耳鳴りの魔女 作:大平原
私には前世というものがあった。
前世の私はこれといって特筆することのない普通の人間で、齢十五を数える頃に海で流されて死んだ。多少心得があるからと、調子に乗って遠泳した末路であった。
前世の年齢を今世で追い越してからもうずいぶんと経つ。百年から先は数えていない。
今世の私は、なんの因果か海の中で生まれた。
深い、暗い海の底で、産声を上げることもなく親もない身として生まれたのだ。
種としての育みで生まれたのでなければ、私という存在は限りなく自由であった。種の存続という生きる上で最低限の命題すら持たない。
もしも生まれたときの私に『前世の私』なる自我がなければ、その日のうちに波の狭間に消えていたかもしれない。それくらい儚くて、何一つとして軛を持たない存在が私であった。
「また来たよ、セイレーンさん」
さて、そんな私が何世紀にもわたってこうして生きていられたのは、多分に惰性のおかげである。
先述の通り前世での年齢は今世のそれに遠く及ばないが、それでも私の根幹を成していることには間違いない。海が好きで、泳ぐのが好きだ。波に揺蕩うのが好きで、頭上を通り過ぎていく魚群を見るのが好きだ。
岩礁でひっそりと暮らしている生命を見守るのが好きで、あるいは海のずっとずっと深く、私が生まれたような暗い場所で生きる彼らのことも好きだった。
海の静けさと、相反する荒々しさ、そのどちらもが好きだった。
「へい。へいへい。聞こえないフリは止しなって。茜さんが来てやったぞー。菓子折りもあるぞー」
「……」
「何も言わずにお菓子だけ取るのやめない?」
海が好きだから生きていたようなものなのだ、私は。
これといって目的もなく、正しく前世からの惰性で今日まで命を繋いできた。
それを象徴する一つとして、私の外見がある。
生まれたころにはクリオネのような手足に見た目だったものを、いつしか私は前世を模倣したようにヒトの姿形をなしていた。
どこから生えてきたのか長い黒髪と、前世基準で言えば不健康なまでに真っ白な手足……海でたまに見かける人魚のように下半身が魚であるでもなく、完全にヒトの見た目だった。
服を着ていないことはさておいて、普通の人間。
明らかにヒトの生まれではないというのに、こうしてヒトを模倣していること自体、如何に私が前世に頼って生きているかが分かるだろう。
「ちょっとお願いがあるんだけど。セイレーンって歌が上手いって話じゃん?」
この見た目ゆえだろうか。
最近は波の上に座っていると妙に親しげに話しかけて来るヒトの女などもいて、少々煩わしく思っている。
私はお前と同族ではないというのに。友人か何かと勘違いしているのではないだろうか。
「今度友達とカラオケ行くんだけどさ、一緒に行かない?」
「死ぬよ?」
ヒトが私の歌を聞いたら。
結局。
“私たち魔女だからダイジョーブ!” などという胡乱な根拠で強引に彼女たちと歌を歌う羽目となった。
これを切っ掛けに、私は齢ウン世紀にしてようやく、ヒトとの関わりを深めていくことになる。
◇
「おっ、耳鳴りだ」
「耳鳴りっ!?」
下校中のことである。
倉本圭が片耳を押さえて呟いたのを、木幡真琴は見咎めた。
それまでは横を歩いていたところを、身を乗り出して圭の顔をのぞき込んでくるような、それは大仰な驚き方であった。
「え、おう。そんな驚くことねーべ」
「いやいや大したことですよこれは」
真琴は猫のように目を尖らせてキョロキョロと周囲を見回した。
まずは頭上に目をやって何もいないことを確認しつつ、ついで足元、背後、道の曲がり角へと警戒を続ける。
まるで今から鬼や蛇が出ると言わんばかりの素振りである。
「耳鳴りがしたら、魔女が来るんですっ!」
「いやまことも魔じ―――」
というのも、これには木幡真琴のトラウマが関係していた。
五年前の話である。
十歳となった木幡真琴は、庭先で焼き芋を作っていた。品種はなると金時の、ホクホク系の焼き芋であった。美味しくできたことに真琴が喜んでいると、後ろで見守っていたチトさんが『ニ゛ャウッ』と突然苦しそうな声を出した。
びっくりした真琴が言葉も途切れ途切れのチトさんの話を聞いたところ、とてつもなく耳障りな
チトさんは黒猫の使い魔である。猫の聴覚は人間の八倍優れていると言われ――正確にはチトさんは猫ではなかったが――聴覚は猫に準ずるものである。
すなわち、真琴には聞こえない音域あるいは音量で、何か不快な音が鳴り響いているということだった。
「ホラーかよ」
「ホラーですよ。あーっ駄目です、逃げないでちゃんと聞いてください」
「えーオレそういう話イヤなんだけど」
話を続けよう。
小学生であった真琴は、どうしたものかと困惑した。自分には聞こえないらしいそれは、いったい何処で鳴っていて何時鳴り止むのかと。
とりあえずチトさんの耳を押さえるようにして守ってあげると、幾分か楽になったようであった。ホッとした真琴は、自らの使い魔に音の発生源は何処かと訊ねた。
チトさんは答えた。
私のすぐ後ろ
ですって」
「いや怖えーよ!」
「ね、怖いですよね!」
「まことが怖がらせてんだよ! 手を離してくれ!」
それでも話は続く。手は離さない。
真琴は振り返ることができなかった。ゾッとして身体が竦んでいたこともあったが、それ以上に真琴の身体を縛り付けたのは耳鳴りである。
チトさんから遅れること数分、最初は小さく幻聴のようにも思われたそれは、わんわんと反響して大きく響くようになる。この世の音とは思えない高音で、がなるように真琴の耳を蹂躙した。チトさんの耳を保護するために両手を使っていたこともあって、真琴はどうすることもできなかった。
耳鳴りの他には何の音も聞こえなくなって、手元で鳴くチトさんの言葉も、警告も届かずに真琴はただ身を丸めて蹲ることしかできない。
そして、背後からそっと耳元に声が挿し込まれた。
それはやはり人ならざる領域の美声で、
『焼き芋、ごちそうさま』
と。
「……は?」
「で、目を開けたら残りの焼き芋全部食べられてました」
「……」
「……」
「……え、トラウマってもしかしてそれ?」
「はい!」
大事に焼き上げて育てた焼き芋を、何の許しも得ずに食べられたこと。
それが一度ならず数年にわたって何度も起きたこと。
木幡真琴の耳鳴りにまつわるトラウマとは、つまりそういうことであった。
そして。
凄まじく不愉快な耳鳴りが、何かしら美味しいものを強奪して去っていくこの事象は、五年前より日本全国どころか世界各地で観測された。
法則性としては、それは決まって魔女関係者の下で起こる。大陸では、沿岸地域で多発する。
日本での観測事例が群を抜いて多いことから、恐らく日本のそれも関東圏に生息する精霊の類いであろうと推測されたものの、遭遇者や研究者の誰一人としてその尻尾を掴むこともできないままに数年が過ぎて現在に至る。
目撃情報を擦り合わせたところ、それは長い黒髪をもち、ほっそりとした女性のようで常に白いローブに身を包んでいる。
このことから、彼女には通称が付けられた。
耳鳴りの魔女、と。
「もちろん協会には登録されていません。……つまりですね、彼女は私たち魔女にとっての魔女みたいなものなんです」
「はぁ、なるほど」
「でも耳鳴りの魔女が来るときって、その場にいる関係者全員に耳鳴りが聞こえるらしいですし、今回は違いますね! 私の早とちりでした」
あはは、と照れ笑いをして真琴は頭を掻いて―――そのまま耳を抑えた。
「ん、どうした」
「……耳鳴りですね。もしかしてそろそろ、圭くんの耳鳴りも大きくなってきましたか?」
言った傍から、というやつであった。
しかし木幡真琴は、『耳鳴りの魔女』に関してはエキスパートと言える。
ふふん、と物知り顔をしている真琴に圭は訊ねた。
「確かにそろそろ不快なやかましさだな。こいつはどうしたら良いんだ?」
「ふふ、ちゃんと対処法があるんです。どこかの魔女が見つけたんですけどね、“耳鳴りに耳を澄ましてはいけない” 、ですよ! そうですね、例えば私の声に耳を澄ましてみてください。ほら、今喋っている私の声に。他の音でも良いですよ、自分の歩く音だったり、耳鳴り以外の音であればなんでも」
「……あ。治まってきた、か?」
「でしょう」
それから、と真琴は声を途絶えさせないように言葉を紡いだ。
耳鳴り以外の音が聞こえなくなったらおしまいだ。それからは際限なく音が大きくなっていってしまう。
「二つ目の被害の方ですね。耳鳴りの魔女は美味しいものを持っているとやってきて盗っていくんです。こちらの対処法はですね、」
「おう」
「ないので諦めましょう。美味しいものを持っていた私たちが悪いです」
「おい」
良い笑顔だった。
「むしろ下手に隠そうとするとどれだけ美味しいのかと魔女に粘着されるので、潔く差し出した方が身のためですね」
「……」
真琴は笑っていたが、目は笑っていなかった。
「私は何も持っていないので圭くんの方ですよね。何持ってるんですか」
「……くっ、オレの厳選したタラの芽が!」
「本当に何持ってるんですか!?」
なおと話す真琴を待つ間、その辺の林で採ってきたものである。
詰め込まれたタラの芽を見せつけるように、圭はガバリと鞄を開け放った。
本来であれば教科書やら文房具やらが入っているべき鞄である。
倉本圭は予習復習、宿題など一切やる気がなかったため、そういったものは机に全置きしてきていた。
「持ってけ泥棒!」
「あ、もう持っていってますね」
「はっや」
あらゆる魔女の目を掻い潜ってきたのは伊達ではないということだ。
耳鳴りも止んで、当の魔女はとっくに神奈川の自宅で揚げ物の準備を始めていた。
「あ、あと鞄の中に何か丸いものが入っていませんか?」
「ん? ああこれか。何だこれ」
すっかり軽くなった鞄を前に項垂れる圭がつまみ上げたのは、深い海色の玉である。
夕陽を受けると神秘めいて輝くそれは、真琴にとっては見慣れたものであった。
「それはですねー、水と闇のマナが大量に詰まった宝石です。どうやら耳鳴りの魔女が御駄賃代わりに置いていくらしいですね。魔女にとっては非常に有用なんですけど……」
「んー、まあ千夏にやるか。あいつこういうの好きだし」
木幡真琴にとってはもう何度目かも分からず、倉本圭にとっては初めての『耳鳴りの魔女』との邂逅は、こうして終わった。