「未来への投資」——という言葉の響きは美しいが、要するに俺のエゴだ。
自分の子供が、そして親友の子供が生まれてくる。
ならば、このライデンシャフトリヒという国を、いや、この世界そのものを、子供たちにとって最高に安全で、豊かな環境に作り変えなければならない。
それが父親になる男の責務というわけだ。
エレンとヴァイオレットの「おめでた」が発覚してから数週間、俺はすぐさま行動を開始した。
まずは、物理的な「安全」の確保だ。
ライデン市内の郊外、油の匂いと鉄の削れる音が響く中規模の自動車部品工場。
俺はそこの応接室で、恰幅の良い工場長と真剣に向かい合っていた。
「グラジオラス卿……ウチの工場を丸ごと買い取る、とおっしゃって?」
「ええ。従業員の雇用は維持しますし、給与は今の1.5倍を保証します。その代わり、今日から自動車の部品を作るのはやめてもらおうと」
俺はドンと、机に分厚い札束と契約書を置いた。
工場長の目が、限界まで見開かれる。
「自動車の部品を作らぬなら、一体何をお作りに?」
「乳母車——いや、『ベビーカー』です」
現在、街を走っている乳母車は、木製や簡素な金属製の車輪がついたものが主流だ。
ライデンの石畳を歩けば、ガタガタと酷い振動が赤ん坊に直接伝わってしまう。
あんな乗り物に、俺の愛しいエレンが身籠っている子供を乗せるわけにはいかない。
「自動車のサスペンション技術と、耐久性の高いゴムタイヤ。さらに衝撃を吸収するクッション素材。これらを惜しみなく使って、絶対に横転せず、振動を極限まで抑えた最高級のベビーカーを製造してほしい。コストは度外視で構いません」
そんな俺からの言葉に、工場長は職人としての顔つきに変わった。
「……なるほど。車の技術を赤ん坊のために。面白い。しかし卿、そんなに金と技術をつぎ込んで、採算は合うんですかな?」
「そこは私の『投資家としての勘』ですよ。親という生き物は、子供の安全のためなら、いくらでも札束を積めるもの……と、最近気づきました」
ベビー用品市場。
戦後復興を終え、人口増加と経済が潤い始めている今のライデンなら、間違いなくこの市場は爆発する。
「私にも子供がいます。親の気持ちはわかりますよ。その未来に、祝福と契約を」
俺は確信を持って、工場長と固い握手を交わした。
「ええ……今後ともよろしくお願いします」
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次なる投資先は、C.H郵便社だ。
「ホッジンズ社長、単刀直入に言いましょう。出版事業を立ち上げます」
「……はい?」
社長室の革張りソファ。
俺の対面に座るホッジンズ社長は、疲れたように眉間を揉んでいた。
「ノアさん。ウチは郵便社ですよ? 自動手記人形による代筆と、手紙の配達が本業なんです。いくら大株主のノアさんの提案とはいえ、いきなり本でも売り出そうってのはちょっと……。何か勝算でも?」
「ええ、ありますとも。ただの本じゃありません。『子供向けの絵本』です」
俺は持参した企画書を机に広げた。
「文字を知らない子供たちに、絵と言葉で世界を教える。それは『手紙で人の想いを届ける』ドールの仕事の、正統な延長線上にある事業じゃありませんか?」
「絵本……」
「今、ライデンの識字率は向上していますが、幼児向けの優れた書籍はまだ少ない。C.H郵便社のブランド力で、美しく、教育的で、愛に溢れた絵本を出版・印刷するんです」
ホッジンズは企画書に目を落とす。
元軍人、現社長としての鋭い嗅覚を持つ彼だ。
この事業の持つ「社会的意義」と「ビジネス的価値」の大きさに、すでに気づき始めているはずだ。
「……確かに、悪くない話ですね。いや、むしろC.H郵便社の次世代の柱になるかもしれない。ですが、誰がその物語を書くんです? ドールたちは手紙の代筆のプロでしょうが、絵本の作家ではありませんよ」
「当てはあります」
俺はニヤリと笑った。
「エリカ・ブラウン先生ですよ。今や彼女は、天才劇作家と名高いあのオスカー・ウェブスター氏の弟子にして、新進気鋭の童話作家でしょう? 彼女に物語の執筆を依頼します。伝手はそちらにあるはずだ」
かつてC.H郵便社でドールとして働いていた彼女。
その紡ぐ物語の温かさは、すでに世間でも高く評価されており、小さな劇場で脚本が上演されるほどだ。
「なるほど、エリカちゃんなら適任だ……。よし、ノアさん。一枚噛ませてもらいますよ」
「ええ、資金はポンと出します。印刷機の導入から何から、一番いいものを揃えましょう」
札束が、また新しい道を作った瞬間だった。
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「——というわけで、先生にはすでに高額の原稿料を前払いし、新作の執筆に取り掛かってもらっている」
C.H郵便社の応接室。
俺は、向かいに座るヴァイオレットにそう告げた。
「童話……。きっと、とても素敵な本になりますね」
ヴァイオレットは少しふっくらとしたお腹を慈しむように撫でながら、静かに微笑んだ。
その表情は、かつて軍人として冷たい目をしていた頃とはまるで違う。
柔らかく、どこまでも母なる温かさを湛えていた。
「ええ。そこでなんだが、ヴァイオレット。君にも、この絵本事業の重要なポジションを任せたい」
「私に、でしょうか? 私には、物語を作るような才能はありませんが……」
「いや、物語はエリカ先生が作る。君にお願いしたいのは、『テキスト監修』だ」
俺は少し身を乗り出した。
「子供たちが初めて触れる言葉。その言葉が、どれだけ温かく、どれだけ人を愛するものか。手紙を通じて『愛してる』を知り、そして今まさに母になろうとしている君以上に、その言葉の重みを理解している人間はいない。私は、投資家としてのビジネス的確信を持って、君に依頼しているんだ」
ヴァイオレットは、自分の銀色の義手を見つめた。
手袋に包まれたその手は、かつて多くの命を奪い、そして戦後はそれ以上の数の想いを繋いできた手だ。
「……ノアさん」
彼女は、少しだけ声を震わせた。
あの感情の起伏が少なかったヴァイオレットが、一人の女性として、母としての不安を覗かせている。
「私は……怖いのです」
「怖い?」
「はい。私のような、かつて多くのものを壊してきた血塗られた手で……この鋼の義手で、あのように柔らかく、尊い新しい命を抱きしめてもよいのでしょうか。私が、子供に『愛』を語る資格が、本当にあるのでしょうか……?」
親になることの、根源的な不安。
それは、過去に大きな傷を抱える彼女だからこそ、より深く、暗い影を落としているのだろう。
俺は、小さく息を吐いた。
そして、いつものように尊大な、大富豪グラジオラス卿としての顔で笑ってみせた。
「なんだ、そんなことか」
「そんなこと……?」
「ええ。俺から言わせれば、親になる不安なんてものは、大型投資の前の緊張みたいなもんです」
俺は自分の両手を広げて見せる。
「ヴァイオレット、私の手を見てみなさい。ツルツルで、戦場の泥なんて一度も触ったことがない貴族の手だ。だけど、この手が動かしてきた金は、戦争の公債で稼いだ『血塗られた札束』でもある。間接的に誰かの命を奪った金かもしれない」
「ノアさん……」
「だが私は、過去の札束がどうであれ、今の札束が未来の子供たちの命を守り、心を豊かにするなら、胸を張って使うべきだと考えている」
ヴァイオレットの碧の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「君の手も同じだ。過去がどうであれ、今その手は、少佐殿を抱きしめ、人々の想いを代筆し、そして新しい命を慈しんでいる。君が今までに紡いできた言葉の温かさは、確かにそこにあった。エレンも知っている。だからこそ、君に頼みたいんだ。未来の子供たちに贈る、最高の言葉の監修を」
ヴァイオレットの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。
彼女はハンカチでそっと目元を拭い、そして、覚悟を決めたのか凛とした声で応えた。
「……承知しました。ご依頼、お引き受けします」
「実に結構。どうか最高の絵本を作ってくれ」
彼女の返事に、俺は心の底から満足して頷いた。
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その日の夕方。
俺は邸宅に帰り着いた。
「おかえりなさいませ、ノア君」
エレンが玄関で出迎えてくれる。
メイドの標準服はもう着ていない。
少しゆったりとしたマタニティドレスに身を包んだ彼女のお腹は、少しずつ、しかし確かに大きくなってきている。
「ただいま、エレン。体調はどうだ?」
「ええ、とても順調です。問題はありません」
俺は膝をつき、彼女のお腹にそっと耳を当てた。
トクン、トクンと、微かな、しかし力強い生命の鼓動が聞こえる気がする。
「……エレン」
「はい?」
「俺はもっともっと稼ぐぞ。世界中の札束をかき集めてでも、子供たちを守るための城、道を作ってやる」
「ふふっ。全く、またそんな大げさなことを言って」
エレンは呆れたように笑いながら、俺の髪をそっと優しく赤子に触れるように撫でた。
——大げさなものか。
——俺は本気だ。
一生ものになる絵本で言葉を教え、ベビーカーで安全な散歩道を約束する。
それはそう、より良い未来のために——。
インフラ投資に札束は惜しみなく