私たちは娘を連れて帰路に着きました。娘は手を引けばついて来てくれるため、私が寄り添い、夫が手を引き、ゆっくりと石段を降りて行きました。
そしてタクシーを用いて帰宅しましたが、自室に戻った私たちは口を開くことが出来ませんでした。
お気に入りのソファに座っても相変わらず娘は無反応で、私たちも身体的、精神的疲労から何も行動を起こす気になれませんでした。
しかし、そんな時です。
「……ん」
誰も口を開くはずのない空間で声がこだましました。視線を上げれば、娘の目は焦点を結び、机の上に放置していた野菜へと向いていたのです。
「あれ……?」
娘の言葉を聞き取ることは出来ませんでしたが、その語気は疑問を孕んでいたと記憶しています。
「A……!?」
私と夫は同時に駆け寄り、娘の肩を叩きました。すると、娘は驚いたように私たちを見比べたのです。
「ママ、パパ……?」
それは幻聴でも幻覚でもない、確かな娘の言葉でした。
「意識が戻ったのか!?」
「良かった、A……」
私たちは交互に声を掛け、娘も笑顔を返します。……しかし、それはほんの一瞬のことでした。
次の瞬間、電池が切れたかのように娘の顔からは表情が抜け落ちます。そして、困惑する私たちの鼻を異臭が突きました。
机の上に目線を向ければ、きゅうりやミニトマトがグズグズに腐り、溶け出した組織液が机の上に広がっていました。先ほどまでは瑞々しい様子を見せて娘を喜ばしていたのに、そんな娘を嘲笑うかのようにそれらは腐って行きます。そして、娘もまた無反応になってしまいました。
……以上が事の顛末です。
その後に訪れた精神科では、「強いトラウマによる失語症」と説明されました。恐らく違うでしょう。
神社へも再び祈祷をお願いしましたが、一度失われた魂を取り戻すことはできないと断られてしまいました。
そして、娘の状態は今でも変わりません。
食事を与えれば口に運び、夜になれば眠ります。手を引けば素直についてきてくれます。
けれど、それ以外は魂を抜かれた人形のように無反応なのです。当然、通園もできていません。
冒頭にも記したように、娘の育てていた植物を見せるとわずかに正気を取り戻します。言葉を発したり、表情が柔らかくなります。しかし、植物はすぐに物理法則を無視したスピードで腐り果ててしまうのです。そして娘も無反応に戻ってしまうのです。
以下に最後のまとめを記します。
・娘を蝕んでいたのは神様に近い何か。狙いをつけた魂に恐怖を与え、屈服させて自分の眷属として扱う。また、眷属を墓詛悪市の全域に配置して目として働かせている。
花町霊園に屯していることが多く、生者に目を付けることはごく稀だが、屈服しない生者の魂は食べてしまう。
・朝の8時に花町霊園を訪れた娘は、正午前後に近くの保育園で恐怖の幻覚を見始める。幼稚園を離れても、タクシーや病院の中で誰かに見られていると感じるようになる。
また、保育園の幻覚と街で自分を見ている幻覚は異なるように感じ、街の幻覚に見つかると保育園の幻覚に捕まるように感じる。そして捕まることを非常に恐れる。
・自宅でようやく落ち着くことが出来るが、暫くすると再び恐怖を感じるようになる。また腹痛も訴え始める。
・神社で祈祷を受けるが、帰ってきた娘は心を失ったように無反応になっていた。食事、睡眠等の生理的欲求を満たすためには行動してくれるが、呼びかけ等に答えることはない。
・育てていた植物を見せると少し反応を示すが、植物は突然腐り落ちてしまう。そして、それと同期するように娘も元に戻ってしまう。
こんな状況一分一秒でも耐えられません。再度のお願いになりますが、上記の症状に少しでも覚えのある方は何でもいいので情報を提供してください。
神社の方が間違っている可能性もあります。神様に近い何かの下りは無視して、似たような経験をした方でも構いません。情報提供をよろしくお願いします。
[2013/7/13 某オカルト掲示板にて]
———さて、如何だったでしょうか。
この話を単純に受け取れば、邪神の理不尽に善良な市民が一方的に巻き込まれた理不尽で不気味な怪談となるでしょう。
……しかし、果たしてそうなのでしょうか。
この話には不自然な点や解明されていない謎がいくつもあります。それを一つ一つ考察していくと……ふふっ。実は中々面白い物語なんですよ?
この話の登場人物は全員滑稽です。語り手の娘とその両親。宮司。そして"神"さえも。なぜこんなことをしているのかと笑いを禁じえません。
……おや。子供が一人犠牲になっているのに何を笑っているんだって?安心してください。この話はここで終わりではないんです。
これから一週間後に再び投稿者が書き込みをします。……ただし、掲示板の怖い話に慣れている人はわかるでしょう。こういった後日談は「蛇足」として作品の質を下げることが殆どなのです。
案の定この投稿も蛇足と呼ばれ、それ以降投稿者が一切書き込みをしなくなったこともあり、この物語は駄作として忘れ去られるようになってしまいました。
私も文章を拝見しましたが、確かに理不尽で不気味な怪談を書くのであればここで終わらせた方が良いと思います。
しかし、私の目的は墓詛悪市の噺を掲載することですからね。後日談は書き殴ったような短文なのですが、是非最後までお付き合いください。