自称“凡人”の人生譚   作:飢堕天

17 / 35
 お待たせしました。


17話 成長と決意

 

 空がまだ日の出を迎える前——闇に包まれたオラリオの一角。

 本来は物置として使われていたその場所は、今や戦場と呼ぶに相応しい熱気を孕んでいた。

 

 絶え間なく鳴り響く、甲高い衝突音。

木刀と木刀がぶつかり、静寂の闇を切り裂く。

 まだ誰もが眠りに耽る時間帯。闇の帳の下、二人の男女はただ己の技を賭して、無言の剣舞を舞っていた。

 

 

 

 ——稽古を開始して、一週間と数日。

 

 『豊穣の女主人』の中庭にて、夜とリューは木刀を交える。もはや日常と化したその仕合は、初日とはまるで別物だった。

 

 互いに一歩も譲らぬ、一進一退の刀閃。

的確に定められた一撃が空気を裂き、洗練された動作がそれを捌く。

 立ち位置が幾度も入れ替わり、攻防は流れるように続く。

 仕合を開始して、既に1時間が経過している。しかし、両者の身体には未だ傷一つない。

 かつて一方的に打ち据えられていた夜は、今やリューと対等に渡り合っていた。

 

 

 (……今の彼は、もはや初日とは全くの別人だ)

 

 刃を交えながら、リューは内心でそう呟く。

 初日、彼女は夜の成長を“飛躍的”と評した。戦いの中で洗練されていく彼の動きは、その言葉に相応しいものだった。

 

 だが、その評価はすぐに撤回される。

 二日目——目の前に立つ彼は、もはや“飛躍”などという言葉では足りなかった。

構え、間合い、闘気の質——何もかもが初日とは異質。

 対峙した瞬間、リューは彼の姿にかつての仲間を幻視した。

極東の剣嬢——好敵手として共に刃を交えた友の面影。

 

 そして、実際に木刀を交わし、確信へと至る。

夜は初日の数時間で、リューの技術を喰らい、自身の中に取り込んでいたのだと。

そう理解した瞬間、彼女は背筋を粟立たせた。

 

 (初日に見た彼の成長速度は確かに飛躍的だった。しかし——今の彼はもはや“成長”などという段階ではない)

 

 リューの眼が細まり、鋭さを増す。

 

 (彼は……私の技術を基に、全く別の存在へと自らを再構築した——)

 

 本来、そのような所業は人の域で為せるものではない。

 存在の再構築には、対象の本質を理解し、構成を掌握する必要がある。

 まるで神業のようなその行為を、目の前の少年はやってのけていた。

そんな理解の範疇を超えた彼を見て、リューは堪らず乾いた笑みを漏らしたのを覚えている。

 

 一寸の狂いもなく旋律を灯す——二重奏。

 互いの構えは対を為し、間合いをはかる視線は一寸もブレない。

 リューが一歩踏み込むのと同時、夜もまた、共鳴するかのように同じ間合いで踏み込む。

 打ち下ろし、斬り上げ、捌き、弾き——音が、動作が、呼吸が、写し鏡となって準える。

 

 明らかに異質。

模倣出来る者は少なからず存在する。『才禍の怪物』のように。

だが、技を真似る事と、存在そのものを同質へと昇華させる事はまるで別だ。

夜はその領域に、片足どころか、既に深く踏み込んでいる。

 

 初日の数時間——夜はリューをただひたすら観察し続けた。

 一瞬たりとも視界から外さず、襲い来る暴力を正面から受け、拒まず、学んだ。

どれ程の痛みを負おうとも怯まず、全てを記憶に刻み込んだ。

 

 得た情報は膨大で、夜はそれを学習によって己の可能性へと拡張する。

 そして、仕合の中で実践し、経験を通して修正を重ねていった。

拡張と修正——それを繰り返した果てに、今、彼はリューと対等の域へと至ったのだ。

 

 

 

 

 「——今日はここまでにしましょう」

 

 空が白み始めた頃合い。

 張り詰めた空気を裂くようにして、リューの声が静かに落とされた。

その一言を合図に、本日の仕合は終幕を迎える。

彼女の言葉で終える——それがこの稽古の通例であった。

 

 「……ふぅ」

 

 木刀を下ろした夜は、静かに息を吐き出す。

 薄く差し込み始めた朝の光が、滴る汗を照らして煌めかせる。

身体には幾つかの掠り傷が見受けられるものの、いずれも浅い。——ここ十数日の稽古の成果である。

 

 冷えた空気を肺に取り込み、熱で火照る身体と精神を鎮める。

その瞬間、世界が時間を取り戻したかのように、周囲の音が夜の耳朶を叩いた。

 鳥のさえずり、木々の葉擦れ、風の旋律。

 周囲の音が掻き消える程に仕合へ没頭していた夜は、それ等の音を拾って漸く時間が経過した事を認識した。

 

 「お疲れ様です、ツクヨミさん」

 「……お疲れ、リューさん」

 

 木刀を納めたリューが、夜のもとへ歩み寄る。

軽く汗を滲ませながらも、その表情にはまだ余裕が窺える。

 対する夜は、呼吸を整えつつも困憊の色は隠せない。

今や対等に渡り合える程の腕前になったとはいえ、覆せない自力の差は尚、両者の間に明確に存在していた。

 

 「【アカシックレコード——】」

 

 リューが傍まで来たのを見計らい、夜は魔法の名を唱えた。

 虚空に白紙の本が出現したのを視界に映しつつ、魔法を召喚する。

 

 「【——ディア・フラーテル】」

 

 夜が魔法名を紡ぎ終えた時、純白の光輝が二人を包み込む。

柔らかな光が疲労と傷を瞬時に癒し、温もりが身体の芯まで満ちてゆく。

 

 最上位の全癒魔法。

傷の治療、体力回復、状態異常及び呪詛の解除。比喩ではなく、文字通り“全てを癒す”回復魔法。

 

 この魔法の保有者の名は、アミッド・テアサナーレ。巨大製薬系派閥——【ディアンケト・ファミリア】の団長を務める、ヒューマンの少女。

都市最高の治療師(ヒーラー)と謳われる彼女の魔法で、仕合で疲弊した身体を回復する。それが、稽古終わりの日課であった。

 

 

 「ありがとうございます。……それにしても、貴方のその魔法、やはり規格外ですね」

 

 失った体力が全快したのち、リューの口からポツリと呟かれる。

 淡く揺らめく魔法の残光を見やる彼女は、僅かな呆れと感嘆が混じった声色で夜の魔法に言及する。

 

 「可能な限り、人目のつく所では使わない方がいい。神々の目に留まるような事があれば、厄介だ」

 「ああ、わかってる。面倒事は勘弁だからな。今のところ、リューさん以外に見せる気はない」

 

 暇を持て余す神々は、日々、娯楽に飢えている。彼らの目に留まれば最後、訪れる結末は目に見えている。

 ゆえに、面倒事を避ける為には、力を隠して目立たないことが最善手だ。

 

 夜の言葉に、リューは僅かに目を見開く。

そして少しの沈黙ののち、「……そうですか」と静かに応じて、空色の瞳を伏せた。

 

 その様子を尻目に、夜は今晩の予定を彼女に告げる。

 

 「今日の夜は、ここに食べに来ると思う」

 「わかりました。それでは、いつもの席を取っておきます」

 

——貴方が来てくだされば、シルも喜ぶでしょう。

そう柔らかく付け足したリューは、僅かに口元を緩めた。

 

 夜は苦笑で返す。

 

 「……そうか」

 

一言ながらも、その声色には僅かな呆れと、仄かな親しみが滲んでいた。

 

 「……それでは、私は開店の準備がありますので」

 

 失礼します——そう言って、彼女は踵を返す。

その背を見送りながら、夜は心の中で静かに礼を告げた。

 

 やがて視界から彼女の姿が消えると、夜はゆっくりと空を仰ぐ。

朝焼けに染まる空が、今日の始まりを告げている。

瞼を閉じ、まだ残る熱と余韻を胸に、夜は深く息を吐いた。

 

 そして——静寂の中、今日の仕合を振り返った夜は、己の確かな成長を実感し、微かに口元を緩ませる。

 新たな一日の始まりに、小さな昂ぶりが胸の奥でじんわりと広がっていった。

 

 

 

 

 火照る身体の熱が鎮まり、心身ともに平静を取り戻した頃合い。

 壁を背に立ち尽くす夜は、行き交う人々をぼんやりと眺めていた。

 

 時刻は早朝。場所は『豊穣の女主人』の入り口前。

人が出歩くにはまだ早い時間帯だが、それでも疎らに人影が大通りを横切っていく。

 その服装、表情、歩調から、彼らが何処へ向かうのかを推察する事が、最近の夜のちょっとした習慣だった。

 

 やがて、静寂を破るように。

 店の奥から、バタバタと床を踏み鳴らす音が耳朶を叩いた。

 

(……来たか)

 

 その慌ただしい足音に呼応するように、夜は壁から背を離し、音の方へと視線を向ける。

間もなく、木製の扉が勢いよく押し開かれた。同時に、焼き立てのパンと炒め油の香ばしい匂いが、店内の温もりと共に外へ弾き出す。

流れ込む朝風が香りをさらい、夜の黒髪をふわりと揺らした。

 

 「夜!」

 

 扉の向こうから飛び出してきたのは、一人の少女。

 後頭部でお団子にまとめた薄鈍色の髪、そこからぴょんと垂れた一本の尻尾が左右に揺れる。

両腕には風呂敷で包まれた弁当。シルはそれを落とさぬよう大切に抱えながら、ぱたぱたと駆け寄ってきた。

 

 「お待たせ! はいっ、これ!」

 「……おう、さんきゅ」

 

 差し出された弁当を、夜は一瞥する。

 その眼差しには、これから戦地に赴く兵のような、僅かな覚悟と諦念が滲んでいた。

抑揚のない声で礼を述べ、ゆっくりと手を伸ばす。

 

「ふふっ、どういたしまして!」

 

 弁当を渡せた事が心から嬉しいのだろう。

 頬を桜色に染め、春の花がほころぶような笑みを浮かべている。

 彼女は出会った日からずっと、毎朝こうして夜のために弁当を作り続けている。

 

 ——少しでも夜の力になりたいの。

 

初日のあの言葉を、夜は鮮明に覚えている。

その言葉が真実である事を知っているが故に、彼はシルの好意を拒むことは出来なかった。

 

 だが、それでも一つ、受け取る度に躊躇う理由がある。

 

 シルは、壊滅的に料理が下手だった。

 一口で気絶、二口で昇天——まさしく致死毒級。

 発展アビリティ『対異常』を持つ冒険者でさえも逃れられぬ惨劇。

 その中でただ一人、夜だけはそれを克服していた。

 

 『比翼抱慕』——その効果のひとつ、状態異常無効化。

あらゆる毒を無効化するその力が、彼を唯一シルの“料理(どく)”から生還させる。

もっとも、味そのものはどうにもならないのだが。

 

 夜は苦笑しながら弁当を見下ろし、喉をひとつ鳴らす。

 今日もまた、己の精神力が試される日が始まる。

 

 

 「今日も隠し味を入れておいたからねっ!」

 

 夜の心境など知る由もなく、シルはいつもの決め台詞を誇らしげに告げた。

 両手を後ろで組み、上体を前に傾けながら、上目遣いで夜の瞳を覗き込む。

無邪気さとあざとさを絶妙に混ぜた仕草に、思わず目を逸らしたくなるほどだ

 

 「そうか、さんきゅー」

 

 しかし、夜はあっさりと受け流す。

 彼女の計算尽くの所作を知っているが故に、動じる事もない。

 

 「もうっ、聞いてよ!」

 

 あっさりとした返答に、シルはむっと頬を膨らませ、眉を吊り上げて抗議する。

夜は小さく息を吐き、仕方なさそうに問う。

 

 「……何が入ってるんだ?」

 「ふふっ、それはね——」

 

 途端に機嫌を直したシルは、花のような笑顔を咲かせて夜へと歩み寄る。

夜が一歩退く間もなく、彼女はすっと身を寄せ、小ぶりな唇を彼の耳元へと近づけて囁いた。

 

 「ま・ご・こ・ろ」

 

 語尾にハートでも浮かびそうな、甘く湿った声音。

熱を帯びた吐息が耳朶を撫で、夜の肩がびくりと震える。

 

 「————っ!」

 

 反射的に顔を背け、耳を押さえる夜。

 その視線の先では、頬を紅潮させたシルが熱を帯びた双眸で彼を見つめていた。

先程までの可愛らしげな表情は鳴りを潜め、ほんのりと妖艶さを纏っている。

 

 「ふふっ、可愛い」

 

 口元に拳を添え、楽しげに微笑むシル。

 その細められた瞳は、まるで小動物を弄ぶ蛇のように艶やかだった。

 

 (……このクソアマ……!)

 

 夜の胸中に込み上げるのは、羞恥と屈辱。

 こちらの警戒を搔い潜るように、毎度彼女は悪戯を見舞う。

 

 深く息を吐き出した夜は、無駄な抵抗を捨てる。それが意味を為さない事は、この数日で嫌という程に思い知らされた。

 

 「……俺はもう行く」

 

 短く言い残して踵を返す。

 

 「ふふっ、気を付けて行ってらっしゃい」

 

 逃げるように立ち去る夜の背を見送りながら、シルは柔らかく微笑んだ。

その眼差しには、からかいよりも、愛おしさが勝っていた。

 

 「——本当に、可愛い子」

 

 背伸びをしながら懸命に大人になろうとする少年に、そっと慈しみの瞳を向ける。

朝の光が彼の背を照らし、二人の間に淡い余韻を残していた。

 

 

 

 

 朝の光を受けて黄金色に染まる白亜の塔——バベル。

 その威容を仰ぎ見ながら、夜は石畳の大通りを進んでいた。

 

 通行人の流れを縫うように歩いていく。その先には、待ち合わせの約束をしていたベルの姿。

 そわそわと落ち着きなく身体を揺らし、視線をきょろきょろと彷徨わせている。

 

 「——ぁ、夜……!」

 

 気付いた瞬間、顔をぱっと明るくさせると、軽い足取りで駆け寄って来る。

 茶色のコートの上から、夜お手製の軽装を着込み、腰には短剣を携えている。

つい二週間ほど前に揃えた装備だが、今では無数の傷が刻まれている。

それは、ベルがこの短期間で幾度も激しい戦闘を繰り広げた事を如実に表していた。

 

 「悪い、待たせたか?」

 「ううんっ、僕も今来たところ!」

 

 常套句による返し。

 しかし、夜の漆黒の瞳はその言葉が嘘であることを何となくだが読み解いた。

けれど、それがこちらを気遣ってのものだと承知している夜は、穏やかな微笑と共に「そうか」とだけ返した。

 

 

 迷宮探索の初日を除いて、夜とベルは別々で行動していた。

それぞれの力量に見合った階層で経験値と資金を積み重ねる、合理的な選択だ。

もっとも、稼ぎの面では夜が圧倒的である。そのため、【ファミリア】の運営に必要な資金の半分は夜が担い、残り半分はベルとヘスティアで折半しているのが現状だ。

当初は二人からの反対があったものの、その意見を夜は即座に棄却した。稼ぎ頭が自分なのであれば、一番多く支払う事に思う所はない。それで【ファミリア】が正しく機能するのであれば、それは寧ろ夜の望む所であるからだ。

 

 結果として、小規模な派閥ではあるものの、不自由なく日々の生活を送れている。

 

 

 「それじゃあ、行こっか!」

 「ああ、行きますか」

 

 ベルの燦然とした深紅の瞳が、夜の漆黒の瞳を見つめる。その双眸に燈る熱は、瞳の色と同様に力強く燃え盛っている。

 夜はその熱に当てられるように、ふっと口元を緩めて頷いた。

 

 「夜と一緒に潜るのは初日以来だね!」

 「そうだな」

 「楽しみだなー!」

 「おいおい、そんな気持ちで潜ったらエイナさんに説教されるぞ」

 「うっ……そ、それは……でも、やっぱり夜と一緒に潜れるのが僕は嬉しいんだっ」

 「そうかい。……まあ、俺も今日の探索は楽しみにしてたよ」

 「ほんとっ?!」

 「ああ」

 「それじゃあ、今日の探索は一緒に頑張ろうね!!」

 「そうだな。一杯稼いでヘスティアを驚かせてやろうぜ」

 「うんっ! 神様、きっと喜ぶよ!」

 「だな」

 

そんな、他愛もないやり取りを交わしつつ、二人は肩を並べて歩き出す。

朝靄を溶かして差し込む陽光が石畳を照らし、通りの喧騒を背に遠ざけていく。

やがて、目の前には暗澹たる深淵——迷宮の入り口が口を開いていた。

 

 

石の階段を下りるたび、外界の喧騒が薄れていく。

足音と呼吸の音だけが響くその静寂の中、夜はふと隣を見た。

強い意志を眼差しに灯すベル。その表情には、恐れよりも期待の方が勝っていた。

 

 「行こう」

 「うん!」

 

 初日と同じように。

 しかし、その時とはまるで違う心持ちで——二人は肩を並べ、モンスターの巣窟へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 五階層。

 石壁に囲まれた暗い通路に、湿った空気と淡い鉱石の光が漂う。

 歩みを進めるたび、足元で小石が微かに転がり、遠くから低い唸り声が響く。

 

 洞窟の一角。

殺伐とした空気が支配するその空間で、ベルは構えを取りながら静かに正面を見据える。

 

 相対するのは、三体のコボルト。

 獣のように唸りながら地を蹴り、爪を振りかざして突進してくる。

 

 ベルが一歩踏み込み、低く沈む。

 短剣が弧を描き、唸り声を上げたコボルトの喉元を斬り裂いた。

 鮮血が散って間も無く、その身体は灰となって崩れ、淡く光る魔石が地面に転がる。

 

 仲間を殺された事に対する憤慨か、残る二体が咆哮を上げて襲いかかる。

 爪の一撃が横薙ぎに迫る——が、身体を翻し、それを紙一重で回避。

その勢いのまま、踏み込んで蹴りを放ち、一体を後方の壁際へと叩きつけた。

石壁にぶつかった衝撃音が響き、もう一体と向き合う形になる。

 

 間合いを詰め、攻防が続く。

 短剣と爪がぶつかり合い、火花が一瞬だけ暗がりを照らした。

 そして、ほんの僅かに生まれた隙を見逃さず、ベルの刃が閃く。

 コボルトの身体が断たれ、灰となって崩れ落ちた。

 

 

 夜はその光景を見つめながら、感嘆の吐息を静かに漏らす。

 

 (……動きが様になってきている)

 

 脳裏をよぎるのは、夜の帳に包まれた稽古風景。

 ベルが頭を下げてきた日のこと。

 

 ——夜みたいに強くなりたい。

 真っ直ぐな瞳で言われたあの言葉を、今でもはっきりと覚えている。

倒れても立ち上がり、歯を食いしばりながら短剣を振るう姿。

 あの時、彼の目の奥に灯った光が、今も確かに燃えている。

 

稽古を始めてまだ一週間程度。

されど、教え込んだ技術は、確かに彼の中に根を張っている。

 

 

 戦闘を終えたベルは、慎重に周囲を見回した。

 残敵の気配を確かめ、息を整えてから短剣を鞘に納める。

 灰の中に埋もれた魔石を拾い上げ、掌の中で光を確かめた。

 その小さな光が、彼の成長を象徴しているように思えた。

 

 

 「お疲れ」

 

 夜は労いの言葉を口にして、ベルの傍へ歩み寄る。

 手の中には、ベルが倒したコボルトの魔石が握られていた。

 

 「ほい」

 「ありがとう」

 

 差し出した魔石を受け取ると、ベルは大事そうに魔石袋へと仕舞い込む。

少し息を弾ませながらも、その顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。

 

 「僕の戦い、どうだった?」

 

 期待と不安の入り混じった声。

 その問いに、夜は一拍置いてから頷いた。

 

 「良かったよ。稽古で教えた事を、ちゃんと実践で活かせていた」

 「……そっかっ。ありがとう、夜!」

 

 言葉と共に笑顔を見せるベル。

 その無邪気な笑みに、思わず口元が緩みかけた——が。

 

 ひび割れる音が、空気を裂いた。

 壁面が脈打ち、岩肌が光を帯びて抉じ開く。

 

 新たな生命の誕生。

 ダンジョンの神秘が顔を覗かせる。

 

 「次は俺も一緒に戦うよ」

 「うんっ、一緒に戦おう」

 

 視線の先に、四体のモンスター。

 ぬめった肌を持つ蛙のモンスター——フロッグ・シューターが、大きな単眼でこちらを睨む。

通路全体に響く低い鳴き声が、戦いの幕開けを告げた。

 

 

 

 

 幾度もの戦闘を終えた頃、ダンジョンの空気が漸く静まりを取り戻していた。

 湿り気を帯びた風が通路を抜け、岩壁に染み込むような静けさが広がる。淡く光る燐光が、うっすらと二人の影を壁に落とす。

 

 夜とベルは、岩壁を背に短い休息を取っていた。

 防具に付着した返り血と、灰の匂いが戦いの余韻を物語る。ベルが肩で息をつき、夜は黙って水筒を差し出す。

 

 その時——

 

 遠くの通路から、複数の足音が微かに響いた。

 雑然とした群れのそれではない。整然と、迷いのない歩調。

 まるで鍛え上げられた一つの兵隊が進軍してくるかのようだった。

 

 「……誰か来る」

 

 ベルが顔を上げ、小さく呟く。

 

 やがて、暗がりの向こうから乱反射された帯が流れ込んだ。天井から注ぐ橙光に照らされ、通路の奥から人影が次々と現れていく。

 淡い光が輪郭を描き出したその瞬間、ベルは息を呑み、夜は静かに目を細めた。

 

 「ねえ、夜。あの人たちって……」

 「ああ——【ロキ・ファミリア】だな」

 

金髪碧眼の小人族(パルゥム)を先頭に、エルフ、アマゾネス、狼人、ヒューマン——多種多様な種族が整然と列を為し、一定の間隔を保ちながら進んでいく。その一歩毎に、空気が震える錯覚を齎す。

彼等が纏う風格に鼓動が早鐘を撞き、その圧倒される威容に思わず姿勢を正される。

 

 ベルは無意識に喉を鳴らした。

 夜はその様子を横目に、静かに観察を続ける。

 

 (…………遠征、か)

 

 脳裏に浮かぶ情報を辿りながら、夜は即座に結論付けた。

 ギルドからの強制任務(ミッション)、素材の採取、到達階層の更新。——彼等の規模からして、恐らくはそのいずれか。

 そして、記憶の奥に眠る“原作の時系列”を思い返す。

 

 ベル・クラネルが冒険者として歩み出すのは、原作開始の約二週間前。そして、【ロキ・ファミリア】が遠征に赴いたのも同様の時期だ。

 

 つまり、夜達は原作よりも二週間ほど早くオラリオを訪れたという事だ。

 この小さな差が、いずれ大きく流れを変えるかもしれない——そんな予感が胸をよぎる。

 

 思索の最中、ふと視線を感じた夜は顔を上げた。

 それは敵意のあるものではない。けれど、どこか探るような眼差しだった。

 視線の先に居たのは——

 

(…………彼女は)

 

長い金髪と金色の瞳を持つ、ヒューマンの美少女。

——アイズ・ヴァレンシュタイン。【剣姫】の二つ名で知られる、【ロキ・ファミリア】随一の剣士。

淡い燐光に照らされた相貌は、神すら見惚れる程の静謐な美を湛えている。

 

 その瞳が、真っ直ぐに夜を見据えていた。

 交わる視線。

 時間がほんの一瞬、凍りつく。

 

 彼女の金色の瞳には、明確な感情が宿っていた。

 好奇でも敵意でもない。ただ、ほんの微かな“驚き”と“戸惑い”。

 まるで、視線の先に居る少年の中に、何処か懐かしい何かを見たかのような——そんな一瞬の揺らぎ。

 

 夜は視線を逸らさなかった。

 その双眸の奥にある真意を探るように、静かに彼女を見返す。

 言葉は交わさない。歩みを止める事もない。

 それでも、彼の瞳は確かに何かを読み解いた。

 

 

 【ロキ・ファミリア】の一行が通り過ぎるにつれ、濃密だった空気が少しずつ薄れていく。

 最後尾の冒険者が暗がりに消えた時、その場に残ったのは、ただ湿った空気と心臓の鼓動だけだった。

 

 「……本物だ。凄かったね、夜」

 

 ベルがぽつりと呟く。

 

 「ああ」

 

 短く応じる声に、夜の表情は変わらない。けれど、その瞳の奥では、何かが静かに燃え上がっていた。

 

 彼らは通り過ぎただけだ。

ただそれだけ。

 だが、その“一瞬の邂逅”が、いつか必ず運命の歯車を回す事になる——そう思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 【ロキ・ファミリア】との邂逅から、数時間後。

 

 五階層の通路の一角には、血の匂いを漂っていた。

不気味な程に薄暗く、静謐としたその空間に響くのは、重く鈍い足音と擦れる金属音——。

 

 そんな通路の奥から現れたのは、数名の冒険者達だった。

 肩を落とし、泥と血にまみれた装備を引きずり、覚束ない足取りで進んでくる。

彼等の口元からは、疲弊した息が微かに漏れていた。

 

 「……本当に、押し付けてよかったのかよ」

 

 その一言が、薄暗い通路に落ちる。

 

 “押し付ける”。

 夜は、その言葉を反芻したのち、記憶の中で照応する言葉を探し出す。

 

 ——『怪物進呈(パスパレード)』。

冒険者が、自分達に襲い掛かって来たモンスター達を他の冒険者達に押し付ける行為。

 それは仁義に反するが、『ギルド』が咎める事は無い。

 命を懸ける迷宮の中で、自身が生き延びる為には仕方の無い事——それがこの世界の不文律が故に。

 

 誰もが己の命、或いは仲間の命を最優先にする。

 他人の死よりも、自分のせいを選ぶのは当然の理。

 だからこそ、それを一概に非難する権利は誰にも無い。

 

夜自身も、その考えに是非は無かった。

 

 だが、次の言葉で、その理屈は吹き飛ぶ。

 

「構わねぇだろ。どうせあのエルフの女は——」

 

 ——“死妖精(バンシー)”なんだからよ。

 

 その一言が落ちた瞬間、夜の表情から色が消えた。

 鼓動がひとつ、爆ぜるように跳ねる。

 次の瞬間には、もう体が動いていた。

 

 「……今の話、どういう意味だ」

 

 低く、抑えきれぬ殺気が滲む声だった。

 胸ぐらを掴まれた男は、息を詰まらせ、狼狽する。

 

 「な、何だよ……いきな——」

 「答えろ」

 

 男の言葉を遮るように、短く、鋭く、言葉が叩きつけられる。

 その冷たい威圧に、周囲の空気が凍りつく。

 

 身体を震わせる男は、怯えによってか二の句が継げない。

焦らすように時間だけが流れる。

なかなか言葉を発さない男に、苛立ちを募らせる夜は、掴み上げる力に更なる膂力を込める。

 

 「ぐ——ッ?!」

 

先程よりも呼吸器官が圧迫され、男が苦しげに呻く。

苦痛を訴えるその声に、彼の仲間達が我に返る。急展開に思わず気が動転していた彼等は、男の呻き声に釣られて慌てて動き出した。

 しかし次の瞬間、誰もがその場に縫い留められたように動けなくなる。

 

 ——魔力の圧。

 

 夜の全身から放たれた、殺気を纏った圧倒的な魔力が、その空間を支配した。

 

 その場に居る全ての者が、息をする事すら儘ならない。

 自身の身体を圧し潰さんとする重圧が、身体の機能を奪い去る。

 

 その瞬間、誰もが悟る。

——逆らえば、殺される。

 

 

「お前達は、死妖精——フィルヴィス・シャリアにモンスターを押し付けて逃げて来た。そうだな?」

 

 静寂の中、その声だけが明瞭に響き渡る。

 

 疑問を一つ一つ解消していくのは時間の無駄でしかない。

 故に、聞き出したい事柄だけを選択し、明快な問いを投げる。

 

 夜の静かな尋問が、圧を帯びて男に降りかかる。

 恐怖で顔面を蒼白させる男は、震えながら頷く。

 

 「あ、ああ。そう——」

 「階層は?」

 「え……?」

 「階層はどこだ?」

 「じゅ、十五階層——!」

 

 言葉を聞き終える前に、夜の姿が掻き消えた。

 

地を踏み砕く衝撃音が響き、粉塵が舞い上がる。

通路の奥へ、稲妻のような速度で駆け去っていった。

 

「どわッ——?!」

 

 押し放された男は尻を強かに打ち付け、他の者達は粉塵に呑まれた。

 

 「夜——ッ!」

 

 咄嗟にベルが呼び止めるも届く事は無く、その声は虚しく空気へと溶けて消えた。

 

 

 

 

 フィルヴィス・シャリア。

 【ディオニュソス・ファミリア】の団長を務める、紅緋の瞳と濡羽色の長髪が特徴のエルフ。

 

 夜は彼女と面識があるわけではない。

 毎度の如く、原作の知識として知っているだけ。

 だが、その知識こそが、今の彼の行動原理だった。

 

 夜は知っている——彼女が歩んだ凄惨な人生を。

 夜は知っている——彼女が辿る悲惨な末路を。

 

 余りにも酷烈で、目を背けたくなる程の絶望だった。

 一人の少女が背負うには、余りにも凄絶な業だった。

 

 故に、希った——救われて欲しいと。

 余りにも身勝手に、無責任に、他力本願に。

 

 所詮は空想上の存在に過ぎない彼女に。

 それでも、無遠慮な同情を押し付けた。

 

 そんな翌る日。

 何の因果か、夜は『ダンまち』の世界に舞い降りた。

 

 愛する作品の世界。

 当然、やりたい事は数多くあった。

 冒険者になりたい、運命の出会いがしたい、世界を旅したい——そんな無数にあるやりたい事リストの中で、絶対に成し遂げたい事が夜には有った。

 

 ——悲惨な運命を辿る者を救いたい。

 大層な野望だと、傍から見れば滑稽に映るだろう。

 

定められた宿命に抗うなど、凡人では到底成し遂げることなどできぬ理想だ。そんなものを抱くなど、余りにも分不相応。

理想を現実に出来る者は、それこそ物語に出てくるような主人公達くらいだ。

 

 対して夜は、想いだけは一丁前。

 けれど、感情だけで何かを成し遂げられる程、現実が甘くない事は誰よりも知っている。

 

 想いを形にする術を持ち合わせていない。

 その無残な現実が、夜を諦観の泥沼へと誘っていった。

 そうして、完全に溺れそうになった時、運命の悪戯か——神の手で刻まれた『恩恵』によって、絶大な力を得た。

 

 そして、夜は立ち上がった。

 自身の“意志”でも“覚悟”でも無く、『恩恵』という他力によって。

 

 何とも情けない話だ。

 絶対的な力が無ければ立ち上がる事すら出来ない。

 自力では立ち向かう意志すら投げ捨てて、他力でしか不可能に立ち向かう覚悟を灯せない。

 

 

 ——本当にお前は成し遂げられるのか?

 虚偽を許さぬ内なる自身が、意志を問いかけてくる。

 

 ——本当にお前は彼女等を救いたいと思っているのか?

 虚偽を許さぬ内なる自身が、願う心を問いかけてくる。

 

 ——本当にお前は運命に抗う役割を担えるのか?

 虚偽を許さぬ内なる自身が、覚悟を問いかけてくる。

 

 

 夜は静かに、虚偽を許さぬ内なる自身と向かい合う。

 そこに時間は無く、そこに色は無く、そこに感覚は無く、そこに偽りは無い。

 そこで語りが許されるのは本心のみ。

 

 そうして、夜は沈思黙考の末、本心を語る。

 

 『俺は————』

 

 

 

 

 「【神速】ッ!」

 

 夜の肉体に雷光が迸り、電気の負荷がかかる。

 魔力が肉体に纏わり、細胞に至るまで強化される。

 

 潜在能力の限界を超えた動きを強制された夜の身体は、一寸前とは次元の異なる速さで疾風を伴って進んでいく。

 

 風が悲鳴を上げ、迸る電流で空気を焼きながら。

 

 それでもまだ足りない。

 焦燥が脳を灼き、更なる速度を強要する。

 

 だから——彼女の力を借りる。

 

 「——セレンッッ!!」

 

その叫びが、ダンジョンに木霊した。

 

 

 起動——『比翼抱慕』

 

 

 瞬間、轟音と共に疾風が爆ぜた。

 スキルの効果に伴い、夜の身体は電光石火の如き速度へと跳ね上がる。

 しかし、強化された速度に肉体が耐え切れず、筋肉が裂ける痛みが全身に襲い掛かるが、その痛苦を意思で捻じ伏せ、肉体を無理やり駆動させる。

 

 大気が軋み、足跡が青白い閃光の残滓を残す。

 

 六階層、七階層、八階層——。

 記憶に刻み込まれた地図をなぞるように、最短経路を一切の迷いなく突き進む。

 分岐も、罠も、全てを予知したかのように躱して駆け抜ける。

 

 その道中、前方に冒険者の群影を捉える。

 つい数時間前に遭遇した、【ロキ・ファミリア】の遠征隊だ。

 

 「……ん? なんだ?」

 「何かが接近して来る……!」

 「モンスター?……いや、冒険者か……?!」

 

 後方から迫り来る存在に気付いた【ロキ・ファミリア】の面々がそれぞれの反応を見せる。

 彼等を一瞥して、進路上を阻まれている事を視認した夜は、跳躍して壁を伝う。

 まるで重力など存在しないかのように、壁や天井を駆け抜けていく。

 青白い閃光が尾を引き、遅れて訪れた豪風が彼等の髪を逆立てる。

 

 「うお……っ?!」

 「うわーっ! ねぇ見てっ! あの人、壁を走ってる!!」

 「ほんとね。……ってあの子は……」

 

 抜き去る瞬間、驚愕と興奮の声が夜の背に飛び交う。

 だが彼は、それに一瞥もくれることなく突き進む。

 ただ、彼女のもとへ——。

 

 その時、進路上の壁に突如として亀裂が奔る。

 ひび割れるような音と共に、無数のモンスターが生まれた。その数にして、二十は優に超えている。

 余りにも不自然な誕生。まるで、夜の進行を阻むようにして生まれ落ちたモンスター達は、咆哮を響かせながら牙を剝いて突進してくる。

 

 「危ない……ッ!」

 

 夜の背に向かって、誰かが叫ぶ。

 しかし、夜は速度を一切弛める事なく、更になる加速で進撃する。

 

「邪魔だぁああああッッ!!!」

 

 咆哮が炸裂し、雷霆が地下世界を貫いた。

轟音が階層全体を震わせ、稲妻が空気を焼く。

光と音と衝撃が一斉に爆ぜ、地を砕き、壁を穿つ。

 

 視界が白に塗り潰される。

 誰もが目を覆い、息を呑んだ。

 

 

 そして、少しして静寂に包まれる。

 

 粉塵が晴れた時、その場に夜の姿は何処にも無い。

 そこには崩れた岩壁と、灰燼に帰したモンスターの残骸だけが静かに残っていた。

 

 

 「…………すごい」

 

 誰かの口から零れ落ちた一言。その言葉だけが、夜の背を追って、闇の奥へと消えていった。

 

 

 

 

 十五階層。

 中層に位置するその階層は、上層とは比較にならない程の広大さを誇っていた。天井は目を凝らして漸く確認できる程の高さで、薄暗い空洞の奥行きが果てしなく続いている。 

 しかし、その圧倒的な広さに反して、光源は岩肌に潜む燐光が弱々しく空間を照らすだけで、陰鬱な雰囲気が漂っている。

 乾いた岩盤の匂いと、焦げた灰の香りが混じり合い、圧し掛かるように空気が重く感じられる。

 

 そんな空間の中心に、ひとりのエルフが立っていた。

 

 フィルヴィス・シャリア。白磁のような肌、赤緋の瞳、濡羽色の長髪を湛えた、白装束に身を包んだその姿は、種族特有の清廉さと凛とした端麗さを備えている。

そんな彼女は今、緊張した面持ちで、短剣と魔杖を両手に構えていた。

 その瞳の奥には、深い孤独と悲しみが澱みのように漂い、周囲に張りつく陰鬱な空気に更に影を落としている。

 

 目の前には、筋骨隆々とした大型級モンスター、『ミノタウロス』が十を超えて迫っていた。大石斧を手にした巨体は、岩のように硬く、圧倒的な威圧感を放つ。

 

 本来であれば、Lv.3のフィルヴィスが単独で対処できる相手だが、数の暴力には抗えない。

 

 「ヴヴォォオオオオオッッ!!!」

 

 一体が振り下ろす大石斧を、彼女は後方へ飛び退き、回避する。しかし、瞬く間に別の個体が横薙ぎに斧を振り、避けても避けても攻撃は途切れない。

 

 「【一掃せよ、破邪の聖杖——】」

 

 

 ミノタウロスの攻撃を上手く躱しながら、フィルヴィスは詠唱を紡ぐ。ごく僅かな者にしか習得する事が出来ない高等技術——「並行詠唱」を駆使しながら。

失敗して魔力を暴走させてしまうと、魔力暴発(イグニス・ファトゥス)を引き起こす危険性があるが、フィルヴィスは完璧に魔力を制御してみせる。

 

 「【——ディオ・テュルソス】」

 

 雷鳴が轟き、直線上のミノタウロス数体が灰燼と化して崩れ落ちる。

 だが、残る数は依然として十体以上。生き残った個体達が、乾いた咆哮と共に突進してくる。

 

 「——ぐっ?!」

 

 斧を短剣で凌ぐも、受け止めた体勢が悪かった為、横合いに吹き飛ばされる。そのまま地面に数度転がった後、慣性を利用してすぐに立ち上がる。

 

 地響きを踏みしめて突進してくるミノタウロスに、フィルヴィスは短剣を構えて迎え撃つ。

 

 

 

 「……はぁ……はぁ……っ、はあああ——ッ!!」

 

肩を揺らして荒い息を吐き、再び敵へ向かう彼女の足取りは重い。

 返り血と自身の血で濡れた白装束は、深紅に染まっている。

 

 幾度となく倒したモンスターの数を、もはや彼女は数える余裕すら無い。

 身体は傷だらけ、呼吸は浅く、精神力(マインド)も枯渇寸前。後数回魔法を使えば、気絶は免れない状態だった。

 

 何より苛烈なのは、数の減らない敵の存在だ。倒す傍から新たな個体が湧き出し、まるで階層自体が彼女を呪うかのように攻撃を続ける。

 確かに、中層は上層よりもモンスターの出現率は高い。しかし、次産間隔が余りにも早過ぎる気がしてならない。

 

 この明らかな異常事態(イレギュラー)は、Lv.3が一人で対処するには荷が重すぎた。

 

 故に、勝敗は戦う前から決していたのだ——。

 

 

 

 フィルヴィスの視線の先には、大石斧を片手に、血走った双眼で彼女を睥睨するミノタウロスの群れ。

 一歩、一歩、と地鳴りを響かせながら、脚に致命傷を負って立つ事が儘ならないフィルヴィスへとにじり寄る。

 

 「……また、私は死ぬのか……」

 

 乾いた笑みが、フィルヴィスの唇を滑る。

 諦観を滲ませた表情で天を仰ぐ彼女の双眸は、生気を失い、暗く澱んでいる。

 

 これから執行される何度目かの死を直前に、彼女の脳裏をよぎるのは過去の記憶。

 未熟が故に救えず、非力が故に為す術なく、愚昧が故に失った、かつての仲間達。

 同じ時間を共有した彼等は、己の身に宿る忌々しい呪いのせいで死なせてしまった。自身が殺したのも同然。そうして自責の念で己を責め立てる日々。

 

 掌から少しずつ、大切だったものが零れていく。

 

 仲間を失い、孤独となった。

 幸福を失い、虚無となった。

 人体を失い、怪物となった。

 調和を失い、破綻となった。

 

 失って、失って、失って…………。

 

 そして、人として当然に備わっている“死”すらも失った彼女は、どれだけ自死しようとも死せない存在へと変容してしまった。

 

「ヴォオロロォ……」

 

 眼前にまでやって来た一体のミノタウロスが、ゆったりとした動作で大石斧を振り上げる。

 

 「……あぁ、ぁ……私はもう、仲間の元へ逝くことすら赦されない……」

 

 一滴の雫が、彼女の頬を伝う。

 潤む赤緋の双眸を、ゆっくりと閉じる。

 

 そんな彼女に、無慈悲に下ろされる大石斧。

 断頭の一撃が、彼女の頭蓋を破砕しようとしたその瞬間——

 

 「————ヴォオアアッッ?!」

 

 空間一帯が轟然と裂けた。

 

 灼熱の業火が吹き荒れ、フィルヴィスの前に居たミノタウロス諸共、粉塵と炎に飲み込まれる。

 視界は真っ赤に染まり、耳をつんざく轟音が辺りを震わせる。

 

 「————ギリギリ間に合ったか」

 

 混乱の中、一筋の声が耳朶を叩く。

その声音には、深い安堵の色が混じっていた。

 

 声がした横合いに目を向けると、吹き盛る風に黒髪を靡かせる少年が、汗を滲ませながら笑みを湛えて歩いて来る。

 燃え盛る炎熱の陽炎が、彼の輪郭を浮かび上がらせる。

 闇すら飲み込むような深い漆黒の瞳が、炎光を反射させて怪しく煌めきながら、フィルヴィスを見つめている。その眼差しは、孤独に沈む彼女の全てを見透かすようだった。

 

 やがて、フィルヴィスの前までやって来た少年は、毅然とした面持ちで、

 

 「——貴女を助けに来た」

 

 そう言って、彼女にそっと手を差し出す。

 陽炎に照らされ、何処か幻想的に映る彼の姿が、フィルヴィスの赤緋の瞳に焼き付いて、離れなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。