「——はぁ......ふぅ......」
呼吸を意識的に行い、体内に酸素を取り込む。
本来ならば意識せずとも出来る筈の呼吸すら難しい程に緊張と恐怖に身が焦がされる。
しかし、怖いからといって戦わないという選択肢は不思議と出てこなかった。
俺は戦闘狂というわけではない。
戦うこと自体は好きではあるが、だからといって戦うことがすべてだとか、戦いを愛しているといった「アマゾネス」のような特性は持ち合わせていない。
また、俺自身強くなりたいと強く思ってはいる。しかし、眼前の敵は明らかに常軌を逸している。いくら魔法が使えるからといっても勝てる見込みは薄いだろう。
少し前までは死にたいと思っていた俺だが、今はそう思わない。寧ろ、生きたいと思っている。生きて、生きて、生き延びて、自分のやりたいことをしたい。人生を最大限謳歌したいと思っている。
だから——今この場で取るべき最適解は間違いなく退避だ。
生き延びたいというのであれば、先程から警鐘を鳴らす生存本能に従って逃げることが正しい判断だ。
俺が一人であるならば——。
今の俺は一人ではない。
今の俺には一緒にいてくれる人が居る。
一人は友達だ。俺を見つけてくれて、行き場のなかった俺に善くしてくれたベル。優しくて、純粋で、少し頼りない部分はあるけれど、それでも大切な俺の友達だ。
もう一人は大切な人だ。出会いは決していいものではなかった。けれど、そこから共に同じ時間を共有して、一緒に笑って、一緒に落ち込んで、一緒に泣いた人。助けたいと思った。救うと誓った。一緒に居たいと願った。
俺にとって二人は何者にも代え難い存在だ。だからこそ、二人を守らなければならない。初めてできた失いたくないと思える人たちだから。死んでほしくないから、死なせたくないから。
だから——戦う。
たとえ無謀でも、無茶でも、怖くても。それでも戦う。
死ぬ怖さよりも、傷を負う怖さよりも、そんなものよりも俺は大事な二人を失うことの方が怖いから。
二人を失うくらいなら、俺は俺自身を死地へと送り込む。そうすることで2人の命が助かるのであれば、俺は喜んでこの命を散らそう。
だから怯むな。
全身を蝕む恐怖を理性で無理やり抑え込め。
恐怖で染まりそうになる脳を騙せ。恐怖を闘争心へと切り替えろ。
退くことは許されない。それは二人の死を意味する行為だから。
だから——戦うんだ。
*
戦える精神性へと切り替える為に、夜が自己暗示にも似たモノを自身にかけていたその時——眼前に佇んでいた巨狼の姿がブレる。
視覚では捉えることのできない程の速度。しかし、夜は魔力感知によって巨狼の前脚が左側から迫り来るのを何とか認識する。
夜は咄嗟に魔力で盾を形成して、迫り来る前脚と自身の身体の間に滑り込ませる。
「——っ! ぐふ......ッ!」
「ぇ?、ぁ......よ、夜っ!!」
「——ヨルッッ!!」
瞬間——夜の身体はまるで紙屑のように吹き飛ばされる。
「がはッ、ぐッ——」
無造作に生え並ぶ木々の隙間を通り過ぎ、身体が大地を跳ねる。
「——かはッ」
数度、大地を跳ねた後、木に身体が叩きつけられて漸く停止した。
「がはッ、ごほッ......」
——痛すぎる......ッ。
身体の節々が悲鳴を上げる。
内臓がやられたのか口から血を吐き出す。
咄嗟に魔力で肉体を覆ったことでダメージは軽減されたはずの夜の身体は、しかしそれでも何ヵ所か骨にひびが入ってしまっている。
身体中から感じる痛みが信号となって脳に刺激が送られる。
これまで幾度もモンスターや人間、凶悪な野生動物と戦闘を繰り広げてきた夜。しかし、どの戦闘においてもこれほどまでのダメージを負うことはなかった。
夜は初めて感じる痛みに苦渋で表情を歪める。
「ヨルッ!」
少しでも損傷を回復する為に治癒魔法を自身に施す夜。
そんな彼を呼ぶ声が上空から飛来する。
これまでに一度も聞いたことのない悲鳴にも似た呼び声に、夜は上空を見上げる。すると、セレンが血相を変えてこちらに向かって来ているのが夜の視界に写った。
「夜っ!」
今度は別方向からまたしても夜を呼ぶ声が聞こえる。
夜がそちらに顔を向けると、顔を青褪めさせながら必死に夜の下へと駆け出すベルの姿。彼は目に涙を浮かばせ、恐怖の余り覚束ない脚を懸命に走らせているベルの姿は、傍から見れば滑稽に映るかもしれない。
そんなベルの姿を見て夜は不謹慎ながらも少しだけ心に余裕が生まれる。しかし、それは一瞬のことで、今度は夜が血相を変えながらベルの名を叫ぶ。
「ベルッ!」
ベルの後方で巨狼が動き出すのが夜の視界に入った。
《神速》ッ!
夜は最速でベルの下へ向かうために、《神速》を発動する。
バチバチッ、と雷が夜の身体に鳴り迸り、身体能力が強化される。
雷の付与魔法と身体強化魔法を併せたこの魔法により敏捷能力が格段に引き上げられる。
更に、魔力を足裏に圧縮させる。
これまでに培ってきた魔力制御によって、圧縮させる速度と用いる魔力量は共に飛躍的な向上を果たしている。
極限にまで圧縮された魔力を解放する。
瞬間——大地が爆発したかと思うと、夜の身体は電光石火の如き速度で瞬く間にベルの下へと到達する。
しかし、到達したのは夜だけではない。巨狼もまたベルを挟んで向かい側にその巨体を覗かせていた。
「っ、くそっ——」
死の宣告を彷彿とさせる巨大な影がベルに覆いかぶさる。
「セレンッッ!!」
ベルの体長ほどの大きさの巨脚がベルの命を刈り取ろうと振るわれる様が夜の視界に写り込む。
直撃すれば確実に重傷へと齎すだろう強撃。
夜は反射的にベルの襟を掴むと後方にいるセレンへ投げ飛ばそうと行動に移す。しかし、セレンの下まで投げ飛ばすには膂力が足りていない。
そこで、夜は魔力を腕へと流すことで腕力を重点的に強化する。
強化を施した腕力を以てして投げ飛ばされたベルは、弧を描きながら吸い込まれる様にセレンの下へと向かう。
ベルを後方へと投げ飛ばしたことで、巨狼に背を向ける形となった夜。
しかし、魔力感知によって360度認識できている夜は迫り来る巨脚を正確に捉える。
刹那の間で、回避することは困難だと結論付けた夜は、瞬時に横に飛び退く。
「——ぐっ」
瞬間、巨脚の重撃が夜の身体を容易く吹き飛ばす。
しかし、予め右側面の防御力を強化し、尚且つ進行方向に飛び退いていたことによって、夜は衝撃を幾許か緩和させることに成功する。
緩和したと言ってもダメージは確実に受けている。しかし、一撃目よりは軽減されており、木に叩きつけられる前に態勢を整えることが出来たことも相まって重傷には至らずに済んだようだ。
「............ふぅ」
夜は重々しい息を静かに吐き出す。
乱れた精神を整えるための簡易的な儀式。
夜の心臓はこの短時間に連続で行われた命の攻防によって破裂寸前だ。
加えて脳に酸素が十分に巡り回っていない。息つく暇がない程に刹那の感覚による攻防であったため、夜は十分に酸素を取り込めていなかった。
そのための先程の深呼吸。
呼吸によって身体中に血を巡らせ、酸素を送る。
少しずつ落ち着いてきた思考で状況の確認を行う夜。
しかし警戒は決して怠らない。
魔力感知でも完全には捉えきれない相手を前に油断することなく、眼前の巨狼を見据える夜。
この戦いはコンマ数秒で状況が左右する世界だ。故に、夜は状況確認の為に脳をフル回転させつつも、巨狼の一挙手一投足に神経を研ぎ澄ませる。
第一優先はベルとセレンをこの場から逃がすこと。
二人を守ると誓った夜だが、今の自身の実力では守りながらの戦闘は不可能だと結論付ける。その事実にどうしようもない程の無力感に苛まれるが、今は自身の感情よりも二人の生存を優先すべきだと瞬時に意識を切り替える。
「グルルルルル......ッ! ——ガアァァアアアッ!!」
「ちッ——!」
巨狼が大地を蹴る。
それだけで踏み締められた大地は陥没する。
常人には捉えることの出来ない俊足を以てして駆ける巨狼は、瞬きの間に夜の眼前にまで迫る。
本来であれば到底対応できない程に刹那の展開。しかし、対応するのは常人を逸している夜。彼は《魔力感知——決戦演算(グラディエイト)》による戦闘に特化させた感知能力と、《神速》による限界以上に引き上げられた反応速度を以てして眼前に迫り来る災厄に対峙する。
短剣程の長さのある鋭利な牙が夜を喰い殺そうと殺意を向ける。
その急襲を飛び退くことでギリギリ回避する夜。
夜は確かに常人離れした力を持っている。しかし、相手は更にその上を行く怪物。魔法によって極限にまで強化した夜ですら回避するのがやっとの状態。
休む間もなく、夜の身に更なる猛攻が殺到する。
限界を超えた反応速度を以てして、視界で交錯する爪閃をギリギリで躱す。
夜の額に汗が滲み出る。
止め処なく襲い来る、命を刈るその攻撃に脈打つ心臓が悲鳴を上げる。
このままでは埒が明かない。
そう判断した夜は、視界で捉えた尖刃を跳躍することで回避すると同時に距離を取る。そして、着地すると同時に地面に両手を突き魔力を流す。
《泥沼》ッ!
突如として巨狼の足元が泥濘と化す。
「ギャウゥ——ッッ?!」
突然のことに巨狼は動揺を隠せない。
そのまま足が泥沼へと沈み込み、絡め取られる。
しかし、夜の急襲は止まらない。
「ちっとばかり籠ってろッッ!」
《土天蓋》ッ!
瞬間、夜の魔力に呼応する様に大地が隆起したかと思えば、瞬く間に巨狼を覆い尽くす。
「......それなりに魔力を消費したから、数十秒は持つだろ......」
相応の魔力を消費したことで作り上げた巨大な土の天蓋。
相手が単なるモンスターならば出ることは不可能。しかし、相手は災厄と言うに相応しい異質な怪物。
突破されるのは時間の問題だ。
「......今のうちに二人を逃がす」
しかし、二人を逃がすだけの時間は稼ぐことが出来る。
予定通りこの場から二人を逃がす為に、夜は巨狼を閉じ込めた天蓋に視線を向けたまま、遠くから不安そうに此方を伺っている二人に言葉を投げる。
「ベル、セレン、今のうちに家に向かって全力で走れ」
夜の静かな声が辺りに木霊する。
決して大きくはないその声は、しかしすぅと二人の耳まで届く。
「......夜はどうするのっ?!」
「俺はあいつの足止めのためにこの場に残る」
「そんなっ! 夜も一緒に逃げようよっ!」
「俺まで逃げたら誰があいつを止める」
「っ、それは......」
「今この場にいる中であいつを何とか出来るのは俺しかいない。だからお前たちは先に行け」
「でも......夜を一人置いていくなんて......」
「............はぁ、大丈夫だ」
「——えっ?」
「俺には魔法がある。だからこの程度の敵、すぐに倒してお前たちの後を追うさ」
「......本当に?」
「あぁ——」
夜は二人に振り返る。
ベルの深紅の瞳が夜の漆黒の瞳と交差する。
不安で瞳孔が揺れるベルの瞳は、覚悟を宿した夜の瞳を視界に移す。ベルはその瞳を見て思わず喉を鳴らす。
どうしてそこまで強く意思を持てるのか。
自分の背丈を大きく上回るあの巨体を目の前にして怖くはないのか、そう思ったベルだったが、その認識は間違いだったとすぐに気づく。
——震えていた。
夜の心情に呼応するように腕は小刻みに震えており、拳はその震えを抑える為か強く握り緊められている。
怖くないわけがなかった。
誰よりも絶望を目の前にしたのは夜だ。
誰よりも恐怖を一身に浴びていたのは夜だ。
怖くないわけがない。
寧ろ......誰よりも怖いはずだ。
それでも夜は戦おうとしている。
ベルたちを逃がすために——。
それを果たして誰が止められようか。
いや、誰も止めることなどできはしない。
覚悟が違う。
恐怖に打ち震える中、それでも立ち上がり、武器を手にした夜は誰よりも覚悟を示していた。
「............分かった」
夜の覚悟を感じ取ったベルは、自分が何も出来ないもどかしさに拳を握る。
ベルは薄々気づいていた。今この場で自分たちは夜の足を引っ張っているだけだと。
だからベルは頷く。それが今この場で自分に出来る精一杯なのだと噛み締めて。
「——ベル」
ベルの心情を正確に読み取った夜。
自分とどこか似ているベルに共感を覚えた夜は彼の名を呼ぶ。
ベルは俯いていた顔を上げると、どこか堪えている表情を夜に向ける。
「セレンを頼んだぞ——」
たった一言。そう呟いた夜。
ベルはその一言を聞いて目を見開く。同時に、先程までの情けなさが鳴りを潜め、男の顔へと変化する。
夜の真剣みを帯びた表情が、信頼の証だと感じ取ったベル。
二人の間で確かなやり取りをした後、ベルはセレンへと視線を移す。
「......セレンさん、行きましょう」
「......ハイ」
短く言葉を交わした二人は、夜に背を向けて走り出す。
その姿を確認した夜は、再び天蓋へと目を向けようとする。しかし、そんな夜にセレンが声を掛ける。
ベルの家へと向けていたその足を一度止めると、夜へと振り返るセレン。
「セレンさん?」
セレンの行動に首を傾げるベル。
しかし、そんなベルの様子を気にもせず、セレンは夜に言の葉を紡ぐ。
「......お気をツケテ」
「——!......あぁっ」
その一言だけを紡いだセレンは、再び背を向けてその羽を走らせる。
もしかしたら、この場で最も苦しいのはセレンだったかもしれない。
セレンにとって、夜は大切な人だ——それも特別に。
そんな特別な存在である夜が危険な役を引き受けようとしている中、何も出来ない無力感は想像以上に苦しいだろう。
大切な人を失うかもしれない恐怖。
それが彼女の心を苦しめる。
しかし、誰よりも夜を想うセレンは彼のために自分の心を押し殺す。
自分がこの場から退避することこそが夜の為であることを理解しているから。
セレンにとって最も重要なことは夜が生きてくれること。
夜が生き方を教えてくれた。生きる意味を与えてくれた。
だから......セレンは考える。
たとえ夜を裏切る行為になってしまうのだとしても——それでも彼を生かすために自分の命をどう使うべきなのかを。
*
さてと、これで漸く目の前の怪物だけに集中できる。
二人に被害が及ばないように意識を分散させながら戦闘をしていた俺は、散漫な注意を一点に集中出来る様になったことに安堵の息を漏らす。
正直、巨狼にのみ意識を割けるからと言って優劣が傾くわけではない。しかし、周囲に気を配る必要が無くなったので戦いやすくなったのは紛れもない事実だ。
「グルルルル......」
「......相変わらず俺に向ける殺気が尋常だな」
目の前でこちらを睥睨する巨狼は、なぜか俺だけには異様に敵意を向けてくる。
ベルたちにはここまでの殺意は抱いていなかった。
しかし、俺に対しては大気が歪んで見える程に濃厚な殺気がその身から漏れ出ている。それほどの殺気を浴びている俺は、正直意識を保つのでさえ一苦労だ。
なぜここまで殺意を向けられているんだ。
俺がこいつの気に障るようなことをしたなら話は別だが、遭遇した段階で既にこの状態だったため、理由が分からない。
以前に遭ったことがある?
いや、それはない。もし遭っていれば、流石に覚えている。というより、遭遇した場合生きて帰れるかすら怪しい。
となれば、やはり初対面か......いや、ちょっと待て......。
俺は巨狼の右目の傷跡に目を向ける。
既視感がある。
俺はその傷跡を見てそう感じた。
右目の傷跡......。
俺は記憶の海へと身を投じる。
右目の傷跡、モンスター、四足歩行、火炎放射......。
巨狼の特徴を頭の中で列挙しながら、整合性のある記憶を探し出す。
——あ、思い出した。
見つけ出した記憶の中のモンスターと巨狼の姿が重なる。
しかし、明らかに違う点がある。
でかすぎる......。
そう、でかすぎるのだ。
俺が記憶から漁り出したモンスターとは数か月前にベルを襲っていたヘルハウンドだ。
ヘルハウンドは四足歩行のモンスターで、口から火炎を放つのが特徴だ。ベルを襲っていたヘルハウンドは火炎を放つことはなかったけど......。
しかし、四足歩行の狼のような見た目をした口から火炎を放つモンスターは、俺が知る限りではヘルハウンド以外に該当するモンスターはいない。
そして何より、こいつの右目の傷跡。
ベルを襲ったヘルハウンドは俺が投擲した氷槍によって右目に傷を負った。そして、俺と対峙している巨狼もまた右目に傷を負っている。
右目に傷跡のあるヘルハウンドが何体も居れば断定は出来ないが、その線は薄い。
となれば、この巨狼があの時のヘルハウンドということになるんだが......もしそうならば、気になるのが体躯の大きさだ。
考えられる可能性は一つ——『強化種』。
強化種とは、モンスターの魔石を喰らい、能力や知恵が強化された個体のことだ。
目の前の巨狼は明らかに強化種だ。そうでなければ説明がつかない。
しかし、強化種とはここまで異質なのか。そんな疑問が脳裏に生じる。
何が異質なのか、言葉で説明することは難しい。
確かなことは、俺の「直感」が目の前の怪物を異質と断定していること。
「——ルオオオオオオオッッ!!」
巨狼の雄叫びが耳を劈く。
「ぐっ——......身体が動かない......ッ!」
巨狼の雄叫びが齎した被害は聴覚ではない。
むしろ、その程度些事にも等しかった。
——咆哮(ハウル)。
一定の個体だけが有する能力。
その効果は「強制停止(リストレイト)」。文字通り、強制的に動きを停止させる、強者にのみ許された絶対的力。
骨の髄まで蝕む程の圧倒的な恐怖が咆哮となって俺を喰らう。
この短時間で何度も味わった身を焦がす程の絶望感。
全身の細胞が悲鳴を上げる。
——クソッ!
俺の精神を苛もうとする恐怖に理性が抵抗する。
怯えている余裕などないと生存本能が警鐘を鳴らす。
動け!
大地が爆発する轟音が聴覚を支配する。
動けッッ!!
歯向かう意思を持つ事が愚かと感じる程に隔絶した重圧感のある巨脚が視覚を支配する。
動けッッッ!!!!
凶刃が純然たる殺意をのせて俺の生命を刈り取ろうと触覚を支配する。
動けぇぇえええええええええええ——ッッッ!!!
——瞬間、俺の生存本能が烈火の如く猛り狂い、全身を蝕む恐怖を喰らい嬲る。
身体から重圧感が消え、自由を取り戻す。
同時に——直感が迫り来る死を報せてくる。
——死。
確かに感じた生命の終わり。
その瞬間、世界の時の流れが緩慢と化す。
迫り来る凶刃が輪郭に至るまではっきりと見える。
時間の感覚が引き延ばされる中、俺は咄嗟に足裏から炎を放出し、その場から離脱する。
「——はぁ......はぁ......はぁ......」
地面に着地した俺は、心臓から這い上がる空気を必死に外へと吐き出す。
......危なかった。
少しでも離脱するのが遅れていれば確実に重傷を負っていた。
いや、最悪死んでいた可能性だってある。実際、死んだと思った。
「はぁ......はぁ......——ふぅ」
俺は息を整えて、心を落ち着かせる。
落ち着け、俺。
荒れる心臓の鼓動を沈めながら自分に言い聞かせる。
とりあえず死は避けられた。
だが、これで終わりではない。ただ、一度回避しただけ。
そして、ただ逃げ回っているだけでは意味がない。
俺の目的はこいつを殺すこと。
ただ逃げて、躱してでは一生その目的は達成されない。
——殺すためには戦え。
俺は意識を切り替える。
闘争本能を喚び覚まし、強制的に戦闘態勢へと入る。
——武器を持て。
俺は腰に携えた刀を抜く。
恐らく巨狼の表皮は相当に厚いはずだ。ただの武器では刃が通らない可能性がある。
俺は刀に魔力を注ぎ、切れ味と強度を増していく。
——覚悟を決めろ。
今一度自身に問いかける。
なぜ戦うのか。
決まっている——大切な人を守るため。
そのために俺は戦う。
だから覚悟を決める。
だから——お前は俺が倒す。
「——ガァァアァァアッッ!!」
ヘルハウンドの代名詞とも言える火炎が空気を焼き焦がしながら俺に向けて放出される。
あまりの熱量に俺は目を細める。
口から放出された段階で既に火傷してしまいそうな程に熱い。
直撃すれば一溜まりも無いため、俺は跳躍することで回避する。
空中に退避した俺。
しかし、相手はヘルハウンドの強化種。単純な跳躍力は俺とは比較にすらならない。
大地を揺るがす爆発音と共に巨狼はその強靭な脚を以てして跳躍すると、一直線に俺目掛けて凶刃を振るう。
俺は静かに口角を上げる。
「......空中戦なら俺に分があるぞ」
俺は飛行魔法を駆使して凶刃を躱す。
避けられると思っていなかったのか、巨狼は目を見開く。
まさか飛べるとは思いもしなかったんだろう。
人間だって努力すれば空も飛べるんだよ。
攻撃が空振りに終わった巨狼は重力に従って地上へと下降している。
空中落下している巨狼を見た俺は、今がチャンスだと攻撃態勢へと転じる。
《火球》
空中に幾つもの火の球を生み出す。
俺は火力を高める為に注ぐ魔力量を増加させる。加えて、威力を増加させる為に、魔力注入と同時に《火球》を圧縮する。
限界にまで仕上げた《火球》を未だ空中落下している巨狼に向かって放つ。
全弾命中。
鋭い爆発音が辺り一帯に響き渡る。
爆発によって生じた余波が熱を伴って押し寄せてくる。
眼下には煙が舞い、巨狼の様子は伺えない。
しかし、巨狼が生きていることは魔力感知が報せてくる。
「......まぁ、この程度で死ぬとは思っていないが......」
数秒後、煙が大気へと溶けていき、眼下の様子が視界に写る。
そこには、毛先が焦げた程度で大した損傷は見受けられない巨狼が俺を見据えながら佇んでいた。
「......まじか」
多少の火傷は負っているだろうと楽観視していた俺は、ほぼ無傷の状態である巨狼を見て認識を改める。
どうやら防御力は俺が思っている以上に高いようだな。
しかし、本当にそれだけか?
先程俺が放った《火球》はそれなりの火力だった。それこそ、Lv.3程度であれば全身焼け焦げてしまう程だ。
その《火球》を受けてもほぼ無傷。
巨狼がLv.5程度なのであれば無傷なのも納得できるが、こいつがアイズたちと同程度ということはあり得ない。もしそこまで強いのであれば、俺は今頃確実に死んでいるはずだ。
つまり、こいつが無傷な理由は単純に防御力が高いというだけではない。
何かある。そう思った俺は目を凝らして巨狼を観察する。
............なるほど、そういうことか。
巨狼の全身を隈なく観察した。
観察した結果、巨狼は魔力耐性が非常に高いことが分かった。
魔力耐性とは、文字通り魔力に対する耐性を意味する。
魔力耐性が高い原因は、漆黒の毛皮だ。
観察した結果、巨狼の毛皮は魔力を帯びていることが分かった。
恐らく、その魔力が魔法を阻害している。その結果、魔法の威力が減殺されたと考えられる。
しかし、これが事実なら厄介だ。
何しろ、大半の魔法は意味がないということになる。
魔法が主力の俺にとっては非常にやりづらい相手だ。
魔法が効きづらいのであれば、近接戦闘で挑むしかないか。
いや、その前にまずは俺の推察が事実か確かめるべきだ。
巨狼の魔力耐性が高いというのは俺の推察でしかない。だから検証して事実確認を取る。
俺は再度《火球》を発動する。
今回は指先に一つだけだ。
火力に関しても、先程と同レベルに調整。
調整し終えた俺は、巨狼に向かって放つ。
「——は?」
......避けなかっただと?
俺が放った《火球》は巨狼に着弾。
しかし、巨狼はそもそも避ける素振りすら見せなかった。
......まさか、さっきので自身に通用しないことを理解したのか?
だとしたら、こいつの知能は相当高いことになる。
確かにこいつは強化種となって知能も上がったのかもしれないが......これは認識を改める必要があるな。
知能を持った生物ほど厄介なものはない。
おまけに、検証の結果、こいつは魔力耐性が高いことが判明された。
高い知能を有し、魔力耐性まである。
この上ない程に厄介な相手だな......。
だが、やるしかない。
それに......魔法においても全部が全部、通用しないわけではない。
現に《泥沼》は効果を発揮していた。
つまりは、使い方ってわけだ。
ここから先、効果が薄そうな魔法は使用しないでおこう。
でないと魔力の無駄遣いになってしまうからな。
「......ふぅ、いくぞ」
俺は足裏から高出力の炎を放出する。
炎の推進力と飛行魔法による最高速度を以てして巨狼へと急襲を仕掛ける。
急降下する俺に合わせて、巨狼は口内に魔力を収束させていく。
火炎放射か......。
巨狼の狙いを察した俺は、速度を緩めることなく重力に沿って加速していく。
「——ガァァァァアアアッッ!!」
火柱が俺に向かって昇り迫る。
俺は勢いそのままに身を翻すことで紙一重で回避する。
巨狼の眼前にまで迫った俺は刀で斬りかかる。
しかし、その急襲はいとも簡単に回避されてしまう。
この程度の攻撃は簡単に避けられるよな。
回避されることを予想していた俺は、取り乱すことなく次の攻撃へと転じる。
大地を蹴り飛ばし、再度斬りかかる。
巨狼もまた大地を踏みしめようと身体を沈める。
《泥沼》
巨狼の足元に泥濘を発生させ、動きを阻害する。
巨狼は抜け出そうと藻掻くが、沈みゆく足が泥に絡み取られて思うように動けないでいる。
「——っ!」
巨狼から魔力の高ぶりを感じる。
泥沼から抜け出せないと判断して、火炎放射へと切り替えたか。
だが、それは悪手だ。
巨狼の行動を予測していた俺は地面に魔力を奔らせる。
巨狼の魔力が口内に収束されていき、炎の渦が巻き起こる。
——今っ! 《土槌》ッ!
「ガァァアア————グゥッ——ッ?!」
今にも火炎を放出しようと口を大きく開けた巨狼の真下から巨大な槌を生成して顎へと打ち上げる。
火炎を放出しようとしていた巨狼の口が突然閉ざされる。
出口が閉ざされたことで行き場を失った炎の奔流が巨狼の口内で爆ぜる。
ボォォンッッ!!
大気が震える程の轟音が巨狼の口内で爆発する。
「......魔力耐性があるのはあくまでも毛皮のみ。流石に口内に耐性はないだろう」
毛皮にのみ魔力耐性が張られていることは先程観察して知っている。
口内は火炎の生成場所な為、ある程度の耐性はあるのだろうが毛皮程ではないだろう。
おまけに巨狼の火炎放射は高火力。
よって、今の自滅は相当な効果を発揮するはず。
煙に巻かれる巨狼を見据える。
魔力感知にて巨狼の動きを把握しながらも構えは決して崩さない。
少しの油断が命取りになるため、確実に殺して安全が確保されるまでは一寸の慢心もしない。
煙が少しずつ晴れていき、巨狼のシルエットが浮かび上がる。
「——グルァァァアアッッ!!」
「——ちッ!」
煙の幕から突如として巨狼が這い出てくる。
迫り来る凶刃を刀によって受け止める。
しかし、膂力に押し負けて吹き飛ぶ。
「ぐッ——」
転げざまに身体を起こして態勢を整える。
「ガァァアアアアッッッ!!!!」
巨狼の猛攻が縦横無尽に襲い掛かってくる。
鋭利な牙と爪を駆使した猛攻に俺は刀を用いて何とか捌く。
しかし、余りの強襲に対応しきれずに少しずつ損傷を負っていく。
少し掠めるだけでも痛みを伴う傷となるその乱撃が息つく暇もなく俺の命を刈り取ろうと殺意の牙を剝く。
......どうなっているッ?!
巨狼の猛攻撃を対応しながらも、俺の思考は巨狼の現在の状態へと向いていた。
自身の火炎によって自傷したと思っていた口内には一切の損傷が見受けられない。
もともと損傷などしていなかったのか?
いや、その可能性は限りなく低い。
俺の《火球》ですら魔法耐性のある毛先が焦げる程度の損傷を与えられていた。
巨狼の火炎放射は、俺が放った《火球》よりも火力が高い。そして、ダメージを受けたのは口内。
それらを加味すれば、損傷を受けていないのはおかしい。
だが一つだけ、その理由に思い当たるものがある。
それは——再生能力。
巨狼は右目に傷跡が残っていた。しかし、眼球は機能していた。俺が放った氷槍は確実に眼球まで抉っていたはずだ。
それなのに、こいつの眼球は機能している。その時点で、巨狼には再生能力が備わっているのではないかと予想はしていた。
しかし、確証は得られていなかった。
だが、今回のことで確信した。
こいつは——再生能力を有している。
......くそっ、どうする。
高い知能と魔法耐性に加えて再生能力までも有するモンスター。
こんな化け物をたった一人で相手するのは正直厳しいぞ。
どうすればいい。
どうすれば倒せる。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
考え——
突然、足がぐらつき体勢を崩す。
あっ、やば——。
思考に意識を割き過ぎた俺は、陥没していた地面に気付かずに足を掬われる。
均衡を失った俺の身体が背後へと倒れ込む。
眼前の巨狼の双眼が怪しく光る。
瞬間、巨狼の姿がブレたかと思うと、今度は俺の視界がブレる。
「——ぐふッ......?!」
重量を感じさせる衝撃が俺の身体を打ったかと思うと、現実に対する認識が定まらないままに俺の身体は地を跳ね飛ぶ。
「——がは......ッ!」
数度地を跳ねた俺の身体は、巨岩にぶつかることで漸く止まる。
しかし、勢いの余り、衝突時に肺の空気が吐き出される。同時に強烈な痛みが脳へと危険信号を報せる。
「っ、がはッ......ごほッ......」
喉を這い上がる血が俺の意思を介さずに吐き出される。
まともに防御を固める間もなく殴り飛ばされた為、ダメージが尋常ではない。
身体中に激痛が走り、痛覚が叫喚する。脳が身体の危険信号で埋め尽くされ、思考が碌にできない。
全身の骨が折れている。
幾つもの内臓が損傷している。
全身の神経系が機能を停止している。
たったの一撃。
まともな抵抗をしなかっただけで、俺の身体は瀕死の重傷へと陥った。
身体が動かない。
まるで俺の意思を拒絶しているかの様にピクリとも動かない。
動かそうとする度に全身に激痛が走る。
何とか機能している聴覚を重音が刺激する。
大地を踏みしめる音だと理解した俺は、何かが俺に近づいてきていることを悟る。
しかし、未だに意識は点滅を繰り返し、正常な認識ができない。
音が次第に大きくなる。
耳を介して脳に響き渡る重音が、まるで余命宣告の様に死を感じさせてくる。
生存本能が俺の意思に反して肉体に信号を電信する。
意識が朦朧とする中、痛みに嘆く身体を何とか起こして視線を音源へと向ける。
そうして——漸く脳が現実を認識する。
怪しい光を灯した双眼が俺を見つめている。
巨狼の漆黒の毛が逆立ち、溢れ出る殺気が俺の肌を刺激する。
この危機的状況を打開しようと思考が限界まで稼働する。しかし、反して身体は動かない。
無理だと悟ってしまった。
俺では勝てないと、所詮は児戯に過ぎなかったのだと、そんな思考が脳裏を過り、次第に戦闘意欲を蝕んでいく。
身体に重力が圧し掛かる様に重くなる。
疲労や倦怠感が突如として身体を犯す。
恐怖と絶望が精神を蝕んでいく。
麻痺していた感覚が、思い出したかのように俺の身体を襲う。
そんな混沌の渦に身を堕とした俺に見せつけるかの様に、眼前の巨狼はゆっくりと巨大な前脚を上げる。
俺の命が終わる。
その事実に肌が粟立つ。
巨狼の前脚が俺の命を刈り取ろうと迫り来るのを視界に収めながら......
——あぁ、死にたくない。
死を直前にして、漸く俺の意思が死を拒絶する。
しかし、もう遅い。そう思った時——
「——ヨルッッ......!!!」
聞き覚えのある、しかし決して今聞くはずの無い声を耳が拾う。
「——え?」
次の瞬間、浮遊感が俺の身体を支配した。
突然の状況変化に戸惑う意識の中、宙に浮かぶ俺は声のした方へと顔を向ける。
——なんで、セレンがここに......。
俺が視線を向けた先には、セレンの姿。
両羽を突き出すようにこちらに向ける彼女は、安堵の表情で俺を見ている。
未だ困惑する中、本能的に状況を理解する。
それと同時に、これから訪れる結末が瞬時に脳裏を過るが、理性がその結末を拒絶する。
だがしかし、現実は俺の想像をなぞる様に結末が描かれる——。
血飛沫が宙を舞う。
俺の視界が鮮明な赤色で染まる。
時間が引き延ばされた感覚を齎す意識の中、その血がセレンのモノであると視覚を通して理解する。
「——ぇ......あ......——ぐッ」
現実を拒絶したい俺の思考が渦巻いて定まらない。
セレンによって突き飛ばされた俺の身体が地を転げる。
俺は慌てて状態を起こし、セレンに視線を向ける。
視界に写るのは、笑みを浮かべて俺を見るセレンの姿と、鋭利な牙を覗かせる口を最大限にまで広げた巨狼の姿。
「ッ! セレン——」
「ヨル」
状況を理解した俺は、セレンに「逃げろ」と伝える為に咄嗟に口を開く。しかし、セレンによって遮られてしまい、先の言葉を飲み込んでしまう。
セレンの笑みが深みを増す。目尻を下げ、口元を綻ばせ、頬に桜を灯す。
危機的状況にあるこの瞬間には不相応な相好。しかし、状況に反して彼女の花が咲いたような綺麗な笑顔が俺の脳裏に刻まれる。
「——ヨル、ワタシは......」
彼女の言葉が耳朶を刺激する。
普段は心地良いと感じるそれは、今は酷く胸が騒つく。
聞きたくない。
本能的に彼女の言葉を拒絶する。
その先の言葉を聞いてしまえば、何かが明確に終わってしまう。そんな漠然とした予感が全身を駆け巡る。
彼女の言葉の先を聞きたくないと俺の理性が拒む。
しかし、笑みを湛えた彼女は——俺を縛り付ける言葉を紡ぐ。
「——アナタを愛しています」
「............ぁ、まっ——」
気付けば地を蹴っていた。
彼女の下へ足を走らせ、手を伸ばす。
しかし、その行動は遅すぎた——。
グシャッ、と何かが潰れるような、嚙み砕かれるような音が鼓膜を揺らす。
巨狼がセレンの胸部から上を喰らう光景が目に入る。
視界に入る現実を脳が拒絶する。
目の前で起こる惨状を否定する。
拒否反応が全身へと伝播するが、目の前の絶望は終わらない。
巨狼が上体を起こした時——そこにセレンの胸部から上はなかった。
「......あぁ......ぁぁっ、セレン......ッ!」
俺はセレンへと駆け寄る。
セレンの傍には口を血で濡らした元凶が佇んでいるが、今は視界に入らない。
両目から溢れ出る涙で視界がぼやけながら、俺はセレンだけを視界に捉えて走る。
「セレンッ......!」
セレンの身体がこちらに傾くのを滑り込んで何とか受け止める。
受け止めたセレンの身体には顔が無かった。
千切れた両腕が地に転がっていた。
切断面から魔石が顔を覗かせていた。
溢れ出る血が俺を濡らしていく。
抱く彼女の身体からは、心臓が脈打つ鼓動が感じられない。
俺は必死に治癒魔法を彼女に施す。しかし、治る気配はなく、徐々に彼女の身体は灰となって崩れていき......気付いた時にはその場には彼女の魔石だけが残っていた——。
セレンが死んだ。
セレンが、死んだ。
セレンが......死んだ。
セレンが——死んだ。
*
「——あ、あぁ、ぁあァァアアァアアアッッッ——!!!!」
夜の喉が張り裂ける程の叫喚が大気を震わせる。
同時に、夜の全身から魔力が解放される。解き放たれた魔力は空間を歪ませ、周囲の空気を重くさせる。
魔力に帯びた殺気を浴びた巨狼は、過去に一度だけ感じた恐怖が再来し、咄嗟にその場から飛び退く。
数秒後、ようやく夜の魔力が鎮まる。
果たして、そこに居たのは双眼に殺意と復讐心を孕んだ獣だった。
「《神速》」
夜の口から紡がれるのは魔法の名。
全身に雷は迸り、夜の身体能力が強化される。
「《魔力感知——決戦演算》」
夜を中心として球体状に魔力が形状化されていく。
「《強化》」
両の手に握る刀に魔力を流し、強化を施す。
より強度が増し、より切れ味が増す。
「......フゥー」
下準備を終えた夜は、一度息をゆっくりと吐き出す。
一見隙に見えるその動作。しかし、対峙する巨狼は動く気配を見せない。
先程夜が放った魔力覇気が、未だに巨狼の脚を地に縫い留めていた。
一呼吸を終えた夜は、光を失った、何処までも暗い闇を双眼に宿して巨狼を見据える。その視線を受けた巨狼もまた、殺意を双眼に孕ませ、夜を睥睨する。
互いの純度の高い殺気が衝突し、放電を起こす。
両者が動くことなく数秒が経過した頃......突如として大地が爆ぜる轟音が二カ所からほぼ同時に鳴り響く。
巨狼の凶刃と夜の刀が衝突し、甲高い音が森に反響する。
しかし、膂力差によって夜は圧し負け、足が地面から離れる。
宙に浮き、明確な隙の状態となった夜に目掛け、追撃を仕掛ける巨狼。再び迫り来る凶刃を夜は足裏から炎を噴出することで回避する。
「《強化》、《強化》、《強化》ッ!」
今の身体能力では敵わないと理解した夜は、更に強化魔法を身体に施す。しかし、限界以上に強化されたことにより肉体は悲鳴を上げる。
今にも浮かび上がる血管がはち切れそうな様子を見せる夜の肉体。しかし、夜はお構いなしに戦闘を続行する。
先程よりも数段速度を増した夜が巨狼へと急襲する。それを巨狼は自身が誇る強靭な爪で迎え撃つ。
再び、両者の獲物の衝突音が空気を震わせる。
限界以上に強化された肉体によって巨狼の膂力に対抗する夜。鍔迫り合いによって両者間で火花が散る。
初めは均衡していた両者、しかし徐々にその均衡は巨狼へと傾く。
少しずつ夜が圧し潰されていく。
身体を支える脚が、地を擦る様に後退する。
「っ......《強化》ッ!」
さらに強化を施した夜。
後退していた脚は、少しだけ押し留まる。
だが——まだ足りない。
「《強化》、《強化》......」
浮かび上がった血管が破裂し、夜の身体中から血が噴き出る。
「《強化》、《強化》、《強化》ァァァアアアッッ!!!」
筋肉がブチブチッ、と音を立てて千切れていく。
身の丈以上の強化を施された肉体は、阿鼻叫喚の嘆きを漏らす。
夜の肉体にとって、強化はもはや害しか齎さない。
しかし、それでも夜は躊躇わない。
躊躇いが何を意味するのか、先程身をもって味わった。
油断と慢心が齎す結果を、大切な人を失ったことで漸く夜は理解した。
自身の無知が、自身の無力が、結果、最悪を齎した。
今更理解した所で後の祭りだと夜も理解している。
セレンが帰って来ることは無い。
先程の悲惨な光景が夜の脳裏を過る。瞬間、後悔の念が夜の全身に圧し降る。
鳴りを潜めていた震えが再発する。
「......ッ!」
震えによって弱まった夜の力が均衡を崩し、再び夜が圧される。
瞬時に意識を切り替え、無駄な思考を捨て去る夜。思考の乱れが齎す結果も先に学んだ。
夜は嘆きたい気持ちを無理やり抑え込み、戦闘に集中する。
「アァァアアアアアッッ!!」
「グゥオオッッ?!」
超強化によって齎された夜の膂力が巨狼の凶刃を押し退ける。
押し負けたことで体勢を崩した巨狼へ、夜は一閃を放つ。
「ギャアゥ——ッッ!」
夜の刀が巨狼の首を斬り裂く。
しかし、強靭な肉体と体毛を有する巨狼には大した損傷にまで及ばず、少し裂かれた程度にしかダメージが通っていない。
さらに、切り裂かれた傷は瞬時に修復していく。
「......チッ、そういえば再生能力を有していたんだったな」
傷が再生する様を見て、悪態を吐く夜。
夜の言う通り、巨狼は再生能力を有している。故に、生半可な攻撃では瞬時に回復されてしまう。
「《アガリス・アルヴェシンス》」
瞬間、夜の刀に炎が赤々と灯る。
単なる物理攻撃では再生能力には対抗出来ないと結論付けた夜は、炎の付与魔法を武器に纏わせることで肉体を焼き斬り、再生を阻害させる方法を実行する。
しかし、火力が弱ければ阻害効果は薄い。故に更に火力を上げる。
「《燃え上れ(アルガ)》、《燃え上れ(アルガ)》、《燃え上れ(アルガ)》ッ!!」
「............グゥ」
炎の火力が増す。その上昇値は、離れた位置で警戒する巨狼にまで炎の波が及ぶ程だ。
火力は十分。しかし、夜はそこで終わらない。発現させた炎を無駄なく攻撃へと転用させる為に、全ての炎を刀へと収束し、圧縮させていく。
そして、出来上がったのは高密度のエネルギーを備えた、全てを焼失させる刀。纏う炎の密度が高い余りに刀の周囲の空間が歪んで見える程だ。
しかし、余りの高温に刀が悲鳴を上げている。刀に魔力を流して耐久力を引き上げることで何とか耐えてはいるが、長くは持たないだろう。
夜は炎刀を中段に構える。
巨狼もまた、姿勢を低くして戦闘態勢へと入る。
一瞬の静寂。
次の瞬間、両者の姿が消える。傍から見れば、消えた様に映る程の速度。
巨狼の凶刃と夜の炎刀が衝突する。衝撃波が周囲へと爆ぜる。しかし、同時に聞こえてくるのは、ジュッと何かが焼き溶ける音。夜の炎刀が巨狼の誇る爪を焼き斬っていく。余りの高温に巨狼の爪の耐久値が圧し負けたのだ。
巨狼はすぐさまその場から離脱。しかし、そんな巨狼を夜は逃がさない。
後退する巨狼へと迫る夜。
夜の炎刀の殺傷力をその身で実感した巨狼は、あの炎刀は自身の命に届き得ると本能的に悟る。幾ら自分が再生能力を有しているとはいえ、再生の限度は無限ではない。つまり、攻撃を受け続ければ軈て死ぬ。だが、損傷が小さければ、そこまで消耗することがないこともまた事実。しかし、夜の攻撃は間違いなく自身を死に至らしめることが可能な程に危険だ、と巨狼は考えた。
そこで初めて、巨狼は夜を対等な存在であると認識する。
これまで巨狼は、夜を軽視していた。自身によって取るに足らない存在であると認識していた。しかし、先程自身が誇る爪を易々と焼き斬られたことで、その認識を改めることにした。
巨狼は通常のモンスターと異なり、高い知能を有している。故に、巨狼は夜を対等な敵として見据える。自身が喰らうのではなく、殺すに足る存在であると。
衝撃音が森一帯に鳴り響く。
灼熱の炎が空気を焦がす。両者が齎す業火によって周囲一帯は焦土と化す。
地獄の戦場と化す中、巨狼の爪牙と火炎放射、夜の炎刀と魔法が応酬する。
巨狼の巨脚が破壊力を伴って上段から振り下ろされる。夜は飛び退くことで回避するが、続け様に凶刃が夜へと急襲する。迫り来る横合いからの重撃を炎刀で受け止める。しかし、踏ん張りが効かない空中での攻撃に夜の身体は吹き飛ぶ。
夜は空中にて即座に態勢を整え、反撃へと転じる。巨狼へと接近し、直前で魔法による錯乱。自身を見失っている隙を突いての会心の一撃。夜の振り抜かれた一閃は、巨狼の後脚を斬り飛ばす。
「——ッ、グゥウウッッ......——ルオオオオオオオッッッ!!!!」
「......グッ——!」
脚を切断された巨狼は一瞬の呻き声を漏らす。しかし、すぐさま切断された足を再生させて生やすと、大気を揺るがす程の咆哮を上げる。
咆哮による強制停止を喰らった夜は、身体を硬直させる。しかし、抵抗力が増した今の夜が停止したのは一瞬。されど、その刹那の間は致命的な隙となる。
上段に降り上げられた巨狼の前脚は、その威力を最大限に発揮して夜を地へと圧し潰す。
「......グハ——ッッ!!」
巨狼の前脚による圧撃によって骨は砕かれ、臓物は圧し潰される。内臓の損傷により喉奥から血が這い上がり、吐血する。
立ち上がろうとする夜。しかし、巨狼の猛攻は止まらない。次々と巨狼の巨脚が夜を連打し、その度に夜の肉体は損傷を来す。
余りの破壊力に大地は裂き、地面には夜の血溜まりを作る。
未だ止まらぬ連撃を繰り出す為、巨狼が巨脚を振り上げる。その瞬間、突如として大地が隆起する。
突然の出来事に巨狼は動きを停止する。その一瞬の間に、隆起した大地は巨大な腕へと姿を変え、巨狼を横合いから殴りつける。動きを止めていた巨狼は、咄嗟で反応が遅れたことによりモロに攻撃を喰らう。そのまま吹き飛ばされた巨狼。
強襲が止んだことで、夜は即座に肉体の治癒を開始。しかし、余りの損傷具合に完全な治癒は困難であると判断し、最低限の治癒へと切り替える。
ある程度、動けるまでに治癒し終えた夜はその場に立ち上がる。しかし、その身は既に満身創痍。身の丈以上の強化によって既に肉体が限界を超えた損傷を負っていた所に、更なる損傷を負ってしまった夜。魔力にはまだ余裕があれど、肉体は既に限界を迎えていた。
しかし、それでも夜から闘志が消えることは無く、寧ろ膨れ上がる様に闘気がその身から漏れ出る。
巨狼を討つまでは決して倒れない。そんな強い意志が夜の瞳には宿っている。
「《強化》」
たった一言、魔法の名を告げる。しかし、その強化倍率は先程の限界を超えた強化と同程度。魔力を肉体に限界以上に注いだことにより、治癒し終えたばかりの肉体が再び損傷を来す。
それでも夜が止まることは無い。その先の勝利だけを見据えて、夜はボロボロの身体を酷使する。
それより先は正しく死闘。
再生能力を有した怪物と、既に限界を迎えた肉体を酷使する人間。
肉体の状態は圧倒的に怪物が有利な戦況。しかし、実際には全く真逆の結果が其処には在った。
巨狼が爪牙を駆使して夜へ猛攻を仕掛ける。
しかし、その全てを夜は最小限の動きで回避する。
物理攻撃が中々当たらないことに痺れを切らした巨狼は、口内に魔力を収束させる。
火炎放射——ヘルハウンドである巨狼の異名の大元となる必殺を繰り出す為に魔力を昂らせる。その様子を見た夜は、巨狼に向かって静かに右手を伸ばす。夜の行動を訝しむ巨狼。しかし、行動を起こす様子の無い夜に考えることを止めた巨狼は繰り出す必殺へと意識を集中する。
そして、最大限にまで溜めた火炎が放たれようとした直前——火炎が突如として巨狼の口内で爆発。何が起きたのか分からないまま自爆した巨狼。否、正確には夜によって自爆させられたのだ。
理屈は簡単。巨狼が火炎を放とうとした直前に、魔力を暴走させて『魔力爆発(イグニス・ファトゥス)』を強制的に誘発させ、自爆させた。
では、どの様にして魔力を暴走させたのか。それも簡単。巨狼が魔法を構築する直前に夜が自身の魔力を混入させる。そうすることで、魔法の構築を乱し、魔力制御を妨害。結果、制御を離れた魔力が暴走を引き起こした。
言うは易く行うは難し。
説明されれば理解はできる所業。しかし、緊迫した、尚且つ状態不良の状況下で行えるものではない。
*
静かだ——。
今、俺が視ている景色が余りにも静寂で心地良い。
音が聞こえないわけではない。寧ろ、今までよりもよく聞こえる。しかし、遅い。視えている景色、聞こえてくる音、その全てが遅く感じる。
俺の頭がおかしくなってしまったのだろうか。多分そうだ。
今の俺は、意識が朧気で、記憶も曖昧だ。
思考も上手く稼働しない。目の前の事象にしか意識が割けない。
そんな状況下で、それでもやる事、否、やるべき事だけははっきりと解った。
目の前の存在を屠ること——それが今の俺に課せられた役割。
対峙する巨狼が損傷部位の再生を終えるのを視界で捉える。そして、すぐさま俺に向けて突進してくる。やっぱり遅い。こちらに向かって来ている巨狼の動きが遅く視える。
俺は刀を鞘に納め、腰を低く構える。柄へ手を掛けた姿勢で巨狼を見据え待つ。
少し待って、漸く眼前にまで辿り着いた巨狼が前脚を振りかぶる。
それを目視した俺は抜刀し、一閃。
俺が放った斬撃が巨狼の振りかぶった右前脚を斬り飛ばす。
「グワァアアアッッ!!」
断ち切られた前脚から血を噴き出している。
巨狼が絶叫を上げているが、やはり遅い。
俺は再度刀を鞘へ納め、腰を低く構える。柄へ手を掛けた姿勢で、一呼吸。
眼前で断ち切られた前脚を再生している巨狼を見据える。
そして——居合の太刀、一閃。
瞬間、俺が放った斬撃が、今度は左前脚を斬り飛ばす。
再び、巨狼の絶叫が耳に届く。
しかし、俺はそれを無視して跳躍。巨狼の横合いに着地すると、再度居合の構えを取る。
居合の太刀、二閃。
今度は斬撃を二つ放ち、巨狼を襲う。
巨狼にダメージを与えたことを確認した俺は再度跳躍し、今度は巨狼の背面へと着地する。そして、居合の構えを取る。
居合の太刀、三閃。
今度は斬撃を三つ放ち、巨狼を襲う。
放たれた三つの斬撃は、正確に巨狼を捉える。
巨狼が絶叫を上げる中、俺は跳躍すると、再び正面へと舞い戻る。そして、居合の構えを取る。
居合の太刀、四——
「——ごふ......ッ!」
今度は斬撃を四つ放とうした、その時。
突然、喉奥から血が迫り上がり、吐血する。
そして、訪れるのは強烈な痛み。
「がぁっ、ぐ......がぁぁあああ——ッッ!!」
身体中の神経が断裂する様な痛みが身体中を駆ける。
次いで、全身の骨が音を鳴らして砕け、全身の筋肉が千切れていく。
余りの痛さに耐えきれず、身体が地へと這い蹲る。
血が絶え間なく吐き出される。
全身から脂汗が噴き出る。
混濁する意識の中、必死に治癒魔法を身体全体に施す。しかし、痛みの余り精神が乱れ、魔力制御が儘ならない。加えて、損傷具合が余りにも酷過ぎる。このレベルとなると、今の俺では治せない。
「......グルゥゥゥ」
痛みに悶える中、前方から唸る様な声が殆ど機能しなくなった聴覚に微かに聞こえる。
警鐘が鳴り響く意識の中、俺のやるべき事を本能が告げてくる。俺はそれに従い、痛みで軋む身体を懸命に起こす。
俺と巨狼、両者共に満身創痍。
俺は既に限界を迎えている為、これ以上は動かせそうにない。動かせるとしても、最後に一振りが限界だろう。そして、その一振りを終えれば、確実に気を失う。あるいは、死ぬ。いや、寧ろ死ぬ確率の方が断然に高い。何しろ、余りにも血を流し過ぎている。これは明らかに人間が出していい血の量じゃない。一振りするしないに関わらず、俺は大量出血で死に至るだろう。
一方で、眼前で必死に立ち上がる巨狼も限界を迎えている様子。しかし、こちらはまだ俺よりは余力があるように見える。
つまり、何もしないまま死に、巨狼に敗北するか。
或いは、一振りに全てを掛けて、巨狼殺して死ぬか。
選択は二つに一つ、ということだ。
なら、やるしかないだろ。
どっちみち死ぬというのであれば、俺はこいつを殺して死にたい。
眼前で佇む巨狼は、魔力を昂らせる。
なるほど。どうやらあいつも魔法でケリを付ける様だ。
巨狼の行動を見据えた俺は、剣先を下に向けて上段に構える。
目を瞑り、意識を集中させる。
残りの魔力全てを刀へと収束させる。しかし、魔力残量が心許ない。これでは、巨狼を討ち倒せるか分からない。もっと魔力が必要だ。
俺は意識を周囲へと向ける。大気中に漂う魔力。その残滓を知覚した俺は、それら全てを俺の身体へと取り込む。
取り込んだ魔素を魔力へと変換。そして、変換した魔力をすぐに刀へと収束させていく。
大気中の魔素を取り込み魔力に変換。体内の魔力を刀へ収束。収束した魔力を圧縮。この三つを同時進行で進めていく。
簡単ではない。少しでも精神が乱れてしまえば、忽ち魔力爆発を引き起こして全てが無意味に終わる。
故に、集中。嘗てない程に集中して作業を行う。より速く、より無駄なく、効率に効率を重ねて魔力を練っていく。
軈て、練に練り上げた俺の魔力は空間が歪んでしまう程に膨れ上がっていた。
極限にまで圧縮した魔力。これを今度は性質変換していく。
イメージは氷。見えるもの、感じるもの全てを凍てつかせる、そんな絶対零度の氷。
イメージしろ。
すべてを凍てつかせる氷。物も、生物も、無生物も、大地も、大気も、蒼穹も、宇宙も、時間すら、この世に存在する全てを凍てつかせる。
軈て、空気が変わるのを肌で感じる。
俺が制御する魔力の温度が変わる。性質が変わる。色彩が変わる。波長が変わる。流れが変わる。
準備は整った。
俺は眼前の巨狼へと視線を向ける。すると、あいつも俺を見ていたのか、ちょうど目が合った。
どうやら、向こうまた準備が整ったようだな。
巨狼の魔力波長を肌で感じ取る。おそらく巨狼も俺の魔力波長を感じ取っているだろう。
互いに、この一撃が最後となる。
この一撃で競り勝った方が勝者。
俺は巨狼を見据え、巨狼は俺を見据える。
永遠とも感じる刹那の時間が過ぎ去り——開放する。
「——グゥゥオオオオオッッ!!!!!」
「——凍てつけ」
上段に構えた刀を大地に突き刺す。
瞬間、極限にまで圧縮された魔力は一瞬にして周囲を覆い尽くす。青白い氷へと変化した俺の魔力が辺り一帯を等しく飲み込む。
抵抗など許されない、いや、抵抗する気すら起こらない、絶対無慈悲の一撃。それは、本来であれば辺り一帯を焦土と化す、巨狼の最大の一撃も、そして巨狼自身ですらも為す術など無く氷像へと化した。
その様子を見届けた俺は——静かに意識を手放した。