耳鳴りの魔女 作:大平原
なんとも難儀なことである。
海の中で揺蕩うことに比べれば、ヒトの社会で暮らすことは何かと煩わしい。煩わしさよりも食の美味しさが勝っていなければ、私は今も道南の太平洋で自由気ままに暮らしていたことだろう。
特に私は戸籍がなければ身分証も持たないような身であるからして、生活空間を手に入れるだけでも一苦労であった。一通りの炊事設備は欲しかったため、宿無しというわけにもいかない。
結局どうしたかといえば、そこは便利な魔法やら魔術やらを魔女の読本、禁書から拝借してきてごにょごにょと。……危うく魔女のお偉方に封印されかけたが、既のところで逃れて無事に私は神奈川の横浜に一軒家を手に入れた。
横浜に居を構えたのは、そこそこに魔女が集まる土地柄ゆえである。
東北のように魔女がわんさといる環境では騒々しくておちおち昼寝もできないし、かといって魔女が少ない土地では何かと不便であるように思われた。
多少の怪奇現象は見逃してもらわないと困る。
―――いや、話が逸れた。
本題は、とにもかくにも醤油が切れたことである。明日葉のおひたしを作ろうと思っていたというのに。
「買い物行きたくない……」
海底で長いこと自堕落な生活を送ってきた私は、何をするにも億劫に思えて仕方がなかった。
醤油が切れたからと財布を持ってスーパーに買い出しに行くことすら面倒だ。商品と引き換えに金銭を支払うという契約行為からして気が重い。適当に綺麗な玉を置いてくる物々交換では駄目なのか。
……よし。
私は思い立った。
青森の方に何やら山菜調理が得意そうな顔をした青年が居たはずだ。この間タラの芽をくれたあの青年だ。
あの青年のところへ山菜を持って行って、調理させてみるのはどうだろうか。きっと美味しく仕上げてくれるに違いない。
私は食材を提供する。彼が調理する。私はその成果物をいただく。これ以上に完成された互恵関係はあるまい。
◇
「ただいまー……あ?」
玄関の上がり框の上に新聞紙に包まれた得体の知れぬ代物。
学校から帰宅した倉本圭はこれを躊躇なく手に取ると、ガサガサと音を立てて中身を確認した。
明日葉だった。
「ツヤが良いな。天ぷらにすっか」
『!?』
圭の不用意な発言により、倉本家を耳鳴りが襲う。
奥の方から木幡真琴の声らしきギャーという叫び声と、その姉だろうか、縁側の方からはドタドタと慌てたような足音が響いた。
明日葉と言えばおひたしと相場が決まっていると勝手に思い込んでいた怪異の末路である。
「みっ、耳鳴りが! 私の野菜たちは盗らせませんよ!」
「うおお、どこだどこだー!」
誰からのお裾分けかは知らないがありがたいと気分良く台所へ向かう圭の脇を、真琴と茜が猛ダッシュで通り抜けていった。
姉の方は何故かマイクを片手に携えていた。
彼女ら魔女姉妹の奇行は今に始まったことではない。圭は特段気にすることもなく鼻歌を歌いながら鍋に油を注いだ。……心なしか耳鳴りが強まった気がしたが、鼻歌のボリュームを上げればすぐに気にならなくなった。
卵と薄力粉、水に氷をと用意して明日葉の下処理に移る。
『……』
なお、好みにもよるが卵の代わりにマヨネーズを使用すると粘り気のない天ぷらに仕上がりやすいとされ、特に山菜を揚げる場合はふわふわとした衣よりもカラッとした衣が好まれることから、卵を使わないレシピが人気である。
そして、現在倉本家の台所には特定のレシピ以外許容できない過激派海の怪異がいた。
目にも止まらぬ速さで卵を冷蔵庫に仕舞い直し、代わりとばかりにマヨネーズをシンクに鎮座させる。この間僅かゼロコンマ一秒以下という神速の所業であった。
明日葉を洗って茎と葉に切り分けた圭が目にしたのは、置いておいたはずの卵ではなく某有名ブランドのマヨネーズ。
「おっ」
流石に多少面食らった圭だったが、同級生から『おじいちゃんみたい』と評された経験には事欠かない青年のことである。この不可思議な現象に戸惑うこともなく、そういやなんかテレビで見だっけ、とその場でレシピを変更し調理を続行した。
どこかの海の精霊ももはやおひたしを食べることは諦めたのか、耳鳴りが止む。そこへちょうど、畑を一通り確認してきた真琴が帰ってきた。
「あっ、止みましたね……とりあえず私のお野菜は無事でした。圭くんは? 何か持っていかれていませんか?」
「おー無事無事」
「うーん、何を目当てに来たんでしょう。……今は何を作っているんですか?」
「明日葉の天ぷら」
油の温度を箸先で確認して、まずは葉を揚げていく。
片面に付けた衣がカリッとした感触になったら引き揚げて、キッチンペーパーの上に載せる。油の温度を一定に保ち揚がり具合を均一にするためには、第一弾、第二弾というようにグループ分けしてまとめて揚げることが肝要である。
また、明日葉の葉と茎では火の通る時間に差があるためここでも分ける必要がある。
「わー、美味しそうですね!」
「だべ。貰いもんだ」
盆の上に積み上がった天ぷらを見て、圭は満足げに頷いた。
卵を用いない天ぷらというのは初めてだったが、味はどうかと葉を一枚つまんで口に放り込む。
「ん、マヨネーズの味はほとんどしないのか。めな」*1
「めですか!」
最近覚えた津軽弁を繰り返して、今度は私もと期待した心持ちを隠さない表情で真琴が天ぷらに箸を伸ばした。
「んがっ」
その目の前で、天ぷらが消えた。真琴の箸が空を切る。
同時に、二人の耳をまた耳鳴りが襲ったことで真琴は全てを悟った。
天ぷらが消えたのは耳鳴りの魔女の仕業であること、そして彼女は最初からこの天ぷら目当てでこの家を訪れていたことを。
実際にはもう少し入り組んだ経緯があり、なおかつそもそもの原因はといえば『醤油が切れたから』であるなど下らない裏事情はあったが、そんなのはこの年若い魔女の知ったことではない。
「こ、今度という今度は許しません! いつもいつも人の目の前で一番美味しいものを盗っていくなんて! 絶対に捕まえてやります!」
「おー」
気炎を吐いた真琴と、それをおざなりに応援する圭。
当然のようにこの場で宣言を聞いていたセイレーンも、やれるものならやってみろとばかりに宙で涅槃のポーズをとった。
しかし。
「あ、セイさんここにいた」
猛然と魔術の辞典を捲る真琴のもとへ、何故かマイクを持った姉が訪れたことで事態は急転直下の落着へと向かう。
「―――つまり、です」
「「うん」」
ぐるぐると同じ所を歩き回りながら、真剣な表情で木幡妹は指を立てた。
倉本圭と木幡姉はソファに凭れてだらけきった姿勢のまま相槌を打つ。
全員に姿が見えるように位相を調整したセイレーンは、ことさらに退屈そうな顔をして宙を泳いでいた。
「そもそもセイさん……セイレーンさんは、お姉ちゃんに美味しいものを食べさせてもらえるという約束で人里に引き摺り出されてきたと」
「あたしがやりました」
「セイさんでいいよ」
「あ、はい。ありがとうございます。……んんっ、しかしウチの姉が世界中を飛び回っていたばっかりに、約束は果たされなかったと」
「へへ、さーせん」
「許さないから」
『美味しいものいっぱい食べさせてあげるよ』と甘い言葉で誘惑し、かのセイレーンと一緒にカラオケに行くという偉業を成し遂げた木幡茜は、しかし釣った魚には餌をやることを忘れるタイプの人間であった。
キレたセイレーンは、まず木幡茜の妹に取り憑いた。もとい、当然の対価として木幡真琴の焼き芋を定期的に食べ尽くした。
これに言葉通り味をしめたセイレーンは、対価を要求する対象を魔女全体にまで拡張。たった一度のカラオケの代価として、全世界の魔女から五年にわたって美食を徴収し続けた。
……というのはほとんどが建前であり、セイレーンもほんの少しだけ後ろめたい気持ちがあったために、マナを込めた真珠を置き土産として残していくようになった。
「セイさんが現れるときのあの耳鳴りは……」
「あれね。私の姿を隠すために空間の位相をずらしてるから、そのしわ寄せが音になって聴こえてるんだと思う。たまに私が意図的に出してることもあるけど」
「あー、セイさんのここのつって闇なんだっけ」
「どっちかというと水だったかな。その次に闇」
耳鳴りの魔女、五年間世界中の魔女の目を欺き続けた精霊の正体はここに判明する。
無論木幡茜は元々知っていたが、異名がつくほど大ごとになるとは思わず、どう言い訳しても面倒事になりそうだったので知らぬふりをしていた。
「……じゃあ結局、私が五年間抱えていたやり場のない怒りを向ける先は、お姉ちゃんってことで合ってますか?」
「ん、そう」
セイレーンは海にまつわる精霊らしく、この場における潮流を瞬時にして正しく見極めた。
すなわち―――木幡茜に矛先が向いている今、この女は先ず間違いなく私と責任を折半したがるだろう、と。ならばこのまま居残っていては厄介な状況に陥ることは確実。早いところお暇するのが良かろう。
「じゃ、私はこれで」
明日葉の天ぷらだけはしっかりと抱えたセイレーンは、ぎゅるんと空間に巻き込まれるように消える。
後に残されたのは、妙に据わった笑みを浮かべる妹と冷や汗を流す姉、セイレーンがたんげ美人だったことに満足して腕を組む又従兄弟のみであった。