さよなら美しきひと   作:SKぱんぢゅう

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第3話 星空の向こう側

しかし先生はある日、人様の財産である家畜に手をつけ、いつもやっているように破壊行為を犯してしまった。

 そして人様をも傷つけてしまい、罪人となった。

 

 わたしは何度か、先生が収監された網走へ、面会を申し込んだ。

 しかし応対は曖昧で、別の監獄へ移送されたとか、元々そんな囚人は居ないとか、とにかく先生に会う事はできなかった。

 後になって思えば、その時先生は本当に、もう網走には居なかったのかもしれない。

 

 先生がわたしの元に帰ってきたのは、夏がもうすぐ終わる、ある夕暮れだった。

 嬉しすぎて、何をどう言ったか全く覚えていない。

 ただただ、泣いた。

 

 泣いたまま、お風呂の用意をした。

 どこをどう歩いて、先生はここまで歩いて帰って来たのだろう。

 いつものようにフィールドワークに出かけた、あの日の荷物も服も全て無くなっていた。

 

 先生の愛する自然は、美しいだけではない。

 ひと度凶暴な牙を剥けば、丸腰の人間などその存在は無に等しい。

 荒ぶる強大な力の前には、抗う術など、無いのだ。

 

 ここまで戻る過酷な道中は、野趣溢れるなどという生半可な表現では済まないに違いない。

 ボロボロになった橙色の羽織ものを、先生が脱いだ。

 その体を見たわたしは、一瞬で体中の血の気が引くのを感じた。

 

 背中から胸までも凶々しく刻まれた、気味の悪い、理解に苦しむ大きな刺青。

 繊細で心やさしい先生が過ごしてきた監獄の生活は、わたしの想像など及びもしないほど苦痛だったはずだ。

 あげく、こんな傷までつけられて。

 わたしは、気絶しそうなほどの怒りを覚えた。

 言葉にならない悲しみで先生の手を握ったまま跪き、震えながら顔を見上げた。

 そんな私からそっと目を逸らし、先生は表情を隠した。

 やがて私の手を取り、両手を合わせて一度だけぎゅっと握り返し、次いでほぐすように、自ら離れた。

 

 「これのおかげで脱獄できたのだから」と先生は穏やかに呟き、わたしの頭を二度三度、大きく円を描くようにゆっくりと撫でた。

 そして羽織のポケットから「この子だけは、ずっと持っていたんですよ」と、紐のついたふぅちゃんをしゅるっ、と勢いよく取り出した。

 それをわたしの目の前にプラプラとかざし、悪戯な目でニッと笑ったのだった。

 

 私が泣きながら笑うのを見て先生は、

「ああ良かったようやく笑ってくれた」と、自分も苦笑していた。

 

 

 その日からしばらく、とても平穏な日々が続いた。

 先生の怪我は少しずつ良くなり、笑い合うことも増えて来た。

 包帯が取れるようになると、あなたの作る手料理はいいと、何だか食事を褒め始めた。

 わたしが謙遜すると先生は、「栄養たっぷりでね」と肩をすくめ、片目をパチリと閉じた。

 

「相変わらず見た目はアレですからね」

 わたしが膨れっ面を見せながら笑うと、美味しいからいいんですと言いながら、先生はわたしから目を逸らし、お味噌汁に目を落とした。

 そして汁を盛大にずずずと音をたてて啜り「とても、美味しいよ」と聞こえるか聞こえないほどの小声で、呟いていた。

 

 わたしは何年経っても、あまり綺麗な料理を作れるとは言えない人間だった。

 煮物はゴテゴテとしていて、どこか見苦しい。

 焼き物をすれば、生焼けが怖くて焼きすぎ、いつも焦げ焦げになる。

 

 そして先生は、自分の気持ちに方便でも嘘のつける人ではない。

 その先生が、わたしの料理を褒めてくれる。

 柔らかで正直で、そんな優しい気持ちが嬉しくて、わたしはやっぱりこの人のことが。

 

 とても、好きだと、思った。

 

 

 

 少しずつ、秋が近づいてくる。

 先生が私に、新しいゴム長靴と外套を発注するよう言って来た。

 毎年冬は、先生は論文を書くため外には出ない人だったのに、何に使うのだろう。

 体力が戻ったら、先生はまたここを飛び出して行くつもりなのだろうか。

 

 待ち続けて不安な思いをするのなら、それはもう、嫌だと思った。

 わたしは、先生にはどこにも行って欲しくないと、思い始めていた。

 

 いつもより一際星の瞬きが激しい、空気の澄み切った夜のことだった。

 降り注ぐほどの満天の星空を見上げながら、先生に聞いておこうと思った。

 また出かけるつもりなのか、あるとすればどこへ、いつ、何のために。

 

 先生の追い求める「美しい世界」は、どこまで探しに行けば気が済むんだろう。

 どうしても、行かなくちゃいけないんだろうか。

 冬になれば、多くの動物も植物も、眠りにつくのでは?

 探しに行っても、わたしは、何もいないと思う。

 この閉じられた雪の深い街の外れには、先生とわたしという、人間だけしかいなくなる。

 

 その質問は意地悪だと、わたしには分かっていた。

 心洗われるような星空に似つかわしくない、暗く重く沸々とした思いを抱え、わたしは先生に問いかけてしまった。

 

「先生が言う「美しい世界」に、人間というのは、入っていないんでしょうか」

 

 先生は、数えきれないほどの動植物と、今まで交わってきた。

 だけど、人間と交わったことは、あるのだろうか。

 

 一体どうしたの、と先生はいつもの優しい笑顔を浮かべた。

「先生、人間も、自然の一部ですよね」

 今までわたしたちは、そんな話をしたことは無かった。

 昔から教授とお手伝いさん、それ以外の、どんな間柄でもなかった。

 

「……そうだね」

 先生の声色が、少し硬くなったように感じた。

 身構えられている。そう、感じた。

 

 言いながら、顔から火が出るような、体の火照りを感じた。

「人間は、美しくないんでしょうか?」

 どう言えば、わたしの気持ちを先生に、伝えられるんだろう。

 伝えてしまったらどうなるのか怖くて、声が震えているのが自分で分かった。

 

「先生は、美しい世界と、一体化したいとおっしゃっていました」

 もう自分が、どこまで赤面しているか想像したくもなかった。

 

「先生、わたしは……わたしは、美しくは、ないでしょうか」

 こんな周りくどい言い方で、先生に伝わるわけがないと思った。

 自分の意気地のない告白が恥ずかしくて涙が溢れかけ、目を固く閉じた瞬間だった。

 

 先生が小鳥のキスをくれたのは。

 

 

 

 

 暁の頃を過ぎ、星たちが少しずつ天に紛れてゆく。

 東と南の間の空に、一際輝く青白い星が存在感を放っていた。

 

「先生、シリウスですか」

「この季節なら夜明けの星だね。じきに冬が来る」

 

 研究室にいた頃なら、冬には毎年一生懸命、論文を仕上げていた。

 きっと先生は出かけない。

 今年もそうだろうと、先生の胸元で微睡みながら、なんとなく思った。

 

「疲れたでしょ。一休みしなさい」

 心地よく柔らかい先生の言葉に、わたしは満ち足りた気持ちで眠りについた。

 

 

 

 そして目が覚めた時、先生は、もう、いなかった。

 

 

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