今年の夏、お盆。
僕は一人で帰省するつもりだった。
しかしその計画は、あっけなく崩れた。
「〇〇、帰るんだろ? じゃあ俺らも行くわ」
松田さんが言い出し、剣崎さんが「そうだな、行こう」と同意、高橋も「俺も!」と即決。
気づけば“聖闘士”3人が当然のように切符を手にしていた。
◇
実家に着くと、玄関が静かに開いた。
「あらまぁ、〇〇だけじゃなくて、みんなもいらっしゃい」
柔らかな声とともに現れた母さんは、蝉の声さえ一瞬遠ざけるような存在感をまとっていた。
肩までの髪が夏の光を受けてつややかに揺れ、涼やかな瞳がまっすぐに客を迎える。
ほんのり色づいた唇が微笑むたび、空気が少しだけ甘くなる気がした。
松田さんは、礼を言いながらも視線を落とせず、剣崎さんはわずかに息を飲んだまま固まっている。
高橋に至っては「やべぇ…」と小声で呟き、僕に足を踏まれていた。
母さんは台所に立ち、何気ない手つきで野菜を切る。
その横顔は、丁寧に暮らす人だけが持つ静かな美しさに満ちていた。
料理を運ぶたびにふわりと香る石けんの匂い、指先に残るわずかな水滴──どれも目が離せなくなるほど自然で、眩しい。
◇
夜。
「せっかくだから、みんなで盆踊りに行きましょう」
そして襖が開いた瞬間、空気が変わった。
紺地に朝顔の柄が咲く浴衣。
うなじの白さが、灯りに溶けるように浮かび上がる。
帯の結び目が歩くたびにわずかに揺れ、その度に視線が引き寄せられる。
「お待たせ。じゃあ、行きましょうか」
太鼓の音が遠くに響く中、母さんの歩みはゆったりと、しかし確かに人の視線を集めた。
会場に着くや否や、町の人たちが次々と声をかける。
「まぁ、〇〇ちゃんのお母さん!」「浴衣、とっても似合いますね」
その笑顔は、褒め言葉を受けても驕らず、ただ柔らかく、相手の心まで照らす。
踊りの輪に加わる母さんの所作は、ひとつひとつが丁寧で、流れるよう。
手をすっと差し出す指先、わずかに首を傾ける仕草──それらは意図せずして周囲を魅了していく。
まるで夜の灯りに浮かぶ女神。
僕はふと、隣に立つ松田さんたちが息を呑んでいるのに気づいた。
その横顔は、憧れと敬意と、少しの嫉妬が混じった複雑な表情だった。
──そして、その場には僕ら以外にも、偶然居合わせた青年がいた。
長身、整った顔立ち。
夜店の灯りに照らされる灰色がかった瞳は、少し涼しげで、それでいて底に熱を隠している。
浴衣姿の母さんを見つけた瞬間、彼の視線はぴたりと止まった。
紺地に朝顔の浴衣。
歩むたびにわずかに揺れる帯の結び、灯りに透ける白いうなじ。
母さんが微笑むたびに、その灰色の瞳がかすかに揺れる。
近くにいた町の人が囁く。
「あれが、〇〇ちゃんのお母さんだよ」
青年は短く息を吐き、ふっと笑った。
「……美しい」
その声には、異国の響きがわずかに混じっていた。
◇
踊りが終わり、帰り道。
僕らが手土産を抱えて会場を後にしようとしたとき、背後から声がかかった。
「──君が、〇〇くんだね」
振り向くと、さっきの青年が立っていた。
近くで見ると、その彫りの深い顔立ちは一層際立ち、鼻筋は高く、口元には余裕の笑み。
「自己紹介をしよう。白鳥(しらとり)だ。ロシアの血が少し入ってる」
松田さんが少し目を細める。
「……お前、何者だ?」
白鳥は涼しい顔で言った。
「君が鳳凰なら、俺は白鳥。女神を守る戦いに、参加させてもらう」
その言葉に、高橋が「何その中二名言…」と笑い、剣崎さんは「面白いやつが出てきたな」と腕を組む。
僕は混乱しつつも、大学の学生証を見せられて驚いた。
「……ロシア語学科? 同じ大学だったのか!」
「縁だな、〇〇くん。これからよろしく頼むよ」
母さんは状況を知らず、ただ微笑んで言う。
「お友達なら、また家にいらっしゃい」
──こうして、“聖闘士”たちの前に新たなライバル、“白鳥”が現れた。
夏の夜は、さらに騒がしくなる予感しかしなかった。
◇
踊りが終わると、手土産の山と共に、町には新しい呼び名が広がっていった。
──“女神を守る聖闘士”。
魚屋の兄貴も、八百屋のオジサンも、笑いながらこう言った。
「また女神を守りに来いよ、聖闘士たち」
そして僕は悟った。
来年の帰省も、きっと“女神”と“聖闘士”の夏になるのだろうと。