神様ムーブは疲れます 作:ゴリランド
白亜の巨大生物めいた影が、大地に横たわっている。
**空飛ぶ神殿《アヴァント・ヘイム》**はすでに着陸していた。だが、その背にそびえる神殿から地上までは、断崖のような落差が口を開けている。谷底までは目測でも数百メートル。
黒い武道着の裾を風に揺らし、マスターは石の縁から地上を見下ろす。
背後には、既に天翼種ジブリールが無言で控えていた。背の光輪が朝陽を受けて輝き、視線は一切揺るがず主を見つめている。
(……高っ……いやいやいや、レベル1の今じゃ舞空術は絶対無理。落ちたら間違いなくミンチ……下、雲で見えないとか余計怖ぇんだが)
胃がきゅう、と縮み上がる感覚を必死で押し殺す。
内心の悲鳴は、口をつく前に芝居がかった声へと変換された。
「……ふむ。大地は遠いな。だが――神の歩みは、どれほどの深淵すらも越えるものだ」
(いや越えられねぇから!物理的に無理だから!)
その言葉を背で聞いたジブリールは、迷いなく一歩前に進み、胸に手を当てて恭しく頭を垂れた。
光輪が柔らかく脈打ち、澄んだ声が響く。
「さすがはマイゴッド。どのようなアビスも、ユーのステップをハルシオンの風のごとくラップアップいたしましょう。ディスタンスやグラビティなど、ミーのデータベースにおいてはノイズに等しい存在でございます」
(……んー、はいはい。たぶん褒められてるんだろうけど……八割どころか九割意味がわからん)
その場に漂う空気は、神とその従僕だけが共有する不可侵の間合いを帯びる。
大地の果てまで見透かすように顎を上げ、マスターは両手を背に組んだまま悠然と立ち続ける。
「マスター、ネクスト・アクションは?」
背後から響くジブリールの声は、澄み切った鈴の音のように耳を打った。
間近に感じる天翼種特有の静かな圧力――主の命を待つ従僕の気配が、肌をひりつかせる。
視線は眼下の断崖に向けたまま、マスターは息をひとつ整え、芝居がかった低音を紡いだ。
「訓練だ。この私が直々に、お前を導いてやろう」
その二文字を吐き出した瞬間、風のざわめきがわずかに変わる。
神が言葉を発した――そう錯覚させる空気の張り詰め方だ。
「お前の戦闘技能を磨くため、地上での実地演習を行う。――今回は力の盛衰を精密にコントロールする訓練だ。魔物を瀕死まで削り、止めはこの私が与える」
言葉はあくまで崇高に響かせる。
暴威の刃をただ振るうだけでは、神の兵にはなれぬ――そう聞こえるように。
(……本音は俺のレベリングだ。だが、神の威光を損なわぬためには、この行動が大いなる教導の一環であると示さねばならん。でなければ、ただの血肉を糧にする俗物と思われかねん)
ジブリールは一礼し、わずかに口角を上げた。
「アンダースタンド──。天は高く、星は巡り、オール・フォー・ユア・ウィル。ミーのスキルアップ、この命尽きるその日までエキサイトでございます」
その声音には、いつもの無機質な響きの奥に、微かに震える熱があった。
光輪が柔らかく、しかし確かに鼓動のように脈打つ。
朝の光を浴びたその輝きは、もはや武器や道具のそれではない――敬愛と畏怖が凝縮された光。
瞳の奥に、決して濁らぬ信仰の炎が灯っている。
ただ命じられたからではない。
“神”が自らを導くために与えた試練――そう理解し、その事実に胸が詰まるのだ。
ジブリールは唇を震わせぬよう固く結び、まるで聖典を胸に抱くように両手を組んだ。
その姿は、地上の誰が見ても、絶対の主に心酔し切った信徒そのものであった。
(……いや、なんかルー語の洪水浴びせられたけど、やっぱり八割どころか九割何言ってるかわからんな)
マスターは視線をほんのわずかに落とし、黒い武道着の裾を整える。
その仕草ひとつで、内心の混乱や呆れを封じ込め、再び“神”の仮面を完璧に貼り直す。
風が頬を撫で、光輪の輝きが視界の端で瞬く。
「それと――地上までの道を繋げ」
彼は崖下を見下ろし、さらりと言い放つ。
「神は飛ばぬ。神は歩む。ただし、この高さでは階段も梯子も無意味だ」
(抱えて運ばれるのだけは勘弁だ。威厳が死ぬ)
「イエス、マイゴッド」
ジブリールが一歩踏み出す。
その瞬間、周囲の空気が張り詰め、風が音を失った。
まるで世界そのものが呼吸を止めたかのように、すべての動きが静止する。
ジブリールの指先がゆるやかに宙をなぞる。
触れてもいない空間が、薄氷に罅が入るような音を立てて裂けた。
黒い線が、蜘蛛の巣のように広がり、やがてひとつの中心へと収束する。
裂け目の縁からは紫紺の魔力光が滲み出し、重く低い共鳴音が足元から響いてくる。
裂け目は渦を巻くように回転を始め、円環へと形を変える。
円の向こうには、地上の光景――湿った土色と、揺れる緑の草原がゆっくりと浮かび上がってきた。
色も匂いも、現実と変わらぬ鮮烈さで。
「座標に接続完了。揺れはゼロでございます」
「よい」
“神”は迷わず、その黒い円を踏み越えた。
瞬間、温度も匂いも異なる空気が肺を満たし、湿った土の香りと草のざわめきが全身を包み込む。
背後では、裂け目が静かに閉じ、再び世界がひとつに縫い合わされていった。
「……ふむ。荒れ果てた地だ。だが、秩序を知らぬ土ほど、神が理想を刻むには好都合よ」
(虫は多いし湿気も重いが……まあ、我慢だ)
「ジブリール、索敵だ。魔でも獣でも構わぬ。訓練に適した愚物を探せ」
命令は断罪の宣告にも似た響きを帯び、空気を震わせた。
「ロジャー。エリア索敵開始いたします」
ジブリールの光輪がゆるやかに輝度を増す。
同時に右手が宙を切るように動き、その指先から闇色の粒子が零れ落ちた。
粒子は意思を持つかのように彼女の周囲に集い、旋回を始める。
重く低い振動音とともに、漆黒の柄が形をなし、やがて湾曲した長大な刃が現れた。
その刃は中心が濃紫、外縁が紅く染まり、まるで血と夜が溶け合ったかのような色彩を放つ。
刃先は淡い光を孕み、呼吸するように脈打ちながら揺らめいていた。
冷たくも神聖な殺意が、その場の空気を凍らせる。
「ウエポン・マテリアライズ、コンプリート……ターゲット・ディテクト。ラージ・ボア一体、角はシングルホーン。ディスタンス約二百メートル、グリーンな藪の奥に潜伏中でございます」
報告を聞き、マスターは唇の端をわずかに吊り上げる。
瞳に紫の光が宿り、声は崇高かつ冷酷に響いた。
「よい。導け――神の裁きが、その穢れた息を断つべき場所へとな」
ジブリールは恭しく一歩進み、右手を宙に走らせる。
空間が低く唸り、亀裂が走る。
裂け目の向こうに、土を削る蹄跡と、湿った風に揺れる藪の影が見えた。
「イエス、マイゴッド。ターゲット・コーディネイト、ロック&コンプリート……ゲートは、ユーのステップをお待ちしております」
空間が再び裂ける。
中心から走る細い亀裂は音もなく広がり、紫紺の光を滲ませながら円環となった。
次の瞬間、世界が二つ繋がる――彼らの足元が闇に包まれ、気づけば別の大地を踏みしめていた。
土に深く刻まれた新しい蹄跡。湿った匂い。
わずかな間に、藪の奥で大きな生き物が息を潜めている気配があった。
その気配が、異質な気流にざわつく。
次の瞬間、藪が炸裂したかのように弾け飛び、肩の高さを優に超える黒い巨体が飛び出してきた。
額にはねじれた一本角。全身を覆う黒毛が逆立ち、口からは白い泡が飛び散る。
突然目の前に現れた異形の人影に、恐怖と敵意が同時に爆ぜたのだ。
低い咆哮と共に突進が始まる。足が地を蹴るたびに、地面が鈍く震えた。
「マスター、アテンション。ターゲットが突進モーションにエンゲージ……進路はストレート、速度はマキシマムです。御指示どおり、瀕死レンジまでの処理でよろしいでしょうか?」
「よい。瀕死までだ」
「アンダースタンド、マイゴッド。では――」
ジブリールは滑るように踏み込み、大鎌を水平に一閃した。
空気そのものが刃となり、巨猪の前脚の腱が一瞬で断たれる。
突進の勢いを失った巨体は、つんのめるように地を抉り、土煙を巻き上げた。
間髪入れず、ジブリールの大鎌が背筋を撫でる。
その軌跡に沿って神経が正確に断たれ、巨猪は全身を痙攣させたまま動きを封じられる。
「マスター……獣の四肢は封じ、命脈のみを薄氷のごとく残しております。この一息、この心臓の鼓動――すべて、マイゴッドの御裁きに捧げます」
「よくぞ為した、ジブリール。その刃は神意を映す水鏡、その精度は天秤をも震わせる」
“神”は一歩ずつ、儀式のように巨猪へ歩み寄った。
紫の魔力が拳に集い、淡く脈動を始める。
それは炎でも氷でもなく、ただ「神の力」という抽象そのもの。
「穢れた息を終わらせ、理に還れ」
紫の魔力を拳に込める。
指先が震えるほど力を集め――本人比で間違いなく全力。
(……いくぞ、これが俺の全てだ!)
渾身の一撃を顎の付け根に叩き込む――つもりだった。
外から見れば、虫を払うような軽いタッチ。
だが当の本人は肺の奥まで息を吐き切り、膝まで軽く笑っている。
コツン、と骨の奥でかすかな音がして、巨猪は糸の切れた人形のように沈黙した。
――【経験値獲得】――
――【Lv.1 → Lv.2】――
脳内に、軽快で間抜けなような、それでいて妙に癖になる電子音が響いた。
ピロリロリーン……と、かつてのVRMMOで耳に焼き付いた、あのレベルアップの音だ。
同時に、視界がわずかに鮮明になる。
空気の粒子が細かく見えるような錯覚。
肺に吸い込む空気が深くなり、体内の紫の魔力が太く滑らかに巡っていくのが分かる。
(……おお、なんか強くなった……気がする。いや、気がするだけかもしれんが、そこは大事だ)
「次は?」
「マイゴッド――索敵範囲に“角兎”の群れをキャッチいたしました。クイック&クリーンに、供物として仕上げることが可能でございます」
ジブリールが片膝をつき、指先で空間に裂け目を刻む。
紫紺の光が亀裂から滲み、やがて円環となって回転を始める。
覗き込む先には、丘の上で群れる小型の影――耳の根に短い角を生やし、背毛は針のように硬質化した兎たちが草を食んでいた。
「ターゲット座標、リンク・コンプリート。いつでもゲートをオープンでございます」
マスターは神威を装った歩みでその円をくぐる。
次の瞬間、丘の上に立っていた。湿った風が頬を撫で、兎たちの黒い瞳がこちらを振り向く。
一拍置いて――群れ全体が散開し、角を低く構えて突進してきた。
「ターゲット、ロックオン・コンプリート。モーション・ファンクション、ストップでございます」
ジブリールの大鎌が淡く光り、一閃ごとに兎の前脚や後脚が的確に断たれていく。
その動きはあまりにも正確で、作業めいていた。まるで金属パーツをベルトコンベア上で切り落としていく機械のように、音もなく繰り返される。
瀕死に追いやられた兎たちが地面に転がるたび、マスターは悠然と歩み寄る。
つま先で、まるで小石を転がすように軽く蹴る。
骨が砕ける衝撃などなく、ただ生命の灯がふっと消える――HPが1から0に切り替わる、その瞬間だけがそこにあった。
ひとつ、またひとつ。
丘にいた群れは二十、三十……しかしその背後から、また同じような群れが跳ねて現れる。
ジブリールが脚を断ち、自分が蹴る。
その単純な工程が、永遠のループのように続いた。
十分が一時間に、一時間が半日にも感じられる。
太陽はほとんど動いていないはずなのに、頭の中では時間の針がねっとりと進んでいく。
同じ動作を繰り返すたびに、周囲の色が褪せて見え、音すら遠のいていく。
――【経験値獲得】――
――【Lv.2 → Lv.3】――
体が軽くなり、視界の端がわずかに鋭さを増す。
しかし、胸の奥に湧いた感情は高揚ではなく、妙な虚しさだった。
(……なんだこれ、すげーおもしろくない。MMOの時だって、もっと手応えあったぞ。完全に工場の流れ作業じゃねぇか……なんか昔バイトしてたときのこと思い出してきたな。あの暗くて寒い倉庫、延々と同じ部品を袋に詰め続ける地獄の八時間……あのときも、時間が止まってんじゃねぇかってくらい進まなくて……やめろ、思い出すな、胃が痛くなる)
ジブリールの無表情な作業と、自分のとどめのルーチンが、ひどく味気なく感じられた。
陽はじわりと傾き、空の色が淡く変わっていく。
何十、何百と同じ動きを繰り返すうち、世界の輪郭がぼやけ、音が薄くなり、時間の流れだけが不自然に粘りつく。
立っているのか座っているのか、蹴っているのか止まっているのか――それすらも曖昧になるほど、延々と同じ景色を見続けた。
そんな沈黙を破るように、ジブリールの光輪が再び強く輝いた。
「湿地にスネイクが多数。ポイズンにアテンションを」
空間が裂け、冷えた湿気と腐葉土の匂いが鼻を刺す。
足元には黒く淀んだ水面、ところどころに浮く枯葉の島。
ジブリールが柄を握り直し、水面を刃の背で軽く叩くと――ぬらりとした長躯が何本も、水の底から浮かび上がった。
黄色い眼が一斉にこちらを睨む。
大鎌が一閃、二閃。刃は皮膚を切らず、神経を焼くように痙攣だけを与える。
水飛沫と共に蛇たちがぐったりと横たわり、動きが止まる。
マスターは蛇の頭の後ろに手を置き、指の第二関節でこつん、と軽く叩く。
ぽか、ぽか、ぽか。力などほとんど入っていない。
それでも、HPが1の状態では、その衝撃だけで命は途切れる。
骨の軋む音もなく、ただ水面に静かな波紋が広がり、生命の糸がぷつりと切れる。
ひとつ、またひとつ――毒を持つ牙も、長い胴も、全て静寂に沈んでいく。
――【経験値獲得】――
――【Lv.3 → Lv.5】――
視界が一瞬だけ澄み渡り、呼吸が深くなる。
肩の奥にあった重さがほんの少し抜け、足取りが軽くなった気がした。
それでも、舞空術にはまだ程遠い。地面に吸い付くような重力は健在だ。
(……おお、なんかまた少し強くなった……気がする。まぁ、気のせいでも構わんが)
湿地での作業を終えた頃には、背中から腰にかけて鈍い疲労が張りついていた。
経験値の通知は確かに嬉しい。だが、それ以上に心に広がるのは、底の浅い達成感と、じっとりとした退屈だった。
(……レベリングって、こんなに大変だったのか)
以前はMODで、獲得経験値に最大256倍ものブーストをかけていた。
ボタンひとつ、あるいは戦闘一回。それだけで、経験値ゲージが爆発的に伸び、十や二十のレベルが一気に跳ね上がる――そんな世界しか知らなかった。
だからこそ、今のこれは地獄だ。
瀕死の魔物に延々ととどめを刺し、わずかな経験値を一滴ずつすくい取る。
同じ動作を繰り返すたび、秒針が遅くなったかのように時間が伸びていくのを、骨の髄で感じる。
(……世の一般プレイヤーは、こんな苦行を毎日こなしてたのか。そりゃあ、やめるやつも出るわけだ…………なんか、もう別のことしたい気分だな)
顔に退屈を出さぬよう、背筋を伸ばし、黒い武道着の裾を軽く払った。
芝居がかった声音で、ゆっくりと背後に立つ天翼種へ声をかける。
「ジブリール――私を楽しませる、何か面白き事象はないか?退屈は罪だ。神の歩みに空白を許すことは、すなわち世界の停滞。ゆえに我は問う――この地に、我が視線を向けるべき“現象”は在るか?」
ジブリールは無感情の瞳を主へ向け、わずかに首を傾げた。
「そういえば……マスターとジョインする前、単独オペレーション中に、知能がローブレインなヒューマンをオブザーブしました。サルにもアンダーなIQでございました」
(……サル人間? なにそれ、めっちゃ見たいんだけど)
興味が勝手に首をもたげる。いや、神としては“観察”という高尚な行為だ。うん、そういうことにしておこう。
「ふむ……その存在、我が眼でしかと確かめねばならぬ。
下等の影すら、神の秩序のもとに引きずり出される運命なのだ」
指先を軽く掲げ、威厳を帯びた声で命じる。
「ジブリール、索敵範囲を拡張せよ。そして、下等生物の座標を神の前に示せ」
「マイマスター。ターゲット座標、ロックオン――下等なる生物、逃げ場なきロケーション・データを、全て御身の御前に献上いたします」
ジブリールは一礼し、光輪の輝度をゆるやかに高めた。
その瞬間、空気がきしむような低い振動が広がる。視界の端で、無数の光の糸が走った。
糸は大地の下、水脈の奥、森の影へと伸び、そこに潜む生命の息遣いを吸い上げる。
「――キャッチいたしました」
淡々と告げながら、ジブリールは右手をゆるやかに掲げた。
指先から闇色の粒子が溢れ出し、まるで逆巻く水流のように彼女の周囲を旋回する。
粒子同士がぶつかり合い、火花にも似た紫の閃光を散らすと、その渦の中心に細い裂け目が走った。
裂け目は黒と白の縫い目のようにゆっくりと広がっていく。
その奥には、粗末な木柵と焚き火の煙が揺れ、かすかに焦げた獣脂の匂いが漂った。
低く不規則に並んだ家々のあいだを、裸足の影が不安げにうごめいている。
「おぉ、マイゴッド、これは……下等種族どもが、まるで腐肉に群がる蠅のように、醜くうごめいております」
「……ふむ、そう言ってやるな、ジブリール。奴らも奴らで、己が下等であることすら知らぬまま、必死に蠢いているのだ。哀れにも、それが全てであり、全てでしかないのだからな」
マスターは顎をわずかに引き、ゆったりとした足取りで、その裂け目をくぐった。