エピローグです。
4年目、夏の終わり。
夏合宿を終えた私は、少しの間だけ実家で身体を休めていた。
もう砕けないこの身体は、一般的にハードと分類されるようなトレーニングであってもしっかりとこなすことができる。低負荷・低密度で壊れないラインを暗中模索していた日々はもはや過去のモノ。
普段より過酷な夏合宿のメニューにおいても、倒れることなく指示されたものは全てやりきった。
ただ……その苦労が結果に繋がったかと問われれば、何とも言えない。
新しいトレーナーさんはかねてよりメジロ家と親交があり、その実力は客観的に見ても確かではある。けれど、課されるハードなメニューの数々は、その全てが現状維持に終始している。
きっと
「ふぅ……疲れたわね。脚は……うん、問題なし」
自室で夏合宿を終えた身体をセルフチェックしていく。疲労こそ溜まっているものの、ヒビのひとつも入ろうはずがない。
だってこの身体は、この脚は、
さて、身体に問題がないならどうしようか。
私服で部屋をうろつきながら、やるべきことを思案する。
休息のために帰ってきているワケですし、遠出するのは論外として。街に出るのもあまり気が乗らない……どなたかお誘いすれば、良いひと時を過ごせるのでしょうけれど。
『一緒に歩きたい』と一番に浮かぶ方は、残念ながらどちらにいらっしゃるか分かりませんから。
「……どう、しましょうね」
ベッドに腰掛けてみて、虚空に視線を彷徨わせる。この時間を生産的なものにするために、頭は『なにをしようか』と考えてくれている。
けれど、私の心がその思考に添いきれていない。この春からずっと、自分の中で微妙に噛み合わない。
それはきっと、求めるモノが違うからなのでしょう。
『メジロ家』として『レース界の発展』と『より素晴らしいレース』のために、これから先の永く遠い未来を見据える、冷静で現実的なアタマと。
『メジロアルダン』が『初めてにして唯一の想い』を見つけた、最も幸福だったと言える過ぎ去った時間を振り切れない、熱に浮かされたココロ。
何をするにもイマイチ身が入らない、困った私。
「――なにか没頭できるものがいいかも」
話を戻して、せっかくの休息をどう過ごすかに思考を巡らせよう。外出が気乗りしないなら、なにか屋内でできることがいい。
幸い、私は
読書はどうだろう。
書斎に行けば、踊る活字たちが私の手を引いて書の世界へと誘ってくれる。時間のある時に目を通しておきたかった本がいくつかあるし、いっそ書架の端から攻めてみるのも悪くない。
それとも絵を描くのは?
病室のベッドから外を眺めていた幼き頃、自由に駆ける子どもたちはまるで光の中を泳ぐようで。その風景を描いた始まりから今なお続いている、目に映る世界と……内なる自分との対話。
うん、いいと思う。今は本を読んでも目が滑ってしまいそうだし、絵を描いてみましょうか。
姉様のように惹きつけるような筆致には至らないし、病弱であったが故の嗜みとして絵筆を執っていたに過ぎないけれど。
それに、
『お嬢様、少々よろしいでしょうか』
「は、はいっ。ばあや、どうしました?」
部屋に転がった声で、現実感が戻ってくる。ベッドを降りてばあやを招き入れれば、どこか緊張しているようにも見える面持ちだった。
ばあやの手には、見慣れない封筒。差し出されたソレを受け取り、私も思わず肩に力が入る。
『竜胆ナツメ』
そう記された差出人と、彼の実家と思しき住所。郵便局から返送された際のための、丁寧な手紙の所作。
『学園のご厚意で、休暇中のお嬢様宛てにここへ転送して頂いたようです……
「……え……えぇ、ありがとうばあや。後ほどお返ししますね」
部屋に再び訪れた静寂を、レターオープナーがゆっくりと裂いていく。
封を切り、上質なレターセットが届けてくれたナツメさんの言葉に目を通す。素朴でありながらも洗練された手紙としての文体は、彼らしくない堅苦しさと同時に、彼らしい完璧主義も感じられた。
体裁の整った文面に込められた想いは、どこに居るのかも知れぬナツメさんからの、私を気遣う季節の挨拶。
『お元気ですか。あなたの活躍をちゃんと見守っています。あなたのこれからに幸運がありますように』
今の私は自信を持ってお返事できる。
当然、元気です。貴方とともに手にしたこの身体で、メジロの務めを果たしています。だからどうか、貴方の道行きにも幸多からんことを。
頭の芯が冷えていくのは何故。心に一滴の闇が染みて広がっていくのはどうして。
指先から血の気が引いて、喉で息が詰まるそのワケは。
――し あ わ せ に な れ よ
ふと、生きる中で自分に馴染んだ五感のどれとも違う、知らない感覚が私に囁く。言うなれば『第六感』が、この手紙から何かを受け取った。
それは最愛の人からの祝福、私の前途を温かく照らす灯火―――
―――そう、まるで最期に遺す祈りのようなカタチ。
「おや、お嬢様。レターオープナーであればそれほど早く返されずとも……ど、どうされましたか? そのお顔……久しく見ておりませんでしたが、まるで倒れる寸前です……! すぐに医者を――」
「――いいえ……いいえ。それよりも、車を出して欲しいのです」
「お車、ですか? 当然向かわれるのは病院でありましょうな!?」
「……違います」
「そのように真っ青なお顔で、どこへ行こうと仰るのですか! 明らかに健常とは程遠いのです、検査の手配をしますのでご安静に『では走ってでも向かいます』……っ」
「ごめんなさい、ばあや……私は大丈夫です。この用件が済めば、体調も戻りますから……どうかお願いします」
いつも穏やかで、私に寄り添ってくれていたばあやに、ひどいお願いをしている。学園入学を決めた時だって、私の意志の為に両親を説得してくれた絶対の味方。
そんなばあやが、記憶にないほど声を強くして私の身を案じているというのに。
私はどうしても確かめねばならないことを、ワガママに押し通した。
♢
目的の住所へ向かう車中、ルームミラー越しにたまに感じるばあやの心配そうな視線に返せない。手元の手紙に目を落として静かに待つ。
彼方より訪れた予感が私の体温を奪い去って、最もあってはならない現実が輪郭を獲得し始める。
やがて車は停まり、答え合わせの場所へとやってきた。『竜胆』の表札が掛けられた戸建てに、きっとこの手紙の真偽がある。
視線も思考も足元も尻尾も、何もかもが揺らいでしまうのをグッと固める。息を入れて背筋を伸ばし、姿勢を正すのには慣れている……ちゃんとしていないと、幼い頃から余計な心配をかけてしまう脆い私だったから。
インターホンを押して待つこと数秒。聞こえてきたのは、機械越しにくぐもっていても穏やかな雰囲気の、優しげな声。
『はい……あら、メジロアルダンさんですか?』
「あ――その、はい」
『お待ちください、すぐに参りますね』
言葉に詰まってしまった。一瞬だけ『彼の声であれば』と思ってしまった……私の中の弱さが
出迎えてくれたお母様に玄関まで招いてもらった時も、男性物のスニーカーを探してしまう自分を切り離さねば、きっとまともにお話すらできない。
切り離す。
切り離す。
今は心を切り離す……感情を遠ざけて、取り繕える限りの礼節でこのお手紙の真偽を問う。
これは本当に彼が書いたものなのか……そして彼が差し出したものなのか。
私の知らぬ遠い場所で、手紙が書ける程度には元気にやっているのでしょう?
『生前はナツメがお世話になりました』
――甲高い、
なに? まさか今更、この脚が砕けるハズもない。
あぁ……そう。そうね。砕けたのは……『もしかしたらまた逢える日が』なんていう稚拙な――期待。
♢
部屋に戻ってきた。
ナツメさんのお母様に対しての問いと、お悔やみや礼儀は可能な限り――『アポなし』という言い訳のできない無礼はあれど――尽くせたと思う。メジロのウマ娘として染み付いた振る舞いに助けられた。
送迎を任せてしまったばあやにも、努めて冷静に『私は大丈夫です』と伝える。病院は必要ない、私の青ざめていた顔はなんとか人前に出られる程度には戻っている。
ただ、しばらくの間。何があろうと一人にしてほしい。
それだけを残して、今は望み通り部屋に一人。
ナツメさんの遺書を机に置いて、私は服のシワも気にせずベッドへ倒れ込んだ。
『手紙さ、しばらくしてからアルダンに出してほしいんだ。元気でやってるから心配しなくていいって思ってほしくて。中身は心込めてちゃんと書いたから多分バレないはず……なんだけど、なんかこういう
『俺ってさ、顔が良いじゃん。この3年でメディア露出とかもそれなりにあって、実は結構人気なんだ。でもその弊害ってか……訃報が出れば母さんとアルダンに面倒な視線が向きそうで怖いんだよね。だから、俺は人目のつかないトコに行くよ。ほんと母さんには申し訳ない』
先ほどナツメさんのお母様から聞いた言葉が再び頭に響く。どこか彼らしい気遣い……善くも悪くも、最期まで竜胆ナツメだった。
冷めた思考に、段々と熱が戻ってくる。
話を進めるために切り離した心が、やがて返ってくる。
ナツメさんは亡くなった。その現実をただ認知した私が、感覚を取り戻す。
感情を伴って返ってきた
痛い――痛い痛い痛い。
あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
『期待が砕ける痛み』は既に知っていたのに! 私はあまりに眩しかった『3年間』の続きを期待してしまっていた!
二度と訪れることのない日々が、輝かしい最愛の時間が! その破片が今、私の心に刺さって抜けない――どうしようもなく……痛い!
全てが手の届かない過去になって、ようやく本当に理解した……竜胆ナツメは煌々と輝く『星明り』などではなく、ただ燃え尽き墜ちる『流星』だったと。
彼の常軌を逸した覚悟の熱、眩むほどの光、それらは『今に全てを
同じ覚悟を持っていたハズなのに、私はその意味に思い至らなかったんだ。彼との時間が楽しくて、彼と共に駆けられるこの脚に舞い上がって。
砕けない身体、心から興じられるレース、輝かしき栄冠。それから、私の唯一の恋心も。ナツメさんが無邪気に笑って私にくれた、たくさんの思い出はもう満たされず。
今はもらった全部が痛む。
こんな痛みを抱いて、私はこれから光の中を生きていくの?
でも、私……そうまで『生きたい』と思えないよ?
「――ッ、ああぁ……!」
砕けた期待の刺さる胸を抑えながら、微熱を帯びる瞳をそのままにベッドから立つ。逃げないと……私の弱さが手招きする暗黒に墜ちる前に、心が『彼の歩く暗路』を選ぶ前に!
痛んでもいい、苦しんでもいい、泣いてもいい、逢いたくなってもいいから。私はなんとしても光の中に居ないといけない、絶対に影の中に戻ってはいけない!
だって『
砕けない私こそが、彼の遺作だから……逃げながらでも、現実を生きていく。
血を流す心が苦しい、彼の居ない世界が虚しい。
温かな過去が眩しい、彼のくれた温度が恋しい。
それでも、自ら砕け散ることだけはしないように。
壊れそうな自分から目を背けて、軋む想いから今は逃げる。
なんでもいい、どこでもいい、ここで『終わり』を選ばないように。
彼の遺した私を、永く遠い未来へと繋ぐための逃避は――
――
♢
ナツメさんとの別れから5年の月日が流れた。まだまだ肌寒さの残る冬の出口ごろ。
私はレースを引退した。
今でも思い出せる、オグリさんと私の
それから私は、砕ける事のないまま競走生活を終えた脚を休ませて、代わりに手を動かして過ごしている。
病室での嗜みに過ぎなかった趣味は、5年前から私の『逃避先』として心を空虚に沈めてくれる。絵筆を執ってキャンバスに色を乗せている間は、弱い私の『追いかけたい気持ち』を忘れられる。
メジロのウマ娘として必要な活動以外は、アトリエに籠って彼の居ない世界を描く。色鮮やかで、ただの一瞬も止まらずに、平気な顔で回っていく綺麗な世界。
『お嬢様……そろそろお時間かと』
「……そう、ですね。準備してくるから、少しだけ待っていてください」
『勿論でございます。表に車を回しますので、お嬢様はごゆっくり』
「ありがとう、すぐ向かうわ」
先に出ていったばあやをあまり待たせないよう、制作用のエプロン等から用意していた服に着替える。
アイスブルーの詰まりすぎないハイネックニットに、ペールラベンダーの柔らかいロングスカートは裾に向かって広がるフレア。つま先の丸い
制作の邪魔にならぬよう高くまとめていた髪をほどいて、長さの変わらない長髪をゆるい
グレージュのガウンコートを羽織って、念のため軽いストールも持って出た。
アトリエの戸締りをしてばあやの車に乗る。
「お待たせ……では、お願いします」
『お任せください。今回の取材は、お嬢様の
「ええ……アレはあまりメディアの皆様に好かれないから、記事にはどう書かれるのでしょうね」
私が絵筆に逃げた初めての作品。それは、ナツメさんの手紙が届いた時に描いた、何の変哲もない風景画。
部屋の窓から見える景色を、ただ『
特別に凝らした技巧はなく、際立った見事な筆致でもないハズの素人の絵。
けれど一部の方々には、唸るナニカがあるらしい。
『色彩鮮やかで温かい風景に、これほど暗澹たる空虚を宿らせるとは』と、称賛と言っていいのか困惑するお言葉を頂いたことがある。
『――到着いたしました。いってらっしゃいませ』
「ん……ありがとう。いってきますね」
車を降りて、美術館の前に立つ。取材……正直、面倒です。彼の居ない世界に、伝えたいコトなんてありませんから。
まあそんなことはわざわざ口にしませんし、態度にも出しませんよ? なんでもないようにちゃんとするのは、幼い頃から得意なんです……ばあやをはじめ近しい方々には、もう通じませんけれど。
「……あら? この展示」
特に調べていなかったから知らなかった、今の展示は――遺作だけを集めた『刹那展』らしい。きっと裏手の森には、また『あの絵画』が野外に晒されている。
懐かしい、私と彼の始まりの場所のひとつ。契約してすぐに、私の覚悟を伝えるためのきっかけとして、お願いして見回ったこの場所。
今なら、私もこの展示に並べるかもしれない。
『竜胆ナツメの遺作』として、砕けない私自身が。
――ふふ、いけないわね。不意に哀愁を感じてしまったから、化けの皮が剥がれてしまいそう。
メジロのウマ娘としての体裁、そして画家メジロアルダンとしての世間体のためにやってきたのに。そんなどうでもいいモノを放って、このまま展示でも見て回りたい気分。
――――よ り 道 し な い よ
「っ! はぁ――はいはい、分かってま~す……♪」
ナツメさんの手紙を受け取ってから、たまに感じるようになった直感のようでまた違う感覚。私が選択する場面で時々感じるソレは、最終的には『少しばかり幸せな結果』をもたらしていた。
手紙という小道具は、私を安心させるためのウソだった……けれど書かれていたこと自体は、きっとナツメさんの願いだったんです。
『ちゃんと見守っているから、どうか幸運を』
前を向いているとは、言い難い。
けれど彼のためにも、後ろは向かない。
竜胆ナツメの居ない世界をあまり見ないよう、私の視線は足元に落ちている。
でも、立ち止まることはせずにこの脚で歩んではいる。
いつか心から幸福に、なんてなれるハズないのは分かっていても。ナツメさんと過ごしたからこそ存在する今と未来を、頼りなくも紡いでいる。
取材のために用意された、私の最初の絵と共に待つ記者が視線の先で会釈をした。取り繕った名家の令嬢としての笑みを返し、適切に調整された照明の廊下を歩む。
――暗路を行った彼を想い、私は光の中を独り歩く。
――闇の中を貴方とともに墜ちたい私を抑え込んで。
遺す覚悟を決めたガラスの令嬢は、永遠の輝きとして遺された。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
メジロアルダン編は完結しました。
この作品に再会、ハッピーエンドは含まれません。ご注意ください。
これは『墜星』の物語。墜ちゆく軌跡に再会は無い。
しかし『昇星』は――暗路を抜け光路に至る。