エピローグです。
4年目、夏の終わり。夏合宿を終えた私は、合宿所から寮へと戻ってきた。
今年の夏合宿の成果は、正直に言ってあまり振るっていない。新しいチームのベテラントレーナーは、炎天下での私の体温調節に苦戦していた。
私の身体は強くなったし、そう簡単に体調を崩したりコンディションを乱したりもしない。けれど、根っこの体質を改善したワケではないから。どうしたって熱には弱い。
私自身も気を付けているけれど、流石に
それに、普段のトレーニングも合宿中のハードなメニューも、すべては『現在値の維持』に過ぎない。
『友情トレーニング』だなんて言って、同じメニューを隣でこなしながら限界を破っていくような
今の私の日々は、昨日の私に『負けない』ためのものになっている。
新しい春を迎えてから、私を突き動かしていた『勝ちたい』気持ちは大人しい。日常の中で火がつくことはあっても、レースに対して燃えることは……どうかしら。
周りからは、海を越えた先での挑戦を提案されている。新しい戦場、新しい強敵、その刺激を得るのは確かにいいかもしれない。
でも……
「ただいま~。あれ、ブラストは……まだなのね」
寮の自室に帰ってきたところで、同じく夏合宿に参加していた同室のブラストの姿がまだ無いことに気付く。
「ふーん……そう」
合宿の荷物が入ったバッグを置いて、クローゼットの前に立つ。掛けられたたくさんの服――半分くらいはお店でブラストに着せ替え人形にされながら選んだっけ――の中から、唯一の『メンズジャケット』を取る。
制服の上から羽織れば、サイズの合わない袖丈や、ウマ娘用の耳穴が無いフードが実に似合わない。黒を基調とした、見慣れているけれど着慣れない上着。
普段は、ブラストが心配そうな
まぁ、心配されるわよね。別に感傷的になりすぎるワケじゃない、ただちょっと元気が欲しい時に包まれるだけなんだけど。本当に、全然深刻なカンジじゃないから。用法用量はちゃんと守ってるのよ。
目の前に居ないルームメイトに、聞かれていない弁明をしつつ、とりあえずベッドに腰掛けて。夏合宿の間ずーっと頑張ったから。一番鮮明に
『おーい、帰ってるか「きゃあああぁぁぁ!?」おわあああぁぁぁなんだい!? ノックしただろう、って……あーーーまぁ……次からはちゃんとカギかけて、ノックを聞いとくんだよ』
その後、一度空気が死んだ自室で机に向かう。さっきの
テレビや雑誌、イベントでの活動が増えてしばらくレースを走っていない私へ、それでも向けられるファンや関係者のありがたい厚意。あとは海外レースの招待や、おそらく電子メールとの二段構えのメディア依頼など。
ブカブカの上着の袖を捲って、ブラストが帰ってくる前に手早く仕分けていく。返事が必要なモノ、早めに目を通すモノ、ゆっくり読みたいモノ――
――そしてその中から出てきた『竜胆ナツメ』という差出人からの手紙。
「え……?」
鼓動が早まり、思考が騒ぎ出す。なんで、どうして今? どこで何してるの、これは本物でいいの? 本当に開けていいの、読んでいいの? 良い内容かな、お返事書けば届くかな。
「ッ、ふぅ………」
一度、細く息を吐いてアーモンドアイの全てを落ち着ける。まずは、読まないと。
丁寧に封を切る、記された住所はきっとナツメの実家のもの。まさか彼が実家でくつろいでいるとも思えないから、おそらく郵便局に返送された場合のためだと予測がつく。
よし、少し冷静な思考が戻ってきたわ。シワをつけないよう細心の注意を払って、肝心の中身に目を通す。
上質なレターセットに綴られた文字列は、手紙としてのお手本のような体裁を保っている。今手に持つコレを、ナツメの言葉に直すなら。
『お元気ですか。あなたの活躍をちゃんと見守っています。あなたのこれからに幸運がありますように』
心が求めるような言葉ではなかった、でも大きく裏切られるようなメッセージでもない。どこかで手紙を出せるような生活を送っているのならば、それだけでいい。
それだけでいい、そのハズなのに。文面から読み取れる以上のナニカを、感覚の端で捉えてしまう。こもり始めた熱を一気に冷ましてしまう、寒々しいナニカ。
――し あ わ せ に な れ よ
ふと、生きる中で自分に馴染んだ五感のどれとも違う、知らない感覚が私に囁く。言うなれば『第六感』が、この手紙から何かを受け取った。
それは最愛の人からの祝福、私の前途を温かく照らす灯火―――
―――そう、まるで最期に遺す祈りのようなカタチ。
気付けば走り出していた、制服に彼の上着を羽織ったまま。
住所だけ調べたらスマホをベッドに捨てて、手紙を持って寮を飛び出し、沈み始めた夕日の中でウマ娘用レーンを駆ける。
今はアレコレ考えられない、考えたくない。答え合わせをするまでは、理由のないイヤな予感でとどめておきたい。
思考を殺して、脚だけを動かして、とても簡単な答え合わせをすれば、このモヤモヤは無くなってくれる――そう信じたいのに。
どれだけ早く走ってもこの『第六感』を振り切れはしなかった。
学園から数十分走った先、目の前には『竜胆』の表札が掛けられた一軒家。身体は火照っているのに不自然に冷たい感覚、力の伝わりきらない指先でインターホンを押す。
『はい……あら、アーモンドアイさんですか?』
「あ……あっ、えっと、急にすみません……」
『お待ちください、すぐに参りますね』
静かで優しげな声、続いてパタパタと軽い足音。アポイントも取らずに押し掛けたと思えば、言葉に詰まって挙動不審な私を、怪訝な様子もなく迎え入れてくれる。初めて見たナツメのお母様の柔らかな目元に、僅かに既視感を抱いてしまう。
『まあ、その上着……ふふ、懐かしいです』
『どうぞ、上がってください』と促してくれるお母様のご厚意は玄関まで受け取って、足元には女性用の靴がほんの少しあるだけ。誰かと住んでいる感じはしない、ナツメのスニーカーが転がっていたらよかったのに。
そんな余計なことが目について、現実を進めるための脚が前に出ない。
――このままじゃダメよアイ……ダメなの、ダメだけど……
どうしても視線が揺れて、勇気が心から滴り落ちるように零れていく。なんでこんなにも『怖い』の? まだ答えは出ていないのに、全部が私の『タチの悪い妄想』な可能性だって……あるはずでしょう?
例え、そんな可能性がまったく
「あの……あの、
喉に息がつっかえる、もつれそうな舌がなんとかガタガタの音を作る。
急に押しかけた『ごめんなさい』も、『はじめまして』のご挨拶も無く。身体も思考も心も恐怖に呑まれきった惨めな私が言葉を吐き出す。
「ナ、ナツメ、は……彼は、元気ですか? 本当に、生き……生きてますか……?」
「……答えることはできます。でも、今のアーモンドアイさんに
「お、お願いします! 教えてください……でないと私は、固まったまま動けないんです。ここで答えを聞かないと、前にも後ろにも進めない……!」
「――……そう、ですか」
私の急な訪問も、妄言のような問いにも、まるで分かっていたかのように柔らかく揺らがなかったお母様。それなのに言い淀むのは、きっと私があまりに弱々しく見えるから。
でも、ナツメのことは知りたい……知らなきゃ。乗り越えるのも、逃げ出すのも……このままじゃそのどちらにも行けない。
だからせめて、今この場だけでも心を固める。お母様から答えを教えてもらうために。
――生前はナツメがお世話になりました。
『手紙さ、しばらくしてからアイに出してほしいんだ。元気でやってるから心配しなくていいって思ってほしくて。中身は心込めてちゃんと書いたから多分バレないはず……なんだけど、なんかこういう
『俺ってさ、顔が良いじゃん。この3年でメディア露出とかもそれなりにあって、実は結構人気なんだ。でもその弊害ってか……訃報が出れば母さんとアイに面倒な視線が向きそうで怖いんだよね。だから、俺は人目のつかないトコに行くよ。ほんと母さんには申し訳ない』
♢
竜胆家を出てから、私の脚は寮ではないどこかへと向かっていた。頭の中は『竜胆ナツメ』の残響に支配されていて、目的地への意識もないまま月の輝く夜を歩く。
やっぱりこの手紙は、もう居ないナツメからの遅れたエールだった。私の知らない事故から始まって、決められた残り時間を私に懸けて、最後は肉親も知らない場所で終わった。
今ならよく分かる。ナツメの瞳に灯っていた熱、その火種は『命』そのもの。彼は最初からずっと流星のように燃えながら墜ちていて、私はそれに気付かないまま熱に浮かされていた。
「――……この場所」
時間の感覚が飛んで、今の視界に映るのはいくつかの思い出が眠っている『高台』……導かれるように辿り着いてしまったこの場所で、今回は一人で街を見下ろす。
そういえば、ここで彼は『命懸けで私と走る』って夕日に叫んでいたっけ。思えばずっとそうだった。
契約を結ぶときも、3年間の誓いを交わすときも、クリスマスデートで服を選ぶときも。
『私に全部懸ける』、『死んでも誓いは破らない』、『ちょっと未来が見たい』……何から何まで、終わりを迎える前提の物言い。誤魔化すことも隠し事もするけれど、ウソだけはつきたがらなかったナツメが自信満々に言い切る
彼が言う『全部』は、これから長く続いていく人生じゃなくて、燃え尽きることが
「あーあ……終わっちゃったなぁ、全部」
『私の居る場所が居場所だ』なんて真顔で言っちゃうナツメは、その私を置いて星になってしまった。
眼下の街明かりから顔を上げて、暗い天井に散らばる星の、いったいどれが彼なんだろう。嫌でも
夏の終わり、少しだけ冷気を帯び始めた風が沁みる。月も星も夜も、未来も期待も可能性も、すべてが潤んで滲んでぼやけていく。
ダメだ、転がり落ちていく私を止められない……もしかしたら、もう心が燃えることも越えたい煌めきも無くなってしまうかも。
自分に勝てないのに、何なら『勝ちたい』なんて思える?
流れてしまう涙を止めないと、こぼれ出ていく温度を拭わないと、ここで耐えないと――
「――見つけたで、アイさん」
♢
もう日も落ち切ってしまった、月と星の舞台の下でアイさんは立っていた。
どこを探しても見つからず、小さな希望を持って訪れた高台。アイさんのロードワークのルートで、ひと息つけそうな場所。
喧騒を離れて、違う空気で考え事するにはうってつけ。もっとも……あんまエエ方には考えられてへんみたいやけど。
陰から先に寮へ連絡を入れて、吸い込まれそうな暗闇を前に立ち尽くすアイさんの隣に並んだ時、その瞳からは静かな涙が零れ落ちていた。嬉しいときも悔しいときも、素直に感情を爆発させる彼女の、頬を濡らす密やかな
「あら……お邪魔してしもうたみたいやね。どないしたん、そんなしめやかに泣くタイプやった?」
「……………何でもないわ、ちょっと夜風が沁みただけ」
『そんなワケないやろ』、とは言わないでおく。見覚えのある男物のジャケットを羽織って、きっと誰かさんと一緒に来たであろう高台で、らしくない泣き方をする女の子が、何もないハズない。
年が変わって……いや担当が変わってから、アイさんが燻っていたのは嫌でも分かっていた。歴史を変えた九冠バに新しい冠は重ねられず、勝手なコトを言わせてもらえば――もどかしい姿がチラチラと視界に入っていた。
原因なんて明らかで、今更言葉にするまでもない。今のアイさんの涙の理由も、わざわざ暴き立てる必要はないと思う。
だから、それとなく優しい言葉をかけてあげるのがきっと正解。
でも……でもなぁ。いっつも羨ましいくらいキラキラしとった瞳が、根っから湿気てんの見たら――『違う』気がして
「門限はもうちょい先やけど、みんな心配しとるわ。まだ戻らへんの?」
「……そう、ね。もう少し、気持ちの整理をしたいわ」
「ふぅん、そうですか……ここで一人で泣いとっても、ウチには
「――ララ? 悪いけど、今は……」
「傷心中なんは分かっとるよ、その原因も半分くらいはアタリがついとる。別に『しょーもないコトで悩んどる』なんて思っとらん……でも、そんな泣き方は
ウチの空気読めん言葉に、アイさんは眉を吊り上げるでもなく頬を膨らませるでもなく、ただ困惑交じりの瞳で弱々しい微笑みなんて作る始末。
アカン……
「ここで気持ちの整理とやらをして、それで『勝ちたい』気持ちが作れるんか? バッキリ折れてしもうて、悲劇のヒロインを演じ終わったら戻ってこれるんか? そんなグラグラ揺れた
「――……そんなの、知らないわよ。私でも『普通』に泣きたいときだって、あってもいいじゃない……」
「アカンよ、アンタだけは……そんな『普通』を尻目に、いっつもアホみたいに『勝ちたい』だけでやってきたんが
「……何、何なの? 好き勝手言ってくれるけど、私にもどうにもならないコトはあるの! 私が立ち直れないくらい悲しいことが、ララに関係ある!?」
「あるわ! 今更……普通にメソメソ泣いて、ソレができるんなら最初からやっといてや! アンタが普通やったら、ウチがティアラを獲っとった!」
怒りを抱き始めたアイさんが言葉に詰まる。分かってる、『何言うとんやコイツ』って思われることくらい。でも、ホンマにそう思っとるからもう言うてしまう。
「どこまで行ってもバケモンみたいに『勝ちたい』だけで越えてきて、キョーミも無いクセに栄冠を何から何まで掻っ攫ったんはアンタやろ! それでもウチは、頭オカシイ記録出して新時代創った『勝ちたい』だけの
「そんなの、ララの都合じゃない! 私だって折れることくらい赦してよ!」
「今のアンタは折れたら戻ってこんやろ! 散々主役を堪能して、燃え尽きたらもうあとはひっそり静かに生きていくんか!? 脇役になれるなら、ウチのために最初から縮こまっとけ! アンタは脇役になれん……なったらアカンし、赦さへんよ!」
「だって……仕方がないでしょう!? 勝ちたかった相手は、もう居ないの! 居ない
「その
「――ぁ……ぅ、ぐ……」
アイさんから漏れ出た声が震える。
どうにもならん絶望のドン底に
それでも、アンタが『普通』になってしまうくらいなら……恨まれてでも『主人公』に戻って欲しい。『アーモンドアイ』で在ってもらわんと困る。
「今この場に
「……あ、る」
「なんや、聞こえん!」
―――あ゛る゛う゛う゛う゛ぅぅぅーーー!!!
耳も心も振り絞って、喉も尻尾も震わせて、アイさんは答える。
顔を真っ赤にして、ボロボロと涙を流して、鼻をズビズビ鳴らしながら、ちょっとヒロインの肩書きは忘れないといけないような顔。
それでも、瞳には微かな熱と輝きが宿っていた。
「ナツメが遺した、私のための軌跡があるわ! だから、私は追いかけて――どれだけ時間がかかってでも、追い越したい!」
はぁ、良かった。いつも通り、なんでもかんでも『勝ちたい』言うアイさんや。ホンマに、ひと安心して気が抜けるわ……。
「――……アホ、気ぃ
「うん……ありがとう。それと、ごめんね? 私、きっとレースから離れるわ。だからララの『私を引き摺り下ろす』目標も……」
「さっき言葉にしたばっかりや。ウチも同じ、例えアイさんが同じターフに
「――ええ、そうね」
寮に帰ってから、声カスカスで目元の腫れたアイさん――ウチは別に、そんなに腫れとらんよ――を待っていたブラストさんの突進――ちょ、いつか怪我人でるで――を受け止めたあと。
アイさんに『手伝って』と言われ、ブラストさんと一緒になって『とある答案用紙』の膨大な採点を行う。
『ブーは終わったぞ! すごいな~、満点だ! 問題文の訂正まで書き込まれてた!』
『ウチも終わりました。同じく満点……
『私の方も満点……いいじゃない。追うに値する背中だわ』
バラした答案をファイリングし直して、アイさんは『中央トレーナー試験の過去問題集』と銘打たれたソレを見て、煌めく瞳で笑う。
――私、ナツメを追いかけて、並んで、追い越せる……そんな『トレーナー』になる。
♢
ナツメとの別れから5年の月日が流れた。まだまだ肌寒さの残る冬の出口ごろ。
私の胸元に『トレーナーバッジ』が輝くようになって、もうすぐ1年になる。
飛び級でもなんでも使って、ナツメと同じように最短ルートで中央トレーナーになった。彼のように『死ぬ気』でモノにできなくても、私には『勝ちたい』と強く想う事で拓ける『100%を超えたパフォーマンス』のセカイがある。
トレーナー試験は当然ながら『満点首席』……厳密には勝ってないけど、それでもナツメに並んだわ!
ナツメのお母様にも良い報告ができて、頭なんて撫でてもらっちゃったりして。
でもまだまだこれから……追い越すにはきっと長い時間が必要。
燃えながら墜ちて行った星、その光はもう見えなくても、軌跡は遺っている。ナツメが手からすり抜けてしまったなら、彼の辿った道と功績を掴み取る。
『アイトレーナー! アップ終わりましたぁ〜!』
「はーい、今行くわ!」
トレセン学園のトレーニングコース、チームの子に呼ばれて駆け寄る。
今の私はとあるチームの『サブトレーナー』として、数人の生徒を受け持っていた。チーフトレーナーはしばらく外部講習、つまり今からトレーニングを主導するのは私。
『アイトレーナー、
生徒の疑問を受けて、スニーカーの蹄鉄の感触を確かめながら頷く。
ラフな水色のシャツに、ストレッチ性のあるスポーティなパンツスタイル。それから、シンプルな黒のフードジャケットはちゃんとサイズピッタリよ。流石に走るときに、彼の上着は動きにくいもの。
髪は現役時代のまま。空色のインナーカラーも、リボンもクリップも、サイドの編み込みも。走る前とか体温が高すぎるときは、高い位置で結ぶこともあるけど。
ところどころ色合いやシルエットが違っても……まあ見るひとが見れば、誰を意識してるか分かるわね。
「全員まとめてテストしてあげるから、私に勝つ気でね? まぁそれはあとで、じゃあ――――今のみんなの状況を視せてちょうだい」
一度瞳を閉じて、息を整え意識の深いところへ潜る。そして拓く、『ナツメを越えるトレーナーになる』ための『
視界に映る生徒たちの『ステータス』『適性』『体力』『
ふむふむ、大体は事前に組んでたメニューで問題なさそう。でも一人、体力が戻ってないし調子もノってないみたい。上手く休めなかったのかな、どうしよう。
リスクはあるけど、何が何でも休ませなくちゃいけないラインじゃないし……ここは、そうね――
――――負 荷 ふ た つ 下 げ よ う か
「――ッ、ふたつ。確かに、ふたつかも」
『? アイトレーナー、なんか言いました?』
「ううん、気にしないで! じゃあ今日のメニューを言っていくから……私と一緒に『友情トレーニング』といきましょうか!」
ナツメの手紙を受け取ってから、たまに感じるようになった直感のようでまた違う感覚。私が選択する場面で時々感じるソレは、最終的には『少しばかり幸せな結果』をもたらしていた。
手紙という小道具は、私を安心させるためのウソだった……けれど書かれていたこと自体は、きっとナツメの願いだったんだわ。
『ちゃんと見守っているから、どうか幸運を』
この感覚を受け取ってるうちは、とても『勝った』なんて言えないわね。いつか、貴方の助言が聞こえなくなったら……その時は私の勝ちよ?
♢
「はぁ、疲れた……それに暑い。5年前みたいには走れないわね」
チームのトレーナー室で火照った身体を冷却しながら、今日のトレーニングのレポートをトレーナーに送信する。併走は私が勝った、そう簡単に九冠バの前には行かせない。でも、あと一年も一緒に過ごしたら越えられるでしょうね。
……うーん、負けるのはかなり面白くない……個人的なトレーニングの時間を少し増やそうかしら。本格化なんてとうに過ぎてるし、気休めにしかならないだろうけど。
「あーあ……もう21かぁ。貴方の歳、超えちゃったわ」
まだナツメの軌跡は越えられていないのに。貴方の背中、遠すぎるのよ。
トレーナーとして勝つために、私はこのチームで懸命に生きている。勿論、私の勝利のために生徒を使うようなことはしてないわ。絶対に獲りたい冠も記録もない、ただ生徒の夢に寄り添っているだけ。
私が彼に幸せにしてもらったように、けれど私はそれ以上の『たくさんの大きな幸せをあげる』トレーナーを目指す。
そのために、もっとみんなの夢に併走できるようにならないと。
私の追いかけるものを再認識したところで、ノックのあとに来客。
『アイトレーナー、まだお仕事中ですか?』
「あら、たづなさん。こんばんは」
『頑張り過ぎはダメ、ですよ。チーフトレーナーさんも講習は終わっている時間です、アイトレーナーもそろそろ切り上げては?』
「ふふ、ありがとうございます。でも……正直、トレーナーが居ないときの方がはかどるって言うか。『いつもの話』に付き合わなくて済みますし」
『あー……トレーナー試験のお話ですね……私も何度か覚えがあります』
たづなさんと一緒に苦笑する。今のチームのチーフトレーナー……そろそろ10年目になるらしい、能力は確かなエリート。それは良いんだけど、やたらと『トレーナー試験』の話を振ってくる。
私は『満点首席』で、彼もまた『ほぼ満点の次席』。言うなれば『成績優秀コンビ』で、私が自分の
『点数はどうせ採点ミスさ、僕たちは実質トップ同士。ならこのチームもトップにならなきゃおかしい話とは思わないかな』とのこと。
優秀なのは認めるから、同じ話を繰り返さないでほしい。私は生徒の夢に添いたいだけで、他のチームに『勝つ』ことは考えてないの。
『採点ミスはない、点数の順番にも間違いはないと再三申し上げているのですが……やはり納得されていないのですね』
「みたいです……そんなに気にしたって、仕事には関係ないのに。相手をするのも最近は面倒に……って、たづなさんに愚痴っちゃったわ!? ごめんなさい、忘れてください!」
『いえいえ、構いませんよ。ただ……ふふ、うっかり口を滑らせてしまうくらいにはお疲れなのでは? アイトレーナー、無理は絶対に――』
「――ダメなんですよね。うぅ、今日は大人しく帰ることにします。でも、たづなさんにも同じ言葉を返しておきますから!」
『はい、ありがとうございます♪ お疲れさまでした、アイさん。ゆっくりお風呂にでも浸かってリラックスしてくださいね』
たづなさんに丸め込まれて、仕事を片付けトレーナー室を出る。外は太陽が出番を終え、とうに月と電灯に切り替わった時間帯。
せっかくたづなさんに言われたし、今日の入浴剤は普段よりイイヤツにしようかな。とか考えながら歩いていた、トレーナー寮までの道すがら。
――ん? アレ……わ、わぁ……。
視線の先、学園の正門前で『口づけを交わす男女』が見えた。
誰も見てないと思ったのかなぁ、確かにもう遅いし、遠い私しか居ないかも。あの教官とトレーナー、デキてたんだ……うわぁ、顔が熱くなってきた……。
頬に手を当てて、足早にトレーナー寮の方へと向かう。考えまいとしても、あんなモノを見てしまったら嫌でも意識してしまう。
心の底に仕舞っておいた、ナツメが
――もう少し大人になった時に、また再会できたのなら。その時は一番に――
「や、やめやめ! さーて、お風呂……いやその前に晩御飯のことよね!」
熱を帯びる思考を振り払い、まだ感触を知らない唇への意識を空の彼方まで追いやる。
果たされない一方的な約束よりも、ちゃんと彼が遺してくれた軌跡へと軸を定めて。
トレーナーとしての道を自分の脚で進むために、まずは電灯の照らす中を歩いてトレーナー寮へと帰ろう。
――暗路を行った彼を想い、私は光の中を独り歩く。
栄光の瞳は、今は遥か憧れだけを映す。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
アーモンドアイ編は完結しました。
この作品に再会、ハッピーエンドは含まれません。ご注意ください。
これは『墜星』の物語。墜ちゆく軌跡に再会は無い。
しかし『昇星』は――暗路を抜け光路に至る。