今回は会話だけで終了してしまいましたわ。
もしも待ってくれている人が居れば、全然話が進まなくてごめんよ。
「……お前は、一体……」
目の前に広がる壮絶な光景を、フィルヴィスは唖然とした表情で見つめる。
彼女の視界に映るのは、猛々しく燃え盛る炎と、溶け崩れて熱気を漏らし、蒸気を噴き上げる大空洞と、そしてこの光景を生み出した張本人である一人の少年。
恐怖と絶望に支配されて動くことが出来なかったフィルヴィスとは違い、彼はたった一人で立ち向かい、そして見事に異常事態(イレギュラー)を鎮圧してみせた。
尤も、その結果を手放しに誉めるには些かやり過ぎ感は否めない。モンスターを生成させない為の処置とはいえ、中層に位置するこの階層は今、深層域でみられるような灼熱地獄の絵図と化していた。
フィルヴィスは理解が追いつかぬまま、茫然と夜の背中を見つめ続けた。
だが、数秒の後、ハッと我に返ると、眦を吊り上げるようにして表情を一転させる。そして肩を上下に揺らしながら、夜へと向かって歩き出す。
フィルヴィスにとっては幸いなことに、彼女を閉じ込めていた障壁は、戦闘終了と同時に解除されていた。
*
周囲の気配に意識を張り巡らし、モンスターが一体も残っていないことを確認した夜は、発動していた魔法を解除して、ゆっくりと息を吐いた。
(……これでモンスターが生成されることも無いだろうし、今のうちに移動するか)
モンスターの生成よりも、修復を優先するというダンジョンの特性を利用して異常事態を鎮圧した夜は、ダンジョンが修復を終える前にこの階層から離れる事を思案する。
異常事態を制したからといって、安全が保障されたわけではない。故に、迅速に次の行動に移る必要がある。
その旨をフィルヴィスに伝える為に、夜は彼女の気配がする方へ体を向けて────そして、怒りを漂わせながらこちらに向かってくるフィルヴィスの姿を目にして固まった。
(えぇ……なんかすごい形相で睨みながらこっちに向かって来てるんだが……)
フィルヴィスの憤慨に染まった表情を見た夜は、顔を僅かに引き攣らせる。
彼女がなぜ怒っているのか、思考を巡らせた夜は、すぐにその答えに行き着いた。
(……もしかしなくとも、閉じ込めた事に怒っているのか)
彼女が怒りを露にしている理由。それは先の戦闘の際に、彼女を【魔力障壁】で隔離していたからだと夜は推察した。
確かに、彼女の性格を考慮すれば、他の人が目の前で戦っている状況で、自分だけ安全圏で見ている状態は耐え難いものがあるのだろう。
そう考えれば、彼女がこちらに怒りを向けている理由にも納得する。胸の内でそう結論付けた夜は、謝罪の為に口を開こうとした。
「さっきは閉じ込めてすま────」
「──いくらなんでも、これはやり過ぎだっ!!」
しかし、夜の言葉を遮るように、フィルヴィスの怒声が炸裂した。
(……あ、そっち……?)
夜は思わず瞬きをする。
てっきり隔離した事に対する怒りだと思っていたが、どうやら彼女が憤っているのは周囲の惨状の方らしい。
夜は周囲へ視線を走らせ、爆炎に焼け崩れた地形を眺めて小さく息を吐いた。
(……これは、確かにやり過ぎたか……? いや、でもなぁ……)
フィルヴィスの怒りは理解出来る。
しかし、それでも先の事態を解決する為には仕方がなかった。その思いもまた、夜の中には確かにあった。
迷宮探索を初めて二週間。
夜にとっては初めての異常事態だった。しかし、その点に関しては正直思う所は特にない。
ダンジョン内では突発的な事態に遭遇する可能性は極めて高い。故に、想定の範囲内だったからだ。
だが、今回に至っては“一人を守った状態”で対処しなければならなかった。それも、夜にとっては少し特別な存在だ。
傍から見れば、やり過ぎに映ったかもしれない。
しかし、フィルヴィスを守りつつ、確実に事態を鎮圧化する為と考えれば、寧ろ妥当な結果だと夜は思った。
(とはいえ、階層を破壊し過ぎると厄介な事になる可能性もあったが……どうやら、今回は免れたらしい)
度を越えた破壊工作が齎す“災厄”が訪れなかったことに、夜は内心で安堵の息を零す。
奴が出現した場合、面倒な事になるのは間違いなかった。
それらをすべて踏まえた上で、夜はフィルヴィスの叱責に理解こそ示すものの、納得する気はなかった。
だからと言って、ここで反論しても時間の無駄なので、彼女の言葉に表面上の同意を示した。
「そうだな。確かに貴女の言う通りだ。悪かった」
「……本当に悪いと思っているのか?」
「…………もちろんだ」
「なら、なぜあの時私を閉じ込めたままに放置していた?」
「…………は?」
「さっきお前が戦っていた時の話だ。あの時、私はここから出せと散々お前に訴えていたが、全く取り合う気がなかっただろ?」
漆黒の瞳と、赤緋の瞳が交差する。
(──いや、そっちもかい! てか、それは今回の話とは別問題じゃないか?!)
夜は心の中で勢いよく突っ込んだ。
どうやら、フィルヴィスは閉じ込められていた事にも怒っていたらしい。
当然と言えば当然であり、その件に関しては悪かったと夜自身反省している。
しかし、今話しているのは、攻撃の度が過ぎていた事に関する会話であった筈だ。なのに、なぜフィルヴィスを閉じ込めていた話が出てくるんだ。
(……話、脱線してないか?)
思わず眉を顰めかけた夜は、ふと一つの知識を思い出した。
(そういえば……人は叱責の際、別の不満まで芋づる式に持ち出す事があるって、どっかで耳にしたことがあったな)
今のフィルヴィスは、まさにその状態なのだろう。
怒りの矛先が一点に留まらず、別の不満まで刺激されて、次々と溢れてくる。
とはいえ、よくよく考えれば関連性が無いわけではない。そう思った夜は、彼女を閉じ込めていたことに関しても、素直に謝罪の言葉を述べることにした。勿論、彼女を閉じ込めたままだったのには、それなりの理由があるので、その事の説明も忘れずに。
「それに関しては悪かったと思ってる。だが、あの時は戦闘に集中していたから、そっちにまで気を回す余裕がなかったんだ」
「それは……私も理解しているつもりだ。……だが、そもそもなぜ私を閉じ込めるような真似をしたんだ」
夜の言葉に思う所があったのだろう。彼女は目を伏せながら、理解していることを伝える。
しかし、すぐに顔を上げたかと思えば、今度は据わった目で夜を見る。答えるまで逃がさない。そんな意思がひしひしと伝わる視線だ。
夜は息をひとつ吐き、逆に問い返した。
「逆に聞くが、あの時の貴女はまともに戦える状態だったか?」
「っ……それは……っ」
すると、案の定、フィルヴィスは言葉を詰まらせる。
彼女自身、自覚していた。
あの時、足が竦んで立ち尽くすだけだった自分は、戦闘に参加できる状態ではなかったと。
しかし、その事実を彼女は認めたくなかった。認めることが怖かった。
なぜなら、夜の言葉を認めるということは、あの時、フィルヴィスは自分可愛さに夜を見捨てた、という事になるからだ。
結果的に夜は生き残った。彼自身の力で生き延びてみせた。
────だが、もし仮に対処し切れずに殺されてしまっていたら?
その場合、彼が死んだ原因は間違いなくフィルヴィスに在る。そう彼女は考えてしまう。
だからこそ、彼女は必死に頭を回して言い訳を考える。
あの時、戦うことが出来なかったのは保身の為ではないのだと。そうではなくて、本当は自分も一緒に戦いたかったのだと。お前を見捨てる気なんてなかったのだと。
そう口にしたい。けれど、肝心の口は動いてくれない。震えるばかりで開いてくれない。
言葉が、紡げない…………。
夜の問いに答えを口に出来ないフィルヴィスは、そのまま顔を下げて俯いてしまう。
両の拳は自然と握り締めて、震えている。
それは、己の行動に対する恥じらいからか。不甲斐なさか、憤りか。或いは、その全てか。
彼女の表情は前髪に隠れて伺えない。
しかし、それでも彼女が抱く気持ちが夜には理解出来た。
フィルヴィスの今の姿は、在りし日の自分の姿と重なって見えた──。
夜は静かに口を開いた。
「別に、見捨てられたとは思っていない」
「────っ!」
夜の言葉に、フィルヴィスは肩を大きく震わせる。
まるで、彼女の心情を見透かすように、彼女が抱えている苦難を夜は言葉にして紡ぐ。
「────俺は貴女の“過去”を知っている」
「っ…………」
夜の思わぬ発言に、フィルヴィスは息を呑む。
彼は知っていたのだ。
フィルヴィスの原罪を。
裁かれるべき彼女の過去を。
自身が“死妖精(バンシー)”と呼ばれる所以を。
仲間を見捨てて逃げた。そんな真実とは異なった虚偽を──。
(あぁ……このヒューマンもまた、他の者と同じように私を蔑み、罵り、拒絶するのだろう……)
だが、それで構わない。
(穢れている私には、救われる資格など────)
下を向く彼女の思考は、そのまま少しずつ闇へと堕ちていく。
他者から拒絶され、自らも他者を拒絶し、己自身すら拒絶する彼女は、誰とも交わることなく、たった一人、静かに、静かに堕ちていく。
誰の手も届かない、誰の声も届かない、底なしの闇へ。少しずつ、少しずつ、沈んでいく────。
「──貴女が仲間を見捨てず、立ち向かったことも知っている」
「────え?」
しかし、そんなフィルヴィスの思考を、夜の言葉が白紙へと還す。
沈んでいた彼女の意識を、夜の言葉が引きずり上げた。
夜の言葉に誘われるように、フィルヴィスはゆっくりと顔を上げる。
彼女の心情と同調するように揺れる赤緋の瞳が、力強く、鋭く、しかし優しさを湛えた夜の漆黒の瞳と交差した。
「六年前に起こった『27階層の悪夢』。あの事件の生き残りである貴女は、仲間を見捨てて逃げた、と世間では言われている」
『27階層の悪夢』。
それは、悪の使徒たる闇派閥(イヴィルス)によって引き起こされた大量殺戮事件。
【ディオニュソス・ファミリア】を含めたギルド傘下の有力派閥パーティが闇派閥(イヴィルス)の仕組んだ罠にかかり、無惨に命を散らした。
その事件における数少ない生き残りの一人がフィルヴィスだった。
そんな生還した彼女を、世間は逃げて生き延びたと自分勝手に解釈した。
「だが、貴女は見捨ててなどいなかった」
フィルヴィスは当初、確かに逃げようとした。それが、目の前で散っていく先達の願いだったからだ。
だが、彼らの痛哭に従って背を向けたその瞬間、フィルヴィスの耳が拾ってしまった。死にたくないと、助けを求める悲痛な声を。
だから、彼女は迫る死を背に身を翻した。歯を食いしばりながら、無謀にも絶望に立ち向かった。
そうして、彼女は一度目の死を迎えた。助ける事すら出来ずに、あっけなく命を散らした。
しかし、そこで彼女の人生は終わりを迎えなかった。
彼女らを殺した元凶によって、“第二の生”を与えられた。
人と怪物の異種混成(ハイブリッド)。怪人(クリーチャー)と呼ばれる存在としてこの世界で生きることを強いられたのだ。
「そして、その結果……貴女がどうなったのかも、俺は知っている────」
その先を夜が口にする前に──金属の弾ける音が響いた。
腰に下げた鞘から短剣を抜いたフィルヴィスが、夜の首へ目掛けて斬りかかった。
しかし、予め予想していた夜は、特段驚くことなく、冷静に刀で受け止める。
「……そう来ると思ったぞ」
「──なぜ、なぜそれをお前が知っているッ!?」
焦りと戸惑いを表情に浮かべながら、フィルヴィスは声を荒げる。
短剣と刀が軋み音を上げる。同時に、両者の間に少しずつ、しかし確実に亀裂が入っていく。
(どうしてこの男は私の正体を知っている……?!)
不自然に汗が出て、鼓動は早くなり、瞳孔が揺れる。
なぜ、この男は私の過去を知っているのか。
なぜ、この男は私の正体を知っているのか。
そもそも、この男は何者なのか。
次々と疑問が溢れ出てくる。
フィルヴィスは夜の事を知らない。しかし、それも当然のことだ。
夜がオラリオに来たのはつい二週間前。加えて言えば、この世界に来たのは一年前。その間、フィルヴィスとの邂逅はなかった。
故に、フィルヴィスは夜の事を知らない。しかし、夜は原作によってフィルヴィスの事を知っている。ただ、それだけの話でしかない。
しかし、そんな事情など知る由もないフィルヴィスは、一方的に自分の事を知られている事実に、言い知れぬ悪寒を感じる。
目の前の底知れぬ男に、肌が際立つように恐れを抱く。
────わからない。
溢れ出る疑問が頭を支配し、まともな思考が出来ずにいるフィルヴィスは、何もわからない事実だけが重なっていき、次第に全身が恐怖に苛まれていく。
「──言っておくが、俺は貴女を拒絶する気はないぞ」
「────は?」
先程まで頭を埋め尽くしていた疑念が、夜の言葉によって一瞬で吹き飛ぶ。
恐怖で際立つ肌も静まり、揺れた瞳孔は夜だけに焦点を定め、瞳は大きく見開かれる。
先程から続く夜の言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも簡潔過ぎた。
まるでフィルヴィスの思考を奪うようにして繰り出される言葉は、正しく彼女の思考を乱していく。
「貴女の正体を知っている理由は、今は言えない。だが……少なくとも俺は貴女の敵ではない」
ここで、夜は自ら危険を冒す決断をした。
一歩間違えれば、ベルたちにも被害が及ぶ危険性がある。しかし、それを承知の上で、それでも今は彼女と本心で語り合うべきであると、夜は直感的に判断した。
「それを……お前の言葉を信じる根拠がどこにあるッ?!」
「根拠はない。今、提示できる証左もない」
「なら、お前の言葉を信じることは────」
「だから──行動で証明する」
両者の間に金属音が鳴り響く中、二人はほぼ同時に後方へ跳躍して距離を取った。
一瞬の静寂が二人の間を流れたのち、フィルヴィスが口を開く。
「行動で証明する、だと……? 私に刃を向けている時点でそんな事は不可能だ……ッ!」
そう告げるや否や、フィルヴィスは地を蹴り、一気に間合いを詰める。
そして、首へ目掛けて繰り出された刺突は────皮一枚を掠め斬って通り過ぎた。
「…………なぜ、武器を手放した」
フィルヴィスは問い掛ける。
今、彼女が軌道を逸らさなければ、彼女の刺突は確実に夜の首を貫いていた。
待ち受ける死を直前に、どうして自ら武器を手放したのか、と。
「貴女の敵ではないと証明するためだ」
しかし、夜の回答は至って単純であった。
夜の行動は、フィルヴィスの言葉に従ったに過ぎない。
彼女に刃を向ける事が証明の妨げになるというのなら、武器を手放すだけの話である。
たとえ、命を落とす結果になったとしても、夜は彼女の信用を得る為に、自身の命よりも彼女の言葉を優先した。ただ、それだけの事である。
「お前は、馬鹿なのか……!? もし今、私が逸らさなければ、お前は死んでいたんだぞ?!」
「そうだな。だが、それは貴女の望んでいる事でもあった筈だ」
「……っ! それは……っ」
「俺を殺す為に貴女はその短剣の矛先を俺に向けているんだろ? なのになぜ、今ためらった?」
「…………」
自身の正体に気付かれたからには、夜を抹殺しなければならない。それがフィルヴィスに課せられた義務である。
これまでも、その義務を果たす為に、彼女は多くの人間を殺してきた。
俯く彼女は、武器を持っていない方の手を徐に持ち上げて見つめる。
他者に触れることを拒むように、その手には黒色の手袋がはめられていた。その下には、人の血で赤く染まった人殺しの罪を刻まれた己の手があり、手袋越しに見つめる彼女の表情は痛苦で歪んでいる。
殺さなければならない。だが、殺したくない。
建前と本心で板挟みとなった彼女の精神は、葛藤の重みで揺らぐ意識の中で、少しずつ擦り減っていく。
彼女の呼吸は少しずつ荒くなり、呼応するように全身が少しずつ震えては両手に持った武器へと伝播していく。
揺れる瞳孔で己の武器を見つめるフィルヴィスの視界に、誰かの両手が映る。そして、その手は優しく、武器を握る彼女の手をそっと包み込んだ。
「────ぁ」
フィルヴィスはぴくりと小さく肩を揺らす。
通常なら拒絶反応を起こす彼女は、手袋越しに感じるぬくもりのせいか、振り解こうとしない。
フィルヴィスの両手を優しく包み込む誰かの熱が、少しずつ彼女の乱れた心と精神に安らぎを与えていく。心臓は落ち着いた脈動を取り戻し、全身からはいつの間にか震えは収まっていた。
「────落ち着いたか?」
フィルヴィスの状態が落ち着いたのを見計らって、夜は優しく声を掛ける。
ゆっくりとした動作で顔を上げた彼女は、夜と視線を交差させる。そして、そのまま数秒見つめ合った後、彼女は視線を落として自身の手を包む夜の手を見つめる。
そして、少しの沈黙の後、彼女は慌てるように両手を引いて、距離を取った。
「はぁ……はぁ……、なぜ、私の手を握った……」
突然の事で心臓が激しく脈打ったせいか、フィルヴィスは少し呼吸を乱しながら、夜を睨みつける。
彼女の声には先程までの覇気はなく、幾分か幼く見えた。
「なぜって、貴女が取り乱していたからだが」
「だからといってどうして私の手を握る必要がある?! お前は私の事を知っているのだろう?! だったら理解している筈だ! この身は穢れて────」
「穢れてねえよ」
「──────」
「貴女は穢れてない」
断言するように、否定させないように、夜は力強くそう告げる。
そこには不動の思いが窺え、その意思はたとえフィルヴィス自身であっても覆すことは出来ない。そう感じさせる程に、フィルヴィスの瞳には今の夜が大きく映った。
「な、何を根拠に……」
弱弱しく、フィルヴィスはそう問い掛ける。
「根拠なら、今の俺を見れば明らかだろう」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。貴女は自身に触れた者は穢れてしまうと思っているだろ?」
「…………ああ、そうだ」
「なら聞くが、今の俺は穢れているように見えるか?」
「……それは………っ」
「貴女は自身に触れた者は呪い殺されると思っているだろ?」
「…………」
「今の俺は死人に見えるか?」
「…………」
「貴女は穢れていないし、呪われてもいない。ただのどこにでもいる女の子だ」
「────っ」
夜の言葉に、フィルヴィスの心臓紛いの魔石がドクンっと跳ねる。
彼女の正体を知っていて尚、穢れていないと夜は告げた。
目線を逸らすことなく、彼女の揺れる瞳を見つめる夜の眼差しは、一切の嘘偽りなく、ただただ真摯に見つめている。
正体を知って尚、穢れていないと言ってくれた存在は、夜で二人目だった。
一人目は主神であるディオニュソス。
しかし、ディオニュソスの言葉と夜の言葉。内容は同じであるのに、フィルヴィスの耳には何かが大きく違って聴こえた。
その何かが何を示しているのかはわからない。けれど、夜の言葉の方が温かいような、そんな思いをフィルヴィスは抱いた。
「貴女がもし怪物なら、さっき俺は殺されていただろう」
相手がモンスターであれば、或いはヒトの心を失った存在であれば、間違いなく夜は死んでいた。
しかし、夜は今こうして生きて、そして彼女と言葉を交わしている。
「だから、貴女は怪物なんかじゃない。優しい心を持った、美しいエルフだ」
夜の言葉が、静かにフィルヴィスの凍り付いた心を溶かしていく。そうして、溶けた滴が彼女の赤緋の瞳に灯り、潤みを浴びる。
彼女は必死に唇を噛みしめ、心の奥底から湧き上がる熱を堰き止める。そうしなければ、決定的な何かが変わってしまう気がするから。
しかし、そんな彼女の心情などお構いないし、夜は思いを告げていく。
「貴女がどんな姿になろうが、貴女は貴女でしかない。貴女以上にはなれないし、貴女以下にもなれない」
たとえ、姿形がヒトでなくなろうとも、フィルヴィスはフィルヴィスのままである。そう夜は語る。
その人が綴ってきた過去が、今のその人を形作っている。
その人が聞いて、見て、感じて、味わって、触れて、歩いて、転んで、立ち上がって、進んで、立ち止まって、寄り道して、笑って、泣いて、悩んで、後悔して……。
そういった、過去に経験したすべての出来事の集大成が、今のその人をその人たらしめている。
故に、彼女は彼女でしかない。
「だから、貴女はただのフィルヴィス・シャリアだ」
ただの事実宣言。その言葉に言外はなく、ただ額面通りの言葉の意味しかない。
もしも仮に、その言葉に意味を見出すのであれば、それは彼女自身しかいない。
夜の言葉を聞いて、彼女が何を感じて、どう思ったのか。それは彼女にしかわからないのだから。
しかし────
「っ……お前は……っ、本当……に、何なんだ……っ」
零れた涙が頬を伝い落ちる。
夜は彼女から視線を外し、そっと隣に立つと────彼女が泣き止むまで、ただ静かに寄り添っていた。