エピローグです。
4年目、夏の終わり。
夏合宿を終えた私は、夕暮れの学園のトレーニングコースで汗を流していた。私を世界の頂点へと導く、などと仰っているトレーナーはただ黙ってコース脇に佇んでいる。その顔には『休めと言ったハズだが』という不服がありありと浮かんでいた。
仕方がないでしょう、貴方の指導では足らないもの。
負荷は、弱い。私の限界を弄ぶような、ギリギリを見極める力が無い。
覚悟は、
肉体は、脆い。触れるどころか、近くに立たれるだけで注意を払わなければならない。
能力は、流石にそれなりにある。状況を読み、作戦を立て、その場での有利を生む技術はよろしい。『強さ』を真摯に追い求める身であるが故に、
まあ、満足には到底至らないけれど。
無論、私とて鬼ではない。理想のレベルは数段落としてある、想定内の仕事を遂行していただけるのであれば指摘も要求もしない。それ以上に求めたい領域は、こうして自らの精励で追いかけている。
私の思考の内側で完結する日々、時間を消化して僅かばかりの力を得る日常。
くだらない。つまらない。退屈。
私をカタに嵌めて導こうとなさる、なんと心躍らぬ御方。
有馬記念を終えて、お父様は私を『最も強き者』であるとお認めになった。私の道はふたつ、『家督を継ぐ』か『さらなる強さを示す』か。選んだのは後者、世界を獲る為に走ることを決めた。
家督は現在、弟に預けている。西欧での事業はそれなりに上手くいっているようだったから、人を纏め治める力を認めてあげた。
『ジェンティル……僕に席を預けたこと、後悔するなよ』
『……そのまま奪えるのなら奪ってみなさいな。私を楽しませてくれるのなら、誰でも何でも構わないから』
そう、私を楽しませるのなら何でもいい。退屈極まりないこの現状に、少しでもヒビを入れる強者を求めている。
レースにおいては、あまり期待できそうにない。もはや私に迫らんとする者など、片手で足りるほどしか居ないのだから。
今になって、
『これからは敗北も、ギリギリも、鎬を削る熱いレースもない。退屈なレース人生になるかもしれないぞ』
なるほど、これが輝かしき3年の功と罪。特権であり残酷さ。挑戦も、勝利も、喝采も、そのすべてが心を震わせてくれない。それらの価値は変わらないはずなのに。
であれば、変わったのは私の方。いや、変えられてしまったと言うべきか。
「ジェンティルさん、コースにいたのね」
「……あら、ヴィルシーナさん。どうかなさって?」
灰色だった思考に色が戻る。圧倒的な力を示してなお、私を越えんとする数少ない強者。その中でも最たる執念を持つ彼女は、今の私にとって貴重な存在。
「併走でもお望み?夏合宿ではまた一段と強くなられたようで、その熱をブツけに来てくださったのかしら」
「!――ふふ、ジェンティルさん。なんだか私を見る目が変わりました?今までそんなに輝いた目で出迎えてくれたこと、ありましたっけ」
「……気のせいでしょう。ただ、燃え続ける貴方の闘志であれば、私も火遊びに興じられる……退屈しのぎの相手として認めてはいますわ」
「あ、相変わらずの上から目線……!少し丸くなったのかと思ったけれど、気のせいみたいですね!いつか貴方の口に『ヴィルシーナがライバル』だと言わせて見せますから!」
「まぁ、ほほほ……可愛らしい野望をお持ちなのね。あまりに威勢よく噛みついてくれるものだから、つい楽しくなってしまって……ごめんあそばせ」
「はぁ……もういいです。私が声を掛けたのは、ただブエナさんがジェンティルさんを探しているみたいだったからですよ。貴方を見つけたのは偶然だし、用件は存じ上げないけれど、今日は早めに切り上げてはいかが?」
「ブエナさんが?……そう、お声かけいただきありがとう。ご提案通り、シャワーを済ませて部屋に戻りましょう」
ヴィルシーナさんに一礼し、トレーナーにも一瞥をくれる。クールダウンを終えてトレーニング終わりのシャワーを浴びるまでに、同室のブエナさんへ
ブエナさんから『お騒がせしてゴメンなさい!大事そうなお手紙が届いていたので、早くお伝えしたかっただけですから。ごゆっくりどうぞ!』と返事をもらい、気遣いと愛嬌のある
……大事そうなお手紙、ね。家柄の都合上、手紙やプレゼントを頂くことはままある。ブエナさんも当然ご存知のことで、今までにわざわざお知らせいただいたことなど一度もない。
僅かな胸騒ぎを抱えながら部屋に戻り、ブエナさんの言う机に置かれた手紙を取る。
「おかえりなさい、ジェンティルさん。
「貴方に非があるとでも?受け取っていただき感謝しますわ。それで、差出人は……?」
『竜胆ナツメ』
「――……は」
恐らくご実家の住所とともに記された名前が、久しく暴れていなかった心臓を急かす。誤って皺をつけることのないように、ゆっくりと封を切る。
シンプルながら上質な手触りのレターセット、便箋に軽やかに並ぶ言葉の数々。手紙として整えられた体裁を引っぺがせば、その内容は極めて簡潔だった。
『お元気ですか。あなたの活躍をちゃんと見守っています。あなたのこれからに幸運がありますように』
当たり障りのないメッセージ、今まで腐るほどに頂いてきた社交辞令。その裏にひっそりと『こっちは元気だよ』と伝えたい意図があるのは分かる。
ただ、私の期待するようなモノではなかったのは事実。熱を持ちつつあった頭が冷えて、鼓動も徐々に戻っていく。
それだけで終わらないのは、何故なのか。いっそ血の気が引くと言って差し支えないほどに、感覚が冷たく静まり返っていくのは、何故なのか。
――し あ わ せ に な れ よ
ふと、生きる中で自分に馴染んだ五感のどれとも違う、知らない感覚が私に囁く。言うなれば『第六感』が、この手紙から何かを受け取った。
それは最愛の人からの祝福、私の前途を温かく照らす灯火―――
―――そう、まるで最期に遺す祈りのようなカタチ。
「ジェンティルさん……?どうしたんですか?」
便箋を丁寧に折り畳み、封へ戻す。視界の端でブエナさんから気遣う視線を感じる。
「……いいえ、なんでも。ブエナさん、私は少し外出するから。先にお休みになってちょうだい」
「今からですか!?あと少しで日没……」
制服姿のまま手紙を持って部屋を出た。メンコに包まれた耳がルームメイトの戸惑いの声を捉えても、構うことなく足を動かす。寮を出たところでクルマの手配に思考を巡らせ、すぐにやめた。
走った方が早い。
手紙の住所を元にルートを割り出し、ウマ娘専用レーンを駆ける。その道中は、何故かナツメの言葉がずっと頭の中を廻っていた。
『命を懸ける』『俺はどれだけ自分を削ってでも、俺の人生の意味を証明する』『俺は俺の全部を燃やせる』
まさか、そんなはずがない。ただの覚悟の表れに決まっているわ。本当に自分の残り時間すべてを、他者に
だって、ようやく
例えもう交わらないとしても、同じ空の下で強者としての蹄跡を残し続けていくんでしょう。
「……生前はナツメがお世話になりました」
――どうして貴方ほどの存在が、私に殉じる必要があるのよ。
学園から数十分走った先、『竜胆』の表札が掛けられた一軒家。日は沈みかけ、アポはなく、息の整いきっていない制服姿の私を、ナツメのお母様は嫌な顔ひとつ見せずに応対する。
それどころか、私の来訪を待っていたかのように。私の非礼に対する憤りもなければ、ナツメに残されていた僅かな時間を奪った存在への憎悪もなく。
私の持つ手紙に込められた意図を、静かに教えてくださった。
『
『俺ってさ、顔が良いじゃん。この3年でメディア露出とかもそれなりにあって、実は結構人気なんだ。でもその弊害ってか、訃報が出れば母さんとジェンティルに面倒な視線が向きそうで怖いんだよね。だから、俺は人目のつかないトコに行くよ。ほんと母さんには申し訳ない』
幼き日の事故と後遺症、定められた刻限と意志、そして唯一の肉親すら存じ上げない終の住処。ナツメの物語は私の手の届かぬ場所で始まり、私の知る由もない場所で完結した。
これほどの『無力感』は初めてだった。
身体が覚えている
ジェンティルドンナとして逸脱しない振る舞いを、
竜胆家からの帰路は、はっきりと憶えていない。身体と心が剥がれてしまって、気付けば学園が視界に収まる道まで戻ってきていた。
きちんと前を向いているけれど、私の目はなにも映してはいない。しっかり歩いているけれど、筋肉が脚を動かしているだけで気力が湧いてこない。
月が輝き夜風が流れ、いつも通りの世界をやけに重たく感じている。
――そう。きっと心のどこかで期待していたのね。
浅ましくも、『いつかまた会えるかもしれない』と根拠のない希望を握りしめていたのでしょう。ナツメが世界のどこに居ようとも、私が頂点に君臨した姿を世界に表現できたのなら、彼にもきっと見えるだろうから。
もう一度触れることなど決して叶わないとも知らずに、虚ろな幻想に縋っていた私の甘さが私自身に牙を剝いている。
ナツメのためにも強くなると決めたからここまで強くなれた。でも、自分自身以外に強くなる理由を作ってしまったから、失ってしまった。
私が置いていた重心が、ごっそりと抜け落ちてしまった。
「さて、と……あら?ジェンティルさん」
学園の門から出てきた人影に名を呼ばれる。ジャージ姿のヴィルシーナさん、これから外周でも走るのでしょう。
ああ、なんて眩しい青の瞳かしら。絶えず、ブレず、衰えない熱。強くなる理由を持つ彼女の闘志が、今は見たくないほどに色彩を放つ。
「……ごきげんよう。もう日も落ちたというのに、精が出ますわね」
「?……当然のことじゃないですか。そういう貴方は、こんな時間までお出かけ?いい御身分ですね」
「ええ、まあ。私には強き者としての『ゆとり』があるものですから」
「――……ゆとり?どこが?」
♢
夜の学園前、外周へ出ようとした矢先に遭遇したジェンティルさんに駆け寄る。
目の前で
だからつい、私より少し高い位置にある、剛毅な貴婦人の頭に手を伸ばしてしまう。
「――あの」
「なんだか今のジェンティルさん……可哀そうです」
自分が何をして、何を言っているのか全く意味が分からない。なのに不思議とジェンティルさんの頭を撫でる手は止まらず、言葉が勝手に口から零れていく。
「何があったのか分からないけれど、無理をしなくていいのよ」
「……ハッ。『可哀そう』だとか、『無理をしなくていい』だとか、それが
「ええ、だって――今の貴方は
ジェンティルさんの目が見開かれ、硬直する。この後に帰ってくる反応は嘲笑?憤怒?侮蔑?威圧?いいえ、普段の彼女なら、きっと『ゆとり』を以て一笑に付す。
でも目の前の女王は――ただ黙って、メンコに包まれた耳を垂らすだけ。
「少し、休みなさい。トレーニング好きな貴方なら、休むことの必要性も分かっているでしょう?」
「……ほほほ、その通りね。でもよろしいの?私がこのままなら、きっと容易に降せるわ」
「私が勝ちたいのは、冠も時代も力で奪い去ったジェンティルドンナだから。強さを見失った貴方に勝ったって、妹たちに胸を張れないもの」
「強さを見失った……好き放題仰ってくれるじゃない」
でも――もしかしたら、もう取り戻せないのかも。
目を伏せて消え入りそうに夜に溶けた、ジェンティルさんの言葉。
彼女の中で本当に大きなナニカがあったのでしょう。らしくない今なら、ソレを聞き出すのはきっと難しくない。
けれど、誰にも見せまいとしている『弱み』を暴き立てる趣味を私は持っていない。
故に、親身になるのはここまで。ジェンティルドンナが戻ってくることを信じて、繊細な今の彼女に届く言葉は――きっと、
「ジェンティルドンナ。優先順位を考え直しなさい。見失ったもの、取り戻せないものがあったとしても……残っているものだってあるでしょう。なら今は少し休んで、その残ったものの中で何が大事かを見定めるのよ」
「!――……………あーあ、実は私って単純なのかしら」
「レース界から少々席を外しますわ。私が戻るまでのあいだ、玉座を磨いておいてくださる?」
「戻ってこられるといいですね。貴方の席はもう無くなっているかもしれませんよ」
「まぁ、ほほほ……その時は奪い取れば良いだけのこと。安心なさって、今度は私が慰めてあげるから」
ジェンティルさんが私に見せた弱みは、月夜に煌めく一筋の涙だけ。
空虚だった赤い瞳には弱々しくも、新たな種火が燻っている。
♢
ナツメとの別れから5年の月日が流れた。まだまだ肌寒さの残る冬の出口ごろ。
『ゴーーール!1着はまたもジェンティルドンナ!2バ身差によって彼女の時代はなおも続く!』
全盛期は遥か隔たり、
変わらず勝負服に身を包み、変わらずパワーを存分に魅せつけ、変わらず勝利する。
依然として可愛らしい私だけれど、髪型は変えた。ドーナツヘアをほどき、黒黄のリボンはポニーテールのために結んでいる。
流石に5バ身差とはいかない、ナツメと共に掲げていた流儀は変わった。
そして、今の私の
『
『もはや敵なしと目される貴方が、特別視している宿敵などはおられますか?』
騒がしい勝利後の取材。世界中のターフを荒らしてきた私の評価は『無敵』……無論全勝とはいかず、届かなかった冠もある。
それでも、私の強さは充分に世界に刻み込まれていた。
「宿敵……そうですわね。いい機会ですから、この場をお借りします。貴方、髪型を変えたのね。長い青髪に見慣れていたけれど、短いのも軽やかで素敵よ」
『な、なるほど。名前は出されないんですね』
「ええ。なんでも私に『ライバル』だと言わせたいそうで……折角の愛らしい野望、簡単に叶えてしまっては張り合いがありませんもの」
――そこまで言ったのなら、もう素直に認めても良いでしょう!?
何か聞こえた気がするけれど、無視して他の方に次の質問を促す。
『ええと……近頃はジェンティルドンナさんのプライベートが話題になっているようで。なんでも婚約希望者を広く募集されているとか』
「貴方、どこの記者?レースに関係ないでしょうに……はぁ。まぁ、その通りですわ。事前に
『く、屈服?いえ、謹んでご遠慮させていただきます……』
いい加減、私も隣に立つ人間を選ばねばならない。故に単純明快な図式を作り上げた。
誰であろうと、私に力で勝てば婚約者として認める、と。
家督を狙う者、
……私をゾクリとさせてくれるような力を持つ者など、もう居ないのかもしれないわね。
「そう。では次に移りましょう」
『はい。ジェンティルさん、今年はまだ始まったばかりですが……今年も競技者に専念なさるご予定でしょうか』
「ふむ、それに関しては――」
――む ず か し い か も な
「!……明確な回答は、差し控えさせていただきます。そろそろ、弟に預けていた家督を奪い返してあげなくてはなりませんから」
ナツメの手紙を受け取ってから、たまに感じるようになった直感のようでまた違う感覚。私が選択する場面で時々感じるソレは、最終的には『少しばかり幸せな結果』をもたらしていた。
手紙という小道具は、私を安心させるためのウソだった……けれど書かれていたこと自体は、きっとナツメの願いだったのでしょうね。
『ちゃんと見守っているから、どうか幸運を』
私の発言を『年内の引退もありうる』と捉えるのは記者だけでなく、トレーナーも同じこと。取材を終え、予定にない先ほどの言葉の真意を問うてくるトレーナー。
真意も何も、言葉通りの意味なのだからいちいち尋ねないでいただきたいわ。
「私は控室に戻ります。いつも通り、一人にしてくださる」
トレーナーと歩調を分かち、地下バ道を足早に歩く。控室の戸を開けて、外した手袋を化粧台の上に置く。
そして、鞄から小さな額に収められた、一枚の写真を手に取る。確か
視線の先で、変わるはずもない追憶の中の手慣れた笑み。第六感といい写真といい、ナツメ離れは欠片もできていない。
「……仕方ないでしょう?私をときめかせる方が現れないんですもの。今日の勝利も、貴方に捧げるわ」
当然ながら返事はない。恐らく今頃は、困ったような苦笑を浮かべているのでしょうね。許してちょうだい……それだけ私に強く深い力を刻んだのは、ナツメ自身なのだから。
勝利の報告を済ませ、舞台は芝からライブステージへ。観衆へ視線を走らせても、望む姿は見当たらない。
熱狂と喝采に包まれるなかで、唯一の勝者として浴びるスポットライト。
――暗路を行った彼を想い、私は光の中を独り歩く。
弱さを知った強者は、それでもなお強く在る。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
ジェンティルドンナ編は完結しました。
この作品に再会、ハッピーエンドは含まれません。ご注意ください。
これは『墜星』の物語。墜ちゆく軌跡に再会は無い。
しかし『昇星』は――暗路を抜け光路に至る。