膏をゴミ箱に投げ棄てて、そんなことを聞いてみた。

 背後から自身を抱き竦めた女は、ん? と、気の無い息を吐いた。

 

「ガミさん、死ぬの怖い? あ、この辺で飛行機が落ちたってニュースがあったの見たから?」

「……そんなニュースがあったんだ。怖いね」

「ね、怖いよね。でも大丈夫だよ。ガミさんのことは、私が守ってあげるからね」

 

「……セリカは、死ぬのは怖くないの?」

「ん~? どうだろうな~?」

 

 

「そんなこと考えても、どうにもならないから。気にするの、やめちゃったんだよね~」

 

 そういう強さもあるのだろう。

 ただ、自分が好きではないというだけだった。

 

 蝉が鳴いていた。

 どうせ一週間後には死んでいるのだろうに、随分と元気だった。

 

 これから数十年は生きるかもしれない自分よりも、よっぽど必死に生きている。

 

「水、取って」

「はいはい」

 

 地獄の話をしよう。

 ずっとこの世界では、何も起こらないのだと、そんな気がしている。

 自分は何も起こせないのだと、そう思い続けている。

 きっと俺は、綺麗に死ぬだろう。そうしたら棺に閉じ込めて、標本にしてはもらえないだろうか。醜い女装男性として。

 

「セリカ。飲み過ぎは」

「分かってるよ~。心配性だね」

 

 視線の端で、頭の弱い女は、錠剤を飲んでいた。

 その中身がただの蟻だったら良いと思った。働き蟻の身体を煎じて飲めば、何かしらの良い漢方になってくれるのではないかと、そんなことを妄想した。

 

「ああ」

 

 そこまで考えてふと思った。

 黒い髪のその女は、女王蟻なのだ。勝手に食物を運んでもらって、分け隔てなく働き蟻に尽くされ、自身からは気まぐれに施しを与える、そういう生命なのだ。

 

 蟻が群がって、蝉を食っている。

 朽ちた蝉を、栄養にしている。

 

 

「ねえガミさん」

「何」

「私のこと、好き?」

「好きだよ」

 

 

 食われた身体が痛かった。

 指先よりもよっぽど、痛かった。




 読了ありがとうございます。
 やはりノンジャンルな作品ではあるのですが、幸縺と思惟の日常を愛してくれると嬉しいです。
 次回があるかはまた未定です。感想等くださると幸いです。
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