電話が繋がらない可能性も危惧していましたが、夜間とは思えないほど、すぐに電話は繋がりました。
「今晩は。こちらは児宮神社です」
「もしもし!?大変です、娘が大変なんです!」
「分かっています。この時間帯の相談が緊急を要するものと言うことは」
私が半ばパニックのような声を漏らすと、通話先の方は落ち着いた様子でそれを諭してくれました。
「しかし落ち着いてください。娘さんの様子を伝えてくれなければ、私共も適切な指示が出せません」
「……すみません。落ち着きました」
「ありがとうございます。そして、まずは質問させてください。今お電話を頂いたのは、娘さんが奇行を起こしているためですか?」
「はい!娘が異常に周囲を怖がるんです!」
「分かりました。そして率直に意見を述べさせていただくのですが、娘さんが奇行等を起こしている場合は、まず救急車を呼んで病院へ向かってください。脳神経系の病気は一刻を争います。宮司は後からでも派遣しますので、私共と会話をする前に病院による処置を受けてください」
通話先の相手は、神様を取り扱っているとは思えないほど理知的な方でした。そのため、病院や精神科には既に通ったことを説明しました。
「なるほど。しかし、詳細な脳の検査はされていないのですよね?それならば、まずは救急に頼るべきだと思います」
「それで、本当に大丈夫なのでしょうか。先ほど娘と話をしたのですが、"見られている""追われている"と口にしていました。本当に、呪いの類は関係ないのですね?」
「……見られている?」
神社よりも病院を優先した方が良いという現実的な考えの方でしたが、私のその言葉をきっかけに相手の雰囲気が変わりました。
「……すみません、話が変わりました。詳しく説明してください」
私が娘の奇行を説明していくうちに、電話越しにも相手の緊張が伝わって来るようでした。さらにその電話口の向こうには複数の人が集まっているようで、ザワザワとした声が広がっていくのが分かりました。
そして全てを話し終えた時。受話器からは響いたのは先ほどとは異なる緊迫した声でした。
「分かりました。今すぐ娘さんを児宮神社まで連れて来てください。また、電話越しに私たちの声を娘さんに聞かせてください。少しは症状が収まるかもしれません」
指示が終わると、電話の向こうからは祝詞と思われる不思議な言葉が流れ始めます。夫にタクシーの手配を頼みながら携帯電話を娘の耳元へ近づけると、顔を覆っていた娘の手がふっと緩みました。
「はぁ、そぉ……。はぁ、はぁ……。ま、ママ?」
息を切らしながらも、ようやく私のことを認識してくれた様子でした。
「A、大丈夫?今から神社に行くの。すぐに良くなるからね」
「じんじゃ?」
聞きなれない単語を娘は不思議そうに復唱しますが、次の瞬間、再び娘の様子が急変します。
「(悲鳴)いたいっ!」
「え!?何、どうしたの!?」
娘はお腹を抑えて、その場で崩れ落ちるほどに痛がり始めたのです。
「お、お腹いたい!いたいいたいいたいいたい!!」
「お腹!?神社さん、これは何ですか!?娘が腹痛を訴え始めたのですが!!」
「……腹痛?」
ストレス性の急性イレウス等の可能性が頭を過ぎりましたが、宮司さんはこの現象に心当たりがあるようでした。
そして、携帯電話から流れる祝詞の雰囲気が少し変わったように思いました。流れるようなゆっくりとした歌が鈴を打ち鳴らす激しい物へと変わり、まるで娘の現状を表しているようでした。
「不味いですね。怖がらせるのを諦めて直接体を蝕み始めましたか」
「な、何なんですか!?娘は大丈夫なんですか!?」
「非常に危険な状態です。このままでは食べ尽くされてしまいます」
「た、食べ尽くす!?何をですか!?」
「魂です。我々も直接的な抑制に移行しましたが、通話越しでは限界があります。娘さんの意識が落ちないように呼び掛け続けてください」
魂ですと言われても何も分かりませんが、とにかく通話先の指示に従って呼び続けるべきだと。娘の様子を見て悟りました。
「わ、分かりました!A、A!!」
腹部を押さえ、足をバタつかせてのたうち始めた娘を必死に抱き締めながら、私は名前を呼び続けました。
タクシーが到着すると、私と夫で娘を抱きかかえ、なんとか車まで連れて行きました。
暴れる娘を両脇から支え、名前を呼び続ける私たち。
運転手から見れば不審極まりない光景だったでしょうが、その人は何も言わずとも状況を察してくれているようでした。
「目的地は児宮神社ですか。その様子ですとお急ぎですよね?」
「はい!急いでください!!」
「承知いたしました。揺れにご注意下さい」
運転手の言葉どおり、タクシーは細い道を飛ぶように駆け抜け、最短距離で神社へと向かっているようでした。
その間も娘は暴れ続けていましたが、やがて抵抗は弱まっていきます。
けれど、それは決して恐怖を克服した訳ではありません。声は震えて次第にか細くなり、お腹を押さえる手も力を失い、身体越しに伝わっていた鼓動までもが、小さく、遠くなっていくのを感じました
「A!A!!」
「大丈夫だ!ほら、歯を食いしばれば痛くない!すぐに治る、ちょっとだけの辛抱だ!!」
運転手の尽力が伝わらないほど長く感じられる時間の中、私たちは娘に声をかけ続けていました。娘の嗚咽と、携帯電話から流れる激しい鈴の音に包まれ、車の揺れすら気になりませんでした。
やがて、扉の開く大きな音と運転手の声にハッとし、ようやく自分たちが神社に到着したのだと気がつきました。
「娘さんを抱えながら神社の石段を上るのは難しいでしょう。私にお任せください」
狭い車内で娘を降ろすのに苦戦していると、運転手が慣れた手つきで娘を抱きかかえました。そしてそのまま勢いよく石段を駆け上がり始めたため、私たちは慌ててその背中を追いました。
「そ、そこまで任せるわけには行きません!」
「いえ、体の動かない人を運ぶことは仕事柄良くありますから、ご心配には及びません。それよりも娘さんに声を掛け続けて下さい」
運転手には本当に助けられました。もし私と夫だけで娘を抱きかかえていたら、声をかける余裕どころか、石段を登り切ることすらできなかったかもしれません。
「A、あと少しだから!」
「頑張れ、頑張れ!」
文言を考える余裕などなく、ただ応援することしかできませんでした。運転手が石段を登り切るまでの1分間、私たちはなんとか並走しながら声を掛け続けました。
やがて鳥居が見えてくると、装束を身に纏った宮司の方が何人も現れました。彼らは娘を迎えるように腕を開きますが、運転手はそれを無視します。
「私が運びますよ。本殿にも何人かいるでしょう?」
宮司たちの間をすり抜けて最奥にある本殿へと向かうので、私たちも這う這うの体でその背を追いました。
そして、運転手の言う通り、本殿の開け放たれた扉の前には再び複数の宮司が立っていました。私たちが娘とともに中へ入ろうとすると、彼らはそれを制止します。
「ここから先は聖域です。ご家族の方でも立ち入りは許されません」
表情は穏やかでしたが、その言葉には有無を言わせない響きがありました。
「そうですね。私が入るのも止めておきましょう」
そして、その言葉を受けて運転手も娘を腕の中から下ろしました。
娘を預かった宮司の方々は、私たちの方をじっと見つめます。……何も言葉を介さずとも、これが祈祷前の最後の別れと言うことが分かりました。
気がつけば通話越しに流れていた祝詞は止み、静かな境内で私たちは娘と向き合いました。
ぐったりと項垂れ、表情は苦痛に歪み、服が張り付くほど全身に汗をかきながら、それでも娘は耐えていました。
『あれだけの時間を耐えたのだから、きっと大丈夫』
そう思い込むように私たちは安堵し、娘を安心させるための言葉をかけました。
「よく頑張ったな!もう神社だ、もう痛いのもなくなるからな!」
「もう大丈夫よ、A。宮司の方が助けてくれますからね」
タクシーの中では切羽詰まった声しか出せなかったものですから、私たちの落ち着いた声を娘はようやく聞き取ることが出来たのでしょう。
「……ありがとう。ママ、パパ」
……その時の娘の顔と声は、今でも頭の中に鮮明に残っています。
ぐったりと項垂れる娘が薄い目を開けて微笑んだように見えましたが、あれは私たちの言葉に安心を覚えてくれたのでしょうか。
それとも、私の錯覚だったのでしょうか。
もしくは、恐怖も痛みも感じないほどに満身創痍だったのでしょうか。
今では後者だと分かっているからこそ、大きな扉の向こう側へと消えていった娘の最後の姿を忘れることが出来ません。