しかし先生はある日、人様の財産である家畜に手をつけ、いつもやっているように破壊行為を犯してしまった。
そして人様をも傷つけてしまい、罪人となった。
わたしは何度か、先生が収監された網走へ、面会を申し込んだ。
しかし応対は曖昧で、別の監獄へ移送されたとか、元々そんな囚人は居ないとか、とにかく先生に会う事はできなかった。
後になって思えば、その時先生は本当に、もう網走には居なかったのかもしれない。
先生がわたしの元に帰ってきたのは、夏がもうすぐ終わる、ある夕暮れだった。
嬉しすぎて、何をどう言ったか全く覚えていない。
ただただ、泣いた。
泣いたまま、お風呂の用意をした。
どこをどう歩いて、先生はここまで歩いて帰って来たのだろう。
いつものようにフィールドワークに出かけた、あの日の荷物も服も全て無くなっていた。
先生の愛する自然は、美しいだけではない。
ひと度凶暴な牙を剥けば、丸腰の人間などその存在は無に等しい。
荒ぶる強大な力の前には、抗う術など、無いのだ。
ここまで戻る過酷な道中は、野趣溢れるなどという生半可な表現では済まないに違いない。
ボロボロになった橙色の羽織ものを、先生が脱いだ。
その体を見たわたしは、一瞬で体中の血の気が引くのを感じた。
背中から胸までも凶々しく刻まれた、気味の悪い、理解に苦しむ大きな刺青。
繊細で心やさしい先生が過ごしてきた監獄の生活は、わたしの想像など及びもしないほど苦痛だったはずだ。
あげく、こんな傷までつけられて。
わたしは、気絶しそうなほどの怒りを覚えた。
言葉にならない悲しみで先生の手を握ったまま跪き、震えながら顔を見上げた。
そんな私からそっと目を逸らし、先生は表情を隠した。
やがて私の手を取り、両手を合わせて一度だけぎゅっと握り返し、次いでほぐすように、自ら離れた。
「これのおかげで脱獄できたのだから」と先生は穏やかに呟き、わたしの頭を二度三度、大きく円を描くようにゆっくりと撫でた。
そして羽織のポケットから「この子だけは、ずっと持っていたんですよ」と、紐のついたふぅちゃんをしゅるっ、と勢いよく取り出した。
それをわたしの目の前にプラプラとかざし、悪戯な目でニッと笑ったのだった。
私が泣きながら笑うのを見て先生は、
「ああ良かったようやく笑ってくれた」と、自分も苦笑していた。
その日からしばらく、とても平穏な日々が続いた。
先生の怪我は少しずつ良くなり、笑い合うことも増えて来た。
包帯が取れるようになると、あなたの作る手料理はいいと、何だか食事を褒め始めた。
わたしが謙遜すると先生は、「栄養たっぷりでね」と肩をすくめ、片目をパチリと閉じた。
「相変わらず見た目はアレですからね」
わたしが膨れっ面を見せながら笑うと、美味しいからいいんですと言いながら、先生はわたしから目を逸らし、お味噌汁に目を落とした。
そして汁を盛大にずずずと音をたてて啜り「とても、美味しいよ」と聞こえるか聞こえないほどの小声で、呟いていた。
わたしは何年経っても、あまり綺麗な料理を作れるとは言えない人間だった。
煮物はゴテゴテとしていて、どこか見苦しい。
焼き物をすれば、生焼けが怖くて焼きすぎ、いつも焦げ焦げになる。
そして先生は、自分の気持ちに方便でも嘘のつける人ではない。
その先生が、わたしの料理を褒めてくれる。
柔らかで正直で、そんな優しい気持ちが嬉しくて、わたしはやっぱりこの人のことが。
とても、好きだと、思った。
少しずつ、秋が近づいてくる。
先生が私に、新しいゴム長靴と外套を発注するよう言って来た。
毎年冬は、先生は論文を書くため外には出ない人だったのに、何に使うのだろう。
体力が戻ったら、先生はまたここを飛び出して行くつもりなのだろうか。
待ち続けて不安な思いをするのなら、それはもう、嫌だと思った。
わたしは、先生にはどこにも行って欲しくないと、思い始めていた。
いつもより一際星の瞬きが激しい、空気の澄み切った夜のことだった。
降り注ぐほどの満天の星空を見上げながら、先生に聞いておこうと思った。
また出かけるつもりなのか、あるとすればどこへ、いつ、何のために。
先生の追い求める「美しい世界」は、どこまで探しに行けば気が済むんだろう。
どうしても、行かなくちゃいけないんだろうか。
冬になれば、多くの動物も植物も、眠りにつくのでは?
探しに行っても、わたしは、何もいないと思う。
この閉じられた雪の深い街の外れには、先生とわたしという、人間だけしかいなくなる。
その質問は意地悪だと、わたしには分かっていた。
心洗われるような星空に似つかわしくない、暗く重く沸々とした思いを抱え、わたしは先生に問いかけてしまった。
「先生が言う「美しい世界」に、人間というのは、入っていないんでしょうか」
先生は、数えきれないほどの動植物と、今まで交わってきた。
だけど、人間と交わったことは、あるのだろうか。
一体どうしたの、と先生はいつもの優しい笑顔を浮かべた。
「先生、人間も、自然の一部ですよね」
今までわたしたちは、そんな話をしたことは無かった。
昔から教授とお手伝いさん、それ以外の、どんな間柄でもなかった。
「……そうだね」
先生の声色が、少し硬くなったように感じた。
身構えられている。そう、感じた。
言いながら、顔から火が出るような、体の火照りを感じた。
「人間は、美しくないんでしょうか?」
どう言えば、わたしの気持ちを先生に、伝えられるんだろう。
伝えてしまったらどうなるのか怖くて、声が震えているのが自分で分かった。
「先生は、美しい世界と、一体化したいとおっしゃっていました」
もう自分が、どこまで赤面しているか想像したくもなかった。
「先生、わたしは……わたしは、美しくは、ないでしょうか」
こんな周りくどい言い方で、先生に伝わるわけがないと思った。
自分の意気地のない告白が恥ずかしくて涙が溢れかけ、目を固く閉じた瞬間だった。
先生が小鳥のキスをくれたのは。
暁の頃を過ぎ、星たちが少しずつ天に紛れてゆく。
東と南の間の空に、一際輝く青白い星が存在感を放っていた。
「先生、シリウスですか」
「この季節なら夜明けの星だね。じきに冬が来る」
研究室にいた頃なら、冬には毎年一生懸命、論文を仕上げていた。
きっと先生は出かけない。
今年もそうだろうと、先生の胸元で微睡みながら、なんとなく思った。
「疲れたでしょ。一休みしなさい」
心地よく柔らかい先生の言葉に、わたしは満ち足りた気持ちで眠りについた。
そして目が覚めた時、先生は、もう、いなかった。