自称“凡人”の人生譚   作:飢堕天

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31話 起死と回生

 

 

 

 「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

 

 

 走る。

 ただ、走る。

 

 薄暗い洞窟。

 天井より注ぐ淡い橙色に染まる通路をひたすら走る。

 

 あれからどれだけの時間が経過したのか。どれだけの距離を走り続けているのか。同じ景色が続く迷宮内では、その認識すらも陽炎のように曖昧にぼやけていく。

 

 ただ自身の命の刻限が砂時計のようにチリチリと崩れ去り、その度に心臓の鼓動は大きく脈打つ。

 

 (どうして……どうして、リリだけこんな目に──ッッ!!)

 

 小人族(パルゥム)の少女──リリルカ・アーデは、己に定められた運命を唾棄するかのように心の中で嘆き叫ぶ。

 

 深い深い巣穴のように暗闇に満ちた通路の奥は、まるで永遠と続くかのような錯覚を植え付ける。

 

 終わりの見えない逃走劇。

 摩耗する精神と肉体。

 

 

 ──『諦念』の二文字が脳裏をよぎる。

 

 途端、失われていたものが目覚めたように疲労感がドッと全身に襲い掛かる。

 

 泥濘(ぬかるみ)に足を囚われたように進行速度が一気に遅くなる。

 それでも薄汚い灰にまみれた外套を一心不乱に翻させながら、鉛のように鈍重になってゆく脚を懸命に動かす。

 

 

 (いやだ……、こんなところで死にたくない……っ)

 

 ドスン、ドスン。と、背後から鳴り響いてくる重圧的な足音に迫られながら、リリルカは残りの命を必死に振り絞る。

 

 

 ──ただ、生き延びるために。

 

 

 *

 

 

 ダンジョン六階層。

 通路を抜けた先にある小さな広間(ルーム)に、小柄な少女が転がり込んできた。

 

 「うぁ……ッ」

 

 まるで子供の遊具である(まり)のように軽々と宙を舞うその体は地面に数度打ち付けられてからようやく止まった。

 

 「ぅ……っ、つっ……」

 

 冷えた固い地面に殴打した箇所を押さえながら、掠れた呻き声を漏らす。

 

 ドスン、ドスン。

 

 ズルリ……ズルリ……。

 

 

 絶望を告げる足音と引き摺り音が静謐な広間に反響する。

 

 振り向くと、享楽に満ちた瞳で睥睨するミノタウロスの姿。

 まるで逃げ惑う蟻を追い詰めるように、その怪物はじわじわとリリルカに近づいて来る。

 痛みで蹲るリリルカを見て、その怪物は心底楽しそうに口角を吊り上げた。

 

 (逃げないと──っ)

 

 このままここに留まっていれば、待ち受けるのは確定された死のみ。

 リリルカは痛む体に鞭を打ち、なんとか立ち上がろうとする。だが、

 

 「──いっ……つ!!」

 

 左足のふくらはぎに猛烈な痛みが走り、カクンッと膝が折れ曲がる。見ると、深い裂傷が一文字に走り、真っ赤な血肉が露となっていた。

 

 「っ……そんなっ」

 

 リリルカの口から蚊の鳴くような声が漏れる。

 

 左足が使えない。起き上がるだけならまだしも、これでは走ることは不可能だ。

 

 今この瞬間、逃走の手段は絶たれた。

 唯一の対抗手段であった魔剣もここに来るまでに使い果たし、折れてしまっている。

 

 今のリリルカの手元には──なにもない。

 

 

 

 終わった。

 今度こそ、本当に終わった。

 

 

 

 もはや逃げる気力すら、リリルカの中には欠片も残っていなかった。

 

 フスゥー、フスゥ―ッ。

 

 荒々しい鼻息が真上から聞こえる。見上げると、ミノタウロスが血走った双眼でリリルカを見下ろしていた。

 

 「ぁ……ぁぁ……っ」

 

 透明な雫が目尻から零れ落ちる。まるで残りの生命が追い出されるように、涙が溢れて止まらない。

 

 全身の力はすでに抜け落ち、へたり込むしかない彼女はただ見上げることしかできない。

 抵抗する気力すら失せる絶望に顔から色は褪せ、全身が粟立つほどの底沼の恐怖に歯がカチカチと痙攣を起こす。

 

 「……いやぁ……っ」

 

 砂塵にまみれた少女はまるで幼子のように首を振る。

 

 けれど、怪物に彼女の願いは届かない。むしろ恐怖に震える彼女の反応を楽しむように、怪物は戦斧をゆっくりと見せつけるように持ち上げる。

 

 天高く持ち上げられた戦斧は、天井の燐光に照らされ紅く煌めく。へばり付いた血糊に、これから新たな赤色が彩られようとしていた。

 

 「あぁ……ぁあ……っ」

 

 少女は天を仰ぎながら口元を戦慄かせる。

 

 「誰か」

 

 誰にも届くことはないであろう小さな呟きが、少女の口からか細く漏れた。

 

 しかしその縋るような言葉を断罪するかのように、怪物は無慈悲に戦斧を振り下ろす──。

 

 

 (……誰か、助けて……っ)

 

 

 その時。まるで彼女の願いを聞き届けたかのように──。

 

 

 一陣の疾風が広間に迸った。

 

 

 *

 

 

 凄まじい衝撃音が広間に轟く。

 

 甲高い金属音が反響し、風圧が砂塵を(さら)って周囲に荒々しく波紋する。

 

 

 自身の身に訪れる死を覚悟して俯いていたリリルカ。けれど訪れたのは衝撃波と砂塵のみ。

 

 心臓の鼓動は未だ激しく脈打っている。

 全身に巡る血脈は未だ沸騰するかのように流動している。

 体温は未だ熱を持ち、死体のように冷えてはいない。

 

 

 いったいどういうことか。

 瞼を固く閉じたままでは状況把握すらできない。リリルカはおそるおそると視界を開けた。

 

 「────え」

 

 目の前にはあり得ない光景が広がっていた。

 

 そこには、こちらに背を向ける少年の姿があった。

 彼は深淵を彷彿とさせる黒一色の衣服に身を包み、刀一本でミノタウロスの戦斧を受け止めていた。

 

 「ふぅ……、危ねぇ」

 

 心の底から安堵したような声が彼の口から呟かれた。

 

 高くもなく低くもない声音。他の冒険者のような荒々しさはなく、どこにでもいそうな少年然とした声色。

 年の頃は十四、十五くらいのヒューマンの男の子。リリルカと同年代だ。

 

 そんな年端もいかない少年が今、自身の前に立ち、ミノタウロスの断頭から守ってくれた。

 

 

 「あなたは……」

 

 気づけばリリルカはそう言葉を零していた。

 

 彼女の声に反応した少年は、チラリと後ろを振り返る。

 髪色と同じ漆黒の瞳がリリルカの姿を捉えた。その瞬間、少年は僅かに目を見開いた。

 

 まるで「どうして?」とでも言いたげな彼の眼差しに、リリルカは小首を傾げる。

 

 数舜の間、いくつもの思いが入り混じる二人の視線が交差する。

 

 

 しかし、今この場にいるのは彼らだけではない。

 会話の猶予など与えてはくれない存在が一体、彼らの目の前に猛々しく佇んでいるのだから。

 

 「お──っ?」

 

 突然、少年が掲げる刀にさらなる重みが圧し掛かる。

 

 振り向けば、少年の胴体ほどの巨腕に太い血管を迸らせながら、ミノタウロスが膂力に任せて圧し潰さんとしていた。

 

 しかし、当の少年に焦りは見られない。むしろ、

 

 「流石の馬鹿力だな」

 

 口元に薄く笑みを浮かべると、ミノタウロスへ中指と人差し指をピッと突き出し、

 

 「【火球】」

 

 少年がそう呟いた瞬間。突き出された二本の指の先に拳ほどの大きさの火の塊が瞬時に生まれると、ミノタウロスの顔面に向かって放射され、

 

 『──ヴォオオッッ??!!』

 

 直撃した。

 

 ミノタウロスは突然の攻撃で体が後ろに逸れ、たたらを踏む。

 

 火の塊は容赦なくミノタウロスの顔面に燃え広がる。その熱量はミノタウロスにとって想定外であった。少し前に小柄な少女から受けたそれよりも威力が高かったのだ。

 

 燃え盛る火を掻き消そうと戦斧を手放したミノタウロスは、両手で顔面を払い回す。

 

 その内に少年はリリルカを抱きかかえて後方へと跳躍する。

 

 「きゃあ──っ!」

 

 ミノタウロスから十分な距離を取ると、少年は優しく彼女を地面へ下ろした。

 

 「怪我をしているな」

 

 少年はリリルカの体の状態を確かめると、彼女に手を翳し、

 

 「【治癒(ヒール)】」

 

 そう一言呟いたかと思えば、リリルカの体は紫色の粒子に包まれる。その光景は今の状況を忘れてしまうほどに幻想的で、

 

 「……綺麗」

 

 リリルカは思わずに呟いた。

 

 

 

 

 「……すごい。傷がすべて塞がっている」

 

 十秒とかからずに治療が完了した後、リリルカは自身の体を見て、傷がすべて治っていることに感嘆の息を漏らす。

 

 「あの……治療していただき、ありがとうございます」

 「どういたしまして」

 「リリは、リリルカ・アーデといいます。お兄さんは?」

 「俺はツクヨミ・夜。よろしく、アーデ」

 

 簡単な自己紹介を済ませると、夜はミノタウロスへと向き直る。

 

 「さてと、それじゃあアレは俺が対処するから、アーデはここで待っていてくれ」

 「え……、まさか夜様お一人で戦われるのですか?!」

 

 夜の単独戦闘を告げる宣言に、リリルカは反対の声を上げる。

 

 「あのミノタウロスは普通ではありません! おそらくは『強化種』……、一人で戦うのは危険です!」

 

 夜は彼女の訴えを聞き、ミノタウロスを観察する。

 

 ミノタウロスはようやく火を消し終えたようで、呼吸を荒々しく乱していた。

 

 強靭な肉体は簡単には損傷を受けないはずが、夜が放った【火球】一つで皮膚は所々が爛れ、真っ赤な血が滲み出ていた。

 それでも流石の耐久値といえよう。その損傷具合は魔剣よりも大きいというだけで、ダメージ自体はそこまでではない。

 

 

 しかし当のミノタウロスからしてみれば、この損傷具合は初めての体験だった。目の前の人間は、十分に警戒に値する。

 この時をして、ようやくミノタウロスの“闘争本能”が呼び覚まされた。

 

 血走った双眼には戦意が宿り、鋼のように強靭な肉体からは禍々しい殺気が滲み出す。

 

 

 (なるほど。確かに普通ではないな)

 

 目の前のミノタウロスを観察し終えた夜は、この怪物がリリルカの言う通り『強化種』であると断定する。

 

 しかし、ならば腑に落ちない点がある。

 

 この上層にミノタウロスが出現したということは、原作通りの展開──【ロキ・ファミリア】が逃がした──という認識で合っているだろう。

 だが逃げたミノタウロスは、いずれにおいても彼らによって討伐されていた。そしてなにより、その中に『強化種』など存在しなかった。

 

 

 ──“原作乖離”。その単語が脳裏をよぎる。

 

 

 (しかし、だとすると状況は芳しくない)

 

 

 今日は原作が開始する重大な日だ。

 【ロキ・ファミリア】が逃がしたミノタウロスにベルが追われ、絶体絶命のピンチにアイズ・ヴァレンシュタインが駆けつけ、ベルを助ける。

 この出来事(イベント)によってベルはアイズに惚れ、その想いがスキルとなって発現する。

 

 『憧憬一途(リアリス・フレーゼ)』。

 成長促進系スキルであり、ベルが英雄となるための切符(チップ)の一つだ。

 このスキルをきっかけにベルの物語が始まるといっても過言ではない。

 

 しかしその物語はたった今、目の前で音を立てて崩れ去った。

 

 (どうする……)

 

 原作乖離の引き金は、間違いなく夜自身にある。彼の存在が不安定な“未知”を生み出しているのだ。

 

 後悔と懺悔の想いが夜に襲い掛かり、早鐘を打つ心臓にはまるで握り締められるかのような痛みが走る。

 

 (俺のせいで本来訪れるはずの未来を消してしまった。ベルの物語を俺の手で──)

 

 思考がだんだんと無秩序に蠢く濁流へと呑み込まれてゆく。その時。

 

 

 【発動】──【比翼抱慕】

 

 

 スキルが発動し、精神が平静を取り戻す。

 

 (……いや、大丈夫だ。ベルには俺がいる。俺がなんとかすればいい)

 

 夜は乱れた心を落ち着かせると、こちらを睨み付けるミノタウロスを見やる。

 

 (今は目の前のやるべきことに集中するべきだ)

 

 【解除】──【比翼抱慕】

 

 先ほどまで【起動】していたスキルによる強化の効果を解除した。

 

 (彼女に頼ってばかりではいられないからな)

 

 夜は【ステイタス】に頼りすぎるのはよくないと考えている。

 技を鍛え、魔力を練り上げる。つまりは“自力”を磨くことを重要としているのだ。

 

 

 『ヴォォオオオオオオオオオオッッ!!!!!』

 

 ミノタウロスが洞窟を震撼させるほどの咆哮を上げる。目の前の殺すべき敵を威圧するように、あるいは微かに揺れる本能に鞭を打つように。

 

 気圧されるほどの威圧感に、夜の肌が粟立つ。目の前の存在は間違いなく怪物だ。その事実を理解する。

 

 ──しかし、漆黒のゴライアスほどではない。

 

 されど、

 

 【発動】──【比翼抱慕】

 

 スキルが発動し、『強制停止(リストレイト)』の効果を打ち消す。

 

 基本的に『強制停止』は格下にしか通用しない状態異常だ。つまり、

 

 (俺はこいつよりも下ということか)

 

 その紛れもない現実に、しかし夜は臆さない。

 

 「いいね。──殺り合おうか」

 

 むしろミノタウロスの殺意に応えるように、夜もまた獰猛に笑う。

 

 「【神速(カンムル)】」

 

 バチバチッ。その身に雷光を迸らせ、闘志を高めてゆく。

 

 

 睨み合う両者。静寂が訪れる。

 

 

 やがて地を砕く轟音を置き去りに、二者が火花を散らせて衝突する。

 

 

 開戦の銅鑼(ゴング)が鳴った──。

 

 

 

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