居場所もなかった。
誰にも呼ばれた記憶もなかった。
――それでも、祓っていた。
ただ、自分が「ここにいていい」と信じたかったから。
比良坂瑠璃。
呪術界に登録されず、誰にも知られなかった少女。
誰にも頼まれず、誰にも褒められず――それでも、祓い続けた日々。
そして、終着点へ。
ようやく辿り着いた他者の祈りが、風に溶けていく。
祈りと孤独、そして名もなき呪術師の生涯を描く小さな『呪術師譚』。
※本作には、死に関する描写・性搾取を想起させる描写、救いのない結末など、センシティブな内容が含まれます。
※苦手な方はご注意してください。
※原作関係者等の登場は終盤からとなります。
一章:比良坂瑠璃
苔むした参拝口、朽ちかけた鳥居の傍に、それはいた。
まるで人の形を模した墨のような塊――黒く膨れ上がった肉瘤の表面には、ひび割れた陶器のような裂け目が走り、そこにねじ込まれるようにして目と口が存在していた。
目は空ろに濁り、けれど見るでもなくこちらを向き、口は裂けたまま閉じることなく、内からどろりと呪の気を垂れ流している。
全身からは、泥と鉄と血の腐臭が入り混じったような重い瘴気が滲み出し、周囲の草木すら枯れかけていた。
その呪霊は、人が忘れ去った祠の結界の隙をついて留まり、ひとり、訪れる者を待ち受けていた。
「……見つけました」
小さな囁きが、夜気に紛れる。
僅かな音と共に、草を踏み分けて進み出た少女――
それは誰に向けたでもない。これからの行為への――儀式めいた所作だった。
「まこと、迷える魂よ」
呪霊が呻くような声を漏らす。
その声は、まるで土の中で腐った臓腑をかき混ぜたかのような湿った響きを持ち、聞くだけで耳の奥が痛む。
気配が膨らみ、空間がぐにゃりと歪んだ。
瞬間、木々の影がざわりと震え、地を這う瘴気が鳥居の下から噴き出すように広がった。
瑠璃は全く動じずに、目を細めて、数珠を呪霊に向ける。
「……比良坂の術の名の通り――黄泉へと、お送りしましょう」
言葉とともに、掌に淡い光がともる。
祈りのような旋律が口からこぼれ、その声と同調するように空気が変わった。
その空気に押された呪霊が咆哮し、膨れ上がる。
歪んだ腕のようなものが、獣じみた軌道で襲いかかる――瑠璃は力強く数珠を鳴らした。
「比良坂流・一の型――《
呪霊の一撃が届く寸前――瑠璃の姿が、ふっと掻き消える。
次の瞬間、彼女はすでに呪霊の背後にいた。
特別に速かったわけではない。
型に則った流れるような所作、その緩急の美しさが、呪霊の目を欺いたのだ。
ゆっくりと指先で印を結び、微かな祈りを紡ぐ。
「比良坂流・破の結印――《
次の瞬間、清光が呪霊の身体を貫いた。
術式ではない、静かで緻密な呪力操作。
呻き声とともに、呪霊はなすすべもなく霊的構造が崩れ落ち、影の塊が音もなく霧散していく。
「……成仏を。願わくば、光の中で」
細い吐息が、蒸し暑い夜気に淡く溶けていった。
瑠璃の指先に灯っていた淡い光も、祈りの言葉とともに音もたてず消える。
その場に残されたのは、夜風に舞う金色の残滓と、草葉を揺らす虫の声、そしてひとときの静寂。
闇の中に、少女の姿がぼんやりと浮かび上がる。
流れるような漆黒の髪が、しっとりと汗ばんだ首筋に貼りつき、背中へと流れている。
月明かりが夏草の上をやわらかく照らし、髪先がほのかに光を反射した。
繊細な輪郭と切れ長の瞳。細身の体つきは、夏の夜の濃い闇にすっと溶けてしまいそうなほど儚い。
その顔立ちは、思わず目を奪われるほどの美しさを湛えていたが、本人はそのことにまるで無自覚なまま、静かに佇んでいる。
着ているのは、少し色あせたシャツと、膝に擦り切れのあるジーンズ――飾り気もなく、どこか無頓着な装い。
けれど、その質素な服装さえ、彼女の持つ美しさをかえって引き立てていた。
まるで、古い絵画の中で一輪だけ鮮やかに咲く花のように。
指先にはめられたラピスラズリの指輪が、その静謐なたたずまいにほんのわずかな異物感を差し込んでいる。
少女はそっと胸元に手をやる。
シャツの内側に隠していた古びた手帳を取り出すと、指先でその表紙をゆっくり撫でた。
手帳の角は何度も開かれたせいで、すっかり丸く柔らかくなっている。
瑠璃はページを一枚ずつ丁寧にめくり、今しがた祓い終えた場所――
「群馬県高崎市小室神社裏手」と鉛筆で控えた欄の隣に、小さな赤い印を慈しむように記す。
手のひらで朱色のペン先が震えた。
その印は、誰に誇るでもない、彼女だけの証だった。
瑠璃は優しく手帳を閉じ、胸元にしまい込む。
ラピスラズリの指輪がかすかに光を返す。
ふと顔を上げると、木々の隙間から少し離れた団地の明かりが見えた。
窓ごとに灯るそれぞれの光。
きっと今も、いくつもの生活がそこにあって、笑い声や食器の音や、誰かの呼びかけが交錯しているのだろう。
人が住み、日常が続いている場所――その存在を、遠く夜気のざわめきとして耳が捉えていた。
もう誰も、ここで怯えなくていい。
瑠璃は目を閉じ、深く息を吐く。
――家族。
手のひらを、ぎゅっと握りしめる。
幼い頃の面影は、もう蜃気楼の彼方に霞んでいた。
けれど、確かにあったのだ。
かつては瑠璃にも、ともに暮らす人がいた。
二章:比良坂の家
その家には、父・時雄、母・亜紀、長男・直樹――そして十歳ほど年の離れた少女。四人で暮らしていた。
彼女がこの家で最も古く覚えているのは、薄曇りの朝のことだった。
庭の奥には、大きな蔵と小さな蔵が並び、その間を抜けた先に母屋がある。
周囲は雑木林に囲まれ、近所の家まではかなり距離があり、人の往来もほとんどない。
外の物音といえば、風が木々を揺らす音か、遠くの田畑で働く機械の微かな響きくらいだった。
台所では、亜紀が火にかけた鍋をかき混ぜ、湯気とともに汁物の匂いが漂っている。
居間からは時雄のかすかな声が響き、その奥の部屋では直樹が、擦れる音とともに本の頁をめくっている。
けれど、そのどの音も、少女のために開かれることはほとんどなかった。
少女は、いつも大きな蔵の中から、その光景をただ眺めているだけだった。
彼女にとって、「呪いを祓う者」とは、比良坂の人間だけだった。
他の誰かが呪霊を祓ったりできるなどとは、想像すらしたことがない。
お前の価値は祓うことだけだ、外に出ることも、人と関わることも必要ないのだと、小さな頃から繰り返し、擦り込まれるように聞かされてきた。
「他に呪術師なんていない。お前はここにいるしかない。逃げ出すなんて考えるな」
家長のその声音には、問いも、選択も、何ひとつ許さない硬さがあった。
少女は、ただ俯いて頷くしかなかった。
ふとした拍子に、小さな蔵の行李を開けてしまったことがある。
中には、過去の祓いに関する書付や、依頼の受け渡しを示す認証印がびっしりと押された束が収められていた。
表紙には、見覚えのない家の名がいくつも並び、それぞれがどこかで交わされた取引の痕跡のように見えた。
背後から足音が迫る気配に、慌てて引き出しを閉めかけたが、間に合わなかった。
振り向いた瞬間、時雄の手が頬を打つ鋭い音が響く。
「見るなと言っただろう。忘れろ」
その冷たい一言だけを残し、蔵の扉の鍵は固く閉じられた。
少女は、その時のことを二度と思い出すまいと心に決めた――少なくとも、そう思っていた。
――我が家にも、ときおり訪問者があった。
見知らぬ世話人、どこからか仕事を持ち込む依頼人、あるいは支援を申し出る裕福な老人たち。
けれど、そうした者たちが少女の前に姿を現すことは、一度としてなかった。
ふと、幼い頃の手が――蔵の埃を払い、床に転がっていた青い石の指輪を拾い上げた。
誰にも叱られなかった。家の人は誰一人、それに気にも留めなかった。
だからそのラピスラズリの名は、自然と『瑠璃』のものになった。
瑠璃は、小さな掌に収まったそれを、深い青のまま――ひとつの灯として胸にしまった。
家の帳簿や依頼書の写し取りのために必要な一定の学力を身につけ、辛うじて呪力操作ができるようになったある晩のこと。
時雄は蔵の入り口に立ったまま、中で正座している瑠璃に一瞥もくれず、ただ事務的に言い放つ。
「三十番……明日から祓いに出る準備をしておけ。いまでも、囮ぐらいにはなるだろ」
それは相談でも、頼みごとでもなかった。ただの通告だった。
亜紀は焚き火の灰を掃除しながら、ちらりと横目で瑠璃を見やる。
「道具は、その蔵にあるから」
その声色も、どこか淡白だった。
庭奥の直樹は、やりとりを黙って聞いていたのか、それとも無関心を装っていたのか――結局、何も言わなかった。
春の終わりを告げる風が、庭の椿を静かに揺らしていた。
◆
瑠璃が本格的に祓いを行うようになってから、幾ばくかの歳月が流れていた。
ある日の夕暮れ時。
瑠璃は蔵の中で膝を揃えて座り、いつものように自分だけを残して買い物に出かけた三人の帰りを、じっと待っていた。
普段であれば、もうじき、遠くから足音が聞こえてくる頃だ――けれど、その日は違った。
玄関の戸が控えめに叩かれた。
静かな家に、その音が不釣り合いに響く。
瑠璃が、運よく今日は開いていた裏口から回り、怯えと共に戸口を開けると、見慣れぬ制服姿の男が立っていた。
黒い帽子を手に持ち、少しだけ申し訳なさそうな目をしている。
「……近所の方から、妹さんのような方がもう一人いるかもしれない、とお聞きしまして……失礼ですが、ご同居の方、ということでよろしいですか?」
男は低く名乗り、深々と頭を下げた。
その背後には、もう一人、書類を抱えた中年の警官が立っている。
「この家に住む比良坂時雄さん、そのご家族のことで、お伝えしなければならないことがあります。
……ご家族とのご関係についても、念のため確認させていただきたいのですが……」
声が、現実のものとは思えないほど遠く感じられる。
警官はゆっくりと、言葉を選ぶように話し始めた。
「……家族全員が、今朝方……車の事故に遭われて……残念ながら、三人とも……」
その続きを聞いたかどうか、瑠璃にはわからなかった。
体の奥に冷たいものが流れ込む。
警官の声も、家族の輪郭も、すべてが遠ざかっていく。
けれど、涙は出なかった。
――本当は、分かっていた。
この家は、自分の帰依する場所ではなかった。
それでもここにいることを許されてきたのは、役に立つ間だけの、仮の居場所にすぎなかったのだと、瑠璃は薄々気づいていた。
だからこそ――自分を警官たちに問われるのが怖かった。
瑠璃の存在が明らかになれば、誰かが自分を黙らせに来るかもしれない――そんな、息の詰まるような恐怖が、全身を締めつけていた。
その恐怖の軋みが、瑠璃の世界が崩れていく音だった。
「……はい。比良坂さんの遠い親戚で、たまに遊びに来ていました。
みなさん、本当に家族みたいによくしてくださって……。
すみません、今は、少しだけ気持ちを整理する時間をもらえませんか。
あと、比良坂さんのことを家族に知らせたいので」
自分でも驚くほど自然に口から出た嘘だった。
警官は疑う様子もなく、同情をにじませて返事をした。
「……今日は大変だったでしょうから、どうぞご無理なさらず。明日、改めて伺いますね」
瑠璃は、遠ざかる警官たちの背中をぼんやりと見送った。
自分への追及が一旦終わったことに、小さく安堵の息をつく。
すぐに気を取り直し、家の中へと戻る。
まだ手が震えていたが、迷っている暇はなかった。
家中をひっかき回し、目につく限りの金品を手早くかき集め、いつも仕事で使っていた丈夫なバッグに詰め込む。
玄関の方をうかがいながら、物音を立てないように裏口へと向かう。
誰にも見咎められないよう、陰に身を隠しながら、静かに家を抜け出した。
彼女は、二度とこの家に戻らなかった。
なぜなら――もう守られる理由も、帰る場所も、なくなったのだから。
三章:流浪の日々
家を失ってからというもの、瑠璃の暮らしはどこにも根を張ることなく、ただ季節の移ろいに流されるように続いていた。
その間も、噂を頼りに呪霊を祓いながら町から町へと渡り歩く――それしか、自分の生きる理由はなかった。
持ち出してきた金品は、かつて比良坂家が請け負っていた高額報酬の仕事によるもので、かなりの蓄えとなっていた。
だが当然のことながら、それもやがて尽きかけていた。
そんな冬の日の夕方。
外の寒々しさを伝えるように、斜めに淡い光が差すコンビニ。
そこに、自動ドアの開閉にあわせて、冷たい外気がさっと床に滑り込んでくる。
店内には、電子レンジの稼働音と、揚げ物ケースの機械的な温風の唸りがかすかに混じる。
棚の隅では高校生らしき二人が菓子パンを選び、雑誌コーナーには老いた男性がひとり、立ち読みをしていた。
バックヤード内、制服姿の店員が、困惑まみれの表情で履歴書を手に振り返る。
まだ若く、マニュアルに沿った動作に慣れ始めたばかりのような雰囲気だった。
視線の先に立つのは、色褪せたカーキ色のパーカーに、膝の糸がほつれたジーンズ姿の少女。
袖口は擦れて白くなり、足元のスニーカーは土埃を吸ったまま色がくすんでいる。
寒さに縮こまった肩と、漂う古びた布の匂いが、彼女が長く外を歩き続けてきたことを物語っていた。
「……えっと、名字だけですか? 住所は? 学校は? 保険証か学生証、それとも、連絡先に書ける保護者の方はいますか?
せめて名前を教えてください」
一拍の間。
瑠璃は一瞬だけ言葉を探す。
だが、何も出てこない。喉の奥で引っかかるように、言葉の形だけが胸の内に残ったまま、口元は動かずにいた。
名を名乗る、それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
誰にも呼ばれたことのない音を、初めて自分の口から紡ぐことの重たさに、瑠璃はそっと視線を落とした。
店員に躊躇と戸惑いが浮かびあがり、それが、だんだん不審の色に染まりだしてきた。
瑠璃はいたたまれなくなり、店員が手にしている履歴書をそのままに、そそくさと立ち上がった。
「……また来ます」
そう言う声だけが、ガラス越しに店内に残った。
自動ドアの開く音。足元のセンサーが無感情に反応し、店の入店音が響く。
外に出ると、風が強くなっていた。日が落ちかけ、空は藍色に染まり始めている。
街路樹の葉が揺れ、駐輪場の自転車が風にかすかに軋んだ音を立てる。
歩道の隅に立ち尽くしたまま、瑠璃は手のひらに残った履歴書の感触をぼんやりと確かめる。
熱も重みもない、ただの紙。
それでも、その紙に書き込むべき何かを自分が持っていないことが、急に重くのしかかってくる。
冷たい風が足元を撫でて、ずっと昔に捨てたはずの感情が、どこかでざわりと揺れた気がした。
もう一度、歩き出す。
背後では、コンビニの自動ドアが再び開いて、別の客の足音が店内に消えていった。
◆
朝の光がまだ薄く、役所の建物は眠たげな灰色に沈んでいた。
駅前のベンチで食べ残しのパンを手のひらでほぐしながら、瑠璃は窓越しに灯る蛍光灯の明かりをじっと見つめていた。
意を決して立ち上がり、役所の自動ドアをくぐる。
中は外よりも暖かく、消毒液の匂いと新しい紙の気配が満ちている。
窓口の前には順番を待つ人影がまばらに並び、壁際の椅子に老人がひとり、背中を丸めて座っていた。
瑠璃は案内表示に従って一枚の整理券を手に取った。
自分の番号が電光掲示板に点るのを、パーカーの袖に指先を隠しながら、じっと待つ。
まもなく、カウンターの奥で職員がマイク越しに番号を呼んだ。
その瞬間、瑠璃の心臓が小さく跳ねた。
自分のために誰かが番号を読み上げる――たったそれだけのことが、胸の奥をざらつかせる。
立ち上がろうとした足が、ふと止まる。
窓口の奥で事務員が無表情に書類を揃え、誰かがペンを走らせる音が響く。
このまま保護を求めれば、きっと今日の寝床も、明日の食事も約束される。
だが施設に入り、決められた生活を送るのなら、呪霊を追うことはできなくなる。
ほんの短い沈黙のあと、瑠璃は踵を返した。
番号札を丸めて、ポケットに押し込む。
自動ドアの外に出ると、冷たい朝の風が頬を打つ。
歩道に足を踏み出すとき、窓口から微かに番号を再度呼ぶ声が、こだましていた。
けれど瑠璃は振り返らなかった。
◆
瑠璃のポケットには、乾いた紙幣が数枚入っていた。
それがどのようにして手に入ったものか、いまではもう、ぼんやりとしか思い出せない。
路地裏をすり抜け、夜の繁華街を漂うたびに、彼女の手のひらにはいつも同じ重さの札が残る。
紙幣の感触は、はじめは恐ろしく生々しく、手の温もりが消えるほど冷たかったが、いつの間にか、その感覚さえも麻痺していた。
自分を証明するものを何ひとつ持たない瑠璃は、孤独に夜の街を歩き続けるしか、生活の手段を持てなかった。
幸い、彼女の美貌は金額にも引き合いにも困らなかった。
気づけば、相手の顔も数も、すべてが記憶の底に沈んでいた。
ある夜、路地の奥で、小さな女の子がしゃがみこんでいた。
背後には、誰にも見えない黒い手が伸びている。
「比良坂流・序の結印――《
瑠璃は小声で祝詞を唱え、指を結び、黒い手を光に包んだ。
女の子はくしゃみをひとつして、何も知らないまま駆けていった。
胸の奥に、確かな達成感がじわりと広がった。
あの子は助かった――それだけで、今日までのすべてが報われた気がする。
けれど、その温もりの端には、代償として差し出してきたものが残した、深い倦怠がひそんでいた。
救っても、世界は何ひとつ変わらないのでは――そんな思いが、じわじわと胸の奥に沈殿していく。
それでも、自分が呪霊を祓い続けなければ、この世は呪いに満たされてしまう。
その思いだけが、彼女を前へと駆り立てていた。
四章:比良坂瑠璃・続
そして――今。
夜明け前の静けさの中、瑠璃は薄暗い坂道を歩いていた。
過ぎ去った日々の記憶が、霧のように心の奥で揺れている。
手帳のページは何度もめくられ、角がすっかり丸くなっていた。
その中のひとつ、まだ印がついていない住所、栃木県日光の今市――それが、次に目指す町の名前。
「そこの廃工場に霊がいる」
ふと耳にしたのは、古びたバス停で雨宿りしていた夜のことだった。
すれ違いざまの誰かの囁き、会話の断片。
確かな証拠はどこにもない。
けれど、誰にも注目されない曖昧な噂でも、瑠璃にとっては十分な理由になる。
たとえ何もいないかもしれない場所でも、わずかな気配を信じて赴く。
そうすることだけが、今の自分を支える唯一の生き方だった。
昨日の昼間、隣の団地で見かけた無邪気な子どもの挨拶が、ふいに胸によみがえった。
「おねーちゃん! こんにちわー!」
もし自分が祓っていなかったら、数週間後にはあの子も犠牲になっていたのかもしれない――
そんなことを思えば、今までの孤独な日々も、決して無駄ではなかった気がした。
冷たい朝の空気が頬を撫で、遠くの山の稜線が薄紅に染まり始める。
闇が明け、新たな一日が静かに始まろうとしていた。
「……まだ、行ける。私は……呪術師だから」
その声は風にかき消されるほど小さかったが、胸の奥には、薄く意志の輪郭が残っていた。
誰に褒められるでも、認められるでもなくていい。
瑠璃は、今日もまた呪霊を祓う。
五章:広がる世界
午前中の曇り空が、割れた天窓から薄く差し込んでいた。
錆びた鉄骨がむき出しになった廃工場の内部は、冷えた空気と油の匂いがこもっている。
ひび割れたコンクリートの床には、雨水が染み込み黒ずんだ跡が点々と残り、足音を立てるたびに乾いた埃が舞い上がった。
瑠璃は胸元の手帳をぎゅっと握りしめ、崩れかけた作業台の横を抜け、奥に続く錆びた鉄柵のほうへと進む。
柵の向こうには、使われなくなった搬入口が口を開けており、薄暗い外光が地面に四角く落ちていた。
どこからともなく、トタン板が風に叩かれる乾いた音が響く。
それ以外には、何も聞こえない。
廃工場全体が、時間から取り残されたように静まり返っていた。
冷たい空気が肌にまとわりつき、髪の先にわずかに湿り気が集まる。
だが――
どれだけ目を凝らしても、重苦しい呪霊の気配はどこにもない。
いつもなら肌で感じるはずの、空気のざらつきや微かな違和感すら見当たらない。
結界の歪みもなく、近くを流れる清らかな川の流れが、無関係そうにゆっくりと音を立てていた。
「……ただの噂だったのかな」
かすかな落胆を胸に、瑠璃は踵を返そうとする。
そのとき、背後から静かな声がした。
「呪霊を探しに来たのですか?」
反射的に振り向くと、そこにはスーツ姿の男が立っていた。
二十代後半から三十代、背丈はやや低め。無造作な黒髪に、四角いメガネが印象的。
細身で頬が痩けているため、威圧感はないが、どこか事務的な雰囲気をまとっている。
男は淡々と名乗る――その肩書きは、瑠璃の想像を越えていた。
さらにそれに続く言葉は瑠璃にとって、思いもよらない内容だった。
「東京都立呪術高等専門学校、補助監督官の伊地知です。
呪術師の方ですね? この場所は、うちの生徒が昨夜すでに対処済みなのですが……」
そのまま、瑠璃の胸元の手帳に目を向ける。
「それは、記録用手帳ですか? ……少し気になることがあって、拝見してもよろしいでしょうか?」
想定外の事態に言葉を失い、困惑の霧の中をさまようようにして、瑠璃はおずおずと手帳を差し出した。
その動揺を汲み取ったのか、伊地知は慎重な手つきで受け取ると、中身を丁寧に確認する。
数ページを丁寧にめくりながら、伊地知はスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかけた。
ページの一部を指で押さえながら、そこに記された印について、落ち着いた声で読み上げる。
電話の相手から何らかの返答があり、伊地知は真剣な面持ちで耳を傾けた。
「……やはり。我々が派遣した現場ですね。
既に祓われていたため、少し不可解に感じていたとのことです」
手帳を返しながら、伊地知は瑠璃の顔を見る。
視線は揺れ、唇は何かを言いかけて止まっている。
それは、知らない者の反応だった。
伊地知はようやく確信する。
彼女は、この世界の仕組みそのものを、何ひとつ知らずにここまで来たのだ。
困ったように視線を伏せると、伊地知は口を開いた。
「……あなた以外にも、呪霊を祓っている人はいます。……ええ、組織として対応しています」
その言葉が、瑠璃の胸の奥に黒く冷たい染みのように広がっていく――いや、染みなどではなかった。
炎だ。音もなく燃え広がる絶望の炎が、腹の底から喉元まで突き上げてくる。
指先が震えた。
真実の証だったはずの赤い印が、にじんで、ゆがんで、まるで嘘のように見えた。
瑠璃には、それが自分をあざ笑っているように思えた。
瑠璃の心が慟哭する。
『……あんなに、あんなにも、必死に祓ってきたのに。
それだけが、世界とつながっていられる唯一の証だったのに。
見せるつもりも、褒められるつもりもなかった。
ただ、自分自身にだけは、「ここにいていい」と言ってやりたかっただけなのに。
それすら――他人の手のひらで、何の意味もなさないものだった』
喉の奥が焼けるように熱くなり、言葉が押し出された。
生まれて初めて、瑠璃は心の底から叫んだ。
「そんなこと、ないッ!!」
お前はここにいるしかない。逃げるな――そう教えられてきた。
けれど、目の前にいる男の話を聞けば、自分以外にも呪霊を祓う者がいた。
しかも、大規模な機関として、組織的に。
本当は、うすうす気づいていた。
幼いころ、蔵の奥で見かけた、見知らぬ家の名が記された書類――少し考えるだけで当然わかることだった。
それでも瑠璃は、その可能性からずっと目を背けてきた。
祓わなければ、誰も祓わない――ずっと、それが自分の居てもいい理由だと思っていた。
だが、現実はただ、他人の仕事を横から奪っていただけだった。
足元の地面が抜けるように、支えが音もなく崩れ落ちていく。
――どこにも、私はいなかった――
「よろしければ、私の方から総監部に連絡いたします。登録の件、ご同意いただければ同行も――」
伊地知の声は、努めて平静を装いながらも、わずかに急いていた。
けれど、その音はもう瑠璃の耳には届かなかった。
水の底で響くようにくぐもり、形を成さないまま遠ざかっていく。
彼女は何も言わず、その場を足早に去った。
呼び止める声が背後から追いかけてきたが、もう彼女には振り返る気力すら残っていなかった。
六章:夏の終わり
伊地知と別れたあと、瑠璃は何時間も、あてもなく川岸を歩き続けていた。
交わした言葉が、胸の中で何度も反芻される。
けれど、そのたびに音が薄れ、意味の輪郭は白くかすれていった。
残るのは、重く澱んだ沈黙だけ。
川面は、日の光を一瞬だけ抱いたあと、すぐに鉛色へと沈んでいく。
救ったはずの子供の笑顔が、ふいに脳裏をかすめる――だが、その輪郭は霧のようにほどけて消えた。
夜に祓った呪霊の影も、数珠のかすかな音も、湿った土の匂いも、すべては跡形を残さない。
それらは、投げた石が水面に触れる前に消えるように、何一つ波紋を立てなかった。
手帳の中には、まだ赤い印のない住所がいくつも残っている。
けれど、そのページはもう白紙にしか見えない。
そこへ赴いても、何も変わらない――祓わなくても、よかったんだ。
そう思った瞬間、胸の奥に、やけに軽い穴がひらく。
指先から力がすっと抜け、手帳の重さだけが残る。
自分がこの世から溶けてしまってもいいという思いが、じわりと全身に広がっていく。
もう、十分だ――もう、いい。
川風が、その言葉を胸の底へ押し流していく。
瑠璃は、胸元から手帳を取り出す。
手帳の一番奥に、自分の字で『比良坂瑠璃』と書きつけた。
書きながら、瑠璃はふとラピスラズリの指輪を親指で撫でる。
どれだけ困窮しても手放せなかった、たったひとつの宝物。
ラピスラズリ、日本語で『瑠璃』――せめて最後だけは、この名前を、この世に残しておきたかった。
瑠璃は、一片の紙を取り出す――誰かに残す言葉など、瑠璃は最初から用意していない。
これは誰かに訴えるためのものではない。
ここまで歩いてきたことの結果を記す一片の紙。
滑稽でも、空虚でも、それが瑠璃だったという痕跡。
指輪と紙片を封筒に入れ手帳に挟み、ベンチの下に別れを惜しむように置く。
その動作は静かで、誰にも気づかれないほど自然だった。
シャツの裾が風に舞う。
橋の上へと、足を運ぶ。
世界の輪郭が曇り、遠くの車音だけが細く残った。
その一方で、川泥と鉄の匂いだけが強くなり、瑠璃の鼻先をついた。
欄干の前で、瑠璃は立ち尽くした。
動けない時間が、ゆっくりと流れていく。
鉄の冷たさに指先をあずける。
もう、自分の体温と、どちらがどちらかわからない。
世界は静止し、空気がやわらかく、遠ざかっていく。
……本当にこれでいいのか?
そんな声が胸の奥に、微かに灯り、欄干にかけた指が、わずかに浮いた。
そのとき、川面の向こうから、一羽の白鷺がゆっくりと飛んできた。
あの翼の先に、知らない朝がある――そんな気が、ほんのわずかに胸をかすめる。
けれど、その思いは風に撫でられるうちに薄れていった。
それとともに、指先の温もりが奪われ、胸の灯は音もなくしぼんでいった。
下を見ると、橋から河川敷までの距離は、思ったよりもずっと深い。
空気がそこに口を開け、こちらを招き入れるように静かに待っている。
瑠璃は、小さく、口角を上げて笑った。
それは自嘲でも絶望でもなく、終わりの輪郭を指でなぞる――静謐な儀式だった。
「……成仏を。願わくば、光の中で」
最後の言葉を祈るように漏らすと、彼女は音もなく欄干を越えた。
世界が反転し、時が止まる。
重力も、記憶も、痛みも、すべてが消える。
ただ、夏の終わりの曇り空だけが、やけに近く感じられた。
七章:ある補助監督官の報告
後日、その記録は一枚の報告書としてまとめられることになる。
それは、淡々とした事務的文章の中に、補助監督官のわだかまりがわずかに滲んでいた。
◆
報告書 第0547
分類:旧家系記録・断絶呪術家系調査報告書
提出先:総監部記録管理局
報告者:補助監督官 伊地知潔高(東京校所属)
提出日:2018年10月1日
件名:
比良坂家家系出身術師《比良坂瑠璃》に関する記録および死亡報告
概要:
本報告書は、かつて関東、東北地域にて独立した祓い活動を行っていたと推察される女性呪術師(以下、《瑠璃》と記載)について、
術式使用反応および呪力痕跡の追跡調査を通じ、その経歴と最終状況を記録するものである。
一、対象個人について
所轄自治体への照会の結果、《瑠璃》と呼称される人物については、戸籍登録・公的記録が一切確認できず、年齢・出生地・親族等の詳細も判明しなかった。
死亡現場に残されていた手帳に記載された名前を唯一の手がかりとして、当該人物を「比良坂瑠璃」と認定した。
少なくとも過去三年間、独自に呪霊の祓い活動を行っていた形跡が、呪力感知記録および一般市民への影響調査から確認された。
二、術式・能力について
認定された氏名から、当人がかつて呪術界と関係を有していた比良坂家の系譜に属する可能性が推定された。
比良坂家に関する過去記録および術技資料を参照した結果、同家系の呪術的特徴は以下の通りである:
・祈祷的動作を伴う儀礼的な所作
・光属性に分類される呪力残滓
・呪力行使時に観測される小規模な祓念現象
これらの特徴から、比良坂家は術式に依存せず、伝統的な呪術儀礼に近い技術体系――いわゆる「型」と呼ばれる反復性の高い呪力操作法――を主体とする流派的構造を有していたと推定される。
また、儀式的な所作や結界技術の併用、術式発動における所作の反復性などから、呪術界における「シン陰流」などの実戦技術流派と類似する技術系譜に属するものと評価される。
一方、現場周辺に残された呪力痕跡、結界構造の残留、呪具の配置、ならびに当補助監督官による目撃証言をもとに、当該人物が実際に使用していたと見られる術技を分析・照合したところ、
その所作・呪力傾向・結界技術・儀礼構造は、前述の比良坂家術技資料と極めて高い一致を示した。
以上の各照合結果および技術的一致をもって、当該人物は比良坂家に連なる術技の実質的後継者であると認定する。
三、比良坂家家系について
対象は比良坂家の出身と目されるが、当家系は明治以降に、呪術界との縁を一方的に断っていたことが確認された。
そのため、現代における存命術師の存在自体が把握されておらず、結果的に保護・支援の対象外であった。
また、比良坂家は、術式を持たず、呪術の伝承において血縁を絶対視せず、外部の者にも技術や儀礼を継承していた、呪術界ではきわめて稀な非血縁型伝承の家系であった。
近年まで、人身や業務の斡旋を担う民間仲介業者が介在し、比良坂家に呪い祓い等の依頼を流していた形跡が複数確認されている。
これらは正規の呪術師制度から外れた支援であり、対価についても法外な報酬が民間側から要求されていたとの証言・記録が残る。
結果として、比良坂家は公式呪術界からも社会的支援からも切り離されたまま、民間仲介業者を介した依頼で生計を立てていたことが推察される。
比良坂家と関わりのあった人身斡旋業者が残した納品済み書類のうち、《瑠璃》と一致する特徴を持つ幼児の写真が添付された「No.30」記載の納品書が存在していたことをここに付記する。
当該記録の詳細については引き続き照会中であるが、これにより当人の出自について一定の傍証が得られたものと判断される。
四、接触・経緯
2018年9月、栃木県日光市内にて局所的な呪力反応の異常増幅を観測。
本部指令に基づき、東京都立呪術高等専門学校より術師および当補助監督官を派遣し、現場にて呪霊を祓除した。
その後《瑠璃》が、現場整理中の当補助監督官と、鉢合わせる形で現場に到着した。
現場の呪霊がすでに祓除されていた事実を認識した際、本人は明らかに強い困惑と動揺の表情を示した。
敵意を認めなかったため情報交換を実施し、あわせて本人の同意を得て《瑠璃》の所持する手帳を一時的に拝見、記載内容について記録係に照会した。
手帳内に記録された祓除案件は、総監部が当時すでに情報を把握し、派遣予定リストに登録していた現場と一致していた。
総監部は、公式派遣の有無にかかわらず、術師が赴く必要のある呪霊発生地点については、当然ながら事前に監視・記録している。
よって、当該人物が独自に活動していた案件は、結果として本校の公式対応予定案件と広範に重複していたことが確認された。
照会結果を本人に伝達した際、当人は呆然とした反応を見せた後、突発的な感情発露とともに声を荒らげる場面が確認された。
その後、呼び止めおよび制止にも応じず、明確な返答を示すことなく、そのまま現場を速やかに離脱。
以降の追跡・接触は行っていなかった。
※当人の動揺に鑑み静観を選択したが、その判断により接触機会を失したことは、今後の対応指針として反省すべき事例と捉えている。
五、死亡確認
同日、付近の橋梁下にて、《瑠璃》の死体を確認。
現場付近のベンチ下には、接触時に確認された同一の手帳が残されており、手帳に挟まれた封筒内に、ラピスラズリ製の指輪と簡易な遺書に類する記録が存在した。
遺書には「無意味だった」の六文字のみが記されていた。
現場の死亡状況と証拠物の内容により、当人は自死に至った可能性が高いと判断される。
六、結論と対応
・当該人物は、呪術界との縁を断たれた旧家系出身の術師であり、長らく認知外の状態であった。
・活動記録より、複数年にわたり関東~東北エリアにて独自の祓除活動を継続していた事実が認められる。
・近年における、構造的な呪術師不足を鑑みるに。《瑠璃》の独立活動による一般被害低減については、評価の余地があるものと考えられる。
・なお、正規監査体制の不備および家系断絶措置の影響により、適正な保護・支援体制が構築されなかった点については、制度上の死角として今後の課題とする。
これを受け、総監部において非登録術師への再調査、および、最低限の記録保管義務の再考を提案する。
備考:
呪術高専東京校所属の一年生三名より、個人的な調査および現場への慰霊行動の申請があり、
五条悟教諭の裁量により黙認された旨を記録する。
以上。
八章:成仏を。願わくば、光の中で
10月初旬。
橋の上を渡る風は、しっかりと涼しさを帯び始め、頬に触れるたびに秋の深まりを感じさせた。
空にはうろこ雲が流れ、どこか澄んだ青が高く広がっている。
川面は淡い陽射しをちらちらと反射しながら、ゆるやかに波打っている。
街の喧騒は遠く、ここだけが季節の狭間に取り残されたような静けさに包まれていた。
そんな中、三つの人影が、ゆっくりと橋の手前に現れる。
足音はほとんど響かず、秋の空気に溶けていくような歩みだった。
欄干の向こうには、色褪せた夏草に交じって、すすきの穂や萩の花が風に揺れている。
川沿いの桜並木も、葉の端がはっきりと色づきはじめ、落葉がちらほらと舞い始めていた。
「……ここだったな、記録にあった」
伏黒が低く呟く。その手には、折り目正しく包まれた一輪の白椿があった。
彼の表情は、いつも以上に硬い。それは、淡々とした任務の顔ではなく、どこか遠い誰かに敬意を払おうとする気配だった。
虎杖は無言で橋の親柱に手をかける。
指先で鉄の感触を確かめ、じっと川面を見下ろした。
日中の名残のわずかな温もりを残しつつも、冷たさがゆっくりと肌に染みていく。
しばし沈黙が続いたあと、虎杖がぽつりと呟く。
「伊地知さん、悔やんでたよ。あのとき、強引にでも引き止めてればって」
彼の手の中には、道の駅で買ったばかりの小さな花束。
地元のミスミソウが、控えめな彩りを添えている。
派手さはないが、そのささやかさが、かつてここに立っていた呪術師にふさわしいと思えた。
もう一つ、紅の百日紅・淡いスターチス・白いマーガレットを束ねた花束。
それぞれに、二年生たちの想いが託されている。
釘崎が口を開く。
「バカみたいに、まっすぐだったんだね。最後の最後までさ」
その手には、小さな紫のスミレが握られていた。
まるで、ほんの短い季節だけ咲く花の儚さのように――。
三人は、少しの間だけ黙ったまま、並んで橋の半ばまで歩みを進める。
誰にも気づかれず、誰にも知られずに、ただひとり祓いを続けていた呪術師――その生の果ての場所。
その人生の終わりが、たった六文字の言葉で語られていたことを、三人はそれぞれの胸の奥で思い返していた。
名も、声も、ほとんど何も遺さずに、ただ空気のように消えていったその人の生。
その儚さが、秋の澄んだ風とともに、三人の周囲をゆっくりと流れていく。
「でもさ」
沈黙を破ったのは虎杖だった。
ぽつりと漏らしたその声は、いつもよりほんの少しだけ掠れている。
「『無意味だった』なんてことはない。だって、結果、助かってた人も結構いたって報告じゃん」
伏黒は、ふっと口元を緩めて頷いた。
「……そうだな。意味があったって、信じていいはずだ。
俺たちが戦う理由と、彼女が戦ってた理由は、違ったのかもしれない。
でも、根っこは同じだったはずだ」
釘崎は肩で風を受けながら、小さく息をつき、二人に顔を向ける。
「私が、比良坂瑠璃の人生は無意味じゃなかったって思うんだから、無意味じゃない。私がそう決めた。以上」
瑠璃――呼ばれたことのなかった名が、ようやく風に乗って、ほんの少しだけ、この世界に馴染んだ気がした。
釘崎の言葉が、秋の空気にゆっくり溶けたあと、三人は無言のまま、手にした花を並べて欄干に添えた。
川面に流れるやわらかな陽射しが、花の彩りを優しく照らした。
わずかに鼻をつく花の香りが、乾いた風に運ばれて消えていく。
「成仏を。願わくば、光の中で」
釘崎の口から漏れたその言葉は、瑠璃の手帳に何度も繰り返し書かれていた祈りの言葉。
それは、ただの弔い以上に、彼女の魂に向けた精一杯の手向けだった。
三人は、しばらくその場に立ち尽くす。
時間が止まったような感覚の中で、遠く車の音だけが微かに響く。
街の騒がしさも、呪術師としての日々の慌ただしさも、この一瞬だけは遠い。
欄干に残された花々だけが、かつてここで誰かがその命を終えたことを、静かに物語っている。
やがて虎杖が、小さく笑みを漏らした。
「これで、少しは報われるかな。少なくとも、もう誰にも知られずに、なんてことはないからさ」
そう言って、虎杖は欄干から少し身を乗り出し、川向うに視線をはせる。
伏黒と釘崎も、自然とその隣に並び、同じ方向を見やった。
やがて視線の先に、一羽の白鷺が舞い上がる。
日の光をその翼に受け、ゆっくりと空へと溶けていくその姿が、三人の沈黙をそっとつなぐ。
言葉はなかったが、その沈黙こそが、確かな同意だった。
伏黒が、ふと息を漏らし一歩だけ歩き出す。
その背中は、どこか誇らしさと哀しさを両方まとっている。
「行こう。俺たちには、まだやることが残ってる。
明日、新田さんと埼玉に調査派遣だったはずだ」
三人はゆっくりと橋を後にした。
風が欄干に置かれた花を揺らし、やがて川面へと消えていく。
誰かが、この川を渡るとき、その花に気づくかもしれない。
あるいは、誰にも気づかれないまま風に運ばれていくだけかもしれない。
それでいい。
たとえ誰に気づかれなくても、瑠璃はもう、この世界の風の中に、そっと溶けている。
そう感じさせてくれる祈りと、やさしい想いが、確かにそこにはあった。