悪役令嬢は二度、運命を書き換える 作:ベル
礼拝堂の静寂を切り裂く、ペンダントのまばゆい光。その光は、エリザベートの存在をかき消そうとする闇を押し返し、胸元で激しく脈動した。
赤い目は彼女を貫くが、その視線はわずかに弱まっている。
カイラスの声が、憎悪と焦燥をにじませて響く。
「愚かな……! この程度の力で、我が主の意思を覆せると思うか?」
その声には、冷たい嘲りが込められていた。
「お前が藻掻けば藻掻くほど、魔王の目覚めは加速する。記憶は消え、物語は闇に堕ちるだろう! 後悔しても遅いぞ、娘よ!」
カイラスの言葉は、まるで鋭い針のようにエリザベートの脳裏を貫き、激しい痛みが走る。
アルフレッドとの誓いの記憶が、まるで砂のように指の間から零れ落ちていく感覚だった。
彩花としての「私」は、その喪失に抗うように意識を保とうとする。
エリザベートの奥底から込み上げる悲しみと焦りが、彩花の心臓を締めつける。全身の血が凍りつき、呼吸すらままならない。
「黙りなさい!」
エリザベートは痛みに耐え、扇を構え直した。
彩花の心とエリザベートとしての誇り、そして聖なる家門としての使命感と、まるで細胞レベルで二つの魂が深く融合していく。
彼女は意識の奥底で、一つの未来を明確に描く。
破滅を回避し、愛する者を守る。それは、もはや「彼女の物語」というより、「私たちの物語」という感覚だった。
(カイラスは魔王の使徒。彼の目的は魔王の復活。このペンダントが魔王を封じた「楔」だというのなら、私の魂が鍵だわ)
(彩花としてこの物語を書き、エリザベートとしてこの世界に立つ限り、結末は変えられる!)
ペンダントが再び強く光り、エリザベートの体から紫色の魔力の粒子が立ち上る。それは、削り取られようとする記憶に抗うかのように、彼女の意識を鮮明にした。
彼女の内に宿る魔力がペンダントの輝きと共鳴し、礼拝堂の空気を震わせた。床の石が軋み、ステンドグラスの破片が微かに震えた。
「あなたたちは、私から何も奪えない。この物語の作者は、この私なのだから!」
その言葉とともに、彼女の全身から紫色の魔力が迸り、魔法陣へと流れ込む。
それまで不気味に蠢いていた魔法陣の線が、紫色の光に飲み込まれ、その力が急速に収縮していくのが見て取れた。
魔法陣から放たれていた冷気と瘴気がみるみる薄れ、礼拝堂の空気が澄んでいく。
カイラスは驚愕に目を見開き、彼の指輪が脈動を止める。赤い目は激しく揺らぎ、苦痛に歪むかのようにその輝きを失っていく。
「ば、馬鹿な……! 魔王の力に、何故、そこまで抗えるのだ!?」
カイラスの声には、動揺と理解できないものへの根深い恐怖が混じっていた。絶対的な存在が初めて敗北を味わうような、信じられない響きだった。
「まさか……そのような存在が、この世界にいるとは……! お前は、一体、何者だ!?」
「私は内田彩花。この物語の――エリザベート・フォン・ルミエールの物語の作者よ!」
エリザベートは高らかに宣言し、魔力を集中させる。魔法陣の中心から紫色の光の奔流が噴出し、礼拝堂全体を包み込んだ。
それは闇を浄化するかのように広がり、壁に刻まれた崩れかけた王国の紋章を、一瞬だけ本来の輝きに戻した。
カイラスは悲鳴を上げて後ずさり、光に身を焦がされる体を闇の中へ沈めて消えた。
赤い目は完全に消え去り、魔法陣は静かにその輝きを失った。
魔法陣が消滅した瞬間、エリザベートの胸には、全身を駆け巡る疲労感とともに、深い安堵の波が押し寄せた。
彼女の唇からは、かすかな吐息が漏れた。
そして引き戻される感覚の浮遊感に包まれる。
「時間切れなの?」
私はまた、元の世界へと舞い戻っていた。
◆
『彩花、今年はお兄ちゃんたちもお戻ってくるから、会いたがってたわよ』
「うん、ちゃんと帰るよお母さん。休暇も貰えたから」
『売れっ子のあんたが戻ってきたらみんな喜ぶよ』
「あのさ、お祖母ちゃんのことだけど」
『なんだい?』
「えっと、お墓参りに行きたいかなって」
『うんうん、いいわよ』
「よかった」
母との電話を切り、飛行機のチケットを予約する。
試写会から一週間──再度夢に潜った日の記憶と興奮はまだ残っている。
故郷に帰る予定は本当はなかったけれど確かめたいことがあった。
実家に残る祖母の記憶を辿る。このペンダントを持つ意味を確かめたかった。
「答えがあるかはわからないけど──」
枕元に座りペンダントに触れる。
帰るのだから古い馴染みに会うのもいいだろう。
LINEに打ち込んでほどなく返事が来る。親友と会う約束をして準備は万端だ。
「エリザベートの情報ももっと集めないとね」
今夜また、夢の世界にダイブできるかの確証はないけれど覚悟を決めた。
◆
次に目覚めた時、彩花は再び宮廷の裁きの間に立っていた。豪華なドレスの感触が、今度は体にしっくりと馴染んでいる。
貴族たちのざわめきが響くが、以前のような敵意に満ちた視線は感じられない。
その場の空気は、重苦しい静寂と、期待にも似た緊張に支配されていた。
(どういうこと? 時間が巻き戻っているの? それとも違う時間軸?)
あの冒頭の一方的な裁きの空気とはまるで異なる。様子を窺うためエリザベートとして沈黙を選ぶことにする。
「エリザベート様、ご無事ですか!」
耳慣れない声に、エリザベートは目を見張る。
そこには、リリアの侍女エマが、涙を浮かべて立っていた。彼女の顔には、恐怖と安堵が入り混じった表情が浮かんでいる。
(エマ? どうしてここに……?)
困惑するエリザベートの視界に、アルフレッドの姿が飛び込んできた。
彼は裁きの間の中心に立ち、その氷のような青い瞳は、以前よりもわずかに穏やかだ。だが、その奥には、決意と、まだ秘められた苦悩が垣間見える。
「エリザベート・フォン・ルミエール。先の裁きにおいて、私が君を疑ってしまったことを詫びる」
アルフレッドの言葉に、会場にどよめきが走る。貴族たちは、互いに顔を見合わせ、信じられないといった表情を浮かべていた。
あの冷徹な氷の公爵が、聖なる家門のエリザベートに頭を下げたのだ。彼らの視線は、もはやエリザベートへの敵意ではなく、驚きと戸惑いに満ちていた。
安堵のため息を漏らす者もいれば、密かに顔を青ざめさせる者もいた。あちこちで「一体、何が起こっているんだ?」という囁きが、ざわめきに混じる。
中には、不満げに腕を組む貴族の姿もあった。
「エマが、すべてを話してくれた。リリアが魔王との書簡を偽装し、君を陥れようとしていたこと。そして、リリアを操っていた真の黒幕の存在も」
エマは震える声で話し始めた。リリアが、聖なる家門の力を恐れる貴族たちに唆され、魔王の復活を信じ込ませていたこと。
そして、リリアの背後にいるのは、王国を掌握しようとする古くからの貴族派閥であること。
「リリア様は、私を脅して……書簡を偽造させたのです。でも、エリザベート様が礼拝堂で……その、何かをなさった後、突然、私の中の何かが弾けて……まるで、深い霧が晴れたかのように、自分がしていたことの恐ろしさに気づきました」
エマは混乱した様子で言葉を選ぶ。
彩花には、エマが礼拝堂での魔法陣の異変によって、精神的な支配から解放されたのだと直感できた。
それは、彩花の「物語を書き換える」という強い意志が、現実世界にも影響を及ぼした証拠だった。
アルフレッドはエマの証言を聞き、静かに頷く。彼の視線がエリザベートに向けられる。
「君は、我々が気づかないところで、この王国の危機を救っていたのかもしれない」
その言葉に、エリザベートの胸に温かいものが込み上げた。アルフレッドの瞳の奥には、以前には見られなかった信頼と、微かな安堵の色が見て取れる。
それは、彼女が望んだ未来の一片だった。
エリザベートの心に宿る喜びと、彩花の心に湧き上がる達成感が、深く混じり合い、温かい波となって膨れ上がった。
(この展開は、原作にはなかった! 私が、本当に物語を変えたんだ! この手応えこそ、私が物語を紡ぎ直している証拠だわ!)
ペンダントが微かに温かさを帯びる。記憶の奥に、アルフレッドとの誓いが、以前よりも鮮明に蘇った。
血を流すアルフレッドが「君を守る、たとえ世界を敵にしても」と囁いたあの光景。それは幻ではなかったのだ。
彩花の心の中で、エリザベートのアルフレッドへの想いが、確かな現実味を帯びていく。彼女の小説のキャラクターが、今、目の前で、彼女の意志によって生きている。
「公爵様も、ようやく真実に気づかれたようね」
エリザベートは扇で口元を隠し、はにかむように微笑んだ。彼女を見守るアルフレッドの口元に、微かな笑みが浮かんだような気がした。