自称“凡人”の人生譚   作:飢堕天

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 お待たせしました。


15話 酒場と町娘

 

 地上はすっかり夜を迎えていた。

 視線を空に向ければ、一面黒く塗りつぶされており、所々に星模様が光っている。その中で一番目に付くのが一際輝きを見せる月。この世界にも月があるのか、ふとそんな感想が脳裏に浮かぶ。これまで特に気にしなかったことが、こうしたふとした瞬間に気になったりすることがたまにある。

 

 ゆっくりと西のメインストリートを歩いている。大通り沿いに並ぶ店内からもれる喧噪、等間隔で設置された魔石灯の温かな灯り、頬を撫でる涼しい風——聴覚、視覚、触覚、それぞれの感覚から得られる情感はどれも新鮮で心地良い。

 すれ違う人々の表情は明るく、暗い夜とは正反対。早い人だともう眠る時間。それなのに、街はまだまだ活気に満ちている。そんな街のメインストリートを闊歩する俺には誰一人目もくれない。闇夜に紛れる影になった気分だ。とても穏やかで、俺の心に安らぎを与えてくれる。とても心地がいい。闇に染まる今のこの瞬間にそう強く感じた。

 

 しばらく歩くと、一際賑わいを見せる店が視界に映る。外観はシックな装いで洒落た雰囲気を感じる。店前で立ち止まり、飾ってある看板を仰ぐ。そこには『豊穣の女主人』と書かれている。なかなか乙な名前だな、そう感想を胸の中で零しながら、入口から中をそっと窺ってみた。

 そこに広がる光景は、まさに思い描いていた通りの酒場の雰囲気だった。ジョッキを片手に談笑する者、ひたすら飯を口に運ぶ者、店員を目で追う者——人それぞれが思い思いに夜の酒場を楽しんでいる。そんな楽しげで明るい店内を、せかせかと動き回る店員がちらほらと。見渡す限りでは店員全員が女性。服装は膝下までの丈のある若葉色のワンピースに、その上から長目のサロンエプロン。そして白いヘッドドレス。皆が皆、統一された服装を綺麗に着こなしている。その姿はまさしくウエイトレス然としており、遠目から見ても非常に似合っている。その要因の一つは、間違いなく彼女らの外見にあるだろう。ヒューマン、獣人、エルフと種族は多種多様で、彼女らは全員端麗な顔立ちをしている。ついつい目で追ってしまう理由にも納得がいく。

 

 (さてと、流石にこのまま入り口から見続けるのは変態みたいで嫌だし。そろそろ入るとするか)

 

 若干の緊張で心臓の鼓動がいつもよりも早く感じられる。その早鐘に急かされるようにして入り口をくぐる。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 店内に足を踏み入れると声を掛けられる。凛とした耳心地の良い声。視線を向ければ、耳の尖った、空色の瞳と薄緑色のショートボブヘアのエルフの女性店員。彼女の姿を見て、胸の早鐘が鳴る。鼓動が周囲に聞こえてしまうのではと思うくらいに激しく強く脈打つ。全身を巡る血流が加速し、体温が一気に上昇していくのが感じられる。今目の前の光景が幻想ではないかとさえ思ってしまう。

今の俺はまともな思考ができないことだろう。しかし、それも仕方のないことだと思う。だって……なぜなら、彼女は——

 

 リュー・リオンは俺の推しの一人だ。

 

 画面越しでしか見ることが叶わなかった彼女。その姿を今、俺の両目が確かに捉えている。その事実に形容しがたい思いが胸中を締め付ける。

 

目の前の彼女と視線が重なる。切れ長で、鋭い彼女の両眼が俺の姿を映している。

俺は彼女の目が好きだ。一見冷たさを孕んだその瞳は、その実、誰よりも優しいぬくもりを湛えていることを知っている。けれど、それはあくまでも文字を通して知っているだけだ。俺が知っているのは『ダンまち』という物語の中の彼女。今目の前にいるリュー・リオンを俺は知らない。

しかし、“目は口ほどに物を言う”と言うが、今この瞬間、彼女の瞳を視て、少なからず彼女の情念を俺の瞳が読み解いた。今までに体感したことのない感覚だが、不思議と嫌な感覚ではない。

『比翼抱慕』の効果の一つである発展アビリティ『天眼』の影響か。『天眼』という発展アビリティに関する見聞はない。しかし、何となくその効果を把握できる。これもまた、『天眼』が作用したのだろう。『天眼』は“全てを見通す”と言われているが、実際のところは不確かだ。しかし、思えば『恩恵』を授かる以前よりもよく視えるようになった気がする。【魔力感知】を発動せずとも周囲の状況を読み解ける。意識すればさらに詳細に。

 

そして、少なくとも今、微かにではあるが彼女の奥底に澱む情念を読み解くことができた。憎悪と哀愁と諦観と、様々な感情が混然一体となって彼女の心を侵食している。その姿はとても痛ましく、そして儚い。

しかし、そんな彼女に憐みを向けてはならないと、自分を戒める。なぜなら、俺は彼女を知らないから。物語の中のリュー・リオンと彼女は異なる存在だ。そこだけは明確な現実であり、不変の事実だ。だからこそ、彼女のことを知らない他人である俺が彼女を憐れむことは傲慢で、彼女に対する冒涜に他ならない。

 

 けれど、だからこそ、知りたいと思った。それもやはり憐みの心からくる下心なのだろう。どれだけ自分を律しても本心を偽ることはできない。それでも知りたい、知っていたい、わかりたいのだ。

 それは、彼女と関係を持ちたいからかもしれない。

 それは、彼女の心からの笑顔を見たいからかもしれない。

 それは、自己満足なだけかもしれない。

 その想いは、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。本当に浅ましくておぞましい。そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。そんな自分が彼女の傍に歩もうとしていることにひどく自己嫌悪してしまう。

 

 けれど、それでも——彼女を助けたいと、一方的に自己想念を押し付けることは果たしていけないのだろうか。

 

 「……どうかされましたか?」

 

 俺が一人、醜い感情に胸中を縛られていると、声が掛かる。はっとして現実に意識を戻せば、リューさんが眉根を寄せてこちらを見ている。明らかにこちらを訝しむ眼だ。

 

 (……やってしまったな。考え込み過ぎて、彼女にマイナス印象を持たれてしまった。これじゃあ、ここに来た目的を果たせるかどうか……)

 

 内心、焦りと反省で混然と入り混じっているが、表に出すことはなく平然を装う。

 

 「いや、何でもない」

 「そうですか。……それでは、お席へご案内いたします。こちらへどうぞ」

 

 やはり不審に思われているようだ。彼女からは胡乱な色を向けられている。しかし、先ほどの俺の態度からしてみれば当然と言えば当然だ。つまり、俺が悪い。

 

 はぁ、と内心でため息を零しながら、踵を返して席へ案内する彼女の後ろをついて行く。胸の奥底でくすぶる嫌な感覚に、どうしたものかと一人憂い思いに沈みながら——。

 

 

 案内されたのはカウンター席だった。一直線に真っすぐ席が並ぶカウンターの角の席。右に席はなく、後ろには壁があり、ちょうど酒場の隅に当たる。そこは奇しくも、原作においてベルが初めて訪れた際に案内された席だ。思わぬ偶然に頬を綻ばせる。

 

 「こちらがメニューになります」

 

 俺が席についたのを確認したリューさんがカウンターに手を翳しながら丁寧に教えてくれる。その姿に、真面目なエルフだ、しかしそこがいい。と内心で感想を抱く。

 

 「注文が決まりましたらお声掛けください」

 

 そう言って店奥に下がるリューさんの後姿を横目に見ながら、カウンターに置かれたメニューを手に取る。書かれた料理名はどれも馴染みのあるものばかりだ。やはり、そこは創作世界というわけか。異世界風の料理を味わえないことに少しばかり落胆するも、美味しければ何でもいいかと気持ちを入れ替える。

原作知識によれば、この店の料理はどれも美味しいらしい。確かに、店内を漂うにおいは腹の虫を誘惑してくる。鼻腔を刺激する香りに思わず口内でよだれが分泌される。

 

 これは期待できそうだな。そう心の中で思っていると、

 

 「アンタ見ない顔だね。初めてかい?」

 

 カウンター越しに溌溂とした声でそう尋ねられる。

 メニューに落としていた視線を上げれば、そこには恰幅のいいドワーフの女将。ドワーフにしてはかなりの巨体である彼女は、そこにいるだけで威圧感を感じる。土色の髪を結わせた、中年の女性——ミア・グランド。『豊穣の女主人』の女主人である彼女は、Lv.6の元冒険者だ。原作知識と目の前の彼女の姿を照らし合わせて、その事実が真実であることを瞬時に理解する。それほどまでに圧倒的な貫録を誇っている。

 

 これが俺の越えるべき高み……!

胸の奥で獰猛な闘争本能が顔を覗かせるが、理性でソレを鎮める。ここには飯と用事を済ませる為に来たんだ。間違っても喧嘩を売りに来たわけではない。それに、そうでなくてもすでにこの酒場の一人から不審がられているんだ。これ以上、マイナス印象を持たれるのだけは避けなければならない。そう思っていると、

 

 「……へぇ。坊主、アンタなかなかいい表情をするじゃないか」

 

 …………は?

言われた言葉に少しの困惑。ついで、全身の肌が逆立つ感覚が訪れる。

 猛禽のような鋭い眼光で、関心を含みつつこちらを観察してくるミアさん。向けられる視線は明らかに客に対するそれではない。こちらを値踏みしながらも、どこか臨戦態勢のような雰囲気を感じる。

それに、こちらに視線を向けているのは彼女だけではない。周囲に気を張れば、いくつかの明確な敵意が俺に集中している。そのどれもが一切の温度を感じさせない。

 

店内の気温が一気に下がり、暗雲とする空気の中、俺の胸中はひどく冷静だった。いや、それだけではない。全身が温かい何かで包み込まれているような感じがする。この感覚を、俺は知っている。知らないはずがない——。

 

 『比翼抱慕』——効果発動:状態異常無効化。

 

あぁ、やはり……セレン、いつだってお前は俺にぬくもりを与えてくれる。金色に輝く美しい両羽で包み込んでくれる温かさを、俺は片時も忘れたことがない。忘れることすらできない。それほどまでにお前は、強く激しく、そして優しく穏やかに寄り添ってくれた。

 

 もはや周囲の状況すら気にすることなく、俺は追想にふけり、彼女と過ごしたあの日々を思い出す。

 

「……なんだい。今度は打って変わって穏やかな表情をするじゃないか」

「ん? あぁ、ちょっとな、昔の想い人のことを思い出していた」

「昔の、ねぇ……。深くは聞かないでおくよ」

 

 そう言って、キッチンへ踵を返すミアさん。彼女が遠ざかっていく気配を感じながら、気を使ってくれたことに心の中で感謝を告げる。

今はただ、穏やかな想念の余韻に浸る——。

 

 

 

 しばらくして、心の中でひと段落が付いた俺は再びメニューへ視線を落とす。値段はどれもそこそこするが、それだけ味に自信があるということだろう。

今日の迷宮探索でそれなりに稼ぐことができたので、今日は少し奮発しても構わない。それに、もし足りなければ商売で稼いだ金もある。なので、値段は気にせず食べたいものを注文するとしよう。

 

 メニューに目を走らせ、食べたい料理を選びつつ、周囲に気を回す。先ほどまで温度を感じさせなかった空気と視線は、いつの間にか霧散していた。どうやら最悪の展開は回避できたらしい。心の中でほっと息を吐く。

もしも仮に、この酒場の従業員と全面戦闘にでもなった場合、勝算は皆無だ。一番強いミアさんがLv.6という時点で詰んでいるのに、更にここにはLv.4の実力者が複数いる。リューさんもそのうちの一人だ。だからこそ、彼女等との間に軋轢が生じることは避けたい。そして何より、彼女の強さこそ、今回俺がここに訪れた理由でもある——。

 

 注文を決めた俺は、ウェイトレスを呼ぶために店内を見やる。すると、ちょうど近くの席へ料理を運び終えた一人と目があった。

 

 (げっ……)

 

 彼女を見て、思わず顔を顰める。

 年齢は俺よりも少し上くらい。薄鈍色の髪と瞳をした、見た目は可愛らしい少女。その可憐な容姿に騙された客達は彼女を看板娘として慕っている。そんな彼女の正体を、俺は知っている。だからこそ、この酒場において最も警戒するべきなのは——

 

 「お客様、ご注文は決まりましたか?」

 

 シル・フローヴァ。

 人当たりのよさそうな笑みを湛える彼女の表情は、どこまでも完璧で、そして——決定的に何かがズレている。俺の瞳にはそう映った。

 

 注文を受け取ったシルさんは、軽く会釈してキッチンへと消えていった。

 

 (……それにしても、だいぶ警戒されているな)

 

 シルさんと話している間、やたらと警戒の色が強い視線が一つだけ俺に注がれていた。言わずもがな、その正体はリューさんなのだが。

 

(彼女に警戒されることだけは避けたかったんだがな……)

 

 先行きが暗雲とする中、どうしたものかと考え込んでいると、

 

 「お待たせしました!」

 

 明るく元気な声が耳朶を揺すり、そこで思考が中断された。

 

 目の前に注文した料理が並べられる。どれも美味しそうで、食欲がそそられる。

 

 「ここの料理はどれも絶品なんです。ぜひ、味わってみてくださいっ」

 

 そう宣う彼女を横目に、両手を合わせて食事の挨拶をする。そして、カウンターに備え付けられているカトラリーを手に取り、早速いただく。

 

 「……うまいな」

 「ふふっ、お口に合ってよかったですっ」

 

 そう言うや否や、シルさんは俺が座る席の隣に腰を下ろした。

 ……おい、なぜ隣に座る。

 

 「……仕事はいいのか?」

 「今は客足も落ち着いてますし、給仕の方は十分に間に合ってますので」

 

 いいですよね? シルさんは視線でミアさんに尋ねる。彼女は俺を一瞥した後、シルさんに顔を向けては、口を吊り上げながらくいっと顎をあげた。

どうやら、俺は犠牲者に選ばれたようだ。恨めしげにミアさんを見やれば、俺の視線に気付いた彼女はこちらを振り向いて——鼻で笑った。

 

 (なっ、……このくそ女将がっ!)

 

 内心で悪態を吐く。

 今のこの状況、はっきり言って好ましくない。それは、彼女の正体が正体なだけに面倒なことになる可能性が濃厚だからだ。

 

 ウェイトレスの人間が業務中に客の席について、談笑に浸る。滅多にない光景かもしれないが、仮にあったとしてもそれは一種のサービスのようなものだ。ゆえに、特段気にすることでもない。

 しかし、その相手がシルさんであれば話が変わってくる。

 自惚れるつもりも、自意識過剰になっているつもりもないが、彼女が隣の席に座ったということは、少なくとも俺に興味が湧いたということを示唆している可能性が極めて高い。もしそうであるならば、厄介なことこの上ない。

 

 今、彼女に興味を持たれることは非常に危険を孕む。もしも、彼女が保有する武力が俺に矛を向けた場合、為す術はない。それならまだこの店の連中と事を構えた方がマシだ。それほどまでに圧倒的な戦力を彼女は所持している。

 

 原作において、彼女が興味を抱いたのはベルだが、すぐに手を出すことはなかった。しかし、だからと言って必ずしもこの現実においても手を出してこない保障はない。そもそも、興味を抱いた対象が違うのだ。その時点で原作は当てにはならないだろう。

 どちらにせよ、彼女の関心を買うことは極力避けた方がいいだろう。

 

 それからシルさんと会話を進めていく。

その際、こちらの情報を開示することは極力避ける。しても最小限の、誰でも知ることができる程度に絞る。そして、逆にシルさんからは可能な範囲内で情報を得ていく。既知の情報と未知の情報、必要な情報と不必要な情報、流石は種々の情報が飛び交う酒場で働いているだけあって所持する情報の量も期待以上だ。

 

 そうして食事を堪能しつつ、何気にシルさんとの会話も楽しんでいると、話題がこの店の従業員のことに移り変わる。

 

 「このお店の従業員は何か大きな事情を抱えている人が結構いるんです。ミア母さんはそんな人達も気前よく迎え入れてくれて……」

 

 この店で働いている従業員は、ミアさんのことを母親のように慕っている。そして、ミアさんもまた、彼女らのことを娘のように想っている。

彼女らに血のつながりはない。出自も違う。育った環境も、歩んできた足跡も、何もかもが異なる。けれど、巡り巡って今、彼女らは本物の家族以上に温かいきずなで結ばれている。

 この店は酒場であると同時に、彼女らにとっては“帰る場所”なのだろう。店内を見渡し、今も仕事で駆け回る従業員を一人一人視界に映していく。

彼女等に灯る色を視て、自然と頬が綻ぶ。

 

 「…………ここは良い場所だな」

「はいっ。ここは温かくて、居心地のいい場所です」

 

 目を細め、口元を綻ばせるシルさん。

 同僚を見つめる彼女の姿はどこにでもいる可愛らしい少女の様で、その姿こそが嘘偽りない彼女の本当の姿のように思えてならない。この何気ない日常の光景こそが彼女の『望み』であるとするならば……俺は————。

 

 そこで、はっと我に返る。

 いったい何を考えていたんだ、そう自分に問いかける。今のはまるで、シルさんを救いたいとでも言いたげな思考だった。それはあり得ない。あり得てはならないことだ。

 俺はそこまで他者を想いはしない。ベルとセレンが特別だっただけで、本来の俺は他者に無関心だ。実際、街中で行き交う人々やベルの実家にいた頃に関わりを持った村人や商人、彼らに対して俺の心が動いたことはないし、動こうとすらしなかった。

 それなのにどうして……まさか彼女が原作のキャラだから? だからどうにかしたいと思ってしまうのか? いや、例えそうだとしても、俺はベルのようなお人好しではないんだぞ。他者を思う気持ちなんて、俺に芽生えるはずがないんだ。

 

 自分の中にある感情と理性、相反する二つが矛盾を抱えて激突している。他者を思う感情と、他者を拒絶する理性。どちらも俺の中で共存する己自身であり、それを認めたくはないと子供じみた声をあげる。

 

 胸の奥でくすぶる本心を自覚しつつ、それは気のせいだと自己を偽る。

 この世界に来てようやく一歩を踏み出せた。そう思っていたのに、俺はまだ踏み出せてはいなかった……。

 

 他者を拒絶する——それが唯一自分の心を守る術だと。心の奥底で嘆く幼い俺が、そう訴えてくる——。

 

 

 

 最悪な気分とはまさに今の俺の心情を言うのだろう。ヘドロのように濁った情感が体全体に纏わりつくように侵食していく。

 また、俺はあの頃に戻ってしまうのか。そう思っていると、

 

 『比翼抱慕』——効果発動:状態異常無効化

 

 常時発動スキルがその効果を発揮した瞬間、体に纏わりつく不快感が一気に消し飛んだ。

 先程までの最悪な気分も一転し、思考は澄み渡るように晴れやかとなる。沈んでいた心も同様に、翳り一つさえ残さず息を吹き返す。

 

 突発的な出来事。経験したのはこれで二回目。

 一度目は恐怖の払拭。二度目は混乱の鎮静化。どちらも精神に作用する状態異常だ。しかし、精神に異常をきたすといっても、混乱に関しては大した影響はない。しかし、結果はスキルが発動し、見事に鎮静化された。

 

 ここで俺は、あることに気付く。

 『比翼抱慕』が精神異常にも作用するのであれば、セレンの蘇生に失敗した際に取り乱れた時、どうして作用しなかったのか。あの時、俺の精神は混乱、憔悴、絶望、といった状態異常をきたしていたはずだ。今回の程度で発動するのであれば、あの時発動していないのはおかしい。

 

 (もしかして、このスキルは……セレンの意思が反映されているのか!?)

 

 もしそうなのであれば、負の感情とはいえ、自分を思ってくれているが為に沸き立つ感情を消すことを拒んだ彼女が効果を発動しなかった、という結論に行き着く。こじつけ感が半端ではないが、可能性としては十分にあり得る。なにより、『天眼』がこの結論を導き出した。

全てを見通すと言われている『天眼』が導き出した結論ならば、信用はそれなりにできるかもしれない。

 

 いずれにせよ、精神の異常を回復する手段を『比翼抱慕』に依存するのはよくない。まずは揺るぎない健常な精神を手に入れる。肉体がどれだけ強くなっても、精神が弱ければ意味がない。そのためにも更なる経験を積んでいく必要がある。

 

 そして、俺の成長を促すのに最適な相手は——。

 

 

 

 「おい、嬢ちゃんッ! そんなガキじゃなくて俺の相手をしてくれよォ!」

 

 思考に耽っていると、中年と思しき男の声が耳に届く。

 意識を現実に戻し、声のする方へ視線を向ける。

 

 「なァ、おい、ヒック……ああァ、ほら嬢ちゃんッ、酒が足りねェ、女も足りねェ……! さっさと酒持ってきて俺に注げェ……ッ!」

 

 髭を無造作に生やし、冒険者の装備を身に着けている中年の男。まともに手入れしていないのか、装備は薄汚れ、当の本人は清潔感の欠片もない。首から上を真っ赤に染め、頭は不安定に揺らしている。男が囲む机を見やれば、十を超える空の酒瓶が無造作に置かれている。

横目でシルさんを見ると、苦笑いを浮かべている。周囲に目を向ければ、彼女と同じ反応の者がしばしば。中には面白そうに見ている者もいる。

ジョッキを片手に、ゲラゲラと下品に笑う男は、理性の箍が外れているのか周りの視線に気づきもせずに酔い痴れている。まともな思考ができそうにないその男は、食べ物で口元を汚し、口の両端には口角泡を携えて、汚らしく声を荒げながら立ち上がる。

 

 「おらァ、どうした嬢ちゃん! さっさとこっちにて俺の相手をしてくれよォ!」

 

 口角泡を飛ばしながら、ゆらゆらと千鳥足を踏みながらこちらに近づいてくる。男の視線は俺の隣にいるシルさんしか映っていない。

片手に持つジョッキの中身を零れそうに揺れしながら徐々にこちらに接近する男を前に、シルさんは苦笑を浮かべつつも平然としているように見える。普通の女の子であれば怯えるそぶりを見せるこの状況で、一切の動揺を見せることなく近づく男を見つめるその姿勢に、思わず感服してしまう。

 しかし、それはあくまでも表層の話。内心の彼女は、ひどく嫌悪感を抱いていることがわかる。それでも平然を装うその姿は、まさにサービス精神の塊だ。

 

 さて、どうしたものか。この後の展開が容易に想像できる俺は一人、対処に頭を悩ませる。

 

 「ハッ、こんな尻の青いガキの何がいいんだァ?」

 

 思考に耽っているうちに、男は目の前まで来ていた。

不躾な視線で俺を見下ろす男に不快感を覚える。席に座っている俺を見下すように見てくる男に少しずつ苛立ちが募る。

 

 「それに比べて……嬢ちゃんは良い体してるなァ……?」

 

 俺から視線を切った男は、再びシルさんを視界に入れると、全身を舐めまわすように見る。その下卑た眼差しを受けてなお、彼女は微動だにせずつくった笑顔を貼り付ける。

 

 「なァ嬢ちゃん、俺とあっちで飲もうぜェ? 楽しませてやるからよォ!」

 「……すみません。私は夜さんとお話ししているので、また今度でお願いしますねっ」

 

 男の誘いを笑顔で断るシルさん。

 お前、心臓に毛でも生えてるのかよ……。

 彼女の横顔を見て、その豪胆さに呆れ果てていると、男の雰囲気がガラリと変貌したことを感じ取る。思わず男に振り向けば、片手に持つジョッキを俺の頭上で傾けている様子が視界に映る。

 

 時間が引き延ばされるようにゆったりと進む中、これから起きる出来事を予知するように頭の中で思い描かれる。

 避けることは容易だ。対処のしようもいくらでもある。

 しかし——ここは敢えて避けない。

 

 ビシャッ。

 冷えたビールが頭上から降り注がれる。麦の匂いが頭から肌を伝って滴り落ち、鼻を刺す。特段嫌いなにおいでもないが、この男の飲みかけだと気づいた途端、不快感が一気に湧いて出る。

 

 「夜さんっ!!」

 

 驚いて立ち上がり、声を上げるシルさん。彼女が初めて動揺した姿を視て、胸の内でほほ笑んでいると、視界が動く影を捉える。

 

 「そんな奴ほっといて、さっさと来い——」

 「おい」

 「グッ……?!」

 

立ち上がったシルさんの腕を、空になったジョッキとは別の手で掴もうとしていたところを寸でのところで食い止める。反射的に男の手首を掴んでしまったため、力加減ができず男が呻き声を上げる。

 手首を掴まれた痛みで顔を顰める男を見下ろしながら、静かに、何の感情ものせることなく平坦と告げる。

 

 「彼女に触れるな。死ぬぞ?」

 「夜さん……」

 

 俺の言葉に、何やら感動を覚えた様子のシルさんが視界の端に映る。

 だがしかし、勘違いしないでもらいたい。これはシルさんの為に言っているわけではない。どちらかと言えば、この男のために言っている。

 何しろ、先ほどから視界の端で、空色の瞳に憎悪と憤怒を宿した物凄い形相のエルフが男を穴が空くほどに睨みつけているんだ。もし今、俺が止めずに男がシルさんに掴みかかった場合、最悪この男は三途の川を渡ることになっていたかもしれない。これは冗談でも何でもない。なぜなら、彼女——リュー・リオンはいつもやり過ぎてしまうのだ。Lv.4の彼女が感情のままに拳を振り抜けば、天に打ち上げられる可能性が非常に高い。何なら、彼女の傍にいながらなぜ守らなかったのだと俺まで被害を被る可能性だってある。

こんな男の道連れ? 死んでも御免だ。

 

 だからこそ、こうして事前に食い止め、“彼女に触れたらあのおっかないエルフに殺されるぞ?”とわざわざ通告してあげているのだ。いわばこれは慈善活動かもしれない。善人になる気はないが、実際にやってみると案外悪くないものだ。

 

 (にしても、面倒事に巻き込まれたくなかったから酒をわざとかかったってのに……。これじゃあ、被り損じゃねぇか)

 

 内心で悪態を吐いていると、男の手首を掴む手越しに抵抗が伝わってくる。男の相貌を伺えば、苛立ちの形相でこちらを睨みつけて怒声を上げてきた。

 

 「おい、テメェ! 放しやがれ……!」

 

 (おいおい、命の恩人に向かってなんだ、その言い草は)

 

 状況を理解できていない男にほとほと呆れてしまう。

まあ、この男の立ち位置からはリューさんは見えないわけだし、仕方がないのかもしれないが、リューさんからは明らかに殺気が漏れ出ている。これだけ濃密な殺気なら低級冒険者でも気づくはずだ。

酒が回っているせいで気付いていないのか。あれだけの殺気を一身に受ければ酔いも覚めると思うんだが……。

 

 (……はあ、仕方がない)

 

 あまり目立つ行動は気乗りしないが、殺されるよりはマシだろう。そう自分に言い聞かせて、男を掴む手の力を増していく。

 

 「グッ……?!」

 「彼女に近寄るな。いいな?」

 「は、放しやがれ……ッ!」

 

 理解力の無い野郎だな。

 必死に振りほどこうとする男に呆れと憐みを抱いてしまう。俺の手を振りほどけない時点で力量差は理解できるはずだ。力を隠している可能性も捨てきれないが、その場合、こんな目立つ行動はしないだろう。

 

 「お、俺はLv.2の冒険者様だぞ……ッ!!」

 

 苛立ちながら威張るように告げられたその言葉に一瞬瞠目してしまい、男を掴む手の力を緩めてしまう。

 

 (これがLv.2? 嘘だろ……)

 

 男の言葉を素直に飲み込むことができない。目の前の男は明らかにイルジンよりも劣っている。念の為に使用した【身体強化】は一回だけ。重ね掛けはしていない。

 ということはこの男が嘘を吐いているのか。いや、そうとは視えない。ならば本当にこの男はLv.2ということか。

 それにしても弱い。いや、同レベルでもイルジンが特別強かっただけの可能性はある。あの男は明らかに場慣れしていたしな。それと恐らくだが、『起源魔導』によって【身体強化】の効果が強化されたことも関連しているはずだ。

 そう考えれば、相手がLv.2であるにもかかわらず、均衡がこちらに傾いていることの説明が付く。

 

 「死ねェッッ!!」

 「……おせぇよ」

 

 男が拳を振りかざしてくるが、半身逸らすことで回避。そのまま右手で手首を掴んで背に回し、左手で襟首を掴んで地面へ押し倒す。

 

 「グハ……ッ」

 

 勢いよく叩きつけたため、肺の空気が一気に吐き出されたようだ。苦しそうに顔を顰めるが、情けはかけない。うつ伏せの状態で地面に這い蹲る男の背に乗り、身動きを取れないようにする。

 

 「ぐッ……どきやがれ……ッ!」

 「断る」

 「ッ……お、お前らァ! このクソガキを何とかしろッ!!」

 

 苦悶の表情を浮かべる男がそう言うと、椅子が地面を勢いよく擦っては倒れる音が背後からする。

 立ち上がった男は三人。Lv.は三人ともこの男以下だろう。

 【魔力感知】を使用しているわけではないのに、背後の様子がわかる。これも『天眼』の能力なのだろう。便利な発展アビリティだ。

 

 「俺達の仲間を離しやがれ、クソガキィッッ!!」

 

 三人が一斉に怒りを湛えて駆けつけてくる。

 

 「よ、夜さんっ!」

 

 シルさんが慌てたように呼び掛けてくるが、俺は振り向くことなく微動だにしない。いや、する必要がない。

 なぜなら——

 

 「うがっ……?!」

 「ぐへ……っ!?」

 「ごほっ……?!」

 

 三者三様。それぞれが汚い悲鳴を上げる。

 

 「全く、騒々しい奴らだニャア」

 「そうニャそうニャ! ミャー達の手を煩わせないでほしいニャ!」

 「ほんと、冒険者ってのはめんどくさい連中ばっかりっ」

 

 この店には上級実力者が複数いる。低級冒険者程度では相手にすらならない強者。彼女等がいる限り、この店で悪さをすることは不可能だ。怪しい動きを見せた途端、殴り飛ばされるのがオチだろう。

 ならば、大人しく料理を頂く。それがここでの賢い過ごし方だ。

 

 

 

 

 「夜さんっ、先ほどはありがとうございました!」

 「気にするな。やるべき事をしただけだしな」

 

 先程の一悶着から数分。金を払って店を出て行く男達を見送った俺は、シルさんが持ってきてくれたタオルでべたつく頭や顔を拭いた後、改めて席について食事を再開した。

 料理を味わう俺の隣には、当たり前のようにシルさんが陣取っている。

 

 (それにしても……)

 

 彼女を横目でちらっと見る。

こちらを見つめる彼女の瞳の毛色が少し変化したように視える。興味の色がより濃く深くなっている。

やはり先ほどの行動は早計だったかもしれない。彼女の変化を視て、そう思ってしまう。しかし、あの時俺が対処していなければ、リューさんに何をされるかわからなかった。あの男が死ぬだけなら構わないのだが、俺まで巻き込まれるのだけは避けたかった。

 それに彼女を助けたことでリューさんからの警戒心も薄れている。

 結果論ではあるが、彼女を助けたことはプラスに働いたと見ていいかもしれない。

 

 「夜さんってすごくお強いんですね!」

 「……まあ、少しだけな」

 「ですけど、夜さんってLv.1って言ってましたよね?」

「…………確かに言ってたな」

 「さっきの男性はLv.2とおっしゃってましたけど、Lv.1でLv.2に勝つなんてすごいですっ!」

 

 声を大にして俺を称えるシルさん。

 

 前言撤回。全然プラスに働いてない。これはまずい。

望んでいない展開に進む現状に、内心焦りが募る。

 

 この世界においてLv.の差というものは大きい。Lv.が一つ違うだけで、雲泥の差が生じる。その差は簡単には覆しようがなく、基本アビリティの熟練度が最高値に近いか、あるいはスキルや魔法といった外的要因による自己強化を図るか……いずれにせよ、Lv.差を覆して勝利することは容易ではない。

 だからこそ、そのあり得ない結果を齎した俺には必然的に視線が集まってしまう。背中にいくつもの視線が刺さる。好奇の色、闘争の色、懐疑の色、嫉妬の色……種々の感情を宿した眼差しが一身に降り注ぎ、非常に居心地が悪い。

 

 そして何より、この状況を理解したうえで意図的に作り出している隣の『魔女』が非常にうざったい。

 

(こいつのこと救いたいとか言ってたやつ誰だよ、まじで。そんなこと宣ってる奴はまじで馬鹿だ)

 

 シルさん、いや、こいつに敬称は不要だ。シル、こいつは正真正銘の“性悪女”だ。間違いない。全然、ちっとも可愛らしくなんてない。顔は確かに可愛いけど、性格はクソだ。

 やはりこの女とは関わらない方がいい。碌なことにならないのが容易に想像できる。しかし、興味を持たれてしまった以上、関わりを断つのは困難だ。

 こうなれば、最終手段はベルに生贄になってもらうしかない。あいつなら大丈夫だ。だって、この世界のハーレム主人公だし。未来の英雄だし。うん、なんも問題はないな。

 よし、いざという時はベルを頼ろう。だからベル、その時はお前の魅了でこいつを洗脳してくれよ。

 こうしてベル不在の、ベル生贄計画が誕生した——。

 

 

 ……まあ、冗談は置いておいて。

 

「なあ、シル」

「えっ?」

 「ん?」

 「呼び捨てで、名前……」

 「あー、俺達の間に敬称は不要だと思ってな」

 

 敬称とは相手を敬う気持ちがあって初めて使用する言葉だ。

 だからな、シル……お前には敬称、使わないよ。

 あの酔い男と対面している時はすごい奴だと思ったのに、さっきの嬉々として俺を目立たせようとするお前の姿を見て、俺の認識が間違っていることに気付いたよ。だから、ありがとう、気づかせてくれて。おかげでもうお前に騙されることはない。ギリギリ致命傷を負ってしまったけど、騙された俺が悪いからな。

 一つ教訓を得た。これもシルのおかげだ。だから、ありがとう。

彼女に感謝の気持ちを告げるのはこれで最後となるだろう。そうであることを願うばかりだ。

 

 「それじゃあ、私は夜って呼ぶねっ!!」

 

 俺の内心など露ほども知らず、俺の言葉に彼女は花が咲いたような笑顔を浮かべると、今までに見た中で一番の満開で見惚れるような綺麗な少女の笑顔を湛えた。

 

 (ぐっ……)

 

 その笑顔を見て、罪悪感が押し寄せてくる。

 こいつ、無駄にいい笑顔をしやがって……!

 おかげで自分が惨めに思えてすごく心に来るんだが……。まあ、悪いのは俺だから自業自得なんだけどさ。なんか、納得いかねぇ。

 

 内心で悪態を吐くものの、不思議と嫌な気分ではなかった。

 やはり、顔がいい奴は全てにおいて許されるということか。

 一種の真理の扉に手を翳したような気がした。

 

 

(いや、そうじゃなくて……!)

 

 「実はシルにお願いがあるんだ」

 「私にお願い?」

 

 シルの言葉に頷きで返す。

 本来であれば、彼女に“お願い”をすることは避けた方がいい。どんな見返りを求められるかわからないからな。しかし、今回に限って言えば、見返りを支払う必要はない。

 

 「ふぅん」

 

そう呟いて目を細めると、上体を倒して上目遣いで俺の目を覗いてくる。彼女の薄鈍色の瞳と視線が重なる。

辺り一帯に妙な静けさが漂う中、俺の心もまた落ち着いていた。

瞳を通して俺の心を見透かそうという魂胆なのだろうが、この程度で動揺したりはしない。それに、お願いと言っても別に大したことでもない。そのため、不自然に取り乱すこともない。

 

「……まあ、夜にはさっき助けてもらったしねっ。わかった、私にできることならいいよ!」

 

 上体を起こしたシルから承諾を得た。

 俺一人であれば勝算は低く、不安であったが、彼女が仲介してくれるのであれば一気にその確率は跳ね上がる。

 これでほぼ間違いなく俺の目的は達成できる。それほどまでに、シルは彼女との仲が良く、彼女はシルの押しに弱い。

 

 「それで? その肝心のお願いごとって何なの?」

 「ああ、そうだな。俺のお願いは——」

 

 強くなるために何が必要か。そう考えた時、その答えは無数に出てくる。

 

 それは——力。

 それは——知識。

 それは——魔法力。

 それは——身体能力。

 それは——頑強な肉体。

 それは——鋼のような精神。

 

 そのどれもが強くなるためには必要な要素だ。

しかし、その無数に弾き出される答えの中でも、今の俺に最も必要なものは何か。そう自問自答した時、一つ、浮かび上がった答えがある。それは——“経験”。

経験は、全ての要素に精通している体系的な要素と言える。

 

 経験から力を得る。

 経験から知識を学ぶ。

 経験から魔法力を磨く。

 経験から身体能力を向上させる。

 経験から頑強な肉体を構築する。

 経験から鋼のような精神を鍛え上げる。

 

 ゆえに、今最も俺に必要なものは何かという答えが、経験なのだ。

 経験を積むのであれば、迷宮に潜ればいいと思うかもしれないが、それでは効率が悪い。何の効率か。それは技術獲得の効率だ。

どれだけ膨大な力を保有していようとも、その力を扱うだけの技量が無ければ宝の持ち腐れだ。ゆえに、技術の向上が必要なのだ。そして、洗練された技術は先達に学ぶのが一番効率がいいし、効果的だ。

 

 しかし、ここで二つ問題がある。

 一つは、【ヘスティア・ファミリア】は初眷族が俺達のため、頼れる先輩がいない。他の派閥ならいざ知らず、俺達の派閥はできたばかりの零細だ。ゆえに、自己派閥内に頼る手立てはない。

 もう一つは、【ファミリア】問題だ。この世界にはいくつもの【ファミリア】があるわけだが、【ファミリア】が他所の【ファミリア】の事情に干渉することはタブーとされているのだ。もしも問題に首を突っ込めば、その結果に伴う責任を負う必要がある。ゆえに、自分たちには関係のない問題にはわざわざ関わろうとはしないのだ。

 

そういうわけで、内にも外にも頼ることができない。であれば、残された答えは一つ。それ以外に頼る。例えば——脱退状態の眷族、とか。

『豊穣の女主人』にはそういう人種が集まっている。彼女達の力を頼ることは『【ファミリア】同士は不干渉』という鉄の掟を破ることにはならない。そして何より、彼女達は腕の立つ実力者だ。経験を積むのにこれ以上の適した相手はいないだろう。

 

 以上の理由から、俺のお願いは——

 

 「リューさんに稽古をつけてもらいたい」

 

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