精神科を出た私たちはようやくマンションへと戻りました。早く自室に戻って娘を安心させたかったのですが、娘はマンションの入り口で立ち止まって動いてくれません。
「どうしたの。早く部屋に入らないとその怖いのに追いつかれちゃうんじゃないの?」
「お、追いつかれちゃう!けど、今は、見られてないの。でも、見られたら、見つかっちゃう」
途切れ途切れの言葉を詳細に思い出すことはできませんが、上記のようなことを言っていたと思います。
「このままだと追いつかれるが、今は相手から見つけられていない。しかし、このままでは見つかってしまう」他人の視線を過剰に警戒する精神疾患といえば統合失調症ですが、度重なるストレスでその気を見せていたのか、それとも、本当に何かの視線を感じていたのか。
当時の私は、直後に娘が取った行動も鑑みて前者だと考えていました。
娘は突然叫び声を上げると、両手に携えていた手提げをマンションホールの入り口目掛けて投げつけたのです。
それは左方向に逸れて玄関脇の植木鉢へと向かって行きましたが、中のドクダミが小さなかったお陰でその頭上を掠めるだけに留まりました。そしてその後ろに佇むプラスチック製のショーケースを倒してしまいましたが、そこに入っていたのは大家の方が設置した盛り塩です。
盛り塩こそ崩れてしまいましたが、下敷きのお皿を割ることもなく、被害は最小限に抑えられました。
盛り塩が魔除けになることは後々知りましたが、神社の方によれば娘を狙っていたものは盛り塩程度で抑えられる代物ではないとのことです。そのため、ここで盛り塩を崩したことはこの先の事情には関わって来ないはずです。
「こら、勝手に物を投げたら危ないでしょ!」
「だ、だって怖いんだもん!それに、ダメ。ダメ!あれじゃあ、あれじゃあ見られちゃう……」
反射的に叱ってしまいましたが、私の叱責を意にも介さず何かへの恐怖を浮かべる娘の様子を見て、この状況で叱ることは無意味だと悟りました。
取り敢えず植木鉢の脇にしゃがんでプラスチックケースを直していると、娘が私の後ろを駆け抜けて行きました。
マンションの入り口から自室程度の距離ならば抱き抱えて運んでも良かったのですが、自分で動いてくれたので、少しは恐怖を克服できたのではないかと。暴力に訴えたことで、少し勇気が出たのではないかと……。
当時の私はどこまでも甘い考えを持っていたのですが、そんな私の考えを肯定するように、部屋に入った娘はこれまでと打って変わった落ち着いた様子を見せていました。
「……落ち着いた?」
お気に入りのソファに座ってホッと一息ついたように気を緩める娘に、私は麦茶を差し出しながら話を振りました。
「……うん。ここなら見つからない。見られなかったから」
「あら、ここなら見つからないの。怖くはない?」
「……。怖いけど、大丈夫。見られてないから、見つからない」
相変わらず恐怖を感じてはいるようでしたが、受け答えはちゃんと出来ていました。
そのため、私は少し踏み込んだ質問を始めました。
「それで、あなたを怖がらせているのは誰なの?」
「……」
「幼稚園で何かあったの?」
「……」
「誰かに嫌なことをされた?」
「ううん、それは違う」
「じゃあ、幼稚園が嫌いなわけじゃないんだ」
「うん。幼稚園は好き」
「それは良かった。じゃあ、幼稚園では何もなかったんだよね?」
「……ううん」
複雑な質問は答えられないため、大きな質問を繰り返して答えを絞って行きます。
現段階では幼稚園でのトラブルが原因と考えていたため質問のベクトルをそっちに寄せているのですが、「幼稚園でのトラブルがないにも関わらず幼稚園で原因が生じた」という奇妙な事態を受けて少し考え方が変わって行きます。
「……それはつまり、今Aを怖がらせている何かが幼稚園で始まったってこと?」
「うん!えっと……。お昼寝の後から、見られていたの」
「見られているってのは、知っている人から?」
「ううん。知らない。確か、???(聞き取れない単語)……じゃない?えっと、????? (先ほどと少し発問の異なる単語)」
ここで娘が聞き取れない何かをぶつぶつと呟き始めたため、再びパニックを起こすと思ってそれを止めました。
「大丈夫!名前は思いださなくて大丈夫だから。お母さんの次の質問に答えてくれる?」
「え。……うん、答える」
思い出せそうで思い出せない状況に少し突っかかりを覚えていたようですが、素直に私の話を聞いてくれました。
「名前はいいから。病院とかでもずっと見られてるって言っていたけど、何がAを見ているの?」
「……見てるのは、いっぱい」
「いっぱい?Aを見ているのは一つじゃないの?」
「うん、たくさん見られてる。いっぱい目があるの……」
「でも、今は見られていないの?」
「うん。ここは見られてない」
「ここ以外に見られていないと思う場所はあった?車で移動していた時は?」
「時々窓から見られてた。それに車が見つかっていたから見られてた」
「じゃあいつもの病院は?」
「びょ、病院も見られてた。ずっと見られてた……!」
「その後に行った、少し大きな病院の方は?」
「あそこも見られてた!廊下で時々見られてた。部屋の中にいた時はずっと……!」
病院について尋ねると、娘の様子は明らかにおかしくなりました。娘の証言を現実的に考察するのであれば、『人の目を怖がっている』と考えるのが妥当です。病院には沢山人がいますし、タクシーも通行人が近くを横切ります。
しかし、それではマンションホール前の反応が矛盾します。病院以上に怖がっていたのに、あそこには私と娘しかいなかったからです。
「マンションの前でも見られていたの?」
「ううん、見られてはない。でも、あのままだと見られそうだったから」
「見られそうだった……?Aが落ち着いているのは、見られずに家まで戻れたから?」
「うん。見られなかったからバレてない。見られてないから見つからない。追いつかれないはず……」
「……"追いつかれない"?」
その言葉を聞いて、今更ではありますが娘が度々口にしていた「追いつかれる」という異質な単語に気がつきました。そして同時に、娘が口にしていた「見られていないから、見つからない」という特徴的な反復にも気がつきました。
子供特有の反復と思って流していましたが、娘は「見られる(look)」と「見つかる(find)」を使い分けていたんです。
それらに気がついた時、私は思いました。娘は視線を怖がっているのではなく、"視線に晒された先にある何か"に怖がっているのではないかと。
そして、私はようやく考え至ったのです。
娘に起きていることには常識の範疇を逸脱した"何か"が関わっているのではないかと。
「ちょっと待って。Aを見ている視線とは別に、追いかけてくる何かがいるの?」
「え?だ、だって。見られると、見つかっちゃうでしょ?」
「視線に見つかると、追いかけて来るものにも見つかるってこと?」
「う、うん」
「その追いかけて来るものって?」
私の質問に対して娘は黙り込みます。しかし、質問を変えようと思った直前で、娘は血の気が引くように目を見開きながら声を絞り出しました。
「……思い出した。???? (聞き取れない単語)」
その単語を聞き取ることは出来ませんでしたが、似たような響きの単語がどのタイミングで出ていたかは覚えていました。「保育園のお昼寝の後に誰から見られていたのか」この質問に対して娘が必死に名前を答えようとしていたタイミングです。
「それは、お昼寝の後にAを見ていた人の名前だよね?」
「う、うん。め、目が覚めたら視界の端で何かが見ていて。後ろを向いたらそっちに移動して、しゃがみ込んだら足元に現れて……!」
娘の呼吸が荒くなり、過呼吸のように肩で息をします。先ほどまでとは全く異なる反応を見て私は分かりました。「保育園で娘を見ていた何か」と「娘を見つけようとしている複数の何か」は全く違う。そして、前者は本当に恐ろしいものだということを。
「大丈夫。ここは私たちの家でしょう?もうすぐお父さんも帰って来る。誰もAを捕まえたりなんか出来ないから」
安心させるように言葉を掛けながら背中をさすっていると、少しずつ震えが収まっていくのが分かりました。さらに、ベランダで娘が育てていたユリを一輪手渡すと、娘はパッと顔を明るくしました。
「あ、ユリさん……」
「ほら、Aの育てた植物もAのことを守ってくれる。今日はみんなで一緒にいましょう」
ミニトマトやきゅうりを収穫して机に広げると、娘はさらに顔をほころばせました。もう十分に会話ができる状態だと判断し、私たちはそれをつまみながら話を続けました。
「それに追いつかれるとどうなるの?」
「……分からない。でも、怖い。怖いから、酷いことされる」
「そう。でも、幼稚園で見られていたのに何もされていないんじゃないの?」
「……確かに。でも、怖かったから。酷いことされる」
「その何かはAの近くにいたの?幼稚園の教室の中にいた?」
「うん、いた。私が目を逸らしたらすぐに見える場所に移動するの」
「うん?近くにいたのに何もされなかったのに、追いつかれるのが怖いの?」
「……うん。だって、怖い」
「それは、Aが逃げたから相手が怒っているとか?」
「ううん、ずっと怒ってる。捕まりたくない……!」
普通に考えれば、娘の言動はおかしなものでした。いつでも捕まえられる距離にいたのに、それをせずただ見ていただけの相手に対して「追いつかれたくない」と思うものでしょうか。
おそらく理屈ではく本能的な恐怖を感じていたのだと思いますが、当時の私には理解ができませんした。
そして、娘のトラウマを刺激するのもいけないと思って会話が停滞していると夫が帰ってきました。
「あ、お帰りなさい……」
しかし、ドアが開く音が聞こえ、私が夫を出迎えるために席を立ったその時でした。
娘の悲鳴が聞こえたんです。
「(文字に表せない悲鳴)」
「え!?A、どうしたの!?」
慌てて娘の手を掴むも、それを振り払われました。娘は私の顔を見てまるで恐ろしいものを見るように目を見開き、辺りのものを投げ始めたんです。
お皿、醤油瓶、爪楊枝、机の上に置いてある物を片っ端から投げられました。唯一ミニトマトときゅうりには手を触れませんでしたが、あれほど喜んでいた百合の花でさえ、引きちぎって投げつけました。おそらく投擲物として映らなかっただけだと思います。
そして、投げつけながら例の意味不明な単語を呟き始めるのですが、今度は聞き取ることが出来ました。
「はーそーさー!?はーそーさー!!違う、はーそーさーはーそーさーはーそーさー!やだ、はーそーさーはーそーさーはーそーさーはーそーさー!!」
はーそーさー。
意味をなさない単語です。何回連呼したかなんて覚えていませんが、だんだんと連続してその単語を繰り返すようになったと記憶しています。
「落ち着いて!」
「はーそーさーはーそーさーはーそーさーはーそーさーはーそーさーはーそーさーはーそーさーはーそーさー!!」
「落ち着いてってば!何よ!はーそーさーって!!」
舌ったらずなのか、元からその発音なのか。意味不明な呪文のような単語を連呼する娘の叫びはこの世のものではないようで、私の焦りを強めて行きました。
「どうしたんだ!?」
騒ぎを聞きつけた夫が慌ててリビングに飛び込んでくると、娘は夫の顔を見てさらに目を大きく開きます。私が抱きしめようと腕を伸ばすと、椅子からずり落ち、私を恐れるかのように後ずさりました。そして、頭を抱えながら、激しく「はーそーさー」と繰り返すばかりです。
娘が私のスキンシップを欲していないと悟り、ひとまず夫に事の顛末を説明しました。心配させまいと娘の奇行を連絡していなかったことが、説明という余計な時間を生んでしまったことを今では後悔しています。
「精神?イマジナリーフレンド?分からないけど、この状況は異常だ!」
私の説明を聞いた夫は混乱するように頭を掻きむしります。そして、震える様子で意味不明な単語を繰り返す娘に視線を向けて、小さく零しました。
「……これは、精神疾患じゃなくて……呪いとかじゃないのか?」
「あなた、呪いってそんな……!」
娘の一大事にオカルトを持ち込むなど普段ならばふざけているとしか思えないのですが、直前の娘との会話があったため反論ができませんでした。
そしてその瞬間、私は近所の方から聞いていた墓詛悪市の噂を思い出しました。
『墓詛悪市では超常的な現象が良く起こる。もし困ったら児宮神社を頼りなさい。墓詛悪の守り神が助けてくれます』
当時は与太話として聞き流していましたが、これを思い出した瞬間、もうこれに縋るしかないと思いました。
そして、同時になぜもっと早く思い出さなかったのかと後悔しました。やれることを何でもやるに越した事はないのに、なぜ満足して帰宅してしまったのかと。
この後悔は今でも私の中で渦巻いていますが、これを懺悔していても話は先に進みません。
そして、よほどこの街では有名な神社なのか夫の口からも児宮神社の名前が飛び出し、藁にもすがる思いで夜の8時に神社へと電話を掛けたのです。