クラシック級、ティアラ路線の一冠目。桜花賞を目前にした控え室で、私はナツメさんを前に縮こまっていた。
「……はい、できた!この時のために練習したから、綺麗なモンだろ?」
「は、はい……ありがとうございます」
ナツメさんの提案で、私の勝負服の最後のピース『左薬指の赤いマニキュア』を彼に塗ってもらった。ただ爪に色を付けてもらっただけなのに、指先がやけに熱を持つ。
本当にこの人はもう……私をどうしたいのでしょうか。G1レースの緊張が全く別のものに変わってしまいました……。
「ラブは今どんな感じだ?」
「へ!?あ、あぁ……前回の満月の夜に満たして頂いたおかげで、とても落ち着いています」
「そっか、なら良かった!なら次はスティルの番だな、存分に楽しんでこい!」
「た、楽しむですか。できるだけ、頑張ります」
「あ、固すぎる。大丈夫ダイジョーブ、スティルはちゃんと強いから。ぶっちゃけ俺が居なくても三冠くらいなら取れると思う。なのに俺まで居るんだから、スティルの望む綺麗な勝ち方ができるさ。ウィナーズサークルで待ってるから、桜を抱いて帰ってこい」
ヴェール越しにナツメさんの手のひらを感じる。ゆっくり、大きく撫でられる度に、不安と緊張が溶けていく。私の中で埋もれていた望みが、再び確かな輪郭を持って心の真ん中に収まった。
ナツメさんが磨いてくれた
「よし、行ってらっしゃい」
「――行ってきます」
控え室を出て、光差すパドックまでの地下バ道を歩く。ゆっくりと、深く呼吸をして、いよいよ始まるティアラ路線の一冠目をすべて刻み込むように。一人分の足音、一人分の影、そして二人分の思考。
――フフ、心細いの?
「いいえ、大丈夫。今日は出てこないで」
――安心しなさい、この先にナツメより美味しそうな匂いのする魂は無いもの。彼との走りを噛みしめてる方がいいわ。
「そう、なの?強者に滾る貴方が、こんな刺激的な場所で何も感じないなんて……」
――アハっ、簡単な話じゃない。ワタシたちがこの場で一番強いからでしょう。
「……貴方まで、そんなことを言うのね」
観衆の光が集うパドックに立つ。私はどうせ気付かれない、今はそれでいい。でも、もしこの桜花賞で綺麗に勝つことができたのなら、その時は今より少しだけ注目を浴びて祝福を受けられたらうれしい。
そんな思考は観衆の皆様の声に吹き飛ばされた。
『あ、スティルインラブがもう出てきてる!』『本当だ、期待してるぞー!がんばれー!』『どんな走りをするのか見せてくれー!』
想定とは真逆の現状に、思わず耳がピンと張ってしまう。ど、どうしてまだ走ってもいないのにこんなに関心が……こんなことあり得ないのに。
その原因は、すぐに分かった。
『スティルぅぅぅぅぅ!思いっきり楽しんでこーーーい!』『竜胆トレーナーだ、じゃああの子が担当か』『相変わらず若ぁ~、ほんで顔良ぉ~』『陽キャ美少年と紅く儚げな美少女……推せる~!』
満面の笑みで手を振るナツメさんを介して、存在感とは無縁の私にも期待が寄せられている。彼がもたらす曙光が、夜の影に住む私を照らし、舞台上へと手を引いてくれた。
あまりに想定外の事態でどう反応を返せばいいのか……とりあえず小さく手を振ってみる。ナツメさんを中心に歓声はさらに大きいものになった。こ、これで良かったのでしょうか。
「――くだらない」
「……あ、アルヴさん」
「誰にも負けるつもりはない。中でも――貴方たちには絶対に」
私の時間はここまで。今回のレースで最も期待されているのは神童たるアルヴさん、場内の熱狂は彼女によってもたらされる。本人はそのことを疎ましがっているようだけど。冷たい闘志、凍てついた願望、絶対零度の視線を浴びてなお
それにしても目の敵にされている、初めてナツメさんとラブが走ったあの夜から。夢と現実の境界で漂っていた私の意識に放り込まれた、ナツメさんの言葉。
『競い合ってるんだ――どっちの
思い出すと芯から熱が広がってくる、ナツメさんの想い。彼の言う運命だとか負けられないだとかの意図は汲みきれていないけれど、疑いようのない覚悟と愛情くらいは感じ取れる。
なら、貰うだけは嫌……私だって捧げたい。
「貴方まで、そんな目をするのね……相思相愛ごっこなら見えないところでやって」
「――ごっこ遊びかどうかは、走りで判断してください」
――へぇ?
♢
桜の冠を持ち帰ったスティルを、ウィナーズサークルへ迎え入れる。スタンドからは真っ直ぐな歓声が届き、美しく勝利したスティルとともに観客やメディアの熱を受け止めた。スティルは今、間違いなく沢山の人に愛されている。そして、その事実に彼女自身も顔をほころばせていた。ちゃんとスティルが望む勝利を得られたのだ。俺と出会う前から、本能への反発として地道に身に着けた綺麗なフォームで、真っ当にティアラの品位を証明した。
「おかえりスティル、桜花賞一着おめでとう!」
「ナツメさん、嬉しいですか?」
「当然嬉しいね!スティルが望む瞬間がひとつ手に入った、スティルがみんなに愛された!レースも楽しかったみたいだし!」
「私のことばかりではないですか……」
「そりゃそうでしょ、トレーナーなんてそんな生き物だ!あ、カメラ来た。はいこっちおいで、なんかしたいポーズある?」
「ポ、ポーズ!?ええと、ポーズ、急にそんな……お任せしますっ」
「マジか。じゃあ~指ハートにしよ!はいスティル、親指と人差し指でこうして~」
メディア慣れしてる俺のウィンク指ハートの隣で、勝負服より真っ赤な顔のへちょへちょハートを浮かべるスティル。うーん、これから何回も勝つわけだし決めポーズくらい用意しとくかぁ。
――よかった、喜んでくれた。でも、
――いいのね?せっかく
――桜花賞で分かったの……私はどんな喝采よりも、彼の心からの喜びが欲しい。そのためなら、どんな畏怖や侮蔑も受け止めるわ。
――ふぅん、心からの喜びね……いいでしょう。じゃあ次は、ワタシがオークスを蹂躙してあげる!
♢
迎えたオークス当日。パドックで感じるのは観衆の期待と、私に手を振るナツメさんの持つ僅かな心配。今回は本能を解き放ち、ラブとして走ることを伝えてあるから。
これはナツメさんに対する裏切りなのかもしれない、彼は私の望む景色を見せてくれたのに。醜態を晒したくない私のために、祝福に満ちた綺麗な勝利をくれたのに。
――いや、裏切ってでも彼に捧げる。他の誰もが渡せない、唯一無二の暴力的な勝利を。
「あぁ、それが
ラブの異質さに観衆はどよめき、競走相手は距離を置き、アルヴさんは氷のような視線で獣を射貫く。桜花賞で得た期待と栄光はきっと砕け散る、それでも構わない。スティルの勝利がダメなら、ラブの勝利を。
東京レース場を紅に染めてでも。
「ええ、任せなさい――さあ緞帳を上げて!地獄を創るわ!フフ、あはははハハはははァ!」
♢
樫の女王となったラブを、ウィナーズサークルへ迎え入れる。スタンドからは潜むような戸惑いが漏れ出し、圧倒的な蹂躙劇を演じたラブは今、間違いなく畏怖の対象となっている。そして、その事実を彼女自身は我関せずといった風に俺の元へやってくる。ラブはそれなりに満足できたようで、さらに言えばどこか納得しているような雰囲気だ。俺と出会う前からその身に宿る、狂気の血が曝け出す破滅的な走りで、獰猛にティアラを掻っ攫った。
「おかえりラブ、オークス一着おめでとう!」
「ナツメ、今嬉しい?」
「ラブが楽しそうだから、嬉しいかな。でもスティルが心配で、心がふたつある~ってカンジ」
「やっぱりね。ナツメは本当に、
「……ああ、そういうことか。まったくスティルは……ラブ、悪いけど代わってもらってもいいか?」
「フフ、精々叱ってあげなさい――――ナツメさん……」
G1レースで勝利した後とは思えないほどにしょんぼりとしたスティルが、目の前に現れる。逃げ出したい自分を抑え込んで、俺の言葉を待っている。薄っすらと何か思惑があることには勘づいていた、相応の覚悟を燃やしていたようだから止めることはしなかったけど。
さて、ラブは『叱ってやれ』なんて言ってたが俺にそんなことができるはずもない。俺は甘やかしたい人間だ、よほどのことじゃないと心を鬼にできない甘ちゃんなのだ。
だから俺はリカバリーする。愛するモノは甘やかし、その損失を俺が補填すれば叱らずに済む。今回もそうしよう。
「スティル。ちょっと離れてて、耳塞いでな」
「?……は、はい」
戸惑いながらも素直に言うことを聞いてくれるスティルから視線を外し、ウィナーズサークルからスタンドに向き直る。スティルは俺を喜ばせたくて、祝福を捨ててラブに身を委ねた。結果として、観衆は彼女に恐怖しうろたえている。
桜花賞とは真逆の異様な空気に包まれた東京レース場、それはまあ仕方ないことかもしれない。他人がスティルインラブを見て、どう思うかを強制させる権利は無いしそんなつもりもない。
だが、競技者に対する最低限の
「すぅ――ダブルティアラの歓声が、足りねぇなぁぁーーーッッ!!」
大気を震わせるほどに声を張る、何万人居ようが真っ向から煽る。やれ「血に飢えた獣の走り」だの「トレーナーの指導がおかしい」だの、しょーもないことばかり。俺たちを見てどう感じようが勝手にすればいい、しかしこうしてレースを終えたウマ娘に……そして勝者に対して『観客としての責任』を果たさないのは許さない。スティルが逃げずにクソ居心地の悪い中でこの場に立ってんだから、責を全うするのはお互い様だろ。
スティルは祝福を切り捨ててまで、俺に捧げるための違うカタチの勝利を求めた。本来なら、本能を曝け出し畏怖の対象となってしまったスティルを、早いとこ控え室に帰すのが
でもそんなモノ分かりのいい大人の対応、俺がすることじゃないよな。
「なんか言うコトあるだろ、お前らぁぁーーッッ!!」
「……な、ナツメさ『『『うおおおぉぉぉーーーッッッ!!!!!』』』ぴぃ……」
『怖かった……けど、凄かった!』『あんな走り、クラシック路線でも中々見れないぞ!』『次は心の準備するから、もう一回見せてー!』『ダブルティアラおめでとー!秋華賞も頑張れー!』
「あ゛ぁ゛~ノド嗄れる……スティル、もうこっちきていい。ほら、今は勝者として応えるぞ」
「ぁ――――はいっ」
スティルと共に、オークス勝利の喝采を受け止める。スタンドから降り注ぐ称賛のすべてが、心からのモノではないだろうけど……ヒソヒソ話と
「え、泣いてるじゃん!?なんで、やっぱ一緒に逃げ出した方がよかった!?」
「ちが、います……」
『うわ、ナツメトレーナーが担当泣かせてるー!』『サイテー!ナツメくんのファンやめてスティルちゃん追いかけます!』『俺がスティルちゃんを守護らなきゃ……そして獰猛なスティル様に守護られたい……』
『『『泣ーかせた!泣ーかせた!』』』
「うるさいよ!?さっきまでのダンマリはどこ行きやがった!あと最後のヤツ!
スティルの泣き顔を見せ物にしないようにしっかり抱きしめつつ、俺の目の前に立つ彼女の耳を塞いでガヤに吠える。し、締まらねぇ……。
――また、ナツメさんに頂いてしまった。もう自分と引き換えになにかを捧げるのはやめると約束したけれど……やっぱり私は、どうしても報いたい。最高の勝利を捧げて、私だって愛しているのだと刻みたい……!
――まだ燃えてるのね。それも激しく……ワタシと同じくらいに!今のアナタなら、
――同調……ええ、それがいい。お互いの愛の証明のために。
♢
最後のティアラである秋華賞が始まった、序盤は後方で控えつつラブと呼吸をすり合わせていく。芝と風が舞う中で、私をキツく刺す周囲の警戒を思考から追い出し、自分の中心へもっと
今のスティルインラブをより深く理解して、あり得るはずのなかった走りを生み出すために。
ナツメさんが
――私は最高の勝利のために。
――ワタシはナツメに勝つために!
道筋は違っても、辿り着きたいのは同じ。愛するヒトのための『新しい走り』
『さあまもなく終盤……おっとスティルインラブが綺麗に抜け出す!中団から徐々に進出!』
まだ、もっと
『スティルインラブ、途端に爆発的な加速だ!?一気に上がってくる!っ、恐ろしいまでの追い上げです!』
まだ、もっと
まだ、まだ!もっと、もっと!深く紅く濃く熱く――彼を愛するの!
「はあああああああああああああああああああ!!!!!」
『先頭集団を食い破り前へ躍り出たスティルインラブ!強く綺麗に伸びていく!』
私がラブを抑え込むのでなく、ワタシがスティルを乗っ取るのでもない!磨き続けてきた理想の走りと、暴れ続けてきた狂気を!
彼という共通する想いのために重ね合わせる。アハっ!この未知の解放、最高だわ!
『さ、さらに加速だ!後方を突き放す、三冠目前!これは決まったか、今一着でゴーーール!戦慄するほどに美しい、新たな女王はスティルインラブ!』
ゴール板を過ぎて、集中が切れて同調はほどける。ラブは呆気なく内側へ引っ込み、理性が四肢の先まで通っていく。今までにないくらい、不気味なほどに大人しい。
走り終えた後のさわやかな火照りを感じるだけで、焦げるような飢えや衝動は皆無だった。
「……ラブ?もしかして、消えたの……?」
――……はぁ、疲れただけよ。誰かさんが求める最高の勝利のために、今回はワタシが合わせたの……次の満月の夜は、アナタが合わせる番。
「ええ……分かってる」
――なら、いいわ。ワタシはこの喝采に興味なんてないから、早くナツメのところに行ったら?
ラブは眠り、私は興奮と熱狂の渦巻くスタンドへと向き直る。ウィナーズサークルでナツメさんが手を振っている、いつもより楽しそうに輝いて、本当に愛らしい。
サプライズは成功した、理性と本能の両輪は駆動し、ナツメさんが居なければ存在しなかった蹄跡を刻んだ。私ひとりでは絶対に到達できない走りを以て、勝利を届けられた。
「スティル!マジで凄い走りだった!あはは!歓声すっげえ、スティルとラブが勝ち取った祝福だ!トリプルティアラおめでとう!」
ああ、その笑顔が見たかったの。明けない夜の中を生きていくしかないと思っていた私を、こうして陽の光の下に連れ出してくれたナツメさん。あまつさえ、醜くはしたないと封じ込めていた本能すら、皆さまに認めさせてしまった。
そんな彼にようやくひとつ報いれた、私を見て太陽のように笑ってくれた。うれしい、欲しい、愛おしい、温かい、欲しい、幸せ、もっと欲しい――独占したい。
「あ、カメラ来た!どうしよう、決めポーズ結局考えてないな~」
「――では、左手をお借りしても?」
「左手?いいよ!……………お、おぉ。そゆことか、オッケー!」
ナツメさんの手を取り、その薬指に私の左薬指を重ねる。レース前にナツメさんが塗ってくれた、唯一紅い爪の指を絡めて……珍しく照れる彼の姿に、思わずクスリと笑みが漏れてしまう。
そして、スタンドとカメラに向けて祝福への返礼を。
「フフ――皆さま、応援ありがとうございます」
♢
秋華賞を終え、次の目標をエリザベス女王杯に定めた。その次の満月、数日後にエリ女を控えた静かな夜。
誰もいないトレーニングコースで準備を終え、スティルインラブと対峙する。秋華賞で得た新たな走りを試したくて仕方ないらしい、表に出ているラブは俺を射殺せそうなほどに真紅の双眸を突き立てる。
灰色の瞳で見つめ返せば、彼女の走力がぼんやりと浮かび上がる。『オールA』これが現状……そして、それは
「2200、右回り。準備はいいな?――ついてこいよ」
「早く、早く始めましょう!さぁスティル……同調して、ナツメの魂を味わわせて!」
同時に駆け出し、今まで通り俺がラブの前につく。レース展開はさほど変わらない、だがラブの走りに少しずつ
ここからは自分の武器がモノを言う領域だ、能力値のアドバンテージはなくなった。それぞれが持つ唯一無二の走り、魂に根差す固有の
スティルインラブには在って、竜胆ナツメには無いソレを彼女はさらに昇華させた。理性と本能の同調で進化の種は芽吹き、
「さあ、
スティルインラブが来る、俺に並ぶ。美しく貞淑たらんとするスティル、唸る狂気を剝きだしたラブ、そのシンクロがもたらす素晴らしい走りだ。
俺にそんな武器はない、ステータスでなんとかできるのはここまで。
「――ナイスラン。じゃあ俺も燃やすしかねぇな」
ラブがずっと欲しがっていた俺の熱、見せる時が来たらしい。魂が持つ固有の走りなんて持ってないが、代わりに
「!?ウソ、まだ加速して……」
「はぁ……はぁぁぁぁ……つかれりゅ」
先にゴールしたのは俺だ、膝に手をついて暴れる心臓を抑えつける。夏が終わりちょっとずつ暑さが引いてきた空気に、こもった熱を逃がしていく。
そんな俺に新たな熱源が引っ付いてきた、ラブさん暑いです。
「アハハはは!トリプルティアラに勝つなんて、人間辞めてるのね!ああ、最高よナツメ……アナタの熱、火傷してしまいそう!焼きついたアナタの走り、思い出すだけでアタマがクラクラするの……本当にステキぃ♪」
「そりゃありがとう……あと頭クラクラすんのは酸欠だ」
「フフ、照れ隠し?それじゃあね、ナツメ……今日のところはゴチソウサマ――――ナツメさん、大丈夫ですか……?」
「おう、大丈夫……さてと、クラシックの締めくくりと行くか」
「はい、お任せください。エリザベス女王杯も私とラブで、貴方に捧げますから」
「あー、嬉しいけどまずは楽しんでな?」
隣で背中をさすってくれるスティルを制して、戻ってきた呼吸で思考を動かす。今回はスティルインラブの走りを上回ることができたけど、それは多分彼女たちの同調が完全ではないからだ。
スティルとラブが完璧に両輪として駆動する走り、できればその要素を見つけてやりたい。
――俺が居なくなるまでに、なんとかできっかな……。