神様ムーブは疲れます 作:ゴリランド
森は沈黙していた。
黒衣の主が放つ神霊種の魔力はなおも降り積もり、大地を圧搾する。空気はひしゃげ、葉は震え、小動物の鳴き声すら潰えていた。
地には、長耳の民が額を擦りつけている。頬は泥に濡れ、指は痙攣し、背骨が悲鳴を上げるほど折れ曲がっていた。落ちた弓矢は草に埋もれ、描きかけの魔法陣は霞のように散っている。森に刻まれているのは、ただひとつの形──「平伏」。
黒衣の主は、神の微笑を貼り付けたまま、その光景を俯瞰する。
外面は荘厳、だが内心は小刻みに跳ねる。
(……やっべ、今回もちょろいな。全員、土にめり込む勢いじゃねぇか。おでこズリズリで“土下座アート”完成してんぞ。……よし、この流れなら決めてやれる。いくぞ、神様ショータイム!)
隣に立つ天翼の女が、わずかに首を傾けた。
白磁の頬も、黒曜の虹彩も、微塵も揺れない。だが唇だけが、冷たく弧を描いた。
「……笑えますね。必死に額を擦りつける姿……潰れた芋虫が、土にしがみついて蠢いているようにしか見えません。ああ、マスターの前では、虫ですらまだ品がございますのに」
黒衣の主は、わずかに口角を上げる。
そして──演者としての声を放った。
「哀れなる長耳どもよ。神の前で這いつくばるその姿……醜悪でありながら、同時に美しい。
我が神威に屈し、額を土に擦りつける──その光景こそ、神の理が示す秩序。
見よ、この神の威光を! 世界に膝を折らせる我が姿を……!」
黒衣の主は、ゆるやかに瞼を閉じた。
その声音に酔いしれるように、胸奥で反響する言葉を反芻し──そして、ゆっくりと両腕を広げる。
まるでこの森すべてを抱きかかえ、己こそが世界の中心であると宣言するかのように。
神威はその陶酔を映す鏡のようにさらに濃くなり、森全体へと降り積もっていった。
圧は波のように拡がり、押し込められた空気が低く唸る。
地に這う者たちの背骨が、一本ずつ「軋む」音を立てるかのようであった。
黒衣の主は瞼を開く。
視線は這いつくばる群れのひとつに突き刺さり、演者の声が響きわたる。
「さて、哀れなエルフよ──顔を上げずに答えろ。おまえたちに“意思”を持ち、決定を下す権を握る者──誰をしてその座に据えている?」
その言葉に、地を這う長耳たちは一斉に息を詰めた。
唇が震える。だが声にはならない。
神威の前で抗う術もなく、それでも“長を売る”ことだけは──その誇りが縛りつけていた。
沈黙。
天翼の女が、わずかに眉をひそめる。
「マスター……理解不能、のようです。この虫どもは。意思疎通も叶わぬなら──部位ごとにちぎって、観察標本にいたしましょうか♡」
声色は甘い。だが大鎌の影が霧の奥に芽吹いていた。
黒衣の主は、手を掲げる。
「まて、ジブリール。彼らはただの愚鈍──神の叡智を量りかねているに過ぎぬ」
と神は、這いつくばるエルフにやさしく語りかけた。
「恐れるな。私はその導きを問うのみ。貴様らの誇りを食らうためではない。ほんの些末なる願いを、この神が聞き届けようとしているのだ」
声は荘厳であったが、内心は冷や汗をかいていた。
(おいおい、財布候補をミンチにしてどうする! たかが“場所を聞いただけ”だろ……!)
神の言葉が釘を打つ。重圧はわずかに緩み、息が通る。
恐怖と屈服の板挟みの末、ようやくひとりが掠れ声を漏らした。
「た、たか……白塔……森の、中心……」
よろよろと立ち上がろうとする。案内のために。
黒衣の主は掌をひと振り、再び神威を走らせてその身を釘付けにした。
「愚かな。神の御前に道など不要。我が歩むところにこそ道が生まれ、知るところにこそ真理が顕れる。──ジブリール、繋げ」
天翼種の女は、主の言葉にかすかに微笑んだ。
「了解でございます、マスター」
その声音は甘やかで、けれど儀式のように厳かでもあった。
そして彼女は、ただ一歩──まるで空気を吸うように、静かに息を取った。
詠唱はない。術式もない。言葉すらない。
ただ指先が空間の「縫い目」をつまむ。
瞬間、世界がほどける。
森の湿った木の匂いが裏返り、苔むした緑が紙のように畳まれる。
代わりに白い石の肌理が差し込まれ、光の温度が変わる。苔の湿香は、香木の芳香へ。
それは魔法ではなかった。
──いや、確かに魔法ではある。
ただし、人の口にする呪文でも、指先で描く術式でもない。
それは神の領域に刻まれた“術式”であった。
空間を操るのではなかった──いや、確かに操ってはいる。
だがそれは、人が幾重にも術式を積み重ねてようやく触れられる領域を、まるで呼吸するように征してみせる行為。
世界の縫い目に指をかけ、ひと息で道を穿つ。
その在り方こそ、人の魔法ではなく“神の術式”と呼ぶべきものだった。
次の瞬間、黒衣の主と天翼の女は──森の中央に聳える白塔、その高みに立っていた。
*
白塔の間は、静謐にして豪奢だった。
月乳色の石で組まれた床に、蔓草の紋が銀糸で縫い取られている。緩やかな階段の上、天蓋の下に置かれた座──玉座とは言わぬ。だが、そこに腰掛ける者は、座そのものに形を与えるような存在感を放っていた。
長い金糸の髪が、瀑布のように肩から流れ落ちる。
布面積は惜しげもなく削ぎ、白と翡翠の帯だけが要所を結ぶ。
頸元には石の雫、胸には紋章の金具。肌は光を返し、唇は青白い火のように艶めく。
耳は長く、先端はきゅっと上がり、そこに飾られた小さな輪が微かに揺れていた。
黒衣の主は、その姿を一目見て──思わず声を漏らした。
「……なっ!?」
外面に、素の驚きが迸る。ほんの刹那、神の仮面がずれる。
(え、え、えっ……!? 待て待て待て、顔面偏差値、既視感の暴力! この目元、この姫カット、この胸元の設計思想──こ、これって“シンク・ニルヴァレン”じゃねぇのか!? 嘘だろ。なんでいんの?しかも……おっぱい……デカッ!!お、おっぱい……でかッ!! でかい、でかすぎる! 形もやばい、完璧すぎる……っ! 谷間が、谷間が深ぇ……! 丸い……いや、丸いだけじゃねぇ、重力を無視してんのか!? 弾力感と重量感が両立してる……おっぱい……おっぱい……おっぱいッ!!)
演者であることを、黒衣の主は忘れない。
神の面をずらすことなく、荘厳な微笑を貼りつけ続ける。
──だが、視線は裏切る。
勝手に吸い寄せられそうになる。黄金の髪でも、冷徹な眼差しでもない。胸だ。おっぱいだ。
鉄の意志で額へ押し戻す。押し戻しても、また戻る。戻ってくるな。戻るな……おっぱい。
女は、静かにこちらへ視線を流した。
その眼は、氷のように澄んでいて、同時に刃のように冷たい。
理で切り裂き、存在を値踏みする眼差し。
声もまた澄んでいるが、温度はない。理を先に置く声だ。
「歓迎はしないわ。けれど──ここまで手間をかけず“来られる”客人は珍しい。まずは名を」
シンクの眼差しは、先ほどと同じ。氷のように澄み、こちらを値踏みする刃のような冷たさ。
黒衣の主は一瞬、喉に声を詰まらせた。
(おっぱい……おっぱい近い……谷間が正面に……ヤベ、吸い込まれる……ッ!)
慌てて顎を上げ、視線を額へと押し戻す。
「名、か。……名は境界、境界は生の束縛よ。神に名は要らぬ。──だが、おまえは名乗るがよい」
わずかに時間が遅れて、返答が来た。
金の睫毛がひとつ瞬き、口角が淡く釣り上がる。
「シンク・ニルヴァレン。……エルフを統べる七人の族長の一人。その一人にして、この森を治める者」
女は淡々と告げた。
黒衣の主は、心の奥底で凍りつく。
(シンク……シンク・ニルヴァレン!? やっぱりそうじゃん……! 同姓同名? いや、外見までここまで一致とか偶然じゃねぇ! 目元も、声も、仕草も、完全に“本人”だろこれ! なんでだよ!? なんでここにいんの……!?)
ほんの一瞬、神の仮面が揺らぎかける。
だが、外面は微動だにせず、依然として神の微笑を湛えていた。
ジブリールが、黒衣の主の半歩後ろで静止したまま、唇だけを僅かに動かした。
その声音は低く、しかし甘やかに主の耳へ届く。
「マスター……この個体、魔力密度は周囲の長耳どもと比較して桁違いです。
容量もオーバースペック。通常のエルフでは到底リソースできぬ規模……。
加えて、複数の術式を並行稼働させている兆候をキャッチしました。
──結論、同じエルフであるにも関わらず、能力のスケールは隔絶している存在でございます」
(それってつまり……やっぱ“シンク・ニルヴァレン”じゃねーか!? なんでここにいるんだよ! 名前も姿も、間違いようがねぇ! そうだよな……ジブリールが言う通り、魔力量も規模も異常。そりゃそうだ、だってシンクだぞ!? 伝説のシンクが、この世界でエルフの族長やってるってどゆこと……!?)
黒衣の主は、胸の奥で動揺を抑え込みながらも、神の仮面を崩さなかった。
声はなおも崇高である。
「神に忠言をするとは、殊勝だな、ジブリール」
「神への奉仕は、呼吸と同義でございます」
女──シンクは、視線を天翼へと一瞬だけ滑らせ、すぐに黒衣の主へ戻した。
その目は、好奇の火と計算の冷気を、同じだけ宿している。
「で、神を名乗る人。あなたは、何をしにこの結界を破ってまでここへ?」
(うわぁ……その目。冷たいのに、奥で燃えてんのが丸見え……しかも胸、動いた、いや待て俺! 今は胸じゃねぇ! 神だ俺は神だ!!)
黒衣の主は、わずかに顎を持ち上げ、声を空へ通す。
荘厳、冷酷、上から。
黒衣の主は、胸の奥の狼狽を押し殺し、両腕を大仰に広げた。
その声音は森を圧する雷鳴のごとく、尊大に。
「神は理想を実現する者──すなわち世界の整理者だ。
混沌に秩序を、停滞に進度を、無知に光を下す。
長耳の長よ、これぞ神の来訪の理由なり。
汝らを供物とし、崇める信徒とするため──この地に顕れたのだ。
毎日、供物を捧げ、祈りを“輪”へと載せよ。
天は返礼を下す。それが摂理……すなわち、神の理である!」
間。
塔の高所に、静寂が満ちた。
シンクは、すぐには笑わなかった。すぐには怒らなかった。
ただ、正面からその言葉の強度と構造を測り、試すように瞬きをした。
やがて、冷ややかな声が落ちる。
「信仰と供物。提示は簡明ね。……受けてもいいわ」
(えっ、はやっ……!? いや嬉しいけど……はやっ!? こっち、もっとこう、押し問答とか演説合戦とかあると思ってたのに!?)
「ただし、条件がある」
ジブリールの眉弓が、音もなく上がる。
視線は氷の刃だが、言葉は礼を装う。
「神に対し、条件とは──おのれの背丈を計測できない愚かさ、と申し上げて差し支えございませんね」
シンクは肩を竦めた。
いささかも怯まず、憮然として、理のままに告げる。
「取引は常に対等。価値の交換があるだけ。……あなたにとっても有利よ、神を名乗る人」
金の指が、白塔の外を指した。森、そして集落の広がる方角。
その指先が、ほんの一瞬だけ柔らかいカーブを描く。
視線は遠くを映しているようで、実際には何も見ていない。
同じ景色を、何百年も繰り返し見せられてきた眼だ。
結界の外に憧れを抱きながら、禁じられ、押し戻され、閉じ込められる。
議場で交わされるのは「古き慣例」の確認ばかり、血の通わぬ合議。
若き声は潰され、未来を語る舌は折られる。
彼女のまぶたが一度だけ伏せられ、微かな吐息が白塔の空気を震わせた。
それは諦観に似て、しかし苛立ちでもある。
口調が、冷たさから、わずかに崩れる。
「この国は、七人の“族長”で統治されているわ。合議、儀礼、伝統──美名はいくらでも並べられる。けれど、実態は停滞と硬直。
代替わりしても発想は同じ、若い血が出てもすぐに押し潰される。
結界に籠もることを“誇り”だと勘違いして、外に出ることは罪扱い。
学びに出たいと願えば“裏切り者”。
新しい術式を試せば“異端”。
世界を知ろうとすれば“危険思想”。
彼らはただ古い帳簿にしがみつき、過去の栄光を反芻しながら、互いに縛り合っているだけ。
進歩も冒険もなく、日々はただ、儀礼と監視と罰則で埋め尽くされる」
そこまで冷徹に語っていた声が、ふと弛緩し、唇に艶めいた笑みが浮かぶ。
「──だから退屈、なのですよぉ~♪」
女の目が、愉しむように細くなる。冷徹の奥に、微細な火が灯った。
「簡単なこと。他の六人の族長を、排除して。……“今のまま”を守ろうとする彼らを退場させれば、少なくとも森は停滞から一歩進む。私は供物も祈りも捧げる。あなたは“返礼”とやらを与える。……互いに得をする、WIN–WINの関係でしょう?」
黒衣の主の内心は、即座に数字を叩きはじめる。
(六人の族長まとめて排除、か。抵抗勢力を一掃、信者ルートは一本化、供物流入は太く安定。維持コスト差し引いても余裕でプラス……おいおい、これ、ちょろすぎじゃねぇか!)
その一拍の隙を逃さず、天翼は前へ出かける。声は甘く、だが刃の冷たさを孕んでいた。
「主に口答えし、条件を突きつける──下等生物の分際で無礼でございます。教育として、この場で腕の一本でも“デリート”して差し上げましょうか?」
黒衣の主は、ひらりと掌を上げた。
それだけで、天翼は音もなく止まる。
「よい、ジブリール。神は寛大である。愚かなる下々が口を開くことすら許容する──その余裕もまた、神威の証なのだ」
(……いや実際、話を聞く方が得だしな)
その声は、よく通る。
たとえ視界の端で“胸の谷間”が波打っていようとも。見てない。見てない。……見てる。
シンクが微笑んだ。今度は、ほんの少し砕けた声で。
「理を言えば通じる相手で、よかったのですよぉ~。じゃあ、取引成立に向けて、もうひとつだけ確認。“手段”は問わないわね?」
「神は道を示す。だが、歩むのはおまえだ」
黒衣の主は、指先で空を撫でた。
空中に薄い光輪がひとつ、二つ、生まれては重なり、やがて細い幾何学を組む。音のない鐘の余韻が、塔の空へと広がった。
「神は手を下さぬ。おまえに“力”を授ける。おまえはそれを振るえ。結果を、この輪に捧げよ。天は、返礼を下す」
シンクの瞳に、明らかな光が差す。冷徹な計算機の光の奥で、原初的な昂ぶりが微かに跳ねた。
「力、ね。……興味があるわ。あなたが“神”を名乗るだけの根拠、その一端を見せて」
黒衣の主は、横目でジブリールへ目くばせする。低く、しかし玉座に座す者のような余裕を帯びた声で命じた。
「ジブリール。装飾室より──《霊壊術式》。神の術式が刻まれた魔導書を」
ジブリールは、名を聞いた瞬間だけ、瞳孔を刹那に細めた。
そして、何も言わず、ただ空気を一口吸った。
彼女の指が、空の縁を撫でる。
白塔の天蓋が、わずかに「遅れる」。
彼女の掌が、見えない糸をたぐる。
アヴァントヘウムの奥──豪奢な装飾室の片隅、黒いガラス箱に封じられていた一冊が、影を残して消え、つぎの瞬間には天翼の手の上に「在る」。
呼吸のような、世界の縫合。
「《霊壊術式》、転移完了でございます。……マスター」
ジブリールは、その本を両手で捧げ、深々と頭を垂れた。
それは黒革の装丁に金で細紐が走り、背には古語で“術式群”を意味する刻印。息を潜めるだけで、頁の向こうから寒気が漏れる。
黒衣の主は、それを受け取ると、ゆっくりとシンクへ差し出した。
声は、告解の司祭のように低く、踊る俳優のように華やか。
「見よ、神が編んだ書である。頁をなぞるだけで、術は骨へ、魂へ沈む。五つの加護──《虚空第零》《一動第一》《不動第二》《終天第三》《久遠第四》。我が意匠、我が威光、その凝縮。授けよう、栄えを望むならば振るうがよい」
シンクが、細い指で本の端を受け取る。
指先が革の縁を撫でると、ほんのわずかに、彼女の吐息が弾む。
冷徹の殻の裏で、感情の尾が、するりと顔を出す。
「読むだけで、ね。……便利すぎるのですよぉ~。でも、いいの? そんなもの、私みたいな“下等生物”に」
黒衣の主の頬が、ほんのわずかに引き攣った。
(……まぁ、正直に言えば、この術式の元ネタは“ノゲラ”でシンク・ニルヴァレンが編んだやつ、なんだけどね。ゲーム時代、俺が魔法追加MODを作るときに参考にしたのも、まさにシンク・ニルヴァレンのそれだ。……つまり今、“本家”に向かって“神の加護”とか言いながらドヤ顔で渡してる構図。やば……バレた瞬間、神威も権威も──ついでにおっぱいガン見してたのもぜんぶ吹っ飛ぶぞ、これ)
ジブリールが、低く、楽しげに笑う。
「主が与えると言ったのです。受けるがいい。……ただし、勘違いなさらぬように。神は、見ておられますから」
シンクは肩をすくめる仕草で、それを受け流す。
青白い唇が、嘲るようにかすかに緩んだ。
「見られて困ることならぁ……最初から、やったりしないのですよぉ~」
シンクは、ぱら、と指先で一頁をめくった。
紙はただの羊皮紙のはずなのに、空気が震える。
記された文様は墨色──だが、それは「黒」に見えているだけ。
実際に触れる感覚は、視覚ではなく神経。
脳幹に直接届くのは“音”──鈴の音のような、けれど無音であるがゆえに耳が痺れる、奇妙な感触。
文字は記号ではなく、術式そのものだった。
理解するのではなく、焼き込まれる。
視覚から皮膚へ、皮膚から神経へ、神経から魂の基盤へ。
“読んだ”のではなく、“刻まれた”。
その瞬間、シンクの睫毛が微かに震えた。
吐息が洩れ、声が僅かに甘く崩れる。
「……ふふっ……これは──退屈しなさそう、なのですよぉ~♪」
すぐに、目はふたたび冷えた鏡へ戻る。
本は胸の前に抱え、視線は神を名乗る男の双眸に。
「確認を。あなたは“力”を与えた。私が振るう。あなたは見て、返礼を与える。──干渉はしない。……それでいいのね?」
「神は理を敷く。道に迷う者を、わざわざ抱えて運んではやらぬ。自ら歩め。倒れれば、倒れたままだ」
「愉快。理に適うわ」
シンクは、肩を落として笑った。
それは冷たい女の笑いではなかった。心の深いところにしまっていた玩具箱を、久しぶりに開けた子どもの笑いに、よく似ていた。
黒衣の主は、ふと、視線をまた落としてしまう。
視線は、銀の帯の下へ──いや、違う。違う、違う。上。顔を見る。目を見る。……あ、目と見せかけて谷間見てた。
ジブリールが、わずかに身をかがめ、主の耳許に囁いた。
「マスター。さきほどから視線が……下等生物の、肉塊に集中しております。──もしや、あれも“神の御眼差し”の対象なのでしょうか?」
黒衣の主は、わずかに顎を上げ、荘厳を崩さぬ声音で返す。
「ふん……無論だ。神はあらゆる造形を祝福する。肉であれ、骨であれ、すべては神の理に含まれる」
ジブリールの目が、きらりと輝く。
「なるほど! つまりマスターは──人類種的な営みをご所望なのですね! ファンタスティックゥ!」
(ちげえええええええッ!! 頼む声に出すなッ、今この状況でおっぱい見てムラムラしてるとか、神の威光が全部パァになるからッ!!)
黒衣の主は、表情を欠片も揺らさず、神の声を被せた。
「……解釈は委ねよう。ただ言えるのは──神の望まぬものなど、この世にはない」
シンクは、何も言わない。何も言わないが、頬の端だけが、ほんのわずかに跳ねた。見たのか、見ていないのか。わざとだろう、これは。
「最後に、運用上の連絡をしておくわ」
シンクは、背凭れへと静かに体を預けた。肘掛けに腕を置き、白い指先で無意識に節を叩く。視線は冷たくも、揺るぎない理の線を描いていた。
「七人の族長のうち、四つは結界強硬派。森の外と触れ合うこと自体が“堕落”だと信じて疑わない。残りの二つは、流れを読むだけの便乗派。そして一つは、己の立場を守るために傾くだけの日和見。……私は、改革派」
黒衣の主は、視線を逸らさず、ただ聞いている。
「あなたが与えた“力”は、確かに強大。けれど、それを振るうタイミングと見せ方を誤れば、神をも巻き込んで反発は爆発するわ。だから──まずは内部から、基盤を崩す。世論を傾け、残りを孤立させる。そうすれば、排除の段取りも容易になる」
一瞬の沈黙。
黒衣の主は、口角をわずかに上げ、低く通る声を放った。
「判断は任せよう。神は“道”を示した。歩みの細部は、選ぶ者の自由だ。神が見るのは──結果のみである」
シンクは、微かに笑んだ。だがその笑みは冷ややかで、計算を崩すものではない。
「供物は日ごとに捧げるわ。祈りも、欠かさない。……けれど、それには形が要る。信仰を収める場がなければならない」
黒衣の主は、衣の袖を払った。
まるで当然の理を語るように、神の口調で告げる。
「ならば祭壇を築け。おまえたちの集落に、我が威光を刻む石を立てよ。供物はそこに積め。祈りはそこで奏でよ。──それが、神の糧となる」
シンクは軽く頷いた。
「理解したわ。では、私の手で祭壇を用意する。……これで契約は成立ね」
黒衣の主は、あくまで威厳を崩さぬ声音で。
「違うな。契約ではない。これは“摂理”だ。おまえは神を選んだ──その瞬間から、運命は織り込まれている」
黒衣の主は、神の仮面を外さぬまま、ゆるやかに頷いた。
胸の奥では、無数の電卓が打鍵音を響かせる。
叩いているのは、ただの数値ではない。
六人の族長を粛清したときに得られるはずの“経験値”。
供物の流入量、信徒の増加率、神威維持に必要なコスト──。
数字が跳ね、計算が積み上がるたびに、未来の収支が鮮やかに浮かび上がっていく。
視線は……上だ。天井。梁。空。絶対に下ではない。断じて。
……なのに、落ちる。勝手に落ちる。谷間へ。曲線へ。呼吸にあわせて揺れる質量へ。
戻せ。上を見ろ。──だが、戻してもまた落ちる。磁力だ。罠だ。おっぱいは神威をも引き寄せる。
額に汗が滲む。舌がもつれる。心拍が上がる。
だめだ、このままでは“神”が剥がれる……!
黒衣の主は、己の喉をねじ伏せるようにして声を走らせた。
「供物を捧げ、理に従え。天は必ず返礼を下す。──それが、神の法である」
背後で、ジブリールが白翼をゆるやかに揺らした。
羽ばたきも詠唱もなく、ただ「空間そのもの」を撫でるみたいにして、世界の縫い目をつなぎ直す。
それは魔法というより、彼女にとっての呼吸に近い動作だった。
「マスター……いつでも、この場から“還る”ことが可能でございますよ」
シンクは、ひと呼吸だけ瞼を閉じた。
それから、ふっと唇を弓なりにして、氷のようだった声音にほんのりと甘味を溶かす。
「もう、帰るのぉ? ちょっと……早いのですよぉ~。
せっかくなのにぃ……もう少しぃ、お話し……したいのですよぉ~♪」
黒衣の主は、最後にひとつ、言葉の釘を打ち込んだ。
声は朗々と、森の梁を揺らす。
「忘れるな。神は見ている。欺きを企むなら、そのまま神へ還ることを」
シンクは即座に返す。
その目は、揺らがず、しかし退屈を蹴散らす輝きを孕んでいた。
シンクはおっとりと微笑み、声をふわりと弛ませる。
「欺かないのですよぉ~。欺く必要なんて、ありませんからぁ。私が族長のうちはちゃんと信教するのですよぉ~。毎日、たっぷり供物と祈りを捧げますからぁ──そのぶん、あなたが仰る“返礼”という対価……楽しみにしているのですよぉ~」
黒衣の主は、神の面のまま軽く頷いた。
ジブリールが開いておいた薄い裂け目へ、衣の裾を乱さず一歩を踏み入れる。
(……よし。財布の口は開いた。次は中身だ。六人の族長、それぞれの拠点、張っている護り、崩せる角度、撤退線。粛清で見込める経験値、供物の流入、信者の増加率、維持コスト……だいたい見えた。組める。いける……!)
思考の列は、裂け目の向こう側へ足を運ぶたびに加速する。
数字が伸び、脳内の計算盤が転がり続ける──のだが、その流れの端に、どうしても挟まる異物があった。
(……おっぱい。あれは、強かった。圧倒的だった。理不尽だった。危険すぎる。神威が剥がれかけた。……次は直視しない。絶対だ。いやでも──でかかった。形も、反則級。やっぱり危険)
黒衣の主は、裂け目の境を抜ける刹那に瞼を閉じる。
閉じた視界の裏側にまで、揺れる双丘が焼きついて離れなかった。