神様ムーブは疲れます 作:ゴリランド
誤字脱字あったらすいません。おいおい直します
風は刃であり、空は鞘であった。
黒衣の“神”がそこを突き抜けるたび、音は遅れて砕け、風圧はあとを追うように押し寄せる。
彼の身体を巡るのは、制御された魔力の奔流だった。
全身に行き渡った力が推進力へと変換され、その副産物として漆黒と紫のオーラがほとばしる。
それは炎でも光でもない。まるで夜空を身にまとい、雷を縫い合わせたような光景だった。
(……すげぇ。やっぱすげぇよ、これ。本物の空を、俺の力で飛んでるんだ。いや正確には、魔力を身体に巡らせて押し出してるだけなんだけど……そのおかげで、オーラを纏った“神”に見えるんだよな。ジブリールに頼めば瞬時に転移できる。だけど、それじゃこの感覚は絶対に味わえねぇ。呼吸と重力のあいだを、自分の意思で突き抜ける……それが、ずっとやりたかったんだ)
「フフ……フハハハハハ! 見よ、この神威を!
天は私を戴き、地は私を仰ぐ。
世界の理は、すべて私の歩みによって刻まれるのだ!」
芝居がかった声は、稲妻を孕む漆黒のオーラとともに空へ散る。
外面は傲慢な神の演説でありながら、内心は胸の奥でわくわくが跳ね続けていた。
眼下には、どこまでも続く蒼の海。
水平線は果てしなく延び、雲の切れ目すらほとんど見当たらない。
ただひたすら、同じ景色が続く。
(……やべぇ。これ、ずっと海じゃん。何にも変わらねぇ。北海道の一本道を延々と車で走ってるみたいだぞ。信号も建物も無い道を、ただ真っすぐ、同じ風景の中で。……時間の感覚おかしくなるわ。今、俺どんだけ飛んでんだ?)
本来なら数瞬で過ぎるはずの距離。だが、体感は無限に近い。
空も海も、色を変えることなく、同じ景色を押しつけてくる。
その単調さが逆に圧力となり、“神”を名乗る彼の心臓をひそかに圧迫していた。
退屈に足を取られたとき、記憶がふいに浮かんだ。
(そういや……あのドラゴン。俺、どんな仕様にしたっけ……? 元の作品じゃドラゴンはほとんど描かれてなかった。だから、別の作品から引っ張ってきた……ような。いや、してないか? どっちだ……。わかってるのは――盛った。盛りに盛ったってことなんだけど)
ようやく、無限に続く蒼の海の向こうに、大陸の影がのぞいた。
長すぎる海越えを経て辿り着いたそれは、ただの地形ではない。
境界線を越えた瞬間、風の質が変わったのだ。
空気が重い。
吸い込めば、胸の奥でざらつきが走り、肺がきりきりと締めつけられる。
遠くからでもわかる。大地そのものが濁っていて、吐き出す息すら黒ずんでいるような錯覚。
(……空気が悪ぃ……。間違いない、目的地は近い。近づけば近づくほど、肺に刃を突っ込まれるみたいに痛ぇ……。瘴気ってやつか。こりゃ確実に“正解”だ)
大陸の奥から立ちのぼる黒い霞は、風に流されてもなお拡がり続ける。
神の皮膚は、その異質をはっきりと感知していた。
“ここに異常がある”と。
やがて、黒い円環が大地に焼き付いたような光景が視界に迫った。
瘴気にむせぶ大地は草木を拒み、ひび割れた岩肌から黒煙を吐き出している。
その円環を取り巻くのは、数え切れぬ竜影。
いずれも一体で都市を滅ぼす規模の巨体ばかり――だが、そこにひしめいているのは群れに過ぎなかった。
中心にあったのは、ひとつの影――否、影と呼ぶにはあまりに濃すぎた。
それは世界の墨を塊にしたような巨影であり、存在そのものが光を拒絶していた。
三つの首は互いに別の方向を巡らせ、同時に笑い、同時に嗤い、同時に沈黙している。
その眼窩から滲む光は、赤、蒼、紫と異なる色を灯し、見下ろすだけで心臓を握り潰されるような錯覚を与えた。
六枚の翼は大空を掻き裂くためだけに存在し、羽ばたくたびに空気そのものが汚濁に変わる。
光を呑み込み、熱を拒み、周囲の景色を“色のない虚無”に塗り替えていく。
尾は地平線を貫き、まるで大陸そのものを縫い留める杭のようだった。
それは見るからに単なる竜ではない。
見上げること自体が冒涜であり、同時に本能が「跪け」と命じてしまう、畏怖そのものの具現。
世界にとっての災厄ともいえよう存在がいま眼下にあった。
“神”は滞空したまま、眼下の光景に皮膚が粟立つのを感じた。
重圧は、ただ存在するだけで周囲を潰す。
瘴気は大地を腐らせ、空気を肺に入れるたび刃物で抉られるように痛んだ。
(……あっ!思い出した。あのMOD……そうだ、アジ・ダハーカだ。俺が盛りに盛った“最強の龍”だ)
胃の奥が軋んだ。だが同時に、妙な懐かしさが胸を撫でていく。
ゲーム時代。
彼はまず、MODで自分を盛った。
攻撃力、防御力、回復力、全能力値を桁違いに跳ね上げ――結果、ゲームバランスは一瞬で崩壊した。
一方的に蹂躙するだけの戦闘は驚くほど退屈で、まるで神を気取る芝居を続けているようで、実際には何の刺激もなかった。
だからこそ、敵もまた盛る必要があった。
戦う価値のある強敵を、システムそのものに埋め込む必要があった。
そうして作られたのが「敵追加・強化MOD」だった。
既存のボスを大幅に強化し、弱小種族にすら指導者や王を与え、世界全体を難易度ごと作り変えるパッケージ。
そして、その終盤。神をも試す“最終関門”として設計されたのが、アジ・ダハーカだった。
ゲームのレベルリストに追加したMOD魔法を含む、全属性の魔法を同時展開、クールタイムは存在しない。
与えた攻撃は常時自動回復で帳消しにされ、さらに血肉から無尽蔵に邪龍が生まれる。
増える邪龍は一体ごとなら弱いが、数が積み上がるほど戦場は埋まり、群れの暴力で押し潰される。
ただの火力勝負では絶対に勝てない。攻略にはギミックを理解し、戦略を組み、なおギリギリの苦戦を強いられるよう設計されていた。
だが、その仕様はゲーム内に留まらなかった。
三つ首に別個の意識を走らせ、六翼での高速飛翔を同時演算させた結果――それだけでもPCへの負荷は桁外れだった。
だが、本当に恐ろしいのはそこから先だ。
攻撃を加えるたびに無尽蔵にスポーンする邪龍たち。
それぞれに独立した挙動を与え、群れとして連動させるAI処理は、CPUだけでは到底捌ききれない。
さらに三つ首の意識には、生成AIを組み込み、“挑発”“冷静”“口悪”の三種の人格を即興で喋らせていた。
その結果、彼らの掛け合いはまるで人間のように自然で、同時に演算負荷は天井を突き抜けた。
要求されるのはCPUだけではない。
同時展開される数万単位の魔法陣をリアルタイム描画するには、GPUもハイエンドが必須。
処理が追いつかない環境では、魔法陣が崩れ、テクスチャはバグり、ついには画面全体が真っ黒に落ちる。
グラフィックボードの温度は80度を超え、ファンはジェット機のように唸りを上げた。
CPUは100%に張り付き、タスクマネージャーの棒グラフは真っ赤。
ケースからは熱風が吹き出し、夏場なら室温が一気に数度跳ね上がる。
やがて処理落ちに音声ノイズ、そしてお約束の強制シャットダウン。
プレイヤーたちが口を揃えて言ったのは一言――
「リアルでもPCを焼く悪魔」。
だが、その“悪魔”を造り出した本人にとっては違った。
それは、神様ムーブを演じるための最高の舞台装置だったのだ。
それが、アジ・ダハーカ。
MODの果てに生まれた、最強にして最悪の邪龍である。
(……そうだ。追加MODを作るとき、真っ先に“竜王枠”に据えたのがコイツだった。
いつも参考にしていた原作にも、もちろんドラゴンは存在していた。むしろ設定上は“最強格”の種族だった。
だが、当時は原作での模写があまりに少なかった。
映像もなければ、詳細な書籍資料も乏しい。
“強い”というイメージだけがあって、具体的にどう造形するかは決め手に欠けていた。
だから、俺は別の作品から引用した。
見た目や能力の断片を拝借し、原作の“最強ドラゴン”というイメージを肉付けするように組み合わせた。
そのうえで、理不尽なまでに盛り込み、終盤の壁に据えたのだ。
強すぎて理不尽。
それでいて、挑む価値のある存在。
……それが、アジ・ダハーカ)
彼は今、その創造物を“現実”に見ていた。
黒い瘴気は大地を呑み、視界の端から端までを覆う。
岩肌は腐蝕したように黒ずみ、そこに巣食う竜たちは怯えにも似た沈黙を保っている。
その中心に、三つ首の巨影。
(……アジ・ダハーカ。俺が盛りに盛ったラスボス。処理落ちさせてPCを焼いた“悪魔”が、いま目の前に……。
つまるところ――勝てんぜ!今の俺じゃマジで無理!)
黒衣を揺らし、傲然と滞空したまま、眼下を睥睨する。
その視線の先には、瘴気をまとい大地を縫い止める三首の邪龍。
胸の奥で冷や汗が渦を巻きながらも、外面は決して崩さない。
(――来い、ジブリール)
呼吸ほど自然に落とした名に、空間がしなった。
紙袋の底が内側へ折れるように、光の皺が生まれ、その裂け目から白と金の影が出る。天翼種――ジブリール。
降りるでも飛ぶでもなく、「最初からそこにいた」という顔で、場所を占有する。
「いつもニコニコ、マスターのお呼びに即応ゼロ秒。這い寄る叡智と混沌を兼ね備えた――ジブリールでございます!
……ああ、なんと圧倒的な魔力でしょう。まるで大地そのものが呼吸しているみたいです。
この私にすら匹敵する膨大なエネルギー……素晴らしい。全身の細胞が震えております」
神はゆっくりと指を下へ向けた。眼下の瘴気を裂いて鎮座する三首の巨影を示しながら、静かに口を開いた。
「ジブリール。あれに勝てるか」
問いは平板だが、声の裏にはわずかな震えが混じる。
ジブリールはその金の瞳を細め、唇に愉悦を刻んだ。
「ええ、マスター。あの規模は他の者には荷が重いでしょう。ですが、この私ならば――勝てます」
「ほう?」
「この四百年、退屈ゆえに自らに課題を与えてきました。膨大な魔力の制御、空間構築の反復……そしてマスターの期待に応えるという妄執」
その即答に、神の胸裏はふっと軽くなった。
(……よし。ジブリールがそう言うなら大丈夫だ。うん、大丈夫。俺は神……私は神だ。問題ない。絶対にだ)
黒衣をはためかせ、彼は眼下へと降下する。
神が大地に降り立つ、その芝居を最大限に誇張しながら。
「――我が姿を見よ」
轟音とともに瘴気が割れ、神は三首竜の眼前へと現れた。
黒きオーラをまとい、足元に影を滲ませながら、朗々と声を響かせる。
「我は神なり。人も、エルフも、竜すらも、その理のもとに跪く存在。……おまえもまた、そうであろう?」
三つの首が、わずかに動いた。
中央の首が笑いもせず見下ろす。
左の首は肩を震わせ、乾いた笑いを撒き散らす。
右の首は牙をむき、喉の奥で嗤った。
「クハハ! おいおい聞いたか? 神だとよ!」
「……自らを神と称するか。だが、この場で竜に崇拝を迫るとは……実に滑稽だ」
「ケッ! そんな芝居に従うくらいなら、背骨からしゃぶり尽くしてやるわ!」
その反応に、神は眉を吊り上げ、声を張り上げた。
「神を笑うか。ならば知るがいい。神は時に、愚かな下僕に恵みを与える。力を与え、導き、光をもたらす。――だが、それを拒むならば……」
三首竜の三重の声が、同時に割って入った。
「拒む? フハハ、違うな」
「神の恵み? ならば奪い取る」
「骨の髄まで、すべて俺たちの糧に変えるッ!」
三首竜の嘲笑が大気を震わせると同時に、背後でジブリールがすっと前に出た。
金の瞳に射す光は、いつもの知識欲ではなく、灼けるような敵意。
「……ああ、なるほど。あなた方は“神を笑う”という大変貴重な愚行を選択なさったのですね。さすがは邪龍、脳の代わりに瘴気でも詰まっているのでしょう。観測対象としては面白いのですけどねぇ――吐き気がするくらい下品なのですよ」
羽を広げ、髪を揺らしながら、声を荒げる。
「いいでしょう。
マスターを侮辱したその舌、切り落として標本にして差し上げます。
ついでに三つ首まとめて、灰も残さず消去いたしましょうか」
低く呟いた次の瞬間、ジブリールの掌に黒い光が凝縮した。
それは刃の形を成し、やがて大鎌となる。
漆黒の刃が空間を切り裂き、存在そのものを断絶する。
振り抜かれた一撃は、空間そのものを切り裂く断絶だった。
回避も、防御も、反射すらも許さない。
ただ在るものを“なかった”ことに変える、絶対の斬撃。
――それでも。
アジ・ダハーカは空間を一枚、前で畳んだ。
折り紙のように折り畳まれた現実の層が、黒き断絶を吸い込み、皺として飲み干す。
本来なら絶対に成立しないはずの防御が、そこに成立してしまった。
左首が楽しげに舌なめずりをした。
「いいねぇ、その切り口! もっと見せてくれよ!」
中央首は薄く瞼を細め、冷ややかに言い放つ。
「……手際が良い。だが、その程度では我を裂くには至らぬ」
右首は鼻で笑い、牙を剥いた。
「ククッ……だからどうした。削り合いで勝てると思ったか?」
アジ・ダハーカの三首が同時に咆哮する。
その振動は大気を震わせ、竜群にまで届いた。
「退け」
「ここから先は遊戯ではない」
「邪魔をするなら同族でも喰い殺すぞ!」
群れていた無数の竜たちが一斉に散り、黒い雲を裂いて退避していく。
直後、アジ・ダハーカの三首が同時に咆哮した。
その声に呼応するように――空が、塗り潰された。
地平線の果てから果てまで、数千~数万を優に超える魔法陣が展開される。
大気は軋み、世界の天蓋に赤・青・紫・黒の光環が幾重にも重なった。
それはもはや「空に描かれた術式」ではなく――夜空そのものが魔法陣に置き換わったかのような光景だった。
轟々と唸る炎の紋は太陽を飲み込み、
凍てつく氷の陣は風を閉ざし、
稲妻の輪は星座を裂き、
暴風の渦は大地を逆巻かせる。
さらに闇の門が開き、光の柱が突き上がり、禁呪の奔流すら混じり合う。
昼だったはずの空は、次の瞬間――完全に夜へと転じた。
暗黒と極光が幾千も交錯し、天地が裏返る。
それは世界が崩壊へ突き進む前兆のようでもあり、観測した者の精神を容易に折る“光景そのものが呪い”だった。
(な、なにこれ……!? 桁がおかしい、絶対におかしい!……おしっこ漏れるって!)
心臓が悲鳴を上げる。膀胱まで悲鳴を上げかけていた。
今すぐ背を向けて逃げ出したい――そんな本音を押し潰しながら、彼は必死に外面を取り繕う。
黒衣を翻し、冷笑を浮かべる。
声は神らしく冷たく響いた――はずだった。
だが耳の奥では震えが混じり、背筋を汗が伝っていた。
そして、顎をわずかにしゃくってジブリールに命じる。
「……あとは任せた」
その一言を残すと同時に、神は黒いオーラを爆ぜさせた。
空気を裂く轟音とともに、身体は上昇へと弾かれる。
外から見れば、悠然と舞い上がる神の姿。
だが内心は――
(やべぇやべぇやべぇッ! こんなん真正面から食らったら一発で蒸発だろ!? 逃げろ逃げろ逃げろおおッ!!)
必死に声を押し殺しながら、マッハで魔法陣群のさらに上へと駆け抜ける。
裾を翻す姿はあくまで“神々しく”。だが、その速度はどう見ても“逃げ腰”そのものだった。
「――っ、マスター……!」
ジブリールの瞳が爛々と輝き、頬が熱に染まる。
大鎌を抱きしめるように胸元へ引き寄せ、唇を震わせながら笑う。
「ふふ……ふふふ……マスターが私に任せると仰った……!
ああ、嬉しい……この瞬間のために生きてきたんです。
何もかも壊してでも、マスターのために勝ちます……!」
その声は、恍惚と狂気の狭間にあった。
愛と破壊がないまぜになった祈りのような響きが、空気を震わせる。
全魔法陣が同時に発動した。
炎が夜空を呑み込み、氷が風を凍らせ、雷が星を裂いた。
暴風が天地を砕き、闇が世界を閉ざし、光がすべてを焼き尽くす。
天地そのものを消し飛ばす奔流が、ジブリールの立つ空域を中心に炸裂した。
――爆心地は、跡形もなく吹き飛んだ。
中心地では大地が丸ごと消え失せ、巨大なクレーターが穿たれている。
山は斜面ごと削ぎ落とされ、森は燃え残りすらなく灰に変わった。
地平線に並んでいた岩峰は倒れ伏し、川は蒸発して白い靄だけを残す。
空は炎と氷の衝突で裂け、黒煙と稲光が複雑に絡み合う。
昼はとうに失われ、視界いっぱいに広がるのは夜の帳に似た混沌。
一帯は、ただ“壊された”のではない。
まるで存在自体を削り取られ、痕跡ごと抜き取られたかのようだった。
常識的に考えれば、あの中心に立っていた存在など、欠片すら残るはずがなかった。
だが。
爆煙が晴れた時、そこに立っていたのは――ジブリール。
白金の髪を揺らし、羽を広げ、黒い大鎌を携えたまま。
衣の裾に煤一つすら付着せず、足元の空間はまるで別世界のように澄み渡っていた。
「……マスター。ご期待に沿えるよう、本気を出させていただきます」
その声音には、知識欲の悦びと、血を求める狂気が同居していた。
アジ・ダハーカの三つ首が同時に咆哮した。
その咆哮は天を裂き、空一面に広がる魔方陣群が一斉に唸りを上げる。
――そして、放たれた。
光の雨。
数百に及ぶ魔法陣から、火焔、氷槍、雷槌、闇弾、光柱――ありとあらゆる魔術が、途切れることなく降り注いだ。
それは嵐ではなく、連続砲火。空そのものが魔法の砲台と化し、一瞬たりとも休みのない“殲滅の雨”がジブリールを押し潰さんとしていた。
だが、それだけでは終わらない。
「ククク! 逃げてみせろよ、小娘!」
「……避けるか、切るか。どちらにせよ興味深い」
「全部まとめて喰らわせてやるッ!」
三首が同時に嘲笑すると、本体からの術が重なる。
燃え盛る髑髏の炎――紫に揺らめくそれは、ただ燃やすのではない。魂ごと焼き尽くす呪火。
嵐を孕んだ突風――ただの風ではない。無数の囁きが混じり、聞けば精神を腐らせる呪詛の竜巻。
雨のように途切れぬ弾幕と、確実に仕留めるための大技。
二重の殺意が、天地を埋め尽くした。
――その中を。
ジブリールは羽を翻した。
白金の羽根が弧を描き、彼女の軌跡は一瞬で空に白線を刻む。
音すら追いつけぬ速度で旋回し、雨のように襲いかかる魔術を紙一重で回避していく。
さらに、迫る呪火を翼の下で滑り抜け、暴風を足先のひねりで外す。
彼女の動きは舞踏のようでありながら、その実、すべてが致命を避けるための計算された旋回だった。
空は弾幕で覆われ、逃げ場などどこにも存在しない。
だがジブリールは、そこに“道”を描いていた。
白金の線は、地獄の檻を突き破る一本の軌跡として刻まれていく。
同時に、大鎌が唸りを上げた。
漆黒の弧が空を切り裂き、次の瞬間――竜の胴を両断し、三つ首のうち二つを一息で断ち落とした。
血飛沫は紫に輝き、呪符のような光の粒となって散る。
巨大な肉塊と鱗が重力に引かれ、地へと落ちる――はずだった。
しかし。
「ハッハッハ! いい切れ味だ!」
「……だが無駄だ。首など再生する」
「首一つで足りるかよ! 三つ分でも喰らってみろォ!」
嘲笑とともに、断たれた断面から肉と骨が盛り上がった。
うねるように蠢く血肉は自らを紡ぎ、砕けた骨は鋼のように伸び、再び牙を備えた顎を形作る。
瞬きする間に、失われた首が再生し、再び三つの瞳が邪悪に輝いた。
紫の血潮は地に落ちる前に光の紋を描き、呪詛を帯びた霧となって空間を汚染する。
欠損部位すら“痕跡”を残さず、完全に埋め戻されていた。
ジブリールは一度、距離を取って大鎌を構え直す。
白金の髪を揺らしながら、しかし声音は冷静そのものだった。
「……やはり。想定通りでございますね」
唇の端に、微かな愉悦の笑みが浮かんでいた。
ジブリールは眉一つ動かさず、手を空に広げた。
その場に一瞬で、空間の皮膜が生まれる。
膜は淡い光を帯びたその一瞬――
まるで世界全体を包み込む極薄のガラスのように、彼女の全身を覆った。
振動は止まり、周囲の魔法の奔流は膜の前で消える。
アジ・ダハーカの一射たりとも、膜に触れた瞬間に立ち位置を失い、術式ごと引き剥がされて――別の“場所”へと吸い込まれていく。
消えたのか、吹き飛んだのか、存在そのものが “時空の外側” へと弾かれたようだった。
しかし、その膜が万能だったわけではない。
全身を覆っているように見えても、実際には視覚や感覚を維持するために残された“隙間”がある。
眼、羽の付け根、接地の瞬間――そうした器官の局所は、どうしても膜が完全には覆いきれない。
そこを正確に突いた。
ジブリールの眼球を狙い澄ました、わずかな誤差も許さぬ鋭い魔弾。
「……!」
瞬間、ジブリールの瞳が冷たく光を宿す。
大鎌を逆手に握り、腕が裂帛のごとき勢いで振り抜かれた。
刃はただ空気を裂くのではない。
空間そのものを断ち切り――迫る魔弾を虚無へと送り込む。
かすかな残響だけを残し、魔弾は痕跡ごと消滅していた。
「……やはり“器官狙い”ですか。即座に看破されるとは……悲しいことですね」
ほんのわずかに眉が沈む。
だが次の瞬間、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「――けれど同時に、嬉しくもあります。
私をここまで観察し、弱点を見抜いた相手など……久しくいませんでしたから」
返す刃は容赦がない。
ジブリールがひと捻りで高度を落とし、大鎌を水平に引く。漆黒の弧が邪龍の肩口から腹下を切り抜け、続く返しで二つの首を斜めに飛ばした。
紫の血潮は空中で灯り、呪句めいた光の粉塵を撒き散らす。
「ハッハッハ! いい切れ味だ!」左首が転がりながら笑い、
「……だが、終わらない」中央首の根元で肉が芽吹き、
「首一つで足りると思うなよ!」右首が嗤う。
断面から骨が伸び、腱が繋がり、皮膜が被さる。瞬きより速く、三つの眼が邪悪に灯りなおす。
上からはなおも魔法の雨。横からは紫炎の髑髏。背後からは吐息に混ざった呪詛の突風。
ジブリールは膜の内側で身体を二度ひねり、白金の線で三角形の回避軌跡を描く。髑髏がかすめた空間は黒く焦げ、突風の通り道は雲を巻き取って消す。地上では外れた一条が大地をえぐり、土煙が瘴気に溶けた。
「……そろそろ、遊びはここまで」
囁くと、彼女の姿が揺らいだ。
視界から掻き消えた――と認識が追いつく前に、もう次の場所にいる。移動にかかった時間は、0.02秒。
雷より短い滞空ののち、ジブリールは邪龍の真上に立っていた。
「なっ――」
驚愕の声が三つに割れる。
言葉ごと、踵が降りた。
一切の術式を載せない、純粋な力だけの蹴り。白い脚が鱗を凹ませ、その下の骨格を折り、質量ごと叩き落とす。
巨体は地に激突し、地表に新たな裂け目が走った。砂と瘴気が噴き上がり、山肌が震え、群れていた竜が本能で遠ざかる。
ジブリールは羽を軽く鳴らし、落下地点の縁に舞い降りる。大鎌の刃先から黒がほどけ、霧のように宙に消えた。
目が細まる。声の温度が、一段落ちた。
「ここまで私と対面して、まだ息があるのは――あなたが初めてです。あなたを強者と認めましょう」
三つの眼が細められる。左は楽しげに、右は苛立たしげに、中央は静かに。
ジブリールの足元に、冷気がひとつ息を吐いた。
「……ですが、マスターの時間は奪えません。次でケリをつけます。三百年磨いた私の“オリジナル”な技で――口は閉じていてくださいね、すぐフリーズしますので」
両腕を、静かに広げる。
音が消えた。まず、風が止んだ。次に、空気の粒が震えを忘れる。
白い靄が、ジブリールを中心として花のようにひらく。霜の結晶が空中に咲き、触れた瘴気から色を奪っていく。
冷えではない。熱が「いなくなる」。世界から、ひとつの性質だけが抜き取られていく。
地に伏した邪龍が、砕けた頸椎を再生しながら首をもたげる。
三つの口腔が同時に開いた。吐き出されたのは、炎。
ただの火ではない。地獄を連想させる、見ただけで皮膚が泡立つ劫火。色は黒に近い赤、芯は白く、周囲の光を吸い込んで揺らぐ。
大地が焼け、空が軋む。凍りつくはずの空間で、火だけがなおも燃え上がる。
「燃えろォ!」右首が咆え、
「凍結の核心を乱す」中央首が値踏みし、
「焼き切ってやる!」左首が笑う。
――だが、炎は伸びなかった。
ジブリールの前に辿り着く寸前、熱は色を失い、燃焼のかたちごとほどけた。
火は火のまま凍り、舌のように伸びた炎の縁から霜が咲く。爆ぜるはずの衝撃は、音になる前に消え、白い花弁だけが空中に増殖していく。
「無駄でございます。私が行っているのは、タダの氷結魔法などという安っぽい手品ではありません。――この場の運動分子を丸ごと別空間へ退避させ、熱伝導のキャリアそのものを削除しているのです。結果としてエネルギーの移動が絶たれ、系は強制的に静止状態に固定される……まあ、俗に言う“絶対零度”でございますね。
……あら、少々難しかったでしょうか? 簡単に申せば、炎が生き残れる余地は一片もない、ということでございます」
ジブリールが指先を少しだけ閉じた。
その動きに応じて、冷えは層を増やす。薄いガラス板が幾重にも重なるように、目に見えない盤が空間を埋め、邪龍の四肢を固定していく。
鱗は軋み、関節は白く塗り込められ、喉の奥で燃え続けた火すら、氷の輪に封じ込められた。
「な、にっ――!」
左が驚き、右が吠え、中央が初めて目を見開いた。
凍りは外からではなく、内側からも迫っていた。血の流れが止まり、神経の電が遅れ、筋肉の収縮が鈍る。
首の根元から肩、胸郭から腹腔へ、音もなく氷の線が走る。黒い鱗の隙間で、雪の結晶が星座のように灯った。
最後の抵抗に、邪龍は再び火を噴いた。
劫火はその名にふさわしく地獄の色で渦を巻く――が、触れた先から順に、炎自体が凍りついて落ちる。
白い欠片が鈴のような音を立て、足元の氷床に散った。
数拍。
そして、終止符。
三つ首の邪龍は、一本の巨大な氷像へと収束した。
開きかけた嘴は氷に封じられ、見開いた眼は透明の内に固定され、羽ばたこうとした翼は白い層に縫い止められて動かない。
周囲の大地は、一面の白に呑み込まれていた。
岩肌の稜線は凍結した波のように硬直し、地割れの底には氷の光が沈殿している。だが、それだけでは終わらない。
水平線の彼方まで――空気の揺らぎすら、完全に消えていた。
雲は羽毛の一枚一枚が切り抜かれたまま宙に貼り付けられ、風の流れを忘れた。砂塵は舞い上がった姿勢のまま停止し、光の粒は屈折する先を失って宙で凍りつく。
空気も、大地も、天と地を満たす分子すら、その運動を奪われた。
振動はなく、温度はなく、時間の針さえも折り畳まれたような――“無”。
耳を澄ませても、音は戻らない。
風も呼吸もない。世界が、静止画のように閉じ込められていた
ジブリールは氷像に歩み寄り、掌をそっと重ねた。瞳は穏やかに、声は静かに。
「……ここまで、よく頑張りました。強者らしく、凍っていてください。マスターをお待たせするわけにはいきませんので」
そこへ、黒衣の影が音もなく降りた。
神は氷の荒野に、影だけを置くように立つ。
白銀の世界は、水平線の先まで“止まって”いる。彼の外套だけがわずかに揺れ、凍てついた空気の上に黒が落ちた。
(……ジブリール、やべぇ。どうしたらこうなんの? すげー……いや、語彙が死ぬ。落ち着け俺。――外面は神)
顎を上げ、芝居がかった冷笑を整える。
「よくやった、我が翼。天は我に道を開き、地は我の歩を待つ。……ふむ、こやつは死んだか?」
黒いオーラを薄く纏いながら、氷像と化した三首へ歩を進める。凍りついた鱗は光を飲み、張り付いた氷の花が星座のように瞬いていた。
「マスター、ストップです」
背からジブリールの声。柔らかいのに、刃のように鋭い制止だった。
「……なんだ」
「この一帯の“運動分子”を、いま別空間へ退避させている最中でございます。私の近くから離れれば離れるほど、まだ戻しきれていない領域に踏み込むことになります。どうか、当面は私の周囲から離れないでください、マスター」
(……よくわからんけど……ぜんぶ止まってる……しゅごい……。氷の絵本のなかに来たみたい)
外面は崩さない。
「ふ……我が身を案ずるか。我は神、世界の理の上に立つ」
「もちろんでございます。ただ……“世界の理”を語るその前に、マスターの御身が欠損してしまうような光景は、私としては大変趣味が悪く、望ましいものではございませんので」
ジブリールは掌をひらりと返した。
止めていた“動き”が、彼女を中心に段階的に戻っていく。氷の花びらがわずかに震え、遠い雲の輪郭に初めて薄い流れが生じる。風の糸が一本、二本と編まれていき、世界にスローモーションの呼吸が帰る。
「完全に別空間へ逃がしていた分子を、少しずつ戻しているところなのでございます。いっきに戻したら、温度差でド派手に吹っ飛びますからね。ここまではセーフティ圏……ですが――マスター、私の半径十歩から外れちゃダメですよ?」
「理解した……これも神の理か」
神は氷像へ歩み寄り、伸ばした指先を――触れさせる直前で止められた。
ジブリールの手が、そっと彼の手首を押し返している。
「マスターがこのような龍ごときに直に触れられるなど、あまりに不敬でございます。穢れで御手が腐ってしまってはなりませんから。ここは私が」
言い終えるより早く、彼女の掌に魔力が集束する。
乾いた音。氷像の三つの頭のうち、一つが粉砂糖のように崩れ落ちた。氷の粒子が舞い、凍った空気に無音の雪が降る。
同時に、崩れた首の断面で紫の光が脈打つ。
肉が芽吹き、骨が伸び、皮膚が張る。数呼吸で、新しい首が“生えた”。
――ただし、首だけ。
胴は、動かない。翼も、動かない。
凍結の層は、要所を外さず残されていた。
左首が舌打ち混じりに笑った。
「チッ……やるじゃねぇか、嬢ちゃん。ここまで固めといて、首だけ再生させるなんてよ」
中央首は静かに瞼を細める。
「……合理的だ。動かすべき機能だけを許可し、他は凍結。対話の準備まで整えてくれるとは」
右首は歯噛みし、吐き捨てる。
「ケッ……やれやれ、これじゃあ“うなずく”ことすらできねぇ」
ジブリールは肩を竦め、気のない口調で毒を滲ませた。
「無駄なあがきはお控えください。申し添えますが、私はタダの氷結魔法などという安っぽい手品は使いません。周囲の運動分子を別空間へ退避させ、熱のキャリアを切っているだけ。――あ、少々難しかったでしょうか。簡単に言うと、暴れる余地は一片もありません」
神は顎をわずかに上げ、ゆっくりと三つの眼差しを受け止める。
黒衣の裾が氷に影を落とし、声は優雅に冷たい。
「先ほどの無礼、覚えているな。神はさきわたる。恵みも与えよう。だが、逆らう愚か者には“序列”を教えねばならん」
(手、震えるな。俺、いや私は神。神。……神!)
左首が乾いた笑いをひとつ零した。
「クハハ……参った。ここで暴れても、首だけ増えて見世物だな」
中央首は淡々と告げる。
「認めよう。お前は強者だ。あの女も、強者だ。――対等の戦いを望んだが、今日は縁が悪かった」
右首は唾を飲み込み、悔しげに鼻を鳴らす。
「ケッ……屈辱だが、もう抗えねぇ……。どうか……命だけは取らないでくれ……。代わりに、この俺の力を……お前に預けてやるからよ」
神は冷たい微笑を深めた。
「ようやく理解したか。跪く者にだけ、神は生を許す。――これより貴様の意志は我の意志。逆らう余地はない」
アジ・ダハーカの三つの首が、ゆっくりと角度を下げる。
うなずけない身体の代わりに、視線だけが氷越しにきちんと伏した。
ジブリールは静かに歩み出ると、掌を掲げた。
「……では、我々の犬として大人しく尻尾を振るとお決めになった以上、そろそろ拘束を解いてあげましょうか。――ペットを氷漬けのままにしておくのは、少々趣味が悪いですから」
彼女の指先から奔る光が、氷像の胴体を一瞬で縫い裂いた。
邪龍の巨体は、氷に閉ざされて色を失い、まるで石像のように沈黙していた。
だがジブリールの光が走ると、その身体は霧散することなく、ガラス細工を砕くように細かく割れていく。
砕かれた氷像の中で、なお蠢いていたのはアジ・ダハーカだけだった。
切断面から紫黒の肉が糸を引きながら滲み出し、じわじわと広がっていく。
その肉はぶくぶくと泡立ちながら膨れ、裂け目の奥で軋む骨が伸びて絡み合い、無理やり胴の骨格を形づくっていく。
筋肉の線維は腐肉のようにちぎれては繋がり、蜘蛛の巣めいて胴を覆う。
そこに血の塊が脈打つように芽を吹き、臓腑を模した肉袋が次々と生成されていった。
表層には灰黒の鱗が芽吹くように噴き出し、まだ乾ききらぬ血に濡れながら張り付いていく。
ぬめる音と鉄臭い匂いの中で、三つの首は喉を震わせて呻いた。
胴を持たぬ怪物が、欠損を埋め合わせるかのように新たな肉体を構築していく――その光景は、命の再生というよりも腐敗そのものの逆再生だった。
左首は冷笑を浮かべ、皮肉を吐き捨てた。
「フン……なるほどな。丁寧に戻す知恵もなく、こんな乱暴な方法しか思いつかんか。――神の使いにしては、ずいぶん安っぽい芸当だ」
中央首は淡々と観察を続ける。
「……いや、あえてだ。苦痛を伴わせることで服従を深く刻み込む狙いだろう。効率は悪いが、示威としては効果的だ」
右首は牙を鳴らして怒声を響かせた。
「クソがッ! わざとやってるに決まってんだろ! 痛ぇんだよッ、内臓から這い出させやがってェ!」
ジブリールは小さく肩を竦め、愉快そうに微笑んだ。
「まあまあ、まだ文句を言えるだけの余裕が残っていたのですね。……でしたら幸運だと思ってくださいませ。本来なら欠片も残さず消し飛ばすところを、こうして“動ける状態”にまで戻して差し上げたのですから。
もっとも、マスターの犬として尻尾を振るのですから、その程度の不快は我慢なさるべきでしょう。――ペットが飼い主に文句を言うなど、少々お行儀が悪うございますよ?」
アジ・ダハーカは唸り声を洩らしながらも反論できず、氷越しに視線を伏せるしかなかった。
ジブリールはそれを一瞥すると、羽をたたみ直し、恭しく頭を垂れた。
「……片付きました。マスター、アヴァント・ヘイムへ戻りましょう」
金の瞳に映るのは、ただ主のみ。
マスターは黒衣を翻し、尊大な笑みを浮かべた。
「ふむ。神の居所にこそ、帰還の道はある。――行くぞ、ジブリール」
ジブリールが軽く頷くと、空間に白い亀裂が走り、裂け目の向こうに天空の神殿が覗いた。
その背後には、すでに氷から解き放たれたアジ・ダハーカが影を落としている。
三つの首はいずれも怯えを見せず、ただ静かに伏した眼差しで新たな主を見据えていた。
ジブリールはくすりと笑みを洩らし、毒を滲ませる。
「ふふ……マスターのワンちゃんとしては上出来でございますね。――もっとも、首が三つもあっては、どの頭で尻尾を振るか迷うでしょうけれど」
左首が低く鼻を鳴らし、冷ややかに吐き捨てる。
「フン……犬呼ばわりか。随分と安い皮肉だな」
中央首は瞼を細め、理性を装いながらも声に棘をにじませた。
「……比喩としては理解できる。だが、この我を“犬”に例えるとは……無礼にも程がある」
右首は牙をむき、今にも噛みつかんばかりに吠えた。
「ケッ……調子に乗るなよ、小娘ッ! 俺は犬じゃねぇ! マスターの命令だから従うだけだ、勘違いすんじゃねぇぞ!」
三首の声は怒気を帯びながらも、逆らう矛先は決してマスターには向かない。
その従属の姿こそ、竜の矜持と屈辱の同居を示していた。
神は顎をわずかに上げ、尊大な笑みを形作った。
「ふむ……竜であろうと所詮はこの程度。――よかろう、我が影として随うがいい」
黒衣を翻し、神を気取った声を響かせながら光の裂け目へと歩み入る。
――だが胸の内では。
(やっべぇぇぇ……! アジ・ダハーカ連れて帰るとか正気の沙汰じゃねぇ! マジで三秒でミンチじゃね? いやホント頼む、ちゃんと犬してろよ、噛みつくなよ!? ……つうか俺、犬って一度も言ってないよ!!)
外面は神威を纏いながら、内心は悲鳴の連続。
それでも――“神様ムーブ”の芝居は崩さない。
三つの影は光に溶け、戦場に残されたのは、凍りついた静寂だけだった。