「18階層に向かうべきだと思う」
現在地は16階層。
岩肌は焼け焦げ、至る所に損傷痕が見られる大空洞で、ヒューマンの男とエルフの女は今後の方針について協議していた。
「……そうだな。上の階層に戻るよりも下に進む方が早いか……」
顎に手を当て、真剣な面持ちで思案を巡らせるフィルヴィス。
夜とフィルヴィス、二人が今最も優先するべき事は安全の確保だ。
夜が来るまで一人で奮闘して精神枯渇寸前まで陥ったフィルヴィスと、フィルヴィスを助ける為に上層から中層まで休むことなく最高速度で走り続け、更に先の
今の二人は万全とは言い難く、体力も大きく消耗して疲弊している。
そんな状態の二人が目指すべき道は上か下か。
モンスターの強さや出現率は下へ進むよりも上へ戻る方が低い。しかし、上へ戻る場合、16階層から1階層までの16階層分の間で継続戦闘を強いられる。一方で、下へ進む場合、戦闘を強いられる階層は16階層と17階層の2階層分のみ。
効率を重視する場合は下へ進む方が圧倒的に早い。その分、戦闘の脅威度は高くなるが、夜とフィルヴィスの二人であれば問題ないだろう。最も、
「懸念すべきは『ゴライアス』だが、つい数日前に討伐されたらしいし、まだ猶予はある」
ゴライアス。
中層の17階層に出現する褐色肌に黒髪の巨人の姿をしたモンスター。
全長は7
中層に出現するモンスターの中でも隔絶した強さを誇るゴライアスは、『
それ故、他のモンスターとは違い、次産間隔(インターバル)は約2週間と長い。
夜の話を聞いたフィルヴィスは、少し思案した後、顔を上げて夜に問いを投げる。
「その情報は確かか?」
フィルヴィスの怜悧な視線が夜に向けられる。
彼女の問いを聞いた夜は、その問いの重要性に内心で頷く。
情報の真偽。それは、必ず確認しなければならない事項の一つだ。
もしもその情報が誤ったものであった場合、その身を危険にさらす恐れがある。その事をよく理解している彼女だからこそ、情報の真偽を夜に問うたのだ。
フィルヴィスの真剣な面持ちに、夜も同様に表情を引き締めて回答する。
「ギルドの掲示板に掲載されていた情報だからな。少なくとも、信憑性はあると思う」
「……それなら確かに、偽の情報である可能性は低いな……」
ギルドの掲示板には、様々な情報が掲載されている。
ダンジョンの情報、都市外の情報、『
情報の重要性を理解している夜は、毎日ダンジョンに潜る前にギルドを訪れて、掲示板を確認している。
当然、役に立つ情報と立たない情報があるが、重要なのはその情報を知っているか否かにある。
それは兎も角として、『階層主』に関する情報は、周知するべき報せだ。『階層主』が居るか否かで、冒険者の探索方針が変わるからだ。
故に、信憑性は高いと夜は考えている。当然、それはフィルヴィスも同じだ。
「…………」
だが、フィルヴィスの表情は芳しくない。
眉を顰める彼女の様子から、何かを躊躇っている印象を夜は受ける。
『階層主』という懸念は払拭された。それでも逡巡しているのは、外的要因ではなく、内的要因。つまり、彼女自身に懸念があるという事。彼女の様子を見てそう解釈した夜は、その懸念が何かを考え、すぐにその答えにたどり着く。
「まさかとは思うが……“自分の呪いでまた危険な状況に陥ってしまうかもしれない”なんて考えてるんじゃないだろうな」
「…………っ」
「図星か……」
肩を震わせ、明らかに図星を突かれたような反応をするフィルヴィスを見て、夜は呆れ混じりのため息をこぼす。
先の戦いで夜の強さは垣間見た。それでも、次もまた同じ状況になった際、同じ結果にたどり着く保障は何処にもない。
一度起こした事象は、一度だけなら偶然と評される。その結果を必然とするには、二度、三度と同じ結果を生まなければならない。
つまり、夜の証明は──まだ足りない。
ならば、どうすればいいか。答えは単純明快だ。
「何度でも引き起こせばいい」
「…………は?」
「窮地とやらを幾らでも招けばいい。その度に、俺は何度でも挑み、何度でも突破してみせる」
──もっとも、貴女が呪われているとは微塵も思ってないけどな。
最後にそう言葉を添える夜の声音は、言葉の強みとは裏腹に、とても柔らかく、そしてあたたかさを秘めていた。
夜の言葉を聞いたフィルヴィスは、その表情を困惑に染める。
彼女には理解できなかった。
理不尽に晒されて尚、どうして立ち向かえるのか。その先には何も無いというのに、一体何がそうまでして彼を駆り立てているのか。
どうして、そんなにも強く在れるのか──。
「お前は……どうしてそこまで強いんだ」
彼女は問いかける。自身の胸の内でくすぶる羨望の答えを得る為に。
フィルヴィスの縋るような眼差しを受けた夜は、彼女が述べた言葉の本質を読み解く為に思考に耽る。
彼女の言う『強い』とは、物理的な強さの事か。
否。
彼女の言う『強い』とは、精神的な強さの事だ。
しかし、精神的な強さであれば、自身の精神性は決して強くはないと夜は考えている。
寧ろ、脆い方であるとさえ夜は思っている。
もしも、夜の精神が強靭であれば、彼はこの世界に来ることはなかっただろう。
なぜなら、一度折れたが故に、この世界に漂流したのだから。
フィルヴィスの言葉の本質を理解した夜は、その言葉と自身との整合性を照らし合わせ、その結果を淡々と彼女に語り始める。
「俺は貴女の言う強さを持ち合わせていない」
「……嘘を言うなっ! 強くなければ、理不尽に抗おうとはしない! 今のお前みたいに前を向くことなどできない!」
「それは違う。貴女の言い分は、そもそもの前提が間違っている」
「なに?……それは、どういう意味だ……」
「理不尽に抗おうとするのも、前を向くのも強いからではない──」
そこで、一度言葉を区切った夜は瞼を閉じると、何かを思い出すように、何かを噛み締めるように全身を力ませる。
そして、ふっと息を小さく吐き出したのち、静かに瞼を開いた夜は、そこから見える漆黒の瞳にフィルヴィスを映すと、口を開いた。
「────弱いから」
「……は?」
夜の口から紡がれた言葉を、フィルヴィスは咄嗟に理解できなかった。
────弱いから?
だから、理不尽に抗おうとする?
だから、前を向いて進もうとする?
夜の言葉の真意を、フィルヴィスは読み解けない。
“弱いから”──そのたった一言に凝縮された夜の思いをフィルヴィスは計り知る事ができない。
言葉の意味を問う為にフィルヴィスは口を開こうとしたが、それよりも先に紡がれた夜の言葉に、喉から出かかった言葉を飲み込まざるを得なかった。
「俺には余裕なんてない。動かずに誰かを守れるほど強くはない」
「──────」
何かを堪えるように、必死に拳を握り締めながら夜は吐露する。
そんな夜の姿に、フィルヴィスは既視感を覚える。
昔日の、大切な人達を失ったあの頃の己の面影が夜に重なる。
「少しでも立ち止まってしまえば、その瞬間、大切な誰かを失ってしまうから……」
夜の言葉が、すぅーとフィルヴィスの鼓膜へと溶け込み、脳裏へと染み込んでいく。
夜の声色には、実際に大切な誰かを失った者にしか湛えることのできない重みがあった。
そこで、漸くフィルヴィスは理解した。
───彼もまた、自分と同じように大切な人を失ったのだと。
夜の言葉には、もう二度と同じ過ちは犯さないという贖罪が在った。
夜の言葉には、過去に犯した原罪を決して忘れはしないという懺悔が在った。
「……だから進むしかない、己の弱さを肯定しない為に。……ただただ必死に、がむしゃらに、弱いからこそ、なりふり構わずに走るしかない」
それは、まるで己に言い聞かせるように、一種の呪いの言葉のように、種々の思いを交錯させながら、夜は言葉を紡いでいく。
強者が持つ余裕など、夜にはなかった。
寧ろ、強者になろうと必死に手を伸ばす弱者だった。
己の弱さを認めたくなくて、己の惨めさを受け入れたくなくて、それでも己が弱者である事実を忘れる事だけはしないように、言霊にして己に刻み込んでいる。
フィルヴィスの赤緋の瞳に映る夜の姿は、いつの間にか必死に前に進もうとする未熟な少年へと変わっていた────。
夜の語りが幕を閉じ、静寂が辺りを包み込む。
大空洞を焼いていた炎もいつの間にか鎮火しており、損傷箇所の修復が始まっている。
迷宮が再び牙を剝くのも時間の問題だろう。それまでに、この場から迅速に離れる必要がある。
夜とフィルヴィス、それぞれが湧き出る思いに胸を焦がす中、状況は刻一刻と進んでいく。
くすぶる内心を胸の奥に仕舞い込んだ二人は、すぐさま意識を切り替える。
彼らが居るのはダンジョン。少しの油断で簡単に命を落とす危険地帯。そんな場所で感情に浸っている余裕はない。
「……18階層に向かう」
静寂が場を支配する中、フィルヴィスが口火を切った。
話題は、初めに夜が取り上げていた今後の方針についてだ。奇しくも、その時の夜の言葉と、今のフィルヴィスの言葉は合致した。
今を以って、漸く二人の足並みは揃った────。
「了解」
指針は定まった。
目指すのは、18階層。別名『迷宮の楽園《アンダー・リゾート》』と呼ばれるその階層は、モンスターが出現しない『安全階層《セーフティポイント》』となっており、休息を取るには最適な場所だ。
「行こう」
一振りの刀を腰に添える夜は、眦を決して大空洞の奥へと進む。
「ああ」
夜の掛け声に短く返答したフィルヴィスもまた、彼に続いて歩みを進める。
彼女にはもう、夜を拒絶する態度は何処にもみられなかった──。
*
「【一掃せよ、破邪の聖杖──】」
モンスターの砲声と岩床を駆け回る跫音が入り混じる中、一条の唄が紡がれる。
その唄に反応した数体のモンスターは、標準をフィルヴィスに定めて転身する。そのまま強襲を仕掛けようと地鳴りを起こすが、その跫音は一筋の稲光によって瞬く間に絶たれていく。
「【──ディオ・テュルソス】」
そうして、紡がれた唄は一条の雷光となって、突き出した短杖から放たれる。
直線状に居たモンスターは残らず雷鳴に喰われ、灰へと姿を変えた。
現在、夜とフィルヴィスの二人は、想定外の事態に陥る事もなく、順当に正規ルートを進行していた。
道中の戦闘では、両者共に前衛配置での近接戦闘を主軸とし、可能な限り魔法は使用しないという方針を取っていた。
精神力は高等精神力回復薬《マジック・ハイ・ポーション》で回復できるものの、数には限りがある。そのため、可能な限り温存しつつ、近接戦闘のみでは決定打に欠けると判断した場合にのみ使用する、と二人で協議して決めていた。
特に、治癒魔法が使える夜は他の魔法の使用を控えるよう、協議の際にフィルヴィスから言い渡された。
とはいえ、夜は魔法を使用しない場合、戦闘能力は格段に低下してしまう。リューとの稽古を経て、技量は向上しているものの、身体能力自体はLv.1の上位程度。
魔法を使用せずとも中層モンスターに勝つ事はできるが、やはり時間は掛かってしまう。
迅速さが求められる現状化において、戦闘は短期決着が望ましい。故に、夜はフィルヴィスに気付かれないように【身体強化】を使用していた。
バレた場合、確実に怒られるだろうが、その時はその時である。と、夜は思考を放棄した。
戦闘を終えた夜は、フィルヴィスと二人で倒したモンスターの魔石を拾っていた。
魔石は冒険者の収入源である為、回収は必須だ。また、そのまま放置していた場合、他のモンスターがその魔石を喰らって『強化種』となってしまう可能性がある。
故に、余程の事態に陥らない限り、放置するという選択肢はない。
「そっちは回収し終えたか?」
「ああ、すべて回収した」
こちらを向いて問い掛けてくるフィルヴィスに、夜は端的に返答する。
そうして、この場でやる事を終えた二人は、互いに顔を合わせて頷いた後、進行を再開した。
暫くして、フィルヴィスは先の戦闘で気になった事を夜に質問した。
「……ツクヨミ」
「ん? どうした」
「お前は……どこまで視えているんだ?」
その唐突な質問に、夜は思わず歩みを止めて後ろへ振り返った。同時にフィルヴィスも立ち止まった事で、二人は向かい合わせとなる。
そうして、見つめ合うこと数秒、再度フィルヴィスが端を発した。
「先の戦闘の際、お前はまるで俯瞰しているように視覚外の戦況も把握していた。それ以前の異常事態《イレギュラー》の時もそうだったな」
「…………」
「……別に詮索する気はない。【ステイタス】の詮索はご法度だからな。……ただ、もしも魔法を使用しているのであれば、控えておけ。この先、何が起こるかわからないからな」
ほら、先を急ごう。そう言って立ち止まったままの夜の横をフィルヴィスは通り過ぎていく。
そんな彼女の背中を見つめる夜は、内心でため息を落とす。
そして、彼女の後に続いて歩みを再開させつつも、思考は先程のフィルヴィスの発言に関する事で回される。
(……まあ、流石に気付かれるよな)
フィルヴィスとの邂逅以降、夜は常に【魔力感知】を発動していた。更に戦闘の際は、【決戦演算】へと切り替えてもいた。
ここに至るまで、【魔力感知】によってモンスターを早期に察知して、討伐が必要であれば奇襲によって片付け、必要でなければ遭遇せずに回避する、という戦法を取っていた。
そして、奇襲が難しい場合は、通常戦闘による討伐。その際は、【決戦演算】によってリアルタイムで戦況を全て網羅し、そこで得た膨大な量の情報を即座に精査して、必要な情報だけを戦闘に組み込む。
そうして、自身の行動を最適化し、フィルヴィスへ指示を出す事で、盤面をこちらが有利となるように操作する。
そうして完成した戦況は、味方の被害は最小限に抑えた上で、敵を最も効率的かつ効果的に掃討する、盤上の最適化。
夜は表情にこそ出していないものの、脳の消耗具合は体力以上に削られている。
これ以上の消耗は、戦闘にも支障を来してしまう可能性がある。この先の事を考えるのであれば、確かに彼女の言う通り、使用は控えた方が賢明だろう。
────【魔力感知】、解除。
魔法の解除と同時に、夜は静かに息を吐き出す。
(……これで少しは楽になる。その分、より気を張り巡らせる必要はあるが……)
【魔力感知】を使用しない場合、知覚能力は低下してしまう。だが、知覚範囲は然程変わらない。その要因は、『天眼』という発展アビリティだ。
『天眼』は、【魔力感知】と同様の効果を有している。ただ、アビリティ数値が低い為か、性能自体はまだ【魔力感知】よりも低い。
その為、今は【魔力感知】を使用しているが、何時かは『天眼』だけで事足りるようになるかもしれない。
(……まあ、発展アビリティの数値は基本アビリティ以上に上がりにくいらしいからな。日常では『天眼』で事足りるが、ダンジョン探索ではしばらくの間は【魔力感知】に頼ることになるだろうな)
現時点で、周囲を感知する能力は【魔力感知】の方が長けている。しかし、『天眼』の能力はそれだけではない。
(さっきから、瞳の奥がチリチリと弾けるように疼いている……。おそらくは『天眼』の影響だろうが、特段何かが起きているわけではない……。しかし────)
この先の未来に“何かが起こる”──そんな予感が、瞳の奥でチカチカと明滅するように疼いていた。
胸の奥では、微かなざわめきが絶えず燻ぶり続けている。
(この先、確実に何かが起きるな……)
右脚に備え付けたレッグホルスターから常備している高等精神力回復薬《マジック・ハイ・ポーション》を取り出し、一気に呷る。
不足した精神力を回復した夜は、慎重な足取りでフィルヴィスに並び、その歩みを進めていった。
*
ダンジョン特有の燐光が照らす通路を夜とフィルヴィスは並んで進んでいた。
周囲にモンスターの気配はなく、不気味な静けさが漂う中、二人の跫音だけが一定のリズムで木霊している。
一歩、一歩と進む度に、夜の中で疼く予感が少しずつ、されど確実に輪郭を帯びていく。
そんな言い知れぬ感覚がじわじわと全身へ伝播していく。
やがて、夜の肉体は意思を介さずに本能を刺激し、次第に闘争の準備を始めていく。
────【神速】。
(……この先に、何かがあるのか……)
無意識に発動した魔法に反応を示す事もなく、ただただ進行方向を────17階層の光が漏れ入る大洞穴を静かに見つめる。
「……ツクヨミ?」
突如、バチバチッと雷鳴を弾きながら魔法を発動した夜の奇怪な行動に、何かあったのかと疑問に思ったフィルヴィスは、視線を送って様子を伺う。
「──────」
フィルヴィスの双眸が捉えたのは、真剣な表情で前方を見据える夜の横顔。その面持ちは初めて目にした神妙さを湛えており、本来なら気付くだろうフィルヴィスの視線にも一切の反応を示す事なく、燐光に照らされた漆黒の瞳はただ前だけを視ていた。
────明らかに異変が起きている。
夜の様相を見てそう感じ取ったフィルヴィスは、夜の意識を引き戻す為に彼の肩へ手を伸ばした。
「……おい、ツクヨミ。どうかしたのか──」
「────!」
「あ、おい……!」
しかし、次の瞬間。
目を見開いた夜は、突如として地を蹴り飛ばすと、その場から一気に駆け出した。
あまりにも唐突な出来事に、伸ばした手が虚しく空を切って垂れ下がった。
「──ああ、もうっ! 本当にあいつは自分勝手な男だな……ッ!」
そうして、束の間の放心後、慌てて意識を現実に戻したフィルヴィスは、夜に対して愚痴をこぼしつつ、彼の後に続くように17階層へ続く大洞穴へ走り出した。
*
(この先で何かが起ころうとしている……!)
根拠などない妄言にも似た独白を胸の内でこぼしながら、夜は疾駆する。
意味が不明瞭な思考と行動。今の夜を突き動かす原動力は、その不可解な二つのみ。しかし、なぜだか不思議と自身の行動に対して、疑問が生じる事はなかった。
不確実で奇怪なその現象を、夜は本能的に信用していた。
だから、一切の迷いなく、夜は脚を走らせる。
そうして、17階層へとつながる大洞穴の入り口に差し掛かった時────
『オォォオオオオオオオオオ────!!!!』
怪物の誕生を報せる咆哮が階層を震撼させた。
今この瞬間、夜の予感は確信へと姿を変えた────。
何かが崩落する轟音が鳴り響くと同時、夜は17階層へと足を踏み入れた。
そこで夜の視界に映り込んだ光景は、整然とした一面白色の『嘆きの大壁』を破壊して姿を現した褐色肌に黒髪の巨人──ゴライアスと、破壊された壁の破片が重力に従って降り注ぐ様。そして、ゴライアスの足元で必死に逃げ惑う冒険者達。
(ゴライアスの誕生────予感の正体はそれか……!)
夜の予感が予見していた事象の正体は、“次産間隔《インターバル》を無視した『階層主』の誕生”という異常事態《イレギュラー》だった。
その前兆を『天眼』が捕捉し、夜をこの場まで導いた。そして今、その役目を終えたように繰り返していた明滅は消失した。
(……しかし、何だ? 胸の奥でくすぶる感覚はまだ治まらない……)
胸の奥でざわめく感覚は、今なお拭える事なく夜の体を侵している。いや、寧ろゴライアスを視認した途端、その感覚が更に増したようにさえ夜は感じていた。
しかし、それは目の前のゴライアスそのものに向けたものではない。
──『階層主《ゴライアス》』が“生まれた”という事実そのものが、何かの兆しを暗示している。
理由はわからない。だが、得体の知れない気配だけが、確かに夜の胸を搔きむしっていた。
その奇妙な感覚の正体を突き止めなければならない。そう直感的に感じた夜は、思考を更に深く沈めようとしたが、状況はそれを許さない。
冒険者達の一際大きな悲鳴が夜の耳を劈き、深まりかけた思考を強制的に断ち切った。
反射的に悲鳴の方へと視線を向ければ、そこには『階層主』を相手に為す術なく襲われている冒険者達の姿。
そして、そんな彼らへ指揮官と思しき女性が声を張り上げて懸命に指示を出しているが、彼女の指示を聞いている者はパッと見ただけでも一人か二人程度。それ以外の者は混乱のせいか判断能力が低下している様子が窺える。
そして、そんな彼らをモンスターは決して待ってはくれない──。
逃げ惑う冒険者達を叩き潰さんと、ゴライアスが巨人の腕を振り上げる。
標的とされたのは、仲間に指示を出している指揮官の女性と、彼女の近くに居た杖を持つ女性。
他の仲間に気を取られ過ぎた彼女達は、今やっと、ゴライアスを視界に収めた事で自分達が標的である事を自覚したようだ。
しかし、気付くにはあまりにも遅かった。
もしも、彼女達がLv.4以上の実力者であれば、今からでも回避する事は可能かもしれない。だが、一見しただけでも、そこまで高位の冒険者ではない事は明白だった。
故に、ゴライアスの殴打を喰らうのは必然の結果だった────この場に夜が居なければ。
(────させるか……!)
【起動】────【比翼抱慕】
瞬間、踏み込んだ地面が爆ぜると同時に、雷速の弾丸と化した夜が彼女達の元まで疾駆する。
「手を伸ばせ──!」
夜の張り上げた声が彼女達に飛ばされる。
届いた声に促されるように顔を動かした二人は、同時に夜を視界に捉える。そして、その声に従うように、二人は咄嗟に夜へ手を伸ばす。
瞬く間に辿り着いた夜は、差し伸ばされた二つの手を握り締めると勢いよく抱き寄せ、そのまま後方へ跳躍する。
「きゃあ……!」
「ちょ……っ!」
そうして、その直後。すれ違うようにして、先程まで彼女達が居た地点にゴライアスの剛腕が勢いよく振り下ろされた。
瞬間、凄烈な豪打が地面を叩き割った。轟音と共に岩床が砕け散り、砂塵が舞う。
衝撃によって破壊された岩石が周囲へ飛び散り、衝撃波と共に夜達へと襲い掛かる。
「────ちっ!」
二人を抱えた夜は、後方へ跳躍を繰り返しながら飛び迫る岩石を躱していく。
跳躍の衝撃で上下左右に激しく揺さぶられる二人は、悲鳴を上げながらも振り下ろされないよう必死に夜にしがみつく。
そうして、数度に及ぶ跳躍の後、漸く被害が及ばない範囲にまで夜達は退避した。
一息吐いたのち、夜は両脇に抱える二人へ安否確認の為に声を掛ける。
「……二人とも、大丈夫か────」
視線を左右に振りながら、抱えていた二人の姿を認識した瞬間、夜の表情は固まった。
一人は、短めの赤みがかった茶色の髪に、鋭くつり上がった黄色の瞳。白を基調とした、太腿辺りまでの長さがある軍服風の服装に身を包んだ、指揮官の女性。
もう一人は、腰まで届く程の長さのあるストレートの濃紺の髪に、長い前髪から窺える碧色の瞳を宿した垂れ目。黒を基調とした、足首辺りまでの長さがある軍服風の服装に身を包んだ、杖を携える女性。
──夜は、この二人を知っていた。
面識はないし、今日初めて邂逅した。それでも、夜の記憶は確かに、目の前の女性二人と記憶にある女性二人が同一人物である事を知らせてきた。
そう────彼女達は、『ダンまち』の登場人物だ。
指揮官の女性の名は、ダフネ・ラウロス。【アポロン・ファミリア】に所属する、Lv.2のヒューマンの冒険者。
杖を携える女性の名は、カサンドラ・イリオン。同じく、【アポロン・ファミリア】に所属する、Lv.2のヒューマンの冒険者兼治療師(ヒーラー)。
(会うのはもう少し先だと思っていたが……)
内心で動揺を見せる夜は、表情には出さないものの、その心情は戸惑いを浮かべていた。
すると、そんな夜を他所に、長髪の女性──カサンドラは一条の光明を見出したような安堵を湛えた表情を浮かべると、夜の思考を一変させる発言を口にする。
「────よかった……。ちゃんと来てくれた……っ」
(…………え?)
カサンドラの発言に、夜は耳を疑った。しかし、脳内で反芻する彼女の言葉が、すぐに聞き間違いではない事を知らせる。
(“ちゃんと来てくれた”だと……? まるで俺が来ることを知っていたかのような発言……まさか、予知夢か──?!)
カサンドラという女性は、『予知夢』を見る不思議な能力を有している。
彼女が今しがた発した言葉からして、夜が来る事を予知していた事が窺い知れる。
しかし、重要なのは彼女の能力ではない。
(……まさか、彼女の予知夢は異邦人の俺まで観測するのか……)
本来であれば、この世界に存在する筈のない人間────それが夜という異端者(しょうねん)だ。
そんな彼をカサンドラの予知夢は観測した。
それは、つまり────
(俺の正体を知られる可能性があるということ……)
カサンドラは、むやみやたらに吹聴するような人ではない。
仮に夜の正体を知ったとしても、誰かに話したりはしない筈だ。
もしかしたら、友達であるダフネには話すかもしれないが、カサンドラの予知夢を信じる事はないだろう。それが、未来を予知するという彼女の絶大な力の代償であるが故に。
思わぬ所で自身の正体が知られる可能性がある事実に、夜が一抹の不安を覚えていると、身体を揺すられている事に気付く。
意識を現実に戻せば、眉を吊り上げるダフネが夜の服を掴んで乱暴に揺すっていた。
「────ちょっと、聞いてる?!」
「……え? ああ、悪い。考え事してた」
「はあ……?! 君、今の状況わかってるの……!?」
彼女の怒声に現在の状況を再認識した夜は、先程までの思考を断ち切り、すぐさま意識を切り替えて前方を見据える。
そこには、ガラガラッと巨大な拳に付着した岩石を舞い落としながら、振り下ろした腕を持ち上げるゴライアスの姿があった。
どうやら、夜の思考はそこまでの時間は要していなかったようだ。
とはいえ、考え事は戦線の真っ只中でするべき事ではない。命が幾つも有るわけではないし、『階層主』を相手にそんな余裕は夜にない。
突発的な出来事に、動転してしまっていた。そう反省した夜は、再度表情を引き締めた。
「……そうだな。確かに、今は目の前の事に集中するべきだ」
「全くよ……。というか、いい加減下ろしてくれない?」
「ん……? ああ、悪い」
何時までも抱えられたままの状態に不満を募らせていたダフネは、据わった目で夜を睨みつける。
ダフネの言葉に促されて自分達の状態を確認した夜は、彼女の怒りに納得したのち、素直に二人を下ろした。
「……正直助かったわ。ありがとう」
「あ、ありがとうございます……!」
下ろされた二人は、それぞれの言葉で夜に感謝を告げる。
「……どういたしまして」
彼女達から感謝の気持ちを受け取った夜は、間に合ってよかったと素直に思った。
*
「──ふう。……さて、どうするか……」
夜に下ろされたダフネは軽く体を解した後、血走った紅い双眼をこちらに向けながら睨みを利かしてくるゴライアスを見て、この後の立ち回りについて頭を回す。
しかし、思考に耽る時間を与えてくれる程、モンスターは親切ではない。
彼我の距離は数十M。
ゴライアスであれば、数歩で迫れる距離。
『オォォオオオオ──ッッ!!』
階層全域を震撼させる程の砲声が、ダフネの思考を強制的に遮断させる。
開戦の烽火を上げたゴライアスは、地面を割る程に力強く踏みしめると、巨体を弾丸と化して夜達へ進撃する。
「ひっ……! ダ、ダフネちゃん……ッ!」
「…………ッ!」
戦闘能力が乏しいカサンドラは、身体を震え上がらせながら怯えた表情でダフネに視線を送る。
カサンドラの視線を受けたダフネは、即座に退避行動へと移行する。
「逃げるよ────ッ!」
「え……あ、うん……っ!」
分断された仲間の安否が気になるダフネだったが、幸いゴライアスの標的は彼女達に向けられている。先程の豪打による被害が懸念されるが、少なくとも死人は出ていない筈だ。
そう判断したダフネは余計な思考を打ち切り、カサンドラの手を取ると、上の階層へ続く通路へ退避しようとゴライアスに背を向ける。
そして、そのまま走り出そうと脚を動かしたその時、彼女達を巨大な影が吞み込んだ。
慌てて後ろを振り返れば、ダフネ達の視界に映ったのは剛腕を振り上げるゴライアスの姿。
退避の判断を即座に下して、実行に移したダフネ達だったが、彼女達の行動速度よりもゴライアスの進撃速度の方が遥かに速かった。
退避はもはや間に合わない。
回避も同様に間に合わない。
文字通り、絶体絶命のピンチ────。
「──ダフネちゃんっ!」
「──カサンドラッ!」
ダフネとカサンドラは、庇い合うように互いの体を抱き寄せる。
被害は免れないと判断した彼女達は、せめて友達だけでもと思い、咄嗟に友を守る体勢へと移った。
そうして、目をギュッと瞑りながら、襲来する衝撃に身構える彼女達。
瞬間、凄烈な衝撃音が大気を震わせた。
鈍い打撃音が階層に鳴り響き、砂塵が舞い踊る。
ゴライアスの剛腕から放たれた打撃は、まさに必殺の一撃と評するべき破壊力を有している。
Lv.2の彼女達では、まともに食らえば瀕死の重傷は免れない。
衝撃音が轟いて数秒、訪れた静寂の中、ぽつりと女性の声が二つ、静まる水面下に落とされた。
「…………え?」
「…………へ?」
そこには、傷一つないダフネとカサンドラが健在していた。
血塗れになる事も、骨が砕け散る事も、内臓が破裂する事も、肉塊と化す事もなく、先程と変わらぬ姿で、戸惑いの表情を浮かべる二人がそこに居た。
「いったい何が……」
「ど、どうして……」
互いに無事である事を確認した二人は、状況が理解できないといった様子で視線を周囲へと巡らせる。
そうして、なぜ自分たちが無事だったのか。その理由はすぐに判明した。
彼女達の視線の先には、半透明な半球状の膜が彼女達を覆うようにして展開されていた。
「これって……」
「結界、魔法……?」
展開されているその魔法を見て、彼女達は驚嘆の息を漏らす。
障壁には傷一つ見られなかった。
ゴライアスの必殺の一撃を、完全に防いで見せたという事だ。
────しかし、一体誰がこの魔法を発動したのか。
そんな疑問が彼女達の脳裏をよぎるが、その答えはすぐにはわかった。
この場には、彼女達以外にもう一人、一度彼女達を助けた存在が居た。
彼の姿はすぐに見つかった。
彼女達を背にして、ゴライアスと向かい合っていた。
その頼もしい後ろ姿に二人は目を奪われるが、束の間の沈黙の後、すぐに我に返ると、先に冷静さを取り戻したダフネが夜に声を掛けようと口を開いた。
「ねえ、これって君が────」
『オォォオオオオオオ────ッッ!!』
魔法を展開したのは貴方か否か。その事実確認をする為に夜へ質問しようとしたダフネであったが、彼女の声はゴライアスの咆哮によって掻き消される。
ゴライアスは明らかに怒っていた。
一度ならず二度までも自身の攻撃が失敗に終わった。それも、自分よりも圧倒的に小さい存在に邪魔されて、だ。
そんなもの、有り得てはならない。
そんなもの、認めてはならない。
たった今、ゴライアスはただの羽虫と認識していた矮小な人間を、殺すべき存在であると改める。
そして、滲み出る殺意の濃度を上げて、階層全体に解き放たれた。
「な、何よ、これ……」
「……っ……っ」
ゴライアスが放つ濃密な殺気に当てられたダフネとカサンドラは、身を竦ませて全身を小刻みに震わせる。
その相貌は蒼白に染め上げ、双眸は恐怖と絶望に呑まれている。
二人が怯えを見せる中、夜は一人、恐怖に染まる事なく粛然と佇んで、ゴライアスを見据えていた。
その態度が、ゴライアスの逆鱗に触れた。
『オォォオオオオオオオ────ッッ!!』
咆哮を上げたゴライアスは、剛腕を振り上げると、夜が展開した【魔力障壁】へ目掛けて一気に振り下ろす。
ゴライアスの巨大な拳と、夜の【魔力障壁】が衝突し、鈍い衝撃音を轟かす。
轟然たる打撃音と共に、衝撃波が空気を震撼させ、周辺の砂塵や岩石を吹き飛ばす。
(ぐっ、重い……ッ!)
その一撃は、先程までの攻撃とは明らかに質が違った。
確実にこちらを殺す為に振るわれている。剥き出しにされた殺意が、その事実を如実に表していた。
【魔力障壁】は何とか耐え忍んだ。しかし、僅かにだがひびが入っている。
その事実に、微かな動揺を浮かべて眉を顰める夜と、愉悦に口角を吊り上げて嗤うゴライアス。
対照的な、一人と一体。
咄嗟に両手を翳してひび割れた箇所を修復し、防衛態勢を固める夜に対し、ゴライアスは再度剛腕を大きく振り上げ、一気に叩き落す。
「ぐッ────!」
先程よりも更に威力を増した殴打が、【魔力障壁】に叩きつけられる。しかし、それだけでは終わらない。続けてもう片方の剛腕が振り上げられると、すぐさま振り下ろされる。
殴打の強襲が絶え間なく降り注ぐ。
負けじと必死に【魔力障壁】の強度を維持するが、威力を増す大打撃に耐えられず、次第に亀裂が波打っていく。
(このままでは突破されるのも時間の問題だ……っ)
あと数発受ければ、確実に【魔力障壁】は破壊されてしまう。
それまでに何とか形勢を整えたい。そう考える夜だが、ダフネとカサンドラを守りながらではそれも難しい。
(何とか二人をこの場から撤退させたいが、俺一人では難しい……)
頼みとなるのはフィルヴィスなのだが、肝心の彼女はまだ17階層にその姿を見せない。
(……まさか、何か異常事態《イレギュラー》に巻き込まれてるんじゃないだろうな)
そう思った夜は、16階層へつながる通路へと意識を伸ばす。
(────────)
「【────ディオ・テュルソス】ッ!」
絶え間ない攻撃に、とうとう限界を迎えた【魔力障壁】へ目掛けて、ゴライアスが殴打を叩きこもうと剛腕を振り上げた直後。
一条の稲光がゴライアスの顔面に直撃した。
『────ッ、ウォオオオオオ──!!』
雷撃をまともに食らったゴライアスは、顔面を片手で覆いながら仰け反る。
その隙に夜は身を翻すと、両脇にダフネとカサンドラを抱きかかえて駆け出す。
「きゃあ……っ!」
「ちょっ、まっ……っ」
彼女達の反応など構わず、一直線に後退していく。
「ツクヨミ……っ!」
「フィルヴィスッ!」
16階層につながる通路の扉たる縦に裂けた大穴の前には、疲弊した様子のフィルヴィスの姿があった。
「────何があった」
この短期間で消耗する理由など、このダンジョンにおいてはモンスターとの交戦以外にはない。
それでも情報共有の意味も含めて、夜はフィルヴィスに問い掛ける。
「……お前が駆け出した後、突然モンスターが湧き出してきたんだ……」
フィルヴィスが告げた回答に夜は瞠目する。そして、徐に顎に手を置くと視線を虚空へと向け、そのまま何やら考え事を始める。
そんな夜を横目に、顔面から煙を発するゴライアスへ視線を向けたフィルヴィスは、明らかに動揺した様子を見せながら疑問を叫んだ。
「それより、これはどういう事だ……。なぜ、『階層主《ゴライアス》』が生まれている! 再出現《リスポーン》までもう少し猶予はあった筈だ……!」
その荒げた声に気付いた夜は、思考を中断してフィルヴィスへと視線を戻す。
「まさか……私の──」
「──フィルヴィス」
そして、フィルヴィスが続け様に口にしようとした言葉を悟った夜は、その言葉が紡がれる直前で遮った。
名を呼ばれた事でビクリと肩を震わせたフィルヴィスは、動揺に揺れる瞳で夜へ振り返る。
「──────」
夜は泰然とした面持ちで、ただ真っ直ぐにフィルヴィスを見つめていた。
力強さと柔らかさを湛えたその眼差しは、一途に彼女だけを捉えている。
──貴女のせいじゃない。
言葉にせずとも、夜の瞳はそう伝えていた。
喉までせり上がっていた自責の言葉は、静かに霧散していく。
やがて落ち着きを取り戻したフィルヴィスは、一度深く息を吐いたのち、夜へ向き直る。
「……すまない。気が動転していた」
「気にするな。……それより、フィルヴィスに頼みがある」
その様子に冷静さを取り戻したと判断した夜は、唸り声を上げるゴライアスを一瞥したのち、フィルヴィスに向き直って話を切り出す。
「私に頼み……?」
「ああ、この二人を頼みたい」
そう言って、夜はダフネとカサンドラへ視線を向ける。
夜に促されるように、フィルヴィスもまた二人に視線を移す。
そこには、知らない女性冒険者が二人。
歳はフィルヴィスと近く、双方共に端正な顔立ち。
疲弊の色が窺える二人を一瞥したフィルヴィスは再び視線を夜に戻すが、彼の横顔を見た瞬間、フィルヴィスの胸の奥で僅かなざわめきが波打った。
「────っ……?」
心配の色を湛えた眼差しを二人に向ける夜の横顔に、言い知れぬ喪失感がフィルヴィスの心をきゅっと締め付ける。
初めて感じたその感覚に戸惑いと僅かな焦りを渾然とさせるフィルヴィスは、咄嗟に何かを吐き出すように言葉を紡ごうとする。
しかし、その未知なる体感を形容する言葉を知らないフィルヴィスは、言葉を紡ぐ事なく喉に突っかかった何かを飲み込む事しかできなかった。
判然としないその違和感にくすぶりを覚えるフィルヴィスは、ふと視界の端で動いた影に視線を上げる。
そこには、ダフネとカサンドラから視線を切って、彼方を見据える夜の姿。その表情は先程まで二人に向けていた柔らかさが鳴りを潜め、代わりに温度を感じさせない冷たさを湛えていた。
闘気を纏う夜に導かれるように、フィルヴィスは同じ方向へ視線を向ける。
そこに居たのは、先程フィルヴィスが攻撃を仕掛けたゴライアス。その顔面は少し焦げた痕が見られるものの、大したダメージは与えられていない。
その事実に目を見張ったフィルヴィスは、ゴライアスの耐久値の高さに慄いたのち、ハッと何かを理解したように唖然とすると、弾けるように夜へ視線を戻す。
「まさか、お前────」
「ああ──……あの『階層主《ゴライアス》』を討伐する」
こちらを睥睨するゴライアスを見据えながら、夜は毅然と宣言した。
その言葉に愕然とするのはフィルヴィスとダフネの二人。硬直した表情を向ける彼女達を横目に、夜はカサンドラに視線を移す。
愕然とする二人と違い、カサンドラは静かに夜を見つめていた。まるで、夜がそう宣う事を知っていたかのように、動じる事なく成り行きを傍観していた。
漆黒の瞳と碧色の瞳が交錯する。
両者の間に言葉はなく、ただ何かを伝え、何かを探るように互いに見つめ合っていた。
そんな二人の間に、突如として鋭い声が投じられる。
「──正気か、お前は……!」
振り向けば、そこには目尻を吊り上げたフィルヴィスの姿。
「……確かにお前は強い。だが、相手は『階層主《ゴライアス》』だ。流石のお前でも一人で相手取るには分が悪すぎる……!」
客観的で、至極真っ当な反論を述べる彼女は、張り上げる声の鋭さとは裏腹に、その表情は心配の色を湛えていた。
「ここは一旦撤退するべきよ!」
そして、フィルヴィスと同じく愕然としていたダフネもまた、冷静に状況を把握した上で、この場から逃げるべきだと告げる。
フィルヴィスとダフネからの反論を受けた夜は、二人の意見に心の中で同意する。
二人の言う通り、安全を第一に考えるのであれば、撤退するべきだ。この場における最適な行動を夜自身理解していた。
しかし、冷静な理性と反して、夜の本能は撤退の選択肢を棄却する。
合理性をかなぐり捨ててでも、“目の前の存在《ゴライアス》”を逃すべきではないと、本能がそう訴えるのだ。
それは、一種の使命のように夜へと突き立てる。
そして、夜の直感もまた、その選択が正しいと判断した。
「──なら、貴女達は撤退してくれ」
故に、彼女達の正論を受けて尚、夜の行動が変わる事はなく、三人に背を向けてゴライアスへと向き直す。
フィルヴィスは、その後ろ姿に既視感を覚えた。
15階層にて、彼と出会って間もなくのあの時、自身を魔法の檻に閉じ込めて一人で戦っていたあの後ろ姿。
──気付けば、フィルヴィスは夜の隣に並んでいた。
「────私もお前と共に戦う」
そして、フィルヴィスもまた宣言する。
もう守られるだけは御免だと。
今度こそ隣で共に戦うのだと。
夜を見上げる赤緋の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
はあ、と夜は一つ溜息を吐く。
彼女が頑固者で、意地っ張りである事を夜は知っている。
こちらがどれだけ反論しようと、聞く耳を持たない事を知っている。
こうなった彼女は、たとえ梃子だろうと動かないだろう。
そう思った夜は、彼女の説得を早々に諦めて、覚悟を決めた。
「────わかった。一緒に戦うぞ」
「ああッ……!」
そうして、待ち侘びたとでも言うように口角を吊り上げるゴライアスに向かって、少年《よる》と妖精《フィルヴィス》は共に駆け出す。
遠ざかる二人の姿をポカンと呆けながら眺めるダフネと、静かに見つめるカサンドラ。
二人の観客を背に、戦いの火蓋は切られた──