神様ムーブは疲れます   作:ゴリランド

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経験値の計算。多分あってると思う……


天よりも高く、下よりも冷たく

アヴァントヘウムは、空を泳ぐ幻想種――雲を裂き、陽を背に受けて進む、山すら呑むほどの巨大なクジラだった。

その広い背に根を下ろした白き神殿は、天空に浮かぶ孤島のように揺るぎなく、中心にはひとつの玉座が鎮座している。

 

黒衣をまとった主は、その玉座に静かに腰掛けていた。

……少なくとも外から見ればそうだ。

だが実際には、玉座の下で片足を小刻みに揺らし、貧乏ゆすりを止められずにいる。

威厳を取り繕う神の微笑を貼りつけながら、こめかみには小さな汗がにじんでいた。

 

右手を持ち上げ、指先へ魔力を凝集させる。

すると空間がつるりと光を孕み、磨き上げた鏡のような見えない板が姿を現す。

彼はその上に数字や記号を次々と描きつけては消し、また重ねる。眉間には険しい皺。だが、その顔に浮かぶのは神々しい微笑――芝居を崩すことだけは忘れない。

 

(……なんでまだレベル43? 400年も経ってるのに。なんで?)

 

内心のつぶやきは、神の顔に似合わぬほど軽いぼやきだ。

 

彼は心の奥で、かつて“ゲーム”世界を弄り回していた頃の数値感覚を呼び起こす。

ただ遊んでいたのではない。成長曲線を割り出し、必要経験値の推移を洗い出し、仕様の穴を突く――そういう解析屋の目線だった。

その癖は今も抜けず、気づけば頭の中で電卓を叩くように数値を並べてしまう。

 

(たしか、あの世界の必要経験値テーブルは――

 Lv1で16XP。

 以降、レベルが上がるごとに1.14倍。

 

 ……今の“こっちの世界”の日々の入りは体感でだいたい500XP。

 内訳は、人柱1人でざっくり150XP、供え物その他で350XP。

 

 ――根拠はある。400年前、初めて人間と接触したあの日。Lv6から8へ一気に上がったとき、経験値ソースは人柱ひとつきりだった。

 あのときのゲージの伸びを基準にすれば、人一人=150XP前後。……まあ、だいたい合ってるはず)

 

 指先で空中に「=」を描くと、魔力の板に数列が走った。

 

(計算すると――

 一日:500XP

 一年:約18万XP

 四百年:約7200万XP

 

 で、Lv43に必要な累計経験値はおよそ7000万ちょっと……。

 

 ……うん、そりゃLv43で止まるわけだ)

 

 板に浮かんだ数字を眺め、彼は深く息を吐いた。外に漏れるのは、あくまで神らしい威厳の吐息。

 だが内心はもう少し軽い。

 

(いやー、ほんと数字って残酷だな400年で7200万XP、その数字だけ見たら十分でっかい積立貯金だぞ。普通に暮らしてりゃ一生遊べる額。

 でもレベルってやつは、桁がひとつ増えるたびに“通帳のゼロ”が勝手に二つ三つ増えるんだよな。ゲーム時代はMODブーストでレベリングなんてあってないようなものだったから、こんな壁なんて意識しなかった。……マジでヤベーなレベリング。数字の暴力だわ)

 

 外面の笑みは絶対に崩さない。玉座に凭れながら、肘掛けをトントンと叩く仕草は神の余裕そのもの――だが内心ではまだ電卓をカタカタ叩き続けていた。

 

(比較用に、わざと高めの段差も見ておくか……。Lv50。

 単発必要が約1億6500万XP。

 累計で約5億7600万XP。

 

 うん? ケタ違いすぎー。俺の7200万なんて“山”のつもりが、レベル50にとっちゃ砂粒ひとつ。

 いやいやいや、これ本当に積もるの? このペースじゃ“海に石を投げて満潮を止める”みたいな話じゃん。笑えねえ……)

 

 玉座の男は、神のように涼しい顔を貼り付けながら、胸の内でだけは小さな絶望を増やしていくのだった。

 

 さらに、能力の伸びをざっと試算する。

 

(HP/MPの成長率は1.15。初期がHP320 / MP100。

 この利率で積むと……Lv44でHP13万 / MP4万くらい。

 つまりHP99999の壁はLv43で突破。……あ、これはひとまず自慢できる数値だな。

 で、HP1億に届くのはLv92あたり。

 そのとき必要な累計XPは……えっ、794兆。

 ……おいおい、桁数で殴ってくるのやめろや。794兆って、ゼロ何個だ?ひーふーみー……数字がもう“神の嫌がらせ”じゃん)

 

 内心で叫んでも、外面は一切崩さない。玉座に凭れたまま、肘掛けをとん、とん、と軽く叩き、神らしい抑揚をまとった声を落とす。

 

「フッ、歩みが遅いこと、それ自体は罪ではない。

 いや、むしろ――天文学的な数を積み上げねば届かぬ境地こそ、神にのみ許された試練」

 

 (要は、“毎日の入り”を増やす。それしかない。

 命も物も、重いとか軽いとかの話じゃないな。

 それらはただのリソース。供給口。財布。

 

 一つの財布から取り出せる額なんてたかが知れてる。

 なら――財布の数を増やすか、仕組みを回すか。

 知識や技術なら、人間どもが勝手に広めてくれる。

 そこに“神の礼”ってラベルを貼ってやれば、XPは日々勝手にチャリンチャリンと落ちてくる。

 

 わずかな銭でも、財布を百個にすれば大金庫。

 滴が積もれば、大河となる)

 

そこまで思考したとき、口元がかすかに上がった。

 玉座の主が珍しく、わくわくした表情を浮かべたのだ。

 

 その瞬間、背後で羽音が鳴る。

 ジブリールが膝を折り、恍惚とした声音で囁いた。

 

「マスター……今、とても楽しそうなお顔をされていましたね。 その微笑を拝めるだけで、このジブリール、羽の付け根がジンジンとヒートアップいたします。 ……あぁ、やはりこのワールドの色は、マスターのお顔ひとつでリライトされてしまうのですね」

 

「……そ、そうか」

 

 主は一拍おいて、すぐに声色を整える。

 

「──それよりだ。私の指輪は、いまだ見つからないのか?」

 

 ジブリールはすっと膝を深く折り、視線を下げた。

 

「申し訳ございません、マスター。

 指輪の捜索は継続中、シグナルは――ゼロでございます。

 ですが、天翼種の全力をもって必ずリカバーいたします。空が尽きようとも」

 

「……まぁ、よい」

 

(正直、指輪なくてもHPだけならもう 99999 超えてるしな。

 けど――あれは“神様ムーブ”の完成形に必要なデザインの指輪。

 なくても生きるのに支障はないが……見栄えとしては、やっぱ必須なんだよな)

 

 主はわざとらしく玉座に身を預け、荘厳な声で問い直す。

 

「それよりだ、ジブリール。この星には、人間以外の種は存在するのか?」

 

 ジブリールは羽をわずかに鳴らし、静かに応じた。

 

「人間以外、でございますか……」

 

ジブリールは一拍おいてから、わずかに首をかしげる。

 

(エルフごとき、マスターにご報告する価値もない――そう判断してスルーしておりましたが……ご下問とあらば、フィードバックすべきですね)

 

「実は、探索中のフリューゲルよりリポートがございました。

 南方へ約二千キロ、広大な森林の奥――結界で巧妙にカモフラージュされたエルフのコロニーをディテクトしたとのこと。

 確度はハイでございます。すでに座標はシェア済み。マスターがご所望ならば、いつでも転移可能です」

 

(……エルフ!? マジで!? エルフいんの!!

 やっば、めっちゃ見たい……いや落ち着け俺は神。俺は神、神様ムーブ忘れんな!)

 

 主はその興奮を覆い隠すように、ゆっくりと笑みを深め、玉座に身を沈めた。

 声は荘厳に、冷ややかに響き渡る。

 

「ほう……エルフ、か。

 ならばその命もまた、神が築く理想の礎石となるがよい。

 人であろうと、長耳であろうと、種の差など瑣末にすぎぬ。

 崇めさせ、讃えさせるか――さすればその存在すら、意味が宿るのだ。

 

 神に従い、神へ供されることこそが歓び。

 我が理想の一片となれることこそ、奴らの救済なのだからな」

 

 主はわずかに笑みの角度を深め、玉座に背を預け直す。

 その声音は、荘厳にして冷ややか。神殿の空気を震わせ、従者の翼を粛然と震わせた。

 

「指輪はよい。あれは神の象徴……神がつくりし神器は、必ず神のもとへ還る。

 焦るに及ばぬ。すべては、定められた時にこそ収束するのだ。

 それが理――この神に課された摂理である」

 

 そして、視線を悠然と遠くへ巡らせる。

 

(……次はエルフかぁ。あいつら魔術とか自然とか、そういうの大事にしてるんだっけ?

 でも、それって要は信じやすいってことだろ。うまく乗せて、俺の信仰を刷り込めば……財布一個追加、ってやつ。

 うん、怖いけど……でもやるしかない。レベリングのためなら、エルフだって利用対象だ。俺は神、俺は神……!)

 

 主はゆるやかに片手を掲げた。

 指先から細い光が滴り落ち、宙に弧を描く。

 まるで天上の筆で世界をなぞるかのように、淡い輝きが瞬き――消える。

 その所作には、特に意味はない。ただ神っぽかったから。

 

「エルフは魔術に長け、自然と調和して生きる種族だろう。

 ならば――“礼”を我が口へ流す仕組みを作れ。

 祭壇を置き、誓いの歌を奉納へ変え、献げ物の窓口を整える。

 日ごとに欠かさず祈りを積ませよ。知恵も命も、そのすべてを経験へと還元するのだ」

 

 ジブリールの瞳が甘く潤む。だが声は、刃の背で撫でるように冷たい。

 

「承知しております、マスター。長耳の民はプライドばかりロングサイズ。

 ですが、マスターが“正しい形”をお示しになれば――祈りも供物も日課に組み込まれます。

 従順な養分……いえ、忠実なる信仰の源泉に」

 

 主は小さく笑みを刻み、鋭い眼差しを落とす。

 

「よいぞ、ジブリール。おまえの目は正しい。

 彼らが何を誇ろうと、最終的には我が理想の土に還る。

 その道筋を示すのが――神の役目よ」

 

 ジブリールは恍惚と瞼を伏せ、翼を小さく震わせた。

 

「あぁ……マスターのお言葉……わたしのソウルにダイレクト・ヒットです。

 胸の奥がスパークして……羽根の付け根までジンジンしてしまいます……。

 どうか、どうかこのジブリールを……マスターの理想を肥やすブレードとして、思う存分お使いくださいませ♪」

 

 玉座の主は、ふっと長い息を吐いた。

それは安堵でも疲労でもなく――内心のざわつきを誤魔化し、決意へと無理やり切り替えるための呼吸。

 

(……や、やるしかないよな。方向は見えたし……試すしかない。けど、本当にうまくいくのか? エルフだぞ? もし逆ギレされたらどうしよ。まっ、その時はそのときだな)

 

「ジブリール。森に潜む長耳どものねぐら……その外縁へ道を繋げ。

 我は神。矢を番えるまでもない。

 だが――無礼を働くなら、その愚かさごと、神の怒りで塵に帰すのみよ」

 

「アンダースタンド、マスター。座標はすでにロック済み。

 今この瞬間、この空間をリンク――エクスキューションいたします。

 ……あぁ、マスターのご命令を遂行できる……嬉しさでこの身の血潮まで、マスターの名で沸き立ってしまいます」

 

 玉座の前に、黒い裂け目が走った。

石の床に刻まれたそれは、まるで見えぬ刃が絹を断ち切るように、音もなく広がっていく。

縁からは蒼白い光が滲み、滴のように零れ落ちては空気に溶けた。

 

やがて裂け目は花弁のように反り返り、裏側の景色を覗かせる。

湿った土と苔の濃密な匂いが押し寄せ、ひんやりとした森の風が神殿の空気に混じった。

遠い木立のざわめきが、確かにそこに“別の世界”が繋がったことを告げていた。

 

「マスター、ゲートはフル・オープンでございます♪

 境界には長耳どもの結界が、いかにも“わたしたち、隠れてますよ~”とばかりに織り込まれておりますが……タッチしなければ問題ナッシング。

 けれど……もしマスターがほんの少しでも“裁き”をお望みでしたら――このジブリール、天擊ひと振りで結界ごと、この星の半分をサクッとブレイクしてみせましょう♡……マスターがウィンクひとつくだされば――わたしの翼は即フルパワーでございます」

 

(……え、なにそれ怖っ。いやほんとにやりかねんからそのハイライトが消えた目で言うのやめろ。

 星の半分って、地図の端っこ消し飛ぶだろ。笑顔で提案すんなよ……怖いから)

 

 「……よい。案内せよ」

 

「マスターと共に歩めること、それだけでハッピー・ジョイでございます」

 

 ジブリールはうれしげに翼を畳み、すっと前に出た。

 黒衣の主より先に、彼女は裂け目の境界へと足を踏み入れる。

 湿った土と苔の匂いが濃くなり、森の気配が彼女の姿を飲み込む。

 

 その背を追うように、主はゆるやかに歩を進めた。

 

 

 

裂け目をくぐり抜けた先は、湿りを抱いた薄明のただの森だった。

苔の匂い、葉擦れ、鳥のさえずり――どこを取っても自然そのもの。

だが、よく耳を澄ますと風の音が均一すぎる。枝葉の重なりは豊かに見えるのに、視線を滑らせると同じ模様がぐるりと反復している。

足元の草は生きているのに、踏み出す先へ先へと同じ茎の曲がりが現れる。

 

ジブリールは冷笑を含んで肩をすくめ、吐き捨てるように言った。

 

「……はっ。長耳どもの“秘匿結界”とやら、ずいぶんとチープですね。

 風は一様にループ、枝葉はテンプレートのコピペ、足元は同じパターンを繰り返すだけ。

 ――これで“隠れた”つもりなのですから、おめでたい。まるで子供が布団をかぶって『見つからない』と信じているのと同レベル。お笑いでございます」

 

 

 主は顎だけで頷き、軽く鼻で笑った。

「天より下の工夫は、天に届かぬ。神を欺くには、世界の理を一から紡ぎ直してからだったな」

 

「そうですよね、マスター。――あっ、あぁ。お聞きになりましたか、森さん。ここから先は“神の領分”です」

 

 ジブリールが前へ手を差し出した。

 

白磁のように滑らかな掌に、じわりと黒が滲み出す。指先から逆流するように、魔力が脈動し、血管を走る闇が全身をめぐって集まっていく。

 

その黒は液体のように滴り、煙のように揺らぎ、やがて掌の一点に収束した。

「ぎちり」と空気が軋む。凝縮された影が柄を編み上げ、夜そのものを削り出したような刃を伸ばす。

 

黒いオーラが髪の先から爪の縁まで伝い、すべてが大鎌という形に組み込まれていく。

一振りの中に、星明かりすら飲み込む闇が宿った。

 

触れれば音すら断ち切るであろう、薄く鋭い黒の曲線。

 

ジブリールは囁く。

「ノックは一度だけ――礼儀として」

 

黒の大鎌が横に走った。

音は鳴らなかった。いや、正確には音が追いつけなかった。

 

刃が通過する瞬間、対象の時相が微かにずらされる。

存在はほんの刹那、異なる時間の層へ押し出され、抵抗できぬまま透過される。

そして、空間に戻った瞬間――切断はすでに完了していた。

 

結界も例外ではない。空間ごと縫いつけたはずの防壁は、斬撃に触れた刹那、透過され、裂け目を与えられた。

「防御」という概念が存在できない。

それは、ただの一閃による空間切断。

 

薄絹を裂くように幻影が剥がれ、偽りの森がめくれ落ちる。

代わりに現れたのは、真の光景だった。

 

巨木の幹を削って築かれた段々の住居。枝から枝へ渡された吊り橋、樹洞に収められた書庫。

樹冠には鳥の巣のような見張り台が据えられ、谷の向こうには薄紫の花雲が稜線を染めている。

石造りの回廊に花輪が垂れ、遠くの丘には白塔がそびえる。

 

――エルフの集落。

世界が裂かれ、隠された真相が露わになった。

 

(……うわ、ガチのエルフ村……!巨木の家に吊り橋!光の粒子とか飛んでるし!やべ、テンション上がる!……いや待て落ち着け、俺は神。俺は神、俺は神!)

 

黒衣の主は、荘厳な微笑を崩さぬまま、ゆっくりと玉座に腰かけるかのような風格で集落を見渡した。

 

「――彼らもまた、供物となる定め」

 

神の言葉を模した声は冷ややかに響き、隣のジブリールが恍惚と頷く。

 

静寂を割ったのは、弦の鳴る音だった。

樹上から放たれた矢が、空気を切り裂きながらこちらへ飛来する。

 

ひゅ、と風を裂く音。

矢は黒衣の主の足元に突き立った。

 

矢羽が小さく震える。――警告だろう。

 

黒衣の主は視線を持ち上げた。

まず梢の上――葉陰から覗く弓が幾つもこちらに狙いを定めている。

続いて、幹に張り出した舞台から術式が次々と光を帯びて起動。

地表では草むらが割れ、薄緑の外套をまとった兵が膝をつき、じりじりと包囲を縮めていく。

 

数は多い。気配の層が厚い。

矢はどこからでも降り注ぎ、魔術陣が息を潜め、矢と同じく射出の機を窺っている。

 

ジブリールは柔らかく微笑んだ。頬は甘やかに綻んでいるのに、瞳は冷たい光で射抜いている。

 

「マスター♡ あの下等エルフども、無礼にもほどがございます。

よりによって、上からマスターを見下ろすなんて……これはもう、ジョークにもならない振る舞いでございます」

 

翼の羽軸がきしりと軋む。甘い声のまま、冷たい刃を抜くような緊張が漂った。

 

「本来なら、ただ下から神を仰ぎ、ワーシップするのが正しい姿。それを逆から覗くなど、身の程知らずもプレミアム級。矯正はイージーでございます。枝ごと落として、視線ごとデリートして差し上げましょうか♡」

 

翼の羽軸が、きしりと軋む。

声は絹のように柔らかいのに、響きは刃を抜く前の鋼の音に似ていた。

 

 黒い大鎌が掌で小さく鳴る。刃の周囲で空気の薄皮が乾く音。梢の兵の一人がこちらへ矢尻を合わせた瞬間、ジブリールの微笑が花弁一枚分だけ鋭くなる。

 

「上から見下ろす意味を、その眼に天を落として教えて差し上げます。――可愛いレッスン、ですよ?」

 

 主は一拍だけ沈黙し、外面をぐっと持ち上げる。

 声は玉座の高さのまま、森に降る。

 

「――待て、ジブリール」

 

 刃の音が止む。森がひと呼吸だけ息を吹き返す。

 

「その慢心、無知ゆえの振る舞いであろう。

ならば一度目は赦そうではないか。神は慈悲をもって下等の過ちを看過する。……二度目は無いがな」

 

(頼む、今ぶっぱなしたら財布が灰になる! 最初の一手は“型”だ、“型”!)

 

 ジブリールは主だけに聞こえる大きさで、甘く囁く。

「……マスターのご判断、アグリーです。では、視線の矯正だけ。――ほんの、軽く」

 

「許す。ただし生かせ。跪く足を残せ」

 

「ラジャーでございます♪」

 

大鎌は霧に戻り、代わりに指先から魔力で編まれた透明な糸が何本も走る。

風の流れと重力の軸をほんの僅かにいじるだけの、無害に見える糸だ。

 

ジブリールは梢の見張り台の高さを指でなぞる。

ぱちん。

 

小さな音。だがその瞬間、森全体の座標がずれる。

板場がたわみ、欄干がきしみ、弓を構えた兵の矢尻がわずかに下を向く。

まるで世界そのものが角度を変えたかのように、上にいた者たちの視線は強制的に沈んでいった。

 

矢を握る手が震え、弓弦の音がかすかに揺らぐ。

舞台にいた術者はよろめき、詠唱の声を飲み込む。

草むらの兵は目を見開き、理解できぬ異常に喉を鳴らす。

 

実害はゼロ。けれど――もう誰も、神を見下ろす位置にはいない。

 

マスターは一歩だけ前へ。

足元の草が道の形に寝そべる。

 

「こちらから矢を放つかどうかは――お前たち次第だ。

愚かにも無礼を重ねるなら、神の矢は容赦なく降る。

だが一度目は赦そう。跪き、黙し、聞け。

……それができたなら、言葉を与えてやろう」

 

言葉とともに、黒衣の主の身から淡い波動が広がった。

神霊種が持つ純然たる神威――魔力というより存在そのものの圧。

 

森の空気がきしみ、花弁が震える。

魔力に敏感なエルフたちの瞳が見開かれ、矢を握る指先が強ばる。

ひとりは思わず弓を下げ、ひとりは額に手を当てる。

舞台の術者は陣を維持したまま、喉を鳴らして後退りした。

 

魔方陣は消えない。だが――撃ってこない。

 

ジブリールが甘く笑みを足し、しかし毒は隠さない。

 

「賢明です、長耳さん。お行儀を直せば、次は地に伏す番。イージーですから、できますよね?」

 

(……よし。まずは“ただの森”だった皮膜を剥いで、本体を露出。撃たせずに座を下げた。――ここからが入金窓口の設計だ)

 

主はわずかに手を広げた。

その仕草に呼応して、空気そのものの密度が跳ね上がる。

神霊種が放つ純然たる魔力――神威の圧が、森全体に濃く染み渡った。

 

呼吸が重くなり、枝葉がざわめく。

矢を構えたエルフの膝がかすかに震え、足場の板がきしむ。

耐えきれぬ者は額に汗を浮かべ、その場で膝をついた。

立っていられること自体が、既に試練となる。

 

空気に描かれた輪は淡い光を吸い込み、花輪のように空中に留まる。

 

「平伏せよ。地に額を擦りつけよ。神の前に頭を垂れるのは、選ぶことではない――存在の必然である。その身と知恵を、この私に差し出せ。天は日ごとに返礼を下す。……それが摂理だ」

 

森の空気が、ほんの少しこちら側へ傾く。

 

――結界越しに見えていたのは“ただの森”。今、剥がれた皮の向こうに本当のエルフの集落がある。

 

新しい財布は、もう数える段に入った。

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