手紙ではなく、札束を!   作:深紫Sιn姉

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お久しぶりの方はお久しぶり様です。
初見の方は、はじめまして。


8話:廻る歯車、二つの生命

 あの電波塔の点灯式から、およそ一年が過ぎた。

 

 俺、ノア・グラジオラスは二十一歳になり、相変わらずライデンシャフトリヒ経済の荒波を、『札束』という名のオールで優雅に漕ぎ進んでいた。

 

 グラジオラス保証は完全に国内の自動車保険シェアを独占し、圧倒的な資金力で新事業であるラジオ放送の広告枠売買にも参入。

 これがまた、巨利を生み出し続けている。

 

 二十一歳の大富豪。

 手元にある総資産は、おそらく数十億ライデンを優に突破しているだろう。

 

 俺の人生は、何一つ滞ることのない完璧な上昇気流の中にある——はずだった。

 

「……うぐっ」

 

 朝食の席。

 俺の正面で、いつものように背筋を伸ばして控えていたエレンが、突如として短い呻き声を漏らし、口元をハンカチで押さえた。

 

「エレン? どうした、顔色が悪いぞ」

 

 俺は思わず、手につけていた珈琲のカップを受け皿に乱暴に置いた。

 ガチャン、と陶器の鳴る音が食堂に響く。

 ちなみに中身の方は、すっかり大人しくなった砂糖とミルクたっぷりの甘々珈琲である。

 

「いえ……なんでも、ありません。少し、胃の腑が落ち着かないだけで……」

 

 エレンは青白い顔のまま、いつもの厳しい従者の仮面を被ろうとする。

 しかし、その瞳は明らかに潤んでおり、珈琲の香ばしい湯気からそっと顔を背けていた。

 

 ……おかしい。

 

 あの日、俺からの手紙を受け取って「ばか」と泣き崩れ、その後、貴族の古い因習やら身分差やらを俺が札束と権力で物理的にねじ伏せて、正式に俺の妻……いや、まだお互い照れくささがあって『お抱え筆頭メイド兼・最愛のパートナー』という妙な肩書きに落ち着いている彼女は、体調管理に関しては俺以上に徹底しているはずだった。

 

「砂糖の摂りすぎを注意する君が、自分の体調不良を見落とすなんてな。……今日予定している中央銀行の総裁との会食はキャンセルだ。すぐに医者を呼ぼう」

 

 俺がそう言って立ち上がろうとすると、エレンが慌てて制止の声を上げた。

 

「お待ちください、ノア様!  中央銀行との約束を私の体調ごときで反故にするなど……そんな損失、グラジオラス家の名に傷がつきます!」

「損失? そんなもの気にしなくていい。俺が一秒呼吸をすれば稼げる金だよ。それよりも君が倒れることの方が、俺にとっては数億ライデン以上の大損失だ」

 

 俺が彼女の頬を撫でると、エレンは呆れたように、しかしどこか嬉しそうに、ふっと息を漏らした。

 だが、すぐにまた胸をむかつかせるようにして、「けほっ。けほっ」と小さく身を震わせる。

 

 ……ダメだ、やっぱり様子がおかしい。

 俺はすぐさま使用人に医者を呼ぶよう手配した。

 

 

---

 

 

 医者を待つ間、応接室には先客が訪れていた。

 

「グラジオラス卿、おはようございます」

 

 C.H郵便社の看板ドールであり、今や大陸中にその名を知られるヴァイオレット・エヴァーガーデンだ。

 

 今日は、彼女が代筆したブーゲンビリア家(ギルベルト少佐殿の実家)からの定期連絡の書類を、直々に届けに来てくれたのだ。

 

 あのエカルテ島での一件以来、少佐殿はライデンに戻り、C.H郵便社の事務方を統括している。

 ヴァイオレットも会社は辞めず、少佐殿のそばで、そしてドールとして、今も美しく輝き続けていた。

 

 俺が二人のために札束で買い叩いてプレゼントした都心の家も、大そう気に入ってくれているらしい。

 うむ、投資の甲斐があったというものだ。

 

「ああ、ありがとう、ヴァイオレット。……すまないが、今日は少し落ち着かなくてね。エレンの体調が優れないんだ」

 

 俺がソファに深く腰掛けながらため息をつくと、ヴァイオレットは湖面のような碧の瞳を、部屋の隅で大人しく控えていたエレンへと向けた。

 エレンは、俺や来客の前で無様な姿は見せまいと必死に居住まいを正している。

 だがどうやら、ヴァイオレットの鋭い観察眼をごまかすことはできなかったらしい。

 

「……エレン様」

 

 ヴァイオレットが静かに歩み寄り、そっとエレンの前にすらりと伸びた足で立った。

 彼女の両手、かつて戦場で失われ、今は銀色の義手に代わっている——が、カチリと音を立てる。

 

「……ヴァイオレット様? どうかなさいましたか」

「エレン様。大変不躾なお尋ねですが……最後に月のものがおいでになったのは、いつでしょうか」

「えっ……⁉︎」

 

 エレンの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。

 

 まさか、そんな直球の質問を、うら若き(といってももう成人しているが)自動手記人形から投げかけられるとは思っていなかったのだろう。

 俺も思わず、飲んでいた水をこぼしそうになった。

 

「ヴ、ヴァイオレット⁉︎ 急に何を言い出すんだい」

「ノアさん、これは任務に関わる重要な観察です」

 

 ヴァイオレットは真面目な顔で俺を振り返った。

 

「以前、私はノアさんのご邸宅でお世話任務を遂行いたしました。その際、エレン様から『ノア様が清く正しく生活できるよう、身の回りの変化には常に気を配るように』と厳命されていました。現在、エレン様の挙動、特定の匂いに対する拒絶反応、そして顔の血流の推移は……C.H郵便社の同僚が、以前『おめでた』を迎えた際の特徴と完全に一致いたします」

「おめ……」

 

 俺の思考が、一瞬停止した。

 脳内の計算機が、カタカタとバグを起こす。

 

 おめでた。

 つまり、妊娠。

 

 エレンの体の中に、新しい命が……?

 

 ヴァイオレットは、エレンのほんの少しふっくらとしたお腹のあたりに、優しく目を向けた。

 

「エレン様のなかに、もう一つの小さな、とても温かい気配があります。私には、わかります」

 

 応接室が静まり返る。

 

 エレンは両手で自分のお腹をそっと覆い、信じられないというように目を丸くしていた。

 俺も立ち上がり、口をパクパクと金魚のように動かすことしかできない。

 

 とはいえだ。

 俺は腐っても若き大富豪、ノア・グラジオラスだ。

 頭脳の回転速度は常人の比ではない……はず。

 バグを起こした計算機を強引に再起動させるためにも、すーっと深呼吸をした。

 

 そして、ヴァイオレットの様子を改めて観察した。

 ……そういえば、おかしい。

 

「おい、ヴァイオレット」

「はい、なんでしょうか」

「君、今日はいつも頼む紅茶を断って、どうしてか白湯を飲んでいるね?」

「……はい。最近、少し香りの強いものが苦手になりまして。好みが変わったのでしょうか?」

「ふむ……」

 

 なるほど?

 俺の投資家としての勘が、ピタリと一つの仮説を弾き出した。

 

「それに、ここ数週間、君の代筆のスケジュールが少し緩やかになっているとホッジンズ社長から聞いたぞ。あのワーカホリックな君が、だ」

「それは、少佐が……無理をしてはいけないと、強引に休暇を組み込んでくるのです」

「極めつけは、さっき部屋に入ってきた時の君の歩き方だ。いつもより重心が低く、足元をひどく慎重に確認していた。まるで、絶対に転んではいけない『大切なもの』を運んでいるかのように」

 

 俺が次々と事実を並べ立てると、ヴァイオレットの碧の瞳が、少しだけ見開かれた。

 感情の起伏が少ない彼女にしては、珍しい動揺。

 

「ヴァイオレット。君の観察眼は見事だが、私の『投資家としての目』も舐めないで欲しい」

「投資家の目、ですか……?」

「ああ。変化の兆しを見逃さないのが、相場や時代の本流に上手く乗るための絶対条件だ」

 

 俺はにやりと笑い、決定的な一撃を放った。

 

「——ヴァイオレット。もしかしなくとも……君も、『おめでた』なんじゃないか?」

 

 ぴたりと、ヴァイオレットの動きが止まった。

 数秒の沈黙の後、彼女はほんのりと頬を桜色に染め、胸元の緑のブローチをぎゅっと握りしめた。

 

「……少佐と、昨日、病院に行ってまいりました。その……まだごく初期ですが、新しい命を授かったと」

「おおおおおっ‼︎」

 

 俺は思わず天を仰いでガッツポーズをした。

 

「マジか! 同級生か! エレンの子供と、君たち二人の子供が、同い年になるってことか!」

「は、はい。そういうことになるかもしれません」

 

 ヴァイオレットは照れくさそうに、しかしこの上なく幸せそうな微笑みを浮かべた。

 エレンも自分の不調を忘れたように、パッと顔を輝かせている。

 

「ヴァイオレット様、本当ですか……! おめでとうございます!」

「エレン様も。……私たち、母親になるのですね」

 

 二人の女性が、手を取り合って微笑み合う。

 その光景は、どんな名画よりも、どんな宝石よりも尊く、美しいものだった。

 

 

---

 

 

 その後、グラジオラス家お抱えの老主治医が到着し、厳格な診察が行われた。

 

 応接室の外で、俺は人生で初めて「金で買えない時間」の長さに、じりじりと身を焦がしていた。

 戦争の時も、保険法案を通す時も、これほど心臓がバクバクしたことはない。

 

 ガチャリ、と扉が開く。

 

「……グラジオラス卿」

 

 白髭を蓄えた主治医が、眼鏡を押し上げながら、満面の笑みを浮かべた。

 

「おめでとうございます。御懐妊です。すでに二ヶ月に入っておられますな。母子ともに、極めて健康でございます」

「っ……!」

 

 俺は言葉を失い、主治医の手を強く握りしめた。

 何を言えばいいか分からず、ただ、懐から取り出した白紙の小切手に、勢いよく『五十万ライデン』と書き込んで主治医の胸ポケットにねじ込んだ。

 

「こ、これは多すぎます、卿!」

「いいから取っておいてください! これからのエレンの検診、最高の医療体制を整えてもらう必要がある。足りなければいくらでも札束なら積みます!」

 

 主治医を半ば強引に送り出す。

 そして、俺は応接室へと飛び込んだ。

 

 ソファに腰掛け、自分の手をそっとお腹に当てていたエレンが、入ってきた俺を見て、困ったように、そしてこの世どんな宝石よりも美しい笑顔を浮かべた。

 

「ノア君……」

 

 彼女は、昔の呼び方で俺を呼んだ。

 二人きりの時だけの秘密の呼び方だ。

 

 その左手薬指には、俺が二十歳になった記念に贈った、あのヴァイオレットのブルーダイヤモンドを遥かに凌駕するピンクダイヤモンドの指輪が光っている。

 

「ああ、神さま」

 

 彼女の前に膝をつき、その手を両手で包み込む。

 俺は今、子供のように声を震わせていた。

 

「はい。私の中に、ノア君との子供が……。これからは、お酒の摘発だけでなく、私自身の体も、もっと厳しく管理しなければなりませんね? ふふっ」

「ああ、酒なんか一生飲まなくていい。君と、その子がいてくれるなら、ばっちこいだ」

 

 彼女は俺の頭を優しく抱き寄せ、その温もりを確かめるように強く抱きしめてくれた。

 

「……もう、ノア君のばか」

「ああ、間違いない。私は世界一幸せ者のばかだ」

 

 俺はエレンの胸に顔を埋めながら、頭の中では早くも「次の投資計画」を練り始めていた。

 

 自動車の安全基準をもっと厳しくするよう、また政治家たちにロビー活動をしなければならない。

 ラジオ放送で、子供向けの教育番組や、妊婦のための医療知識を流す番組を立ち上げるのもいい。

 それに、文字を教えるための「絵本」の出版事業の展開なんかも悪くない。

 ヴァイオレットの知り合いの童話作家に監修を頼めば、きっと最高の児童書ができるはずだ。

 

 この国のインフラを、世界で一番安全で、世界で一番豊かなものにしてやる。

 

「……よし」

 

 俺たちの子供が、そしてヴァイオレットと少佐殿の子供が生まれてくる世界を、これ以上ないほど素晴らしいものにするために。

 

「どんどんやるぞッ!」

 

 若き大富豪ノアの、人生で最も幸福な未来への大投資が今、幕を開けたのであった——。




ライデン貨幣は、一単位二円ほどの換算となります
とはいえインフレも考慮する必要があります
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