この作品には死別、曇らせの要素が含まれます。ご注意下さい。
俺が思い出せる、一番古い感覚は6歳の時のもの。赤く染まった視覚、鉄の味が広がる味覚、漏れ出たガソリンであろう鼻につく嗅覚、悲鳴やら怒号やらを捉える聴覚、自分の血とアスファルトの冷たさが混じる触覚。
それらの感覚が徐々に遠くなる中で、最後に訪れた『第六の感覚』……あるはずのないドコカで、いるはずのないダレカに囁かれた第六感が俺の運命を決めてしまった。
『キミのお父さんは、残念ながら今日のこの事故で死ぬ運命にあった』
『でもキミは違う。キミが死ぬのは20歳、なのに手違いで巻き込んでしまったよ』
『だからお詫びをあげようと思う。今日の事故の痛みと、20歳という終点を知ることになってしまった痛みのお詫び』
それが俺の最古であり、原点たる感覚だ。それ以前の記憶がサッパリないが、それ以降の怒涛の日々は大体憶えている。
まずは、目に優しくない白と消毒液のにおいが印象的な病室。地肌よりも包帯を巻いた面積のほうが大きい俺がベッドの上で聞いた、ウマ耳とシッポを怪訝そうに揺らす女医さんから伝えられた話。
次に、死ぬ気で知識を詰め込み、小学校を卒業してすぐアメリカへ飛んだ留学体験。
それから、飛び級制度やら使えるすべてを使って得た資格と学歴。
そして今、日本に戻り『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』の『教官 兼 トレーナー』としての生活。その始まりが目の前の門の先にある。
「なんとかここまで来れたか、よく頑張った俺」
これまでの努力の一区切りとして、独りで自分を褒めてみた。軽く息を整えて、ついに俺は朝陽のきらめく「トレセン学園」に踏み入れる。
学園敷地内の整えられた植栽には、端々に春の色がつき始めている。空は青く、雲のない快晴。暖かい春陽が学園に差し、梢を揺らす和風が出会いの背を優しく押してくれるだろう。心地よい春の朝が俺のスタートを飾ってくれていた。
死が俺に追いつくまで、あと4年だ。
♢
十数年前、この竜胆ナツメに起きた交通事故。どこへ向かっていたのかも忘れたが、父親の運転する車に同乗していた俺は生死の境をさまよった。搬送された病院で数週間後に目覚めた時『ナツメ
俺の後遺症、それは人間の男が得るはずのない『
さらに、過剰な生存意識がもたらす『肉体の一方的な最適化』というものまで、俺の身体は得てしまったらしい。当時こそ医者の説明は理解の及ぶものではなかったが、月日が流れ知識を蓄えた今ならばわかる。つまるところこの肉体は、
そんな俺の身体を、ウマ娘のお医者様は悲しそうに見ていた。ここまでの説明は、ようするにプラスに見える部分だ。俺が受け止めるべきモノは過剰な身体能力でも手抜きの肉体改造でもない、その裏側の代償。医者曰く、事故の際のショックが原因なのか、俺の正常な人間生活のための
その話を俺が疑うことはなかった。内心で話を整理していく中で、俺は思考――というよりは精神や人生観かもしれない――が急速に冷めていくような感じがしていた。6歳の自分が持っていた幼さが一気に剥がれ落ちるような感覚、それと同時に『じゃあ俺は死を迎える20歳までにこの身体で何を成すのか』がグルグルと頭の中を駆け巡る。少しして、稚拙だが冷徹な思考は、自分の得た手札から『ウマ娘』というキーワードを芯に置いた。
『母さん、おれはトレーナーになるよ』
――あぁ。長ったらしい事情にさらにもうひとつ付け加えるならば、俺がブッ壊れたのは身体だけでなく、『頭』も。
通りがかるウマ娘を少し見つめてみれば、視界に薄く浮かぶその娘の
いいんだよそんなのは。それよりも、心地よい春の朝が俺のスタートうんたら考える暇があるなら、トレセン学園の職員方と一緒に始業式に行かないと。身だしなみも問題なさそうだし、急げ急げ。
♢
トレセン学園、始業式。
この学園に在籍する私たちウマ娘たちは、URAが運営するトゥインクルシリーズを走るために集まった、日本最高峰の実力を持つウマ娘だ。研鑽を積み、限界をこえて、誰より速く駆け抜けるためにここに居る。故に、この始業式で最も重要な部分は、トレーナー紹介だった。名前の読み上げと一礼のみの紹介だが、この中で自分を夢の舞台へ押し上げてくれる人は誰だろう。何人もの重賞ウマ娘を輩出したベテランか、安心できる経験と柔軟性を併せ持った中堅か、共に夢と可能性を追いかけてくれる新人か……。
トレーナーがつくだけでも幸運なこの学園で、自身が希望するトレーナーと夢を追いかけるなんて、それ自体が夢物語。それでも、目星をつけるだけならタダだし、責められる謂れはない。ほとんどのウマ娘たちの頭の中は、理想のトレーナーと理想の走りを思い描くのでいっぱいだった。当然と言えば学園側は不本意だろうが、トレーナー紹介が終わった時点で、これから始まる『教官の紹介』まで集中が続くウマ娘はひと握り。
――だが。紹介を待つ職員の中に、明らかにそぐわない高校生くらいの青年がいるとなれば話は変わってくる。『え、誰アレ。誰か職員の息子さん?』半数以上の生徒の思考が一致した。
無地の白ロンTに、黒基調のフードジャケット、下はスマホやら鍵やらが入っていそうなグレーのカーゴパンツ。若さを感じる黒髪はゆるく遊ばせた毛先が柔らかそうで、さらに前髪と毛先の一部にメッシュの赤が目を引く。顔は……だいぶ良い。灰色の瞳が、青年の奥底を隠すようで少し不思議な印象を残すが。それでもやはり顔が良かった。しかも、おそらく同年代の男子。総じて、言葉を選ぶならカジュアル――言葉を選ばないならユルすぎ――な存在がそこにあった。
あまりに異例で異質な存在に、アスリートであり華の
『静粛ッ!これより、たづなが教官がたの紹介を行う!』
壇上に立つ秋川やよい理事長の豪快な一喝に、ざわめきと雑念が吹き飛んだ。ホールは始業式の静けさを思い出し、理事長秘書たる駿川たづなが教官の名前と担任クラスを粛々と読み上げる。1クラス、また1クラスと担任教官が割り当てられていき、枠は着実に埋まっていく。
『最後に、今年度より教官として採用されました──竜胆ナツメ教官』
そして残すはあと一人。名前を呼ばれ一歩踏み出した新人教官が、赤いメッシュの入った髪を揺らして一礼した。『竜胆ナツメ』……その名前を口の中で静かに噛み、担任クラスの発表を待つ。顔、名前、年齢、何もかもがフィクションから出てきたような彼は、どのクラスを担当するのか。そこで、何人かのウマ娘は僅かに首と耳を傾げる。頭の中で、既に教官が割り当てられたクラスを思い返す。つまるところ――『あれ?もうクラス全部埋まってない?』
『竜胆教官は、全クラスの副教官を担当していただきます』
笑顔が素敵なトレセン学園理事長秘書さんは、素敵な笑顔でとんでもないことを言い放つ。そして、全クラスの副教官であるらしい竜胆ナツメもまた、一歩前に出て素敵な笑顔で言い放つのだった。
『ご紹介に預かった竜胆ナツメだ!歳は変わらないから気楽に接してくれていい、希望があれば併走もできるぞ!これから4年間どうぞよろしくな!』
♢
衝撃の始業式からしばらくして、竜胆ナツメ教官は私たちウマ娘、ひいてはトレセン学園に馴染んでいた。教官らしからぬラフさは、秋川理事長の提案で『助言ッ!今までにない人材だからこそ、既存の教官としての接し方に囚われることはない!』ということらしい。その弊害なのか『同年代のイケメン教官が友達の距離感で優しく楽しく的確な指導』という怪しすぎるシチュエーションに、何人かの生徒は学園生活の充実感が変な方向に向上しているようだった。
ナツメ教官が採用された当初は能力を訝しむ視線もあった。存在が非現実的すぎて、なにかコネを使った道楽の縁故就職ではないかと。トレーナーでこそないものの、中央の教官とて採用の門は狭く、16歳の青年が実力でその門をくぐるのは考えづらい。
しかし、ナツメ教官はその疑念を実力で払拭してみせる。アメリカの飛び級制度で教育実習も終え、教員免許を取得しているナツメ教官が、急遽席を外さねばならない主担任に代わって1日授業を何度もやり遂げた。中等部の基礎から高等部の専門授業まで一切の不足はなく、生徒からのカリキュラムにない質問にも補足説明とともに答えたという。
――正直なところ、私たち生徒にとってナツメ教官の一番受け入れがたい部分は、経歴でも学力でも態度でもなく、明らかに常人離れした『運動能力』だった。初めてのレース実技授業においてトレーニングメニューを提示し、柔軟を終えて、普段履きのハイカットスニーカーから蹄鉄付きのランニングシューズに履き替えて『おーし、俺も一緒にやろっかな』と言った時、その場にいた生徒は――それからクラスの主担任も――『いやいや何言ってんの』と呆れた。始業式の挨拶でも併走がどうのと言っていたが、人間がウマ娘に勝てるどころか同じメニューをこなせる道理は無い。そのはずだ。
結果として授業が終わってみれば、ウマ娘用のトレーニングを終始先導し、ほぼ息を切らす様子もなく爽やかなものだった。あり得るはずがない、スパートの練習で風を裂いて駆けるウマ娘を横で追い抜くなんて。
現実を受け入れられない数人の生徒が模擬レースを申し込み、ナツメ教官は困ったように笑って主担任の教官に話を振る。主担任は眉間にしわを寄せたものの、悩んだ末にそれを承諾し、その日の放課後に複数の生徒とナツメ教官の芝2000m模擬レースが行われた。うわさを聞きつけ他クラスの生徒や教官、トレーナー数名までもがコースに集まり、その行く末を見届けた。スタートは抑え気味、周りに視線を向けつつ後ろ半分でポジションキープ、中盤で徐々に外側に出て先頭の状態を把握し、終盤手前からドンと芝を踏んで加速、その前傾姿勢はそれこそウマ娘のようで。
トレーナーがついていない未デビューのウマ娘たち相手といえど、差し切り3バ身差の堂々1着。
ナツメ教官は『この身体ね、ちょっとした病気みたいなもんだ。走力に関してはまぁ……アメリカの教育実習で、担当してる娘たちと走りこんだからな』と白い歯を見せる。そして実際にレースを走ったウマ娘の一人は言った。
――多分だけど、本気じゃなかったと思う。もしかしたら、ナツメ教官ってクラシック級の重賞あたりで走れるんじゃないかな……
全クラスの副担任としてほぼすべてのウマ娘と関わる都合上、それからしばらくの間それはもうたくさんのウマ娘から指導・併走・模擬レースの誘いが凄かったようだが、運動能力を変に隠すことなく生徒に向き合った。結果、1か月も経てば、ウマ娘と一緒にトレーニングをするナツメ教官をトレセン学園の日常として受け入れていた。それどころか、事前に決められた4年の任期と、生徒ひとりひとりの走りの本質を見抜くような指摘は、教官でしかない竜胆ナツメに対してある想いを抱くウマ娘が何人か。
――もしもナツメ教官が、専属トレーナーになってくれたら
♢
誰もいない夕方の屋上で、吐いた息が白く煙って冬空に溶ける。
俺の始まりの春から季節が流れた。トレセン学園の花壇や植栽は装いを変え、職員室のデスクも自分の仕事場として見慣れたものとなった。『ナツメ教官』と呼ばれ生徒に囲まれるのも、放課後のトレーニングや併走に付き合うのも、休日にレース用品を一緒に見に行くのも、俺が目指した人生の到達点として上々に思う。先週は、未デビューの生徒がついにトレーナーと契約を結べたらしい。長い間燻り続けていた
同じような報告は今までにも何件かあり、教官冥利に尽きるというほかない。残る3年と数か月もこのまま、より広く浅くウマ娘に関わることで、より多くの歩みを少しずつ後押しするのが『ベストな命の使い方』のはず。
愛用しているフードジャケットの内ポケットをまさぐり、手のひらに収まるサイズのケースを取り出す。パカッと小気味のいい音とともに姿を現したのは、斜陽を反射する中央トレーナーバッジ。俺がこれを持っているのを知っているのは、秋川理事長とたづなさんの二人だけ。試験に合格しトレーナーとして採用される直前に、二人に頼み込んで教官としての立場を用意してもらった。『いつでもトレーナーに戻っていい』と言葉をかけてもらったが、今後その予定が立つことは無い。
「コレが陽の目を見るのはもう無いかねぇ」
必死こいて取得したトレーナーバッジだったが、最終的に俺が選んだ道は教官の役職だ。試験に合格してから、俺がトレーナーになったとて3、4年しか担当できないことにようやく思い至った。チームだろうが専属だろうが、ウマ娘のレース人生において最も重要とされる『最初の3年』を預かっておいて、その道のりが成功であれ失敗であれ放り出すカタチになるのはあまりに忍びない。
「……うぉ寒っ。風邪なんてひけないけど、そろそろ戻っとくか」
冷たく乾いた風が吹き、赤い前髪を揺らしたことで、バッジを上着の胸内ポケットにしまう。正直なところトレーナー業に憧れがない訳じゃないが、それは我儘というもので、10年前の第六感で得た囁きから決まっていたことなのだろう。教官業こそが俺にできるベストな道であり、俺が生きた理由になるんだ。
この時はそうやって俺自身を納得させていた。だけど出会ってしまった。俺の本当の運命、俺の命の使い道。
俺はこの
竜胆ナツメは顔と名前がかっこいいです(とても大事)
以下は、これからの話で頻出する竜胆ナツメの要素を簡単にまとめたものです。
・20歳で死ぬ、20歳まで死なない
・ぶっ壊れのアタマとカラダ
・ウマ娘並みの身体能力
・ステータスの幻視
・アメリカで飛び級した16歳
・現在は全クラスの副教官を担当