自称“凡人”の人生譚   作:飢堕天

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 お待たせしました。

 独自解釈、独自設定がマルマルモリモリです。

 原作読んでないもので、すんません。


29話 義腕と人肌

 

 「──さてと。それじゃあ、本題といこうか」

 

 完全回復薬(フルポーション)の件が一段落したところで、俺はそう切り出した。ナァーザとデメテルは揃って首を傾げる。

 

 「完全回復薬が本題じゃないの?」

 「これ以上はお腹いっぱいよ?」

 

 その可愛らしい反応に苦笑しながら、俺はナァーザの右腕──袖に隠れた義腕へと視線を向けた。

 一拍置いた後、俺は彼女の目を見て本命を告げる。

 

 「その右腕、もう一度だけ治療を試してみる気はないか?」

 

 ナァーザが目を見開いた。突然の問いに一瞬呆然とした彼女は、俺の言葉に促されるように自身の右腕──そこにある義腕へと視線を落とした。

 

 「……以前言ったけど、この右腕を治すために既存の治療法はすべて試した」

 

 二週間ほど前。回復薬の事業を【ミアハ・ファミリア】に持ち掛けた際、困窮している理由とともに彼女の右腕のことを俺とデメテルに教えてくれた。

 

 元々ナァーザは俺と同じ冒険者としてダンジョン探索を生業としていた。だが“六年前”に彼女の右腕はダンジョン内でモンスターに食われて失った。

 回復薬の中で最上級とされる万能回復薬(エリクサー)では修復することはできず、回復魔法の中で最上級とされるアミッド──都市最高の治療師(ヒーラー)が持つ全癒魔法でも元に戻すことは叶わなかった。

 

 「もしかして、完全回復薬を試すの?」

 

 ナァーザは左手で、袖越しに義腕を撫でながら訊いてきた。その視線の先には、机の上に置かれた試験管立てがある。一本だけ色の異なった液体が入った試験管──俺が【アヴァロン】で精製した完全回復薬の試作品だ。

 

 「いや。いくら完全回復薬でも六年前に欠損した部位までは治せない」

 

 ナァーザの場合、欠損してからあまりにも時間が経ちすぎている。完全回復薬であっても流石に修復することは不可能だ。

 

 そこでデメテルが声を上げる。

 

 「それなら神聖魔法かしら?」

 

 俺は頷いた。

 

 「俺の神聖魔法──【アヴァロン】は、浄化の他に回復の効果も兼ね備えている。その効力は欠損の再生、そして過去に負った損傷まで治癒することが可能だ」

 

実際に検証済みだ。しかし俺が治癒した過去の損傷は細かな古傷程度であり、彼女の右腕のような欠損にまで効力を発揮できるかどうか、その確証はない。だが、

 

 「試してみる価値は十分にあると思う」

 

 ナァーザの目を見てはっきりと告げた。

 

 彼女は思案に耽るように視線を床に落とす。その表情には戸惑いの色が浮かんでいる。少し急すぎたかもしれない。

 

 「無理に試すつもりはない。治療を試みるかどうかはナァーザの意思に任せるよ」

 

 彼女の右腕は、彼女自身の問題だ。治すか否か、その判断は彼女に委ねるのが適切だろう。

 

 正直に言えば、治してあげたい──いや、治したいと思っている。けれど、それはあくまで俺個人の自己中心的な想いであって、それを彼女に押し付けるわけにはいかない。

 

 突きつけられた二つの選択肢に悩むように、彼女の瞳は揺れている。

 静寂が訪れる中、彼女が抱く感情だけがぶつかるように交錯しながら、彼女を中心に波紋しているように映る。

 

 彼女の義腕は、主神のミアハが借金を背負ってまで購入したものだ。恥も外聞もかなぐり捨てて、ただ彼女のために。

 彼女の義腕には、そんなミアハの思いが詰まっている。そしてなにより、ナァーザにとっては彼に対する恩義の象徴でもある。と、これはあくまで俺の推論だ。実際のところは俺にも分からない。けれど、彼女を見ているとそんな印象を漠然と感じた。

 

 

 

 やがて、長い沈黙を破るようにナァーザは口を開いた。

 

 「……ごめん。せっかく提案してくれて悪いんけど、治療は辞めとくよ」

 

 そう言って、彼女は心底申し訳なさそうに眉を下げる。

 

 ……まあ、なんとなく断られるだろうとは思っていた。

 

 「理由を聞いてもいいか?」

 

 彼女は小さく頷いて、弱々しく話し始めた。

 

 「知ってのとおり、私たちのファミリアは貧乏だからお金がない。今は夜のおかげで収入源を確保できたから、これから先は少しずつだけど生活に余裕が出てくるようにはなると思う。……でも、すぐに大金を用意できるほどではない」

 

 彼女の声色は、入り混じる感情が重なるように少しずつ重々しくなっていく。

 

 「もしこの右腕を復元できたとしたら、支払う対価は数百万では足りない。……それこそ数千、あるいは億に達するくらいの価値がある」

 

 彼女の言葉は決して大げさではない。“欠損の修復”というのはそれだけ大それたことなのだ。ましてやそれが六年も前のものであれば、復元が叶った場合、その成果を金銭に置き換えると億を超えるほどの価値だと言われても納得できる。

 

 「今の私ではそれだけの対価を支払うことはできない。……なによりこれ以上ミアハ様に迷惑をかけたくない……っ」

 

 なるほど。ナァーザの胸の内に滞っている想いの全容が、今はっきりとした。

 

 受けた恩には、相応の対価を支払う。人と人が交わす取引において、そのやり取りは至極自然なことだと言える。商売に身を置く彼女にとっては、特に大事な決まり事なのかもしれない。

 

 回復薬の事業を進める上で発生した機材やその他諸々の用意。これに関しては『共同事業』ということで彼女の中では折り合いをつけられていたのだろう。

 しかし、今回に限っては立場が明確だ。俺は与える側で、彼女は受ける側。その事実が、彼女に“対価を支払う”という結論を急かせた。

 

 だが、それは俺たちの間柄が“商売”という形で成立している場合に限る。

 

 「別に対価は必要ないが」

 

 彼女は俺の言葉を遮るように、首を振る。

 

 「それは駄目、駄目だよ……。これ以上、夜の善意に甘えることはできない」

 

 今にも消え入りそうな声で、彼女は言葉を重ねる。

 

 「私はミアハ様の重りでしかない。なのに、今度は夜の重りにまでなってしまったら……」

 

 彼女は顔を右手で覆い、まるでヘドロを吐き出すように声を振り絞った。

 

「他人に縋らなければ生きていけない私が、さらに迷惑をかけるなんて……私は一生、私自身を許せなくなってしまう……っ」

 

 

 俯いた彼女の両目から、雫がぽつりと零れ落ちた。

 

 

 もし治療して成功した場合、対価を支払う。これが彼女の前提だ。しかし彼女一人では到底支払える額ではない。

 そしてこの取引をミアハが知れば、間違いなく彼は「自分も支払う」と言うだろう。眷族の責任は親である主神もともに背負う。彼はそういう神だ。

 

 だが、それはナァーザがミアハに対して抱く罪悪感を助長させるだけに過ぎない。

 ミアハに対しての罪悪感が積み重なるたび、ナァーザはそんな己の不甲斐なさを恨み、不出来さを呪い、背に圧し掛かる重圧に血反吐を出すほどの痛苦に胸を絞めつけられるだろう。

 

 

 そして今、彼女が苦しんでいる原因は俺にある。

 俺が良かれと思って与えた善意が、彼女にとっては己を苦しめるだけの重圧でしかないのだ。

 その事実を、俺は今に至るまで気づくことすらできなかった。

 

 ──なんて独り善がりで自分勝手なことか。

 

 いったい迷惑をかけているのはどっちだ。そう唾棄せずにはいられない。

 

 

 

 ──俺は彼女とどう向き合えばいい。今の俺になにができる。

 

 自分の為すべきことに思い悩んでいたその時、誰かの手が背中にそっと触れた。振り向くと、そこには慈愛に満ちた眼差しで俺を見るデメテルがいた。

 

 午前中に彼女が言ってくれたことをふと思い出す。

 

 

 『失敗を恐れないで、貴方は貴方自身を信じて進みなさい』

 

 

 デメテルと視線を交差させる。そこに言葉はない。けれど、彼女はまた俺の背を押してくれている。背中越しに感じる彼女の温もりが、そう教えてくれた気がした。

 

 

 俺はナァーザに向き直る。そして、彼女の目を見て言葉を紡ぐ。

 

 「ナァーザの言い分は理解した。共感もできる」

 

 つい先ほどようやく彼女の気持ちに気づけた俺だが、彼女が胸に抱いた想いは確かに伝わってきた。だからこそ、分かったことがある。

 

 「だが、それはお前の本心ではないはずだ」

 「──え?」

 

 ナァーザは顔を上げる。明らかに困惑の色を浮かべた彼女は、おもむろに首を振る。

 

 「違う、違うっ。これは私の本心……紛れもない私の想い……!」

 「そうだな。確かにさっき吐き出した言葉はどれもがお前の想いだった。だが、やはりお前の本心ではないように思える」

 

 彼女が反論を述べる前に、俺は言葉を続ける。

 

 「ミアハに迷惑をかけたくない、俺に迷惑をかけたくない。だから治療は受けない」

 

 彼女の言い分を簡潔に言い表すのであれば、まさにこれだろう。それは確かに彼女の想いだった。だが。

 

 「それはお前の本心ではなく、単なる妥協だ」

 

 彼女の目がわずかに見開いた。「そんなことはない」と否定の言葉が口を突くことなく、自身が吐いた言葉の真意の程に戸惑っているようだ。

 

 「お前が先ほど口にした言葉のどれにも、お前自身が右腕を治したいかどうかは示されていなかった」

 

 彼女が口にしたのは、すべてが治療を受けない“理由”だった。

 右腕を治したいか否か。その想いは彼女の口からまだ聞いていない。

 

 「ナァーザ、お前自身はどう思ってる? どうしたい?」

 

 俺は彼女の目を真っ直ぐ見ながら問いかけた。すると彼女は瞳を揺らしながら、震える声を漏らす。

 

 「わた、しは……」

 「ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、ナァーザの本心を教えてくれ」

 

 急かすようなことはしない。ただ、しっかりと彼女と向き合う。それが今の俺にできる唯一のことだ。

 

 ナァーザは一度深呼吸をして、ゆっくりと口を開く。

 

 「……周囲の目を気にして、いつも長袖で隠してきた」

 

 そう言って彼女は右袖をめくり、義腕を露にした。

 

 「……だけど、本当は辛かった。本当は、隠したりなんかしないで堂々としていたい」

 

 彼女は左手で、冷たく無機質な義腕を撫でながら言葉を重ねる。

 

 「もう一度、温もりを感じたい……。冷たくなったこの右手で、また熱に触れたい……っ!」

 

 彼女は涙を零しながら、胸の奥底から想いを叫んだ。

 

 

 「それが、ナァーザの本心なんだな」

 

 そう訊くと、彼女は小さく頷いた。

 

 「わかった。任せろ」

 

 

 *

 

 

 施設の外に出た俺とナァーザは、互いに向き合うように立つ。

 デメテルは少し離れた位置からこちらを見守っている。

 

 抽出液を精製した際、俺は余分なものまで浄化しないように魔法の威力を調整していた。

 だが、今回は肉体の欠損を再生する。それも六年前に負った、今では完全に塞がりきっている失われた右腕を。

 加減して治せるほど容易ではない。もとより成功の確証もないのだ。一切の出し惜しみをすることなく、全力で取りかかる必要があるだろう。

 

 

 「それじゃあ、始めるぞ」

 

 俺の言葉に、正面に立つナァーザは覚悟を宿した面持ちで小さく頷いた。

 彼女の右腕には、先ほどまで付けていた義腕は装着されていない。再生の妨げになるため、あらかじめ取り外した。

 

覆うモノを失った袖は、春の訪れを感じさせる柔らかなそよ風に靡いている。

 

 俺は一つ息をつき、魔法の詠唱を開始した。

 

 「【癒しの雫、光の園、永久の聖域────】」

 

 俺が詠唱を紡ぎ始めると、ナァーザは喉を鳴らし、固唾を飲んで俺を見つめる。

 覚悟を決めたとはいえ、緊張が拭えるはずもない。

 

 

 改めて言うが──六年だ。

 決して短くない年月をともにしてきた義腕と別れ、今、新たに自分の腕を迎えようとしている。

 

 彼女の揺れる瞳は、なにかを期待するように、あるいはなにかを拒絶するように、ただじっと俺を見つめ続ける。

 

 

 俺たちは、出会ってまだ二週間も経っていない。

 俺は冒険者として迷宮探索に勤しんでいたため、彼女と顔を合わせた回数は、過ぎ去った日数よりも少ない。

 

 彼女は『月詠夜』という人間をよく知らないだろう。

 俺もまた、『ナァーザ・エリスイス』という人間をよく知らないのだから。

 

 俺が彼女に手を差し伸べたのは、原作知識で知っていたからに過ぎない。仮に知っていなければ、おそらく俺はここに立ってはいないはずだ。

 俺たちが出会ったきっかけなんて、所詮はその程度でしかない。

 

 だが、俺は知っている。現実として、俺は彼女を少なからず知っている。

 そこに疑いの余地はなく、その事実こそが嘘偽りのない真実だ。

 

 仮定がどれほど冷酷で残酷だったとしても、今目の前にある現実だけがすべてなのだ。

 

 

 

 俺は左手をナァーザへとかざす。

 全身を脈動する魔力を余すことなく制御し、腕を伝って突き出した左手へと集束させていく。

 その密度の高さに周囲の空間は陽炎のように滲み、大地はまるでこれから起こる“奇跡”を歓迎するかのようにかすかに震えている。

 

 

 やがて詠唱が終わりを迎え、俺は魔法名を唱えた。

 

 「【────アヴァロン】」

 

 その瞬間、堰を切ったような眩い極光がその場を黄金一色に染め上げた。

 天上より降り注ぐ光のような神々しい煌めきに、ナァーザは咄嗟に瞼を閉じる。

 

 溢れんばかりの魔力は透き通った黄金の球状結界となり、ナァーザを優しく包み込んだ。

 結界の内側──そこには、まるで伝説の理想郷を具現化したかのような、オーロラの如き黄金の粒子が満ち溢れている。

 

 「…………っ」

 

 その幻想的な光景を前に、ナァーザがかすかに息を呑む。

 

 俺は舞い踊る光の粒子一つ一つを操り、彼女の右腕の断面へと淀みなく集束させていく。

 

 「──えっ……な、なに……」

 

 ナァーザの戸惑う声が届くが、今の俺に躊躇う余裕はない。

 

 俺がこれから行うのは、過去に失った右腕の再生。

 すでに塞がっている断面に干渉して生命力を与え、細胞から皮膚に至るまで、寸分の狂いなく彼女の左腕と同等の右腕を新たに生やす。超高難易度の演算を精密に行わなければならないのだ。

 脳が軋むほどの集中を以て、魔力操作に全神経を注ぎ込む。

 

 

 次の瞬間、ナァーザは驚愕に目を見開いた。

 

 肩より先がないため、重力に従って力なく垂れていたはずの右袖。それが、まるで目に見えない腕が通されていくように、内側からふっくらとした膨らみを帯びてゆく。

 

 「えっ……え、え……?」

 

 少しずつ、しかし確実に。袖口へと向かって膨らみは伸びていき、次の瞬間──空っぽだった袖口から、淡い輝きを発する黄金の右手が突き出た。

 それは瞬く間に人肌を取り戻すように、白く丈夫な骨を、鮮明な血液を、柔らかな筋肉を、肌色の皮膚を帯びてゆく。

 

 やがて黄金の光が収束した時、そこには“人の手”が確かにあった。

 

 

 *

 

 

 「…………ふぅ」

 

 極限まで研ぎ澄ませていた集中を解いた俺は、体の火照りを覚ますように細く息をついた。

 

 「成功したの?」

 

 すると、離れた場所から見守っていたデメテルが静かに歩み寄ってくる。

 

 「ああ、これで完治できたはずだ」

 

 ナァーザを見れば、彼女は自身の右手に視線を落としたまま、呆然と佇んでいる。

 

 「そう。本当によかったわ」

 

 デメテルは安堵したように穏やかな笑みを浮かべる。俺もまた、張り詰めていた表情を緩めて小さく笑みを返した。

 

 

 「ナァーザ、右腕の調子はどうだ? なにか違和感があれば遠慮せずに言ってくれ」

 

 ナァーザはおそるおそるといった様子で指先を折り曲げる。何度か手を握り締めては開き、肘を曲げ、肩を回す。

 次いで袖を捲った彼女は、右腕の感触を確かめるように、血色のいい柔肌を左手で優しくなぞる。

 

 「……大丈夫。六年ぶりの生身の腕だから、ちょっと変な感じはするけど。動作に問題はない」

 

 その返答に、俺は安堵の息をつく。

 

 つい先ほどまで義腕を付けていた彼女からすれば、変に感じるのも仕方のないことだろう。

 わかりやすく言えば、骨折して付けていたギブスを取り外した時のような感覚だろう。それが六年越しともなれば、違和感を抱くのは当然と言える。

 彼女の場合、欠損した腕を新たに生やしたわけだから、その感覚はより強いはずだ。

 

 「そうか。それならよかった」

 

 ともかく、これで彼女は右腕を取り戻すことができた。そして俺もまた、【アヴァロン】の真髄に一歩迫ることができたことになる。

 

 だが、同時に確信も得た。

 この奇跡のような魔法を安易に衆目に晒せば、待っているのは救世主という名の『崇拝』か、あるいは治療師という名の『奴隷』だ。

 

 ──俺は善人ではない。誰彼構わず手を差し伸べるような『聖者』ではない。

 

 使いどころは見極めなければならない。

 そんな未来の憂いに思い悩むが、とりあえず頭の片隅に追いやる。

 

 今はなによりもナァーザが優先だ。俺は彼女を見やり、その名を呼んだ。

 

 「ナァーザ」

 

 すると、新たな右腕の感触を確かめていた彼女が顔を上げる。俺は無言で彼女の前に左手を差し出し、掌を向けた。

 俺の意図を測りかね、怪訝そうに首を傾げるナァーザ。彼女はおずおずとしながらも右手を持ち上げると、吸い寄せられるように俺の掌へと重ねた。

 

 ──温かい。

 

 指先から掌の腹まで、余すことなくぴったりと密着させる。触れ合う彼女の右手から伝わってくるのは、機械のような無機質な冷たさではなく、ドクドクと脈打つ、生きた人間が持つ確かな熱だった。

 

 「……温かい」

 

 ナァーザが嚙み締めるようにぽつりと呟いた。

 

 「そうだな。俺も温かい」

 

 俺よりも少し小さい彼女の手。先ほど交わした握手の時とは違う。柔らかく、滑らかな女の子らしさを感じさせる手だ。

 

 不意に彼女の細い指が俺の指の間をすり抜けるように滑る。そしてぎゅっと優しく力を籠められた。

 突然の行為に少し驚いたが、俺もまた彼女に応えるように優しく握り返す。

 

 互いの体温を確かめ合うように、力の緩急をつけながら絡み合う。

 

 

 沈黙を溶かすように、俺は口を開いた。

 

 「俺はナァーザのことを仲間だと思ってる」

 

 指を絡めたまま、ほんの少しだけ力を籠める。

 

 「仲間なら困っていたら手を差し伸べるのは当然のことだ。何一つとして特別なことではない」

 

 初めは、打算的な理由からナァーザに手を差し伸べた。

 

 だが、今は違う。

 

 「だから俺はお前になにも求めない」

 

 俺は彼女になにかしてほしいから手を差し伸べるのではない。

 

 ──ただ、俺は彼女の力になりたい。

 

 そのたった一つの想いだけで、きっと十分だろう。

 

 「それでもお前が受けた恩義に報いたいと言うのなら、お前なりのやり方で返せばいい。それに対して俺は口を挟むつもりはないし、好きにしてくれ」

 

 受けた行為をどう捉えるのかは人それぞれだ。

 

 人の厚意を当然のものだと言い張る者もいれば、その厚意に対して同等を以て返す者もいる。

 だから俺はナァーザの意思を否定しないし、拒絶もしない。

 

 

 

 言いたいことをすべて伝えた俺は、惜しみつつも絡めていた指をそっと解いた。

 

 俺は左手を見下ろす。彼女の体温が籠った余韻。それを包み込むように拳を握り締める。前を向くと、同じように自分の右手を見つめていたナァーザと目が合った。

 

 静寂が訪れる。

 

風の音さえ遠のくような気まずい沈黙を破るように、ナァーザが口を開いた。

 

 「……正直、まだ少し怖くはある」

 

 その声はか細く、かすかに震えている。

 感情とは厄介なもので、一度抱いた恐怖は簡単には拭えない。それでも彼女は逃げまいとでも言うように視線を逸らすことなく、

 

 「だけど、夜がいてくれるのなら。私は頑張れる気がする」

 

 そう言って、真っ直ぐな眼差しを俺に向ける。

 

 「今すぐには無理だけど。いつか必ず、受けた恩は返すから。その時は対価としてじゃなく、私自身の意思で」

 

 まだ癒えない不安に揺れながらも、その瞳の奥には決して消えない決意の火が灯っていた。

 

 「わかった。それまで待ってるよ」

 

 俺が応えると、彼女は涙で赤みを帯びた目元を緩め、

 

 「うん……待ってて」

 

 雪解けのような穏やかな笑みを浮かべた。

 

 

 *

 

 

 ナァーザは先ほど、再生した右腕と完全回復薬の朗報をミアハに伝えるため、この場を後にした。

 祭りの後のような静けさが俺とデメテルを包み込む。

 

 俺は空を見上げながら、そろそろ帰るか、とそう思った矢先、

 

 「ねえ、夜」

 

 不意にデメテルから声がかかる。振り向くと、彼女は探るような眼差しを俺に向けながら、

 

 「貴方は元から知っていたの?──彼女たちが置かれた状況を」

 

 そう問うてきた。

 

 

 心臓がドクンと大きく跳ねた。

 俺は内心の動揺を悟られないよう努めながら、無言で続きを促す。すると彼女はこちらの思惑など知っているとばかりに語り始めた。

 

 「貴方が確立した回復薬の事業は、莫大な利益を生み出せるわ」

 

 完全回復薬の完成が現実となった今、その市場価値は初期の予測を遥かに超えて跳ね上がっている。

 

 「従来の回復薬(ポーション)よりも安価な材料で作製することができ、しかも設備は貴方なしでは再現できない。つまりは事実上の技術独占。……これがなにを意味するか、貴方なら理解しているわよね?」

 

 俺はただ頷くことしかできない。

 彼女の言うとおり、俺の魔法や知識を介さなければ、あの精緻な工程は成立しない。

 今、俺は富の源泉そのものを握っていると言える。

 

 「貴方が富裕層ならまだしも、【ヘスティア・ファミリア】はできたばかりの新興派閥。活動資金はいくらあっても困ることはないはずよ。それなのに貴方はその巨大な権利を彼女たちへ譲渡した。しかも【ミアハ・ファミリア】は商業系ファミリア、その中でも回復薬を扱っている」

 

 ──ああ、本当に彼女にはすべてお見通しのようだ。

 

 「正直、あまりにも出来過ぎているわ。不自然なほど完璧に」

 

 だろうな。俺も第三者の視点から見たらそう思う。おそらく、ミアハも薄々感づいているはずだ。ナァーザから報告を聞いたら、間違いなくデメテルと同じ結論に行き着くだろう。

 

 「だから思ったの。本当は、貴方は彼女たちを助けるためにこの事業を立ち上げたんじゃないかってね」

 

 ──ただの憶測だけどね、と彼女は茶目っ気を含ませて笑う。

 

 「ねえ、夜。どうしてそこまでして助けようとするの?」

 

 答え合わせを待つまでもない。彼女の中では、すでに俺の行動すべてが“一つの意図”で結ばれているようだった。

 

 「貴方は優しい。とても優しい子よ。そのせいで、自分が損をしてしまうほどに」

 

 俺との距離を詰めた彼女は、髪を梳くように優しく俺の頭を撫でる。

 

 「大丈夫? 一人で抱え込んで、苦しくなっていない?」

 「……ああ。大丈夫だ」

 

 俺はただ、俺がやりたいことをしているに過ぎない。そこに負担を感じることはないし、重荷になっているとも思わない。

 

 「本当に? 辛くはない?」

 「……ああ。辛くなんてない」

 

 辛いはずもない。画面越しでしか見ることが叶わなかった者たちと、今はこうして接することができている。そして、俺はそんな彼女たちの助けとなれているのだ。そこに充足感こそあれ、悲壮感などあるはずもなかった。

 

 「──貴方は今、幸せ?」

 

 その問いに、暫し考える。

 

 やがて、俺は流れる雲を見上げながら、確かな熱を込めて答えた。

 

 「そうだな……。今は、悪くない」

 

 不器用な俺の回答に、デメテルは優しげに微笑んで、

 

 「そう。それなら、よかったわ」

 

 彼女はそれ以上なにも聞かず、慈しむような手つきで、暫く俺の頭を撫で続けた。

 





 いつも読んでいただきありがとうございます。

 これにて原作前は一応終了になると思います。

 次回からはおそらく本編開始になります。どうぞよろしく!
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