神様ムーブは疲れます   作:ゴリランド

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誤字脱字あったらすんません (-_-)zzz




霊壊の福音

 

 森は沈黙していた。

黒衣の主が放つ神霊種の魔力はなおも降り積もり、大地を圧搾する。空気はひしゃげ、葉は震え、小動物の鳴き声すら潰えていた。

 

地には、長耳の民が額を擦りつけている。頬は泥に濡れ、指は痙攣し、背骨が悲鳴を上げるほど折れ曲がっていた。落ちた弓矢は草に埋もれ、描きかけの魔法陣は霞のように散っている。森に刻まれているのは、ただひとつの形──「平伏」。

 

黒衣の主は、神の微笑を貼り付けたまま、その光景を俯瞰する。

外面は荘厳、だが内心は小刻みに跳ねる。

 

(……やっべ、今回もちょろいな。全員、土にめり込む勢いじゃねぇか。おでこズリズリで“土下座アート”完成してんぞ。……よし、この流れなら決めてやれる。いくぞ、神様ショータイム!)

 

隣に立つ天翼の女が、わずかに首を傾けた。

白磁の頬も、黒曜の虹彩も、微塵も揺れない。だが唇だけが、冷たく弧を描いた。

 

「……笑えますね。必死に額を擦りつける姿……潰れた芋虫が、土にしがみついて蠢いているようにしか見えません。ああ、マスターの前では、虫ですらまだ品がございますのに」

 

黒衣の主は、わずかに口角を上げる。

そして──演者としての声を放った。

 

「哀れなる長耳どもよ。神の前で這いつくばるその姿……醜悪でありながら、同時に美しい。

我が神威に屈し、額を土に擦りつける──その光景こそ、神の理が示す秩序。

見よ、この神の威光を! 世界に膝を折らせる我が姿を……!」

 

黒衣の主は、ゆるやかに瞼を閉じた。

その声音に酔いしれるように、胸奥で反響する言葉を反芻し──そして、ゆっくりと両腕を広げる。

まるでこの森すべてを抱きかかえ、己こそが世界の中心であると宣言するかのように。

 

神威はその陶酔を映す鏡のようにさらに濃くなり、森全体へと降り積もっていった。

圧は波のように拡がり、押し込められた空気が低く唸る。

地に這う者たちの背骨が、一本ずつ「軋む」音を立てるかのようであった。

 

黒衣の主は瞼を開く。

視線は這いつくばる群れのひとつに突き刺さり、演者の声が響きわたる。

 

「さて、哀れなエルフよ──顔を上げずに答えろ。おまえたちに“意思”を持ち、決定を下す権を握る者──誰をしてその座に据えている?」

 

その言葉に、地を這う長耳たちは一斉に息を詰めた。

唇が震える。だが声にはならない。

神威の前で抗う術もなく、それでも“長を売る”ことだけは──その誇りが縛りつけていた。

 

沈黙。

 

天翼の女が、わずかに眉をひそめる。

 

「マスター……理解不能、のようです。この虫どもは。意思疎通も叶わぬなら──部位ごとにちぎって、観察標本にいたしましょうか♡」

 

声色は甘い。だが大鎌の影が霧の奥に芽吹いていた。

 

黒衣の主は、手を掲げる。

 

「まて、ジブリール。彼らはただの愚鈍──神の叡智を量りかねているに過ぎぬ」

 

と神は、這いつくばるエルフにやさしく語りかけた。

 

「恐れるな。私はその導きを問うのみ。貴様らの誇りを食らうためではない。ほんの些末なる願いを、この神が聞き届けようとしているのだ」

 

声は荘厳であったが、内心は冷や汗をかいていた。

 

(おいおい、財布候補をミンチにしてどうする! たかが“場所を聞いただけ”だろ……!)

 

神の言葉が釘を打つ。重圧はわずかに緩み、息が通る。

恐怖と屈服の板挟みの末、ようやくひとりが掠れ声を漏らした。

 

「た、たか……白塔……森の、中心……」

 

よろよろと立ち上がろうとする。案内のために。

黒衣の主は掌をひと振り、再び神威を走らせてその身を釘付けにした。

 

「愚かな。神の御前に道など不要。我が歩むところにこそ道が生まれ、知るところにこそ真理が顕れる。──ジブリール、繋げ」

 

 

天翼種の女は、主の言葉にかすかに微笑んだ。

 

「了解でございます、マスター」

 

その声音は甘やかで、けれど儀式のように厳かでもあった。

 

そして彼女は、ただ一歩──まるで空気を吸うように、静かに息を取った。

詠唱はない。術式もない。言葉すらない。

ただ指先が空間の「縫い目」をつまむ。

 

瞬間、世界がほどける。

森の湿った木の匂いが裏返り、苔むした緑が紙のように畳まれる。

代わりに白い石の肌理が差し込まれ、光の温度が変わる。苔の湿香は、香木の芳香へ。

 

それは魔法ではなかった。

──いや、確かに魔法ではある。

ただし、人の口にする呪文でも、指先で描く術式でもない。

それは神の領域に刻まれた“術式”であった。

 

空間を操るのではなかった──いや、確かに操ってはいる。

だがそれは、人が幾重にも術式を積み重ねてようやく触れられる領域を、まるで呼吸するように征してみせる行為。

世界の縫い目に指をかけ、ひと息で道を穿つ。

その在り方こそ、人の魔法ではなく“神の術式”と呼ぶべきものだった。

次の瞬間、黒衣の主と天翼の女は──森の中央に聳える白塔、その高みに立っていた。

 

 

 

 

白塔の間は、静謐にして豪奢だった。

月乳色の石で組まれた床に、蔓草の紋が銀糸で縫い取られている。緩やかな階段の上、天蓋の下に置かれた座──玉座とは言わぬ。だが、そこに腰掛ける者は、座そのものに形を与えるような存在感を放っていた。

 

長い金糸の髪が、瀑布のように肩から流れ落ちる。

布面積は惜しげもなく削ぎ、白と翡翠の帯だけが要所を結ぶ。

頸元には石の雫、胸には紋章の金具。肌は光を返し、唇は青白い火のように艶めく。

耳は長く、先端はきゅっと上がり、そこに飾られた小さな輪が微かに揺れていた。

 

黒衣の主は、その姿を一目見て──思わず声を漏らした。

 

「……なっ!?」

 

外面に、素の驚きが迸る。ほんの刹那、神の仮面がずれる。

 

(え、え、えっ……!? 待て待て待て、顔面偏差値、既視感の暴力! この目元、この姫カット、この胸元の設計思想──こ、これって“シンク・ニルヴァレン”じゃねぇのか!? 嘘だろ。なんでいんの?しかも……おっぱい……デカッ!!お、おっぱい……でかッ!! でかい、でかすぎる! 形もやばい、完璧すぎる……っ! 谷間が、谷間が深ぇ……! 丸い……いや、丸いだけじゃねぇ、重力を無視してんのか!? 弾力感と重量感が両立してる……おっぱい……おっぱい……おっぱいッ!!)

 

演者であることを、黒衣の主は忘れない。

神の面をずらすことなく、荘厳な微笑を貼りつけ続ける。

 

──だが、視線は裏切る。

勝手に吸い寄せられそうになる。黄金の髪でも、冷徹な眼差しでもない。胸だ。おっぱいだ。

鉄の意志で額へ押し戻す。押し戻しても、また戻る。戻ってくるな。戻るな……おっぱい。

 

女は、静かにこちらへ視線を流した。

その眼は、氷のように澄んでいて、同時に刃のように冷たい。

理で切り裂き、存在を値踏みする眼差し。

声もまた澄んでいるが、温度はない。理を先に置く声だ。

 

「歓迎はしないわ。けれど──ここまで手間をかけず“来られる”客人は珍しい。まずは名を」

シンクの眼差しは、先ほどと同じ。氷のように澄み、こちらを値踏みする刃のような冷たさ。

 

黒衣の主は一瞬、喉に声を詰まらせた。

 

(おっぱい……おっぱい近い……谷間が正面に……ヤベ、吸い込まれる……ッ!)

 

慌てて顎を上げ、視線を額へと押し戻す。

 

「名、か。……名は境界、境界は生の束縛よ。神に名は要らぬ。──だが、おまえは名乗るがよい」

 

わずかに時間が遅れて、返答が来た。

金の睫毛がひとつ瞬き、口角が淡く釣り上がる。

 

「シンク・ニルヴァレン。……エルフを統べる七人の族長の一人。その一人にして、この森を治める者」

 

女は淡々と告げた。

 

黒衣の主は、心の奥底で凍りつく。

 

(シンク……シンク・ニルヴァレン!? やっぱりそうじゃん……! 同姓同名? いや、外見までここまで一致とか偶然じゃねぇ! 目元も、声も、仕草も、完全に“本人”だろこれ! なんでだよ!? なんでここにいんの……!?)

 

ほんの一瞬、神の仮面が揺らぎかける。

だが、外面は微動だにせず、依然として神の微笑を湛えていた。

 

ジブリールが、黒衣の主の半歩後ろで静止したまま、唇だけを僅かに動かした。

その声音は低く、しかし甘やかに主の耳へ届く。

 

「マスター……この個体、魔力密度は周囲の長耳どもと比較して桁違いです。

容量もオーバースペック。通常のエルフでは到底リソースできぬ規模……。

加えて、複数の術式を並行稼働させている兆候をキャッチしました。

──結論、同じエルフであるにも関わらず、能力のスケールは隔絶している存在でございます」

 

(それってつまり……やっぱ“シンク・ニルヴァレン”じゃねーか!? なんでここにいるんだよ! 名前も姿も、間違いようがねぇ! そうだよな……ジブリールが言う通り、魔力量も規模も異常。そりゃそうだ、だってシンクだぞ!? 伝説のシンクが、この世界でエルフの族長やってるってどゆこと……!?)

 

黒衣の主は、胸の奥で動揺を抑え込みながらも、神の仮面を崩さなかった。

声はなおも崇高である。

 

「神に忠言をするとは、殊勝だな、ジブリール」

 

「神への奉仕は、呼吸と同義でございます」

 

女──シンクは、視線を天翼へと一瞬だけ滑らせ、すぐに黒衣の主へ戻した。

その目は、好奇の火と計算の冷気を、同じだけ宿している。

 

「で、神を名乗る人。あなたは、何をしにこの結界を破ってまでここへ?」

 

(うわぁ……その目。冷たいのに、奥で燃えてんのが丸見え……しかも胸、動いた、いや待て俺! 今は胸じゃねぇ! 神だ俺は神だ!!)

 

黒衣の主は、わずかに顎を持ち上げ、声を空へ通す。

 

荘厳、冷酷、上から。

 

黒衣の主は、胸の奥の狼狽を押し殺し、両腕を大仰に広げた。

その声音は森を圧する雷鳴のごとく、尊大に。

 

「神は理想を実現する者──すなわち世界の整理者だ。

混沌に秩序を、停滞に進度を、無知に光を下す。

 

長耳の長よ、これぞ神の来訪の理由なり。

汝らを供物とし、崇める信徒とするため──この地に顕れたのだ。

 

毎日、供物を捧げ、祈りを“輪”へと載せよ。

天は返礼を下す。それが摂理……すなわち、神の理である!」

 

間。

塔の高所に、静寂が満ちた。

 

シンクは、すぐには笑わなかった。すぐには怒らなかった。

 

ただ、正面からその言葉の強度と構造を測り、試すように瞬きをした。

 

やがて、冷ややかな声が落ちる。

 

「信仰と供物。提示は簡明ね。……受けてもいいわ」

 

(えっ、はやっ……!? いや嬉しいけど……はやっ!? こっち、もっとこう、押し問答とか演説合戦とかあると思ってたのに!?)

 

「ただし、条件がある」

 

 

ジブリールの眉弓が、音もなく上がる。

 

視線は氷の刃だが、言葉は礼を装う。

 

「神に対し、条件とは──おのれの背丈を計測できない愚かさ、と申し上げて差し支えございませんね」

 

シンクは肩を竦めた。

 

いささかも怯まず、憮然として、理のままに告げる。

 

「取引は常に対等。価値の交換があるだけ。……あなたにとっても有利よ、神を名乗る人」

 

金の指が、白塔の外を指した。森、そして集落の広がる方角。

その指先が、ほんの一瞬だけ柔らかいカーブを描く。

 

視線は遠くを映しているようで、実際には何も見ていない。

同じ景色を、何百年も繰り返し見せられてきた眼だ。

結界の外に憧れを抱きながら、禁じられ、押し戻され、閉じ込められる。

議場で交わされるのは「古き慣例」の確認ばかり、血の通わぬ合議。

若き声は潰され、未来を語る舌は折られる。

 

彼女のまぶたが一度だけ伏せられ、微かな吐息が白塔の空気を震わせた。

それは諦観に似て、しかし苛立ちでもある。

 

口調が、冷たさから、わずかに崩れる。

 

「この国は、七人の“族長”で統治されているわ。合議、儀礼、伝統──美名はいくらでも並べられる。けれど、実態は停滞と硬直。

 

代替わりしても発想は同じ、若い血が出てもすぐに押し潰される。

結界に籠もることを“誇り”だと勘違いして、外に出ることは罪扱い。

学びに出たいと願えば“裏切り者”。

新しい術式を試せば“異端”。

世界を知ろうとすれば“危険思想”。

 

彼らはただ古い帳簿にしがみつき、過去の栄光を反芻しながら、互いに縛り合っているだけ。

進歩も冒険もなく、日々はただ、儀礼と監視と罰則で埋め尽くされる」

 

そこまで冷徹に語っていた声が、ふと弛緩し、唇に艶めいた笑みが浮かぶ。

 

「──だから退屈、なのですよぉ~♪」

 

女の目が、愉しむように細くなる。冷徹の奥に、微細な火が灯った。

 

「簡単なこと。他の六人の族長を、排除して。……“今のまま”を守ろうとする彼らを退場させれば、少なくとも森は停滞から一歩進む。私は供物も祈りも捧げる。あなたは“返礼”とやらを与える。……互いに得をする、WIN–WINの関係でしょう?」

 

黒衣の主の内心は、即座に数字を叩きはじめる。

 

(六人の族長まとめて排除、か。抵抗勢力を一掃、信者ルートは一本化、供物流入は太く安定。維持コスト差し引いても余裕でプラス……おいおい、これ、ちょろすぎじゃねぇか!)

 

その一拍の隙を逃さず、天翼は前へ出かける。声は甘く、だが刃の冷たさを孕んでいた。

 

「主に口答えし、条件を突きつける──下等生物の分際で無礼でございます。教育として、この場で腕の一本でも“デリート”して差し上げましょうか?」

 

黒衣の主は、ひらりと掌を上げた。

それだけで、天翼は音もなく止まる。

 

「よい、ジブリール。神は寛大である。愚かなる下々が口を開くことすら許容する──その余裕もまた、神威の証なのだ」

 

(……いや実際、話を聞く方が得だしな)

 

その声は、よく通る。

たとえ視界の端で“胸の谷間”が波打っていようとも。見てない。見てない。……見てる。

 

シンクが微笑んだ。今度は、ほんの少し砕けた声で。

 

「理を言えば通じる相手で、よかったのですよぉ~。じゃあ、取引成立に向けて、もうひとつだけ確認。“手段”は問わないわね?」

 

「神は道を示す。だが、歩むのはおまえだ」

 

黒衣の主は、指先で空を撫でた。

空中に薄い光輪がひとつ、二つ、生まれては重なり、やがて細い幾何学を組む。音のない鐘の余韻が、塔の空へと広がった。

 

「神は手を下さぬ。おまえに“力”を授ける。おまえはそれを振るえ。結果を、この輪に捧げよ。天は、返礼を下す」

 

シンクの瞳に、明らかな光が差す。冷徹な計算機の光の奥で、原初的な昂ぶりが微かに跳ねた。

 

「力、ね。……興味があるわ。あなたが“神”を名乗るだけの根拠、その一端を見せて」

 

黒衣の主は、横目でジブリールへ目くばせする。低く、しかし玉座に座す者のような余裕を帯びた声で命じた。

 

「ジブリール。装飾室より──《霊壊術式》。神の術式が刻まれた魔導書を」

 

ジブリールは、名を聞いた瞬間だけ、瞳孔を刹那に細めた。

そして、何も言わず、ただ空気を一口吸った。

 

彼女の指が、空の縁を撫でる。

白塔の天蓋が、わずかに「遅れる」。

彼女の掌が、見えない糸をたぐる。

アヴァントヘウムの奥──豪奢な装飾室の片隅、黒いガラス箱に封じられていた一冊が、影を残して消え、つぎの瞬間には天翼の手の上に「在る」。

 

呼吸のような、世界の縫合。

 

「《霊壊術式》、転移完了でございます。……マスター」

 

ジブリールは、その本を両手で捧げ、深々と頭を垂れた。

それは黒革の装丁に金で細紐が走り、背には古語で“術式群”を意味する刻印。息を潜めるだけで、頁の向こうから寒気が漏れる。

 

黒衣の主は、それを受け取ると、ゆっくりとシンクへ差し出した。

声は、告解の司祭のように低く、踊る俳優のように華やか。

 

「見よ、神が編んだ書である。頁をなぞるだけで、術は骨へ、魂へ沈む。五つの加護──《虚空第零》《一動第一》《不動第二》《終天第三》《久遠第四》。我が意匠、我が威光、その凝縮。授けよう、栄えを望むならば振るうがよい」

 

シンクが、細い指で本の端を受け取る。

指先が革の縁を撫でると、ほんのわずかに、彼女の吐息が弾む。

冷徹の殻の裏で、感情の尾が、するりと顔を出す。

 

「読むだけで、ね。……便利すぎるのですよぉ~。でも、いいの? そんなもの、私みたいな“下等生物”に」

 

黒衣の主の頬が、ほんのわずかに引き攣った。

 

(……まぁ、正直に言えば、この術式の元ネタは“ノゲラ”でシンク・ニルヴァレンが編んだやつ、なんだけどね。ゲーム時代、俺が魔法追加MODを作るときに参考にしたのも、まさにシンク・ニルヴァレンのそれだ。……つまり今、“本家”に向かって“神の加護”とか言いながらドヤ顔で渡してる構図。やば……バレた瞬間、神威も権威も──ついでにおっぱいガン見してたのもぜんぶ吹っ飛ぶぞ、これ)

 

ジブリールが、低く、楽しげに笑う。

 

「主が与えると言ったのです。受けるがいい。……ただし、勘違いなさらぬように。神は、見ておられますから」

 

シンクは肩をすくめる仕草で、それを受け流す。

青白い唇が、嘲るようにかすかに緩んだ。

 

「見られて困ることならぁ……最初から、やったりしないのですよぉ~」

 

シンクは、ぱら、と指先で一頁をめくった。

紙はただの羊皮紙のはずなのに、空気が震える。

 

記された文様は墨色──だが、それは「黒」に見えているだけ。

実際に触れる感覚は、視覚ではなく神経。

脳幹に直接届くのは“音”──鈴の音のような、けれど無音であるがゆえに耳が痺れる、奇妙な感触。

 

文字は記号ではなく、術式そのものだった。

理解するのではなく、焼き込まれる。

視覚から皮膚へ、皮膚から神経へ、神経から魂の基盤へ。

“読んだ”のではなく、“刻まれた”。

 

その瞬間、シンクの睫毛が微かに震えた。

吐息が洩れ、声が僅かに甘く崩れる。

 

「……ふふっ……これは──退屈しなさそう、なのですよぉ~♪」

 

すぐに、目はふたたび冷えた鏡へ戻る。

本は胸の前に抱え、視線は神を名乗る男の双眸に。

 

「確認を。あなたは“力”を与えた。私が振るう。あなたは見て、返礼を与える。──干渉はしない。……それでいいのね?」

 

「神は理を敷く。道に迷う者を、わざわざ抱えて運んではやらぬ。自ら歩め。倒れれば、倒れたままだ」

 

「愉快。理に適うわ」

 

シンクは、肩を落として笑った。

それは冷たい女の笑いではなかった。心の深いところにしまっていた玩具箱を、久しぶりに開けた子どもの笑いに、よく似ていた。

 

黒衣の主は、ふと、視線をまた落としてしまう。

視線は、銀の帯の下へ──いや、違う。違う、違う。上。顔を見る。目を見る。……あ、目と見せかけて谷間見てた。

 

ジブリールが、わずかに身をかがめ、主の耳許に囁いた。

 

「マスター。さきほどから視線が……下等生物の、肉塊に集中しております。──もしや、あれも“神の御眼差し”の対象なのでしょうか?」

 

黒衣の主は、わずかに顎を上げ、荘厳を崩さぬ声音で返す。

 

「ふん……無論だ。神はあらゆる造形を祝福する。肉であれ、骨であれ、すべては神の理に含まれる」

 

ジブリールの目が、きらりと輝く。

「なるほど! つまりマスターは──人類種的な営みをご所望なのですね! ファンタスティックゥ!」

 

(ちげえええええええッ!! 頼む声に出すなッ、今この状況でおっぱい見てムラムラしてるとか、神の威光が全部パァになるからッ!!)

 

黒衣の主は、表情を欠片も揺らさず、神の声を被せた。

 

「……解釈は委ねよう。ただ言えるのは──神の望まぬものなど、この世にはない」

 

シンクは、何も言わない。何も言わないが、頬の端だけが、ほんのわずかに跳ねた。見たのか、見ていないのか。わざとだろう、これは。

 

「最後に、運用上の連絡をしておくわ」

 

シンクは、背凭れへと静かに体を預けた。肘掛けに腕を置き、白い指先で無意識に節を叩く。視線は冷たくも、揺るぎない理の線を描いていた。

 

「七人の族長のうち、四つは結界強硬派。森の外と触れ合うこと自体が“堕落”だと信じて疑わない。残りの二つは、流れを読むだけの便乗派。そして一つは、己の立場を守るために傾くだけの日和見。……私は、改革派」

 

黒衣の主は、視線を逸らさず、ただ聞いている。

 

「あなたが与えた“力”は、確かに強大。けれど、それを振るうタイミングと見せ方を誤れば、神をも巻き込んで反発は爆発するわ。だから──まずは内部から、基盤を崩す。世論を傾け、残りを孤立させる。そうすれば、排除の段取りも容易になる」

 

一瞬の沈黙。

黒衣の主は、口角をわずかに上げ、低く通る声を放った。

 

「判断は任せよう。神は“道”を示した。歩みの細部は、選ぶ者の自由だ。神が見るのは──結果のみである」

 

シンクは、微かに笑んだ。だがその笑みは冷ややかで、計算を崩すものではない。

 

「供物は日ごとに捧げるわ。祈りも、欠かさない。……けれど、それには形が要る。信仰を収める場がなければならない」

 

黒衣の主は、衣の袖を払った。

まるで当然の理を語るように、神の口調で告げる。

 

「ならば祭壇を築け。おまえたちの集落に、我が威光を刻む石を立てよ。供物はそこに積め。祈りはそこで奏でよ。──それが、神の糧となる」

 

シンクは軽く頷いた。

「理解したわ。では、私の手で祭壇を用意する。……これで契約は成立ね」

 

黒衣の主は、あくまで威厳を崩さぬ声音で。

 

「違うな。契約ではない。これは“摂理”だ。おまえは神を選んだ──その瞬間から、運命は織り込まれている」

 

 

黒衣の主は、神の仮面を外さぬまま、ゆるやかに頷いた。

 

胸の奥では、無数の電卓が打鍵音を響かせる。

叩いているのは、ただの数値ではない。

六人の族長を粛清したときに得られるはずの“経験値”。

供物の流入量、信徒の増加率、神威維持に必要なコスト──。

数字が跳ね、計算が積み上がるたびに、未来の収支が鮮やかに浮かび上がっていく。

 

視線は……上だ。天井。梁。空。絶対に下ではない。断じて。

 

……なのに、落ちる。勝手に落ちる。谷間へ。曲線へ。呼吸にあわせて揺れる質量へ。

戻せ。上を見ろ。──だが、戻してもまた落ちる。磁力だ。罠だ。おっぱいは神威をも引き寄せる。

額に汗が滲む。舌がもつれる。心拍が上がる。

 

だめだ、このままでは“神”が剥がれる……!

 

黒衣の主は、己の喉をねじ伏せるようにして声を走らせた。

 

「供物を捧げ、理に従え。天は必ず返礼を下す。──それが、神の法である」

 

背後で、ジブリールが白翼をゆるやかに揺らした。

羽ばたきも詠唱もなく、ただ「空間そのもの」を撫でるみたいにして、世界の縫い目をつなぎ直す。

それは魔法というより、彼女にとっての呼吸に近い動作だった。

 

「マスター……いつでも、この場から“還る”ことが可能でございますよ」

 

シンクは、ひと呼吸だけ瞼を閉じた。

それから、ふっと唇を弓なりにして、氷のようだった声音にほんのりと甘味を溶かす。

 

「もう、帰るのぉ? ちょっと……早いのですよぉ~。

せっかくなのにぃ……もう少しぃ、お話し……したいのですよぉ~♪」

 

黒衣の主は、最後にひとつ、言葉の釘を打ち込んだ。

声は朗々と、森の梁を揺らす。

 

「忘れるな。神は見ている。欺きを企むなら、そのまま神へ還ることを」

 

シンクは即座に返す。

 

その目は、揺らがず、しかし退屈を蹴散らす輝きを孕んでいた。

 

シンクはおっとりと微笑み、声をふわりと弛ませる。

 

「欺かないのですよぉ~。欺く必要なんて、ありませんからぁ。私が族長のうちはちゃんと信教するのですよぉ~。毎日、たっぷり供物と祈りを捧げますからぁ──そのぶん、あなたが仰る“返礼”という対価……楽しみにしているのですよぉ~」

 

黒衣の主は、神の面のまま軽く頷いた。

ジブリールが開いておいた薄い裂け目へ、衣の裾を乱さず一歩を踏み入れる。

 

(……よし。財布の口は開いた。次は中身だ。六人の族長、それぞれの拠点、張っている護り、崩せる角度、撤退線。粛清で見込める経験値、供物の流入、信者の増加率、維持コスト……だいたい見えた。組める。いける……!)

 

思考の列は、裂け目の向こう側へ足を運ぶたびに加速する。

数字が伸び、脳内の計算盤が転がり続ける──のだが、その流れの端に、どうしても挟まる異物があった。

 

(……おっぱい。あれは、強かった。圧倒的だった。理不尽だった。危険すぎる。神威が剥がれかけた。……次は直視しない。絶対だ。いやでも──でかかった。形も、反則級。やっぱり危険)

 

黒衣の主は、裂け目の境を抜ける刹那に瞼を閉じる。

閉じた視界の裏側にまで、揺れる双丘が焼きついて離れなかった。

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