森は、夕暮れの光を吸い込むように静まり返っていた。
足元で枯葉がカサリと音を立てるたび、少年・湊は胸の奥が少しだけ高鳴る。
この道は、いつもの帰り道じゃない。けれど、不思議と怖くはなかった。
ただ、どこかへ導かれているような感覚だけがあった。
木々の間を抜けると、突然、ぽっかりと空が開けた。
そこには、苔むした白い石造りの建物が立っていた。
円形の壁に絡まる蔦、色褪せたステンドグラス──どう見ても、森の中にあるはずのない古びた図書館だった。
湊は吸い寄せられるように扉を押した。
重たい扉は、驚くほど静かに開く。
中に入ると、外見からは想像できないほど広く、柔らかな紙とインクの匂いが迎えてくれた。
湊は奥へ進み、何気なく本棚を眺める。
すると、ひときわ異質な気配を放つ一冊が視界に入った。
黒革の表紙に、赤い糸のような模様が絡みつき、中央には瞳のような宝玉。
見ただけで喉が乾き、胸がざわつく。
それでも湊は、引き寄せられるようにその本を手に取った。
──ページを開いた瞬間、視界が歪んだ。
見たことのない文字が赤黒く滲み、やがてうねる蛇のように紙面から浮かび上がる。
耳元で甘い声が囁く。
『欲しいだろう? 与えよう……代わりに、キミの心を──』
呼吸が苦しくなり、それでも身体が勝手にページをめくる。
視界は赤く染まり、世界がゆっくり沈んでいくようだった。
──その時。
ふわりと頬と後頭部で感じる柔らかな感触。
視界を覆うのは、温かくて軽やかな羽。
目を閉じるように、その羽はやさしく彼の顔を包んでいた。
「……その本、見ちゃだめ」
低く、しかし確かな声。
羽がすっと離れたとき、そこには黄金の瞳を持つ少女が立っていた。
少女は本を素早く閉じると黒い布で包み込む。
「“魔本”よ。いろいろなタイプがあるけど……
あなた、もう少しで持ってかれるところだったね」
湊は理解しがたい恐怖を感じ、ぞっとして背筋を伸ばした。
「ひとまずお茶でもどう?」
そう声はかけられたものの気が動転している湊は出口へ駆け出す。
とにかくこの場から離れねば。
そう考えるが、なぜかうまく体が動かず地面にたたきつけられる。
「落ち着いて、まずはこれを見て」
少女が鏡を持ってくる。
湊が鏡を覗き込むと
「……っ、な、何だこれ……!」
そこに映っていたのは──黒と白の毛並みが全身を覆い、指は柔らかい肉球と鋭い爪を持つ手、
尾が腰から伸び、耳は頭頂でぴくりと動いた、
猫と狼を合わせたような獣人の姿だった。
少女は、小さくため息をつく。
「……やっぱり、魔本の影響が残ってたみたいね」
「残ってたって……僕、もう人間じゃないの?」
湊の声は変わっていなかったが、耳は自分でもびくびく動いて落ち着かない。
少女は近づき、その柔らかな手で湊の頭をなでる。
「落ち着いて。姿は変わったけど、あなたはあなたよ」
湊は俯き、しばし黙ったが──やがて、苦笑した。
「……耳、触られるとくすぐったいな」
少女も、口元を緩めた。
「じゃあ気をつける。でも、今のあなた、なんだか可愛いわね」
湊は少し顔を赤らめ、尾を不自然に揺らす。
「……あんまりからかわないでください」
少女は笑い、湊を座らせた。
「大丈夫。元の姿に戻す方法はきっとある。それまでは……この姿も悪くないと思ってみたら?」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。
外では森を渡る風が梢を揺らし、図書館の中には本と木の匂いが満ちている。