墜星は暗路を行く   作:はくとう

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スティルインラブ編
スティルインラブ 1


竜胆ナツメ。先日17歳を迎えたトレセン学園教官。顔と名前がかっこいい。

 

 

 

通勤途中の朝、遊歩道に白や桃やの色彩が散らばる中で、少し足を止めて春の空気を吸う。

 

俺は無事に教官として1年間勤めあげた。全クラスの副担はそれなりに慌ただしくあったが、「無理」というのがほぼ存在しない身体のせいで激務程度でバテることは無かった。仕事も職場も無事に慣れたし、この調子なら問題なく任期を全うできるだろう。

 

俺の命は人生設計通りに完遂間近……

 

 

 

――本当に?

 

 

 

「ぅえ?」

 

 

 

思わず漏れ出た素っ頓狂な声とともに、辺りを見回してみる。今一瞬誰かに囁かれたような、うなじの産毛がぞわり逆立つような感覚がした。しかし、朝の遊歩道にそれらしい影はなく、身の回りの状況は「気のせいだ」ということを示している。釈然とせぬまま、念のためスマホの通知を確認すると、通知の代わりに時間表示が目に飛び込んだ。

 

 

 

「マジかヤバっ、めっちゃボーっとしてた」

 

 

 

スマホをズボンのポケットにねじ込み、早足でトレセン学園へ向かう。遅刻はしないが、普段の出勤時間からはかなりズレた到着になるだろう。なんか変な朝だな。

 

 

 

 

 

 

 

早足で歩くこと数分、我らがトレセン学園の正門が見えてきた。いつもならここら辺から、寮生活を送っている大多数の中から数人と合流し、雑談しつつ正門前に立つたづなさんに挨拶して俺は職員室へ。というのが普段の流れだったのだが、珍しいことに誰もいない。俺が少し遅れたからだろうか、それにしてもたづなさんすら姿が見えないのは少し気になる。まぁあの人も席を外すことくらいはあるだろうし、突発的な秋川理事長の無茶を諫めているのかもしれない。

 

「おはようございます。ナツメ教官」

 

ぽけぽけと考え事をしながら歩いていたら、周りに人の気配がない中で僅かに何か揺らぐ感覚があった。何だ、誰かいるのか?

そこでふと、この『誰かいる気がする』感じに憶えがあることを思い出す。()()()()()()()を持つ彼女……居るとしたら、多分――

 

「ここだ!」

 

「ひゃぁ!」

 

俺の隣、誰もいないと思っていたその場所に手を置けば、それは見事にスティルインラブの頭上に収まった。

 

「び……びっくりしました」

 

「あはは!ごめんごめん、おはよスティル。多分挨拶してくれたんだろうけど、気付けてないわ」

 

「そ、そうなのですか?ですが、この頭に添えていただいてる手は……」

 

「ああ悪い、どける。この手は――カンです」

 

ちょいとひと撫でしてから、手触りの良いスティルのヴェールから離す。

 

「ぁ――いえ、いけないわ……改めまして、おはようございますナツメ教官。この時間にお見掛けするのは、珍しいですね」

 

「だよなぁ、ちょい遅れ気味。そういうスティルはいつもより早いんじゃね?」

 

「はい、何故か今日は目が覚めてしまって……少々胸騒ぎがするのです」

 

「胸騒ぎ?ふーん、なんでだろうな。まあ少なくとも幸運の前触れではあるんだし、あんま気にしすぎても仕方ないかも」

 

「幸運、ですか?」

 

「そりゃそうよ!たまたま遅れた俺にたまたま早く起きたから会えて、しかもなぜか周りには誰もいない。短い登校時間だけど、竜胆ナツメを独占してんだから!」

 

「な……なるほど。確かにナツメ教官はご多忙ですし、いつも誰かに囲まれていますね」

 

「そゆこと。だから今ならなんでも話してみな~」

 

スティルは視線を散らし、暫し思案に耽る。口の中で「なん、でも――」と俺の言葉を転がしながら、微かに口角を吊り上げ……すぐに自らの身体を抱いて煩悶の息を漏らす。

悩ましく葛藤するスティルを、俺は待つだけ。他人(ヒト)に言えない、デリケートなナニカを抱えているのは知っているが、そこに踏み込むのは教官の仕事じゃない。

静かに二人分の足音が鳴るだけの時間が過ぎ、やがてスティルは落ち着いて口を開いた。

 

「……ではひとつお伺いしたいことが。今日は香水などつけていますか?それか、普段と柔軟剤が違ったり……」

 

「香水?柔軟剤???いや、特に……え、もしかしてクサい?匂いキツかったりする!?」

 

ヤバい、心当たりがまっっっったくない!自分の上着とか嗅いでみるけど、全然わからん!別に走ってきた訳でもないから汗とかかいてないし!

 

「ち、違います!あの子が――あっ、いえ。ただ、今日はいい匂いがすると言っていて……」

 

「うーん、誰が?今日はまだスティル以外に誰とも会ってないけど」

 

「え、えっとぉ……その……と――鳥さんが」

 

「……ん、ふふ……そっか、鳥さんかぁ。鳥さんは基本的に嗅覚発達してないんだよなあ。でもクサくはないみたいだし、スティルがなんか可愛いこと言ってるから、気にしないことにするな」

 

「――はい、そうしていただけると……」

 

染まった頬に手を当てて、しおしおと萎むスティル。まあ、なんか口が滑っちゃったんだろう。しかし『いい匂い』ね……朝に遊歩道でボーっと呆けてたこと以外に、特別なことはなにもないんだけど。

アレかな、その時に春の空気が身体に残ったのかな。

 

「さて、そんじゃ俺は職員室行くから。今日も一日、頑張ろうな」

 

「はい、ではまた」

 

 

 

――アぁ、なんデかしら……とても美味しソウな匂い!

 

「ッ!?」

 

()()()()()。舌なめずりをして爛々と紅く灯る眼を向けるナニカが。

振り返れば、俺に背を向けて自分の教室に向かうスティル。錯覚で片付けて良いモノじゃないな……少し気にかけとくか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから月日は流れ、熱が纏わりつく夏。俺は相変わらず教官業に邁進している。ただ『相変わらずじゃない』こともある。たまたまスティルと二人で登校した春のあの日から、視線を感じることが格段に増えた。

朝のホームルームの準備中、図書室での調べものの途中、カフェテリアで複数の生徒と昼食を摂っている最中、コースでの指導中も。視線の主を特定できるのは3回に1回がイイトコだ。

注目には慣れてるしストレスは無い、ただ意図が読めない。俺を見つめるのはスティルインラブ、その彼女を捕まえても得られる答えは『匂いにつられて』。

ガチ恋?俺の顔が良いから?スティルなりのアプローチか?そのどれもが違うような気がする。

 

「まあ、落ち着くのを待つか」

 

自宅への帰路につきながら、そう結論付けた。実力はある()だ、トレーナーがつけば俺のことなんて気にしていられなくなるだろう。

それより晩飯だ、帰ったらどうするか。面倒くさい、俺しか食わないモノに興味関心が湧かない。最近暑いからなんかテキトーに――

 

「――冷気?」

 

どこからともなく一条の冷えた空気が肌を撫で、闇夜に穴を開ける()()へと消えていった。

そして辺りに響く……いや、俺に響く声が遠くから(かす)かに聞こえる。それは次第に近く、大きく、高く、深く、俺を()ぶ。

 

――キて、キて、キて、キて――キ       て

 

尋常ではない現象、揺さぶられる正常、意識が声に呑まれる――

 

 

 

 

 

 

なんてことにはならない。

 

「俺はそんなにヤワじゃねぇよ……呼んでるのは、あっちだな」

 

ご丁寧に俺の身体を操って案内しようとしてくれたみたいだが、自分の脚で声の方向へ歩く。生半可な意識なら容易く吞み込まれるだろう、でも相手が悪い。

俺は自分の生き方を自分で決める、俺の運命に横やりを入れるようなマネは誰であろうとさせない。何年そうやって生きてきたと思ってる。

 

招待状(こえ)に導かれるまま辿り着いたのは、生徒たちが普段使っているようなランニングコースからは離れた、知らない高台。月明りの下で佇むのは制服を纏った、()()()()スティルインラブ。

静かに佇み、何か言葉を零す。そして走り出す、悦楽に顔を歪めて、歓喜の絶叫をあげて、ただひたすらに本能が求めるまま。

 

荒々しく、獰猛で、破滅的で、異様であるが故の輝き。

 

「……なるほど、いい走り(モン)持ってんな」

 

スティル(?)の走りが止まり、俺の方を向く。俺もスティルへ歩み寄る。彼女は恍惚とした表情で『アぁ、いらっしゃい……!』と瞳を一層紅く輝かせる。

 

「アナタの全て、頂『はいダメ』……?」

 

ポス、とスティルにチョップをかます。いつも貞淑で控えめなスティルは、学園での印象と真逆の妖艶な笑みのまま一瞬固まった。

ちょっと面白い。

 

「こんな人気(ひとけ)のない暗いトコで全力出すな、ケガしたら誰も助けてくれないぞ。その様子じゃ夜間外出申請も出してるか怪しいし……気付かれにくいからって申請サボってたらお説教な。とりあえず寮まで送るから、観念するように」

 

「……アハッ、アハハははははハはァ!ソう、アナタってば身持ちが固いのねェ!いいわ、この夜はここまで……次は美味しそウな、その匂い……頂戴ね?

 

「ふーむ、べつに食い物持ってないんだけど」

 

最後に紅い一瞥を残して、スティルの異様な雰囲気は霧散した。いつぞやの春に『いい匂い』がどうこう言っていたのは、きっと()()()()()()()()()だったんだろう。

だがその彼女は消え、今俺の目の前に居るのは瞳を伏せて気まずそうにモジモジ指を合わせているスティル。まあ相当にキツいものがあるでしょうね、想像に難くない。

表に出すまいとしていた核心を、真っ向から他人(おれ)にぶつけてしまったんだ……今すぐにでも消え去ってしまいたいという気持ちが痛いくらいに伝わってくる。

まあ許しませんけど。

 

「こんばんは、スティル。とりあえず手ェ繋いで、逃げられたら苦労するから」

 

「――先ほどの私が、気持ち悪くないのですか……?狂ったように嗤って、獣のように走って、はしたなく挑発する私を……疎ましく思わないのですか?」

 

「別に。気分がよけりゃ笑いもする、年下の女の子にちょっと挑発されたくらいで揺らぐ俺じゃない」

 

「……では、走りは……」

 

「んー……たとえフォームもクソもなかろうが、ヨダレ垂らしながら走ってようが、自分らしい走りを表現できてるなら、いいと思う。こんな言葉、今のおとなしいスティルは求めてないと思うけど……さっきの走りは俺が学園で見た誰の走りよりもカッコよかった」

 

――『でも!』っ、はい……」

 

「トレセン学園にいる間は教官業に捧げるって決めてるんだ、そう簡単には(なび)いてやれないな!」

 

ドヤ顔で締めてスティルを寮まで送る。道中で話すことは特になく、外出申請は案の定出していなかったようなので寮長のフジキセキにスティルを引き渡し『明日、放課後に職員室な』とだけ伝えておいた。

 

「はい……また、明日。ご迷惑をおかけしました……」

 

「いいよ、また明日な」

 

生活指導の教官に任せることもできるけど、スティルが抱えているモノは俺の想定を超えていた。しばらくは俺が少し気にかけてみよう。……春にも、こんなことを思った気がする。カン違いか?

 

 

 

 

 

♢  ふふ、フふふフフふふふ、アははハはははははぁ!決めた、決メた決メタ決めた!ゼェったいに、ワタシのモノにするわ……ナツメ

 

 

 

 

 

翌日、放課後にちゃんと職員室を訪れたスティルを連れて、誰もいない屋上に出る。地平線に向かって墜ちる夕陽が景色すべてを赤く染めていき、俺とスティルの足元で染みた影が伸びる。

お説教は大事だが、改めてちゃんと現状を把握しておきたいと思った。ただし、踏み込み過ぎてはいけない。俺は教官であってトレーナーじゃないんだ。

 

「さて、今日は特別にスティルのために時間取ったから、話せることがあるなら話してくれ。当然打ち明けたくなけりゃそれでもいいけど、困ってるなら教官のできる範囲で力になるぞ」

 

「ええと、昨晩のことをお叱りになるのでは……?」

 

「うん、危ない場所と時間での走行とか、申請サボりとか説教はある。けどなぁ……ほんのりと事情が分かった以上、今のマジメなスティルに言うことでもないかなって」

 

「そ、そこまでお察しなのですか……」

 

「ごめんな、勝手にアレコレ察して。忘れろってんなら忘れる」

 

「――忘れる?」

 

スティルが俺の言葉にビクリと震え、オウム返しのようにつぶやく。なんだ、別に変なことを言ったつもりはないぞ……?

俺はスティルが今までひた隠していた秘密、その輪郭を許可なく捉えてしまった。キツく言えば、俺はプライバシーを侵害している状況でもある。

であれば、彼女が望むなら昨晩の話は全部なかったことにするのが当然だろう。多感な学生への特別でもない配慮……でも、俺は彼女のナニカに触れてしまったらしい。

身体を背けて微かな音がスティルから漏れる、でもその内容も表情も伺い知ることはできない。

 

「折角、私を怖がらない人がいるって分かったのに……初めてあんな走りをカッコいいって言ってくれたのに……でも、これ以上巻き込んでしまう前に――ダメよ、離しちゃダぁメ。アナタとワタシ、求めるモノは同じでしょう?アナタもナツメが欲しいんでしょう?――私、は」

 

「スティル?」

 

「―――――いいえ、忘れないでください。では聞いていただけますか?面白くもない話ですが、私のこと……」

 

「うん、いいよ」

 

再び俺の方を向いた時、スティルは平静を取り戻していた。……いや、平静の奥に何か()()のようなものと、()()()が滲んでいる。その理由は分からないが、今はスティルの話を聞くのが先だ。

そして彼女は語りだす。幼い頃に見た夢の始まり、同時に目覚めてしまった狂気の血、抑えることを選んだが故の葛藤。良識に敬するスティルと、理性を嘲るスティル。

 

おおかた予想通り、今までの学園生活での片鱗や実際に月の光の下で見た現実を組み合わせれば、そういうコトだろうなって感じ。

 

さて、ここからは俺が()()()()()どうするかだ。打ち明けてもらった以上、放り出すなんて論外。

しかし『本能で走るスティルに良識を呼び戻す』なんてのはトレーナーがやるべきことで、走りの問題を解決してしまうのは踏み込み過ぎ。

であれば別の方向からのアプローチ、例えば――

 

「なあ、俺が本能のスティル(あの子)としっかり話すことってできるか?」

 

「――――

 

「俺はスティルのもう一つの姿に、恐怖も嫌悪も抱かない。なら、二人のスティル(うちがわ)の対話だけじゃ見えなかった糸口があるかも」

 

「……分かりました。では、今宵また……満月は過ぎましたが、あの高台へ来ていただけますか?」

 

「そっか、強者と満月だったな。分かった……今日はちゃんと申請出してくれよ!」

 

「……それは、もちろんです」

 

 

 

 

 

♢  ソうよ、舞台に誘い込んデ……そうスれば、ワタシがナツメをワタシたちのモノにシテあげる……!

 

 

 

 

 

夜になり、夜空に丸い月が我が物顔で居座っている。学園から離れた人の寄り付かない高台まで登れば、月を背負って()()()は俺を待っていた。

俺を見つめる紅い眼差し、獲物を前に飛び掛かる機会を待つ獣のよう。大丈夫、俺はのめり込んだりしない。なんたってトレーナーではなく教官だから。

 

「よっ、こんばんはスティル」

 

「ええ……いい夜ね、ナツメ」

 

「そうかぁ?湿気た風が絡みついて嫌になるんだけど……まあ世間話は今じゃなくてもできるし、さっさと本題に移ろうぜ」

 

「もう?落ち着きが無いノね……ソれで?大人しいアノ子よりもワタシを求めテるのは、刺激的な夜にシタいから?」

 

「いちいち煽情的だなお前。あと落ち着きが無いとか絶対に言われたくない、今にも襲いたくて仕方ないって目してるぞ」

 

「仕方ナい?当然でしょう……ダって、ナツメってばズぅぅぅっと……美味しそうな匂いなンだもの!」

 

口元を興奮と喜悦に歪ませて、スティルインラブは一歩ずつ距離を詰める。逃げる必要は無い、思ったよりも対話ができている。もっと話通じないかと思ってた。

ならばやりようはありそうだ。目の前までやってきた彼女の目を見て、次に投げかける言葉を――

 

「……何してんの?俺のズボンのポケットまさぐらないで?」

 

「コこ?それとも……コッチ?」

 

俺のカーゴパンツのポケットを上から撫でては、アレでもないコレでもないと何かを探しているスティルインラブ。鍵、スマホ、財布、全部ハズレらしい。

仕方なく、ジャケットから買っておいたクッキーを差し出す。誰もいない、月だけが見ている高台で、闇夜の中クッキーを渡す。頭が痛い、なんだこのシチュエーション。

 

「ん。美味しそうとか言ってるから、用意しといた」

 

「アら、ありガとう!アはは!ワタシたちのこと、よく分かってるじゃない!」

 

「マジかよ、冗談のつも「流石、()()()()()だわ」……は?」

 

スティルインラブは俺の左胸に指を這わせ、ゆっくりと撫でおろす……そしてソコ、上着の胸内ポケットにある硬い感触……()()()()()()()()()()()()を、力強く握りしめた。

 

――美味しそうな匂い

 

 

 

「見  ぃ  ツ  け  タ」

 

 

 

「ねェ……(ワタシ)のトレーナーになってください(チョウダイ)

 

 

「あ――ァ――」

 

スティルインラブの今の紅い瞳は、良識と本能が混ざりあったものだった。この言葉は二人からのものだ。

俺を下から覗き込むスティルインラブに魅入られる、教官として終わりを迎えるはずの人生が、歪む。

俺はその瞳から見出してしまう、彼女の運命を。強烈なイメージ、真紅の中で破滅に墜ちる結末(エンディング)

 

油断した。本能のあの子は、ずっと狙っていた……俺の魂に噛みつくタイミングを。春から今まで、俺の中にスティルインラブという存在を刷り込んで。

段々と彼女を見つけるのに苦労しなくなったのも、今なら分かる。俺は知らぬ間に、ゆっくりと毒されていた。

 

これは完全にしてやられた、今回はどうしようもなく俺の負け。

 

 

――見つけられた、俺の本当の運命

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナツメさんは、私たちの前に小さなケースを差し出す。あの子が強く握ったせいで、少し変形してしまったそのケースの中には、使われた形跡のない真新しいトレーナーバッジ。

あの子は抑えきれない愉悦で口元に弧を描き、バッジをナツメさんの上着に留める。彼はそのあいだ目を閉じていて、胸中にどのような感情が渦巻いているのか読み取れない。

 

「ひとつ聞かせてくれ。なんで俺がトレーナー資格持ってるって分かったんだ?」

 

「……フフ、アハハはは!簡単よ、だってアナタはワタシが愛する運命のヒト……そんなアナタが、ただの教官なワケないでしょう」

 

「クッ、ハハハハハ!なんだそれ、ただのカンかよ!あーあ、どっかでボロ出したのかと思った」

 

「疑うノ?」

 

「いや?俺もカンは鋭い方だからな、信じるさ」

 

「……物分かりガいいのねェ、ならもう理解できるンじゃない?これでアナタは、ワタシのもの……」

 

「あァ?もしかして()()()()()()()()()()()()で満足してんのか?」

 

ナツメさんと目が合う。彼の灰色の双眸に宿る()()に射貫かれて、私の……いやあの子さえも思考が止まる。

もしかしたらあの子が抱く、醜くはしたない苛烈な闘争心を超えてしまうような、私の人生を苛んできた狂気を上回ってしまうような『覚悟』。

 

「今回は俺の負けだ。でも次からは俺が勝つ……俺とスティルインラブの運命の喰い合いで、俺はお前ら二人を引っ張り上げる

 

「――アア、欲しい。欲しい欲シい欲しい欲シイ欲しい欲しい!アナタの全部、誰にも渡さない……ワタシたちで喰い尽くしたい!」

 

「やってみろ。お前の運命、喰い返してやるよ」

 

「ウフフ……期待してるわ、ナツメ」

 

――ワタシは今日は満足シたカラ。あとはどうぞお好きに。

 

あの子のやり取りをひとつ後ろから眺めていたような感覚だった私は、あの子が引っ込んだことで表層に浮き上がる。月が見下ろす寂れた高台で、目の前のナツメさんにほぼ抱き着くようなカタチ。

彼の瞳で熱を持つ覚悟が、痛いくらいに突き刺さる。なんてことをしてしまったのだろう、私は彼が秘めていたモノを引き摺り出してしまった。あの子の囁きに……『ナツメさんを手に入れられる』という言葉に、乗ってしまった。

ナツメさんの決意の出どころは分からないし、『私たちを引っ張りあげる』という言葉の意味も掴みきれていない。でも、こんな罠にかけるようなやり方で契約を迫るのは、間違いであることは確か。

 

「申し訳ございません、ナツメさん……私がこのような場に招いてしまったから……!そのバッジ、すぐに外しますので――」

 

あの子が先ほど留めた、ナツメさんの胸元で月光を受けるバッジに手を伸ばす。しかし私の手は、その道の途中で彼によって捕まえられた。

そして、空いた手で私のヴェールをあやすように優しく撫でる。

 

「自分を責めるな、スティル。俺は何があっても躱す自信があったからここに来た。けど今回はもう一人のスティルが一枚上手だった、そんだけだ。俺の責任を勝手に背負いこむのはやめろ」

 

「ですが……」

 

「俺はスティルに全部懸けることを決めた、この覚悟は誰にも消せない。むしろ謝るのは俺の方だ……悪いが、スティルも俺に最初の3年を賭けてもらう」

 

あの子に向けていた挑戦的な目ではなく、普段から生徒の皆さんへ振りまかれていた穏やかで明るい眼差しを私だけに向ける。竜胆ナツメを、独占している。

いけない、はしたないことだと分かっている。理性が、良識が、貞淑が、『こんな契約あってはならない』と叫んでいるのに――

 

「俺を求めたんだ、嫌とは言わせないぞ?」

 

「――はい、ナツメさん」

 

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