取りあえず思いついたから書いておく精神で。
(尚、相変わらず風呂敷畳めるか不明の模様)
1990年四月某日──新宿御苑。
その日世田谷に住む青年、
「……おお、凄いな」
心の底から素直な感動が口に洩れる。
実のところ、新宿御苑の桜を見に来るのはこれが初めてではない。
巽の趣味は
そのため、新宿の都会のど真ん中に管理される巨大な自然庭園には何度も足を運んでいるし、こうして春の日に桜を見に足を運ぶのだって通年のことである。
それでも、青い空の下で桜吹雪を散らしながら並ぶ幾重も連なる桜並木は、見る者を圧倒し自然が織りなす美しさを本能的な部分で魅了する。
きっとこの感動は日本人の遺伝子に刻まれた本能なんだろう、なんて。
似合わないことを思ったりなんかする。
見れば周囲には人、人、人。
桜の魅力にやられて足を運んだのは巽一人だけじゃない。
休日ということもあって、新宿御苑は桜見客で早くも混雑の模様だ。
なるべく早めの時間を……と入園直後を選んでみたものの、周囲は家族連れだったり、老夫婦だったり、遠方からの観光客だったり、珍しい外国人だったりと様々だ。
一人で桜に魅入られているものもいるにはいるが、これだけ連れのいる人間が集まっていると何となく気まずい感じを覚える。
丁度、二人組とすれ違う。
手を繋いだ若い男女、多分恋人だろう。
「……いいなあ」
呟いた言葉にハッとなって首を振る。
内心で恋人を羨むのは健全な学生として偶にあるものの、こうして口に出すなど本当に自分らしく無い。
「もしかして、ちょっとナイーブになってるのか、俺」
──巽は今年から高校に上がったばかりの新入生。
つい一週間前ほど前に入学式を挙げて少しの高校生である。
成績は中の中。運動も中の中。
趣味は野鳥観察と読書。
容姿も取り立てて優れているわけではない平々凡々の男子高校生だ。
正に量産型の普通の学生であるが、唯一クラスメイトたちと異なる点を上げるとすれば、高校生に上がりたての巽は一人暮らしをしているという点だろう。
元々、巽は家族で東京に暮らしていた。
だが中学三年の受験生時代、バブルの崩壊がどうたらで父親の地方転勤が決まり、母と妹はそれに付き添う形で地方へと移り住んでいる。
自分も家族と共に付いていく、という選択肢はあった。
だが受験を控えている身で、東京は住み慣れた街だ。
忙しい時期に慣れない地方で受験勉強というのも大変だろうし、そもそも既に志望校だって決まっている。今更進路を変えるのだって難しい。
迷った結果、一人暮らしは不安だったが、巽は一人東京に残ることを選んだのだ。
「勉強、大変だったからな。高校入って安心して……今になって、ようやく寂しさを実感したのかな」
合格発表は二月の終わり、そこから終業式、春休みと経て先週に入学式。
時間はかなり開いているが、高校の制服に袖を通したことでようやくホッと一息、安堵できたからかもしれない。自覚はなかったが、此処までずっと緊張していたのかもしれない。
例年、見慣れた新宿御苑の桜。巽にとっての「日常」に触れたことで今までの「非日常」の終わりを自覚し、肩の力が抜けたのか。
辺りを見渡す。何人もの人、何人もの家族、何人もの誰か。
──見ず知らずの多くはみんな笑顔に溢れていた。
「…………」
初めての受験勉強、家族と離れた慣れない一人暮らし、着なれない制服。
終わりの遠い、冬の季節。
……今、自分は着なれた私服着て、見慣れた景色を歩き、いつも通りの道を歩いている。
知らず、口元に微笑が宿る。
ああ。俺はやっと、日常に戻ってきたんだ──。
「……よし」
歩き出す。カメラを構える。
ぱしゃり、ぱしゃり、ぱしゃり──。
聳え立つ桜の木、舞い散る花吹雪。
桜色にアクセントを加える季節の花々に、心安らぐ新緑の葉。
チチチ、と木々の狭間から聞こえる鳥の声。
エリアごと、テーマごとに区分けされ庭園は日本庭園風のものから西洋庭園風、さらには原初の自然を保ったままの鬱蒼とした自然そのままの景色など、少し足を運ぶだけで顔を変えていく。
不思議な調和を保つ自然の中には、かつて天皇や皇族の休憩所であったという十九世紀アメリカで流行ったらしい洋館が静かに佇んでおり、自然とは異なる人の歴史を思わせる雰囲気を放っている。
改めて思う。いつ来ても不思議な光景だなと。
だって、木々の向こうを一歩見れば幾十年を数える並木なんか及びもつかない人口建造物のビル群が広がっている。耳を澄ませば草木の揺れる音に紛れて、絶え間ない車の走る音。遠くからはガタゴトとビル群を縫うように造られた線路を電車が走る音が聞こえてくるのだ。
時たま、クラクションだったり救急車の音だったり……正に大都会斯くあるべしという喧噪。
だというのに。人の高さに視線を合わせば、目の前に広がるのは古き良き自然の原風景。木陰からは小川のせせらぎが聞こえてくるし、鬱蒼と樹木の根元にはトカゲが走ってる。歩道の脇に植えられた花々には蝶が静かに舞っており、奥まった藪の影には獣の足跡さえ見られる。
草木に紛れて歩道の脇にある看板に曰く、たぬきの足跡らしい。
……一周。森を抜けた向こうにまた桜がある。
発展していく大都会の横に佇む、風光明媚。
まるで此処だけが時間からも空間からも切り離された一つの世界みたいだ。
だから、だろうか──。
「あ────」
風が吹く、木霊する自然の音色、舞い散る花吹雪。
その中であまりにも美しい、幻想を視た。
「“さくら さくら”」
その響きは、いつか何処かで聞いた歌だった。
「“彌生の空は”」
ただニュアンスに聞き馴染みが無い。
多分、童謡。それは間違いない。
聞く者に安らぐような安心感を与える独特の歌唱。
「“見渡みわたすかぎり”」
でも違う。何が違う。
きっと歌詞だ。歌詞が違う。自分の知るそれと。
……そういえば何かの本で読んだことがある。
昔は少し違う歌詞で、今に伝わる童謡は近代に入ってから子供向けに少しだけ歌詞を変えているのだと。
「“霞か雲か”」
少しだけ違う、歌詞。
今よりずっと昔に謡われた、日本古謡。
桜吹雪のただ中で、彼女は舞い踊る様に謡っていた。
「“においぞいずる”」
背丈は巽より頭一つ分小さい。
黒い髪、白い肌。飾り気のない、日本人らしい日本人。
セミロングに垣間見る横顔は端正な顔立ち。
大和撫子、なんて言葉が似合うほどの奥ゆかしい美人であった。
静かな出で立ち。
だが少しだけあどけなく見えるのは、多分まだ若いから。
一つ上か、一つ下、或いは同い年。
巽とはそれほど年齢は離れていない筈だ。
「“いざや いざや”」
花吹雪に翻る白いワンピース。
花より映える、美しき容貌の美少女。
しかし、巽が魅入られたのはその姿ではなく──。
「“見にゆかむ”」
──錯覚か、幻覚か、或いは幻想か。
瞳。櫻の木を見上げ、静かに謡う少女の瞳。
玻璃色に輝く、その、どんな宝石よりも美しい少女の瞳が、どうしようもなく巽の目を引き付けるのだ──。
──ぱしゃり。
……花弁が舞う。一瞬の喪失。
気づけば、少女の瞳は日本人らしい黒い普通の瞳に戻っている。
「──あ」
いや、いや。そうではない。
目が合った。
一眼レフから顔を上げた直後、不思議そうにこちらを眺める少女と目が合った。
それでようやく、自分が何をしたのか気づいた。
呆然とする。その間にもひたひたと少女が歩み寄る。
一直線に、周囲を歩く人々を横に抜けて。
少女は歩いてくる。
一体誰に? 決まっている、少女の目線の先にいるのはただ一人。
「今──私のことを撮りました?」
一瞬──何を言われたのか理解が出来なかった。
信じられない。状況が理解できない。
誰が、何を、少女を、誰が、撮った──俺が?
ハッとする。呆然が焦燥に変わる。
馬鹿になっていた頭が、ようやく正常に機能する。
そうだ俺は──彼女があんまりにも綺麗だったから、俺は──。
その
取って──
何をした? 俺は何をした?
決まっている、撮ったんだ。誰を? 彼女を。
これはつまり、アレだ……良くないことだ。
というか──これは…………
「あ……いや、その……!?」
理解する。ようやく理解する。
──なんて愚かな、來野巽!
──見ず知らずの少女を、誰とも知らぬ少女を!
──勝手に、許可なく、カメラを向けて──!
「えっと……いや、これは……!?」
先ずは何だ。どうすればいい。
決まっている、謝罪だ。謝るんだ。少女に。
弁明、いや、弁護? どっちでもいい。
最初に、誤って、誠実に、祖父の言葉を。
ちゃんと、見て、ちゃんと、自分の言葉で。
「あ……あ………」
「あ?」
こてん、と少女が首を傾げる。
可愛らしい、その態度に、罪悪感が積みあがる。
可憐な少女。美しい少女。
彼女に來野巽は魅入られて、それで、それで──。
「あ、あんまりにも綺麗だったから、つい撮っちゃって……! その、ごめんッ!」
ブン、と音が出そうな勢いで頭を下げる。
完璧な四十五度の謝罪。
…………ん? 今自分は、余計なことを言わなかったか?
「えっと──」
頭を下げる巽に、少女は酷く困ったような笑みを浮かべて……。
「あの、これはナンパという奴なのでしょうか?」
「は────」
ナンパ? ナンパとはなんだ。何処の言語だ。
いや違う、聞いたことがある。
何処で、クラスで、クラスメイトが。
一体どういう意味だった。
確か、綺麗どころに男が話しかけて、男女仲を深める奴だったか。
理解が及んでバッと巽は顔を上げる。
それは、それはきっと、誤解という奴だ!
「いや違う、違うんだ。別に俺は君をナンパしたかったわけじゃなく、ただ桜の中に立つ君があんまりにも綺麗で、絵になってたから、それを残そうとカメラで──!」
「……ふむう? つまり、盗撮?」
「盗ッ──!? い、いや、違う! それは違う! 結果的にそうなってしまったのは謝る! だけど俺は下心とかそういうんじゃなくて、俺は──ただ俺は──!」
脳裏に好きだった祖父の横顔が過る。
透徹した、瞳。澄んだ、眼差し。
──誠実に。悪いことを、良くないことをしたならば。
せめて誠実に謝らないと──。
「俺は──ごめん、俺は君に魅入られて……君に、見惚れてしまったんだッ!」
声を大きく、ちゃんと謝る。
……沈黙。静寂。
「えっと……つまり……これは……」
困惑はいっそ深かった。
気づけば、周囲の喧噪すら止んでいる。
「一目惚れの告白……という奴なのでしょうか?」
「え」
顔を上げる。そして気づく。
少女が……道行く男性が、隣を過ぎようとした女性が、近くで聞いてた老夫婦が、家族団欒で桜を見ていた親子が、みんなが來野巽の方を眺めているという事実に。
周囲の注目、その理由。
一瞬の忘我の後、自分が何を言ったのか理解する。
二度目の失言──どころではない。自分は今、初対面の少女に、とんでもないことを言ってしまった──!
「や──! あれ、ちが、これ、そ、あ──!」
もはや口に出る声は言語の体を成していない。
テンパりにテンパりを重ねる巽。
あわあわと忙しく動く手。
これ以上とない、パニックを絵に描いたような少年の姿。
正直、もうどうしていいか分からなかった。
──と。
「ふ、ふふ……」
不意に、蕾が花開くように。
「ふふ、ふふふふっ──!」
鮮やかに響く、笑い声──。
「ねぇ──着いて来てっ!」
「あ──!」
ふわりと少女が笑う。満開の花のように。
そうして不意に巽の腕を掴む。
拒絶する反応なんて追いつかない。
言われるがまま、されるがまま、小走りに行く少女に引かれる。
──気づいた時には、人気のない。
足元に小川が流れる森の中にいた。
「此処なら周りの目はないわね──ねぇ貴方。名前は?」
「え、えっと……巽、來野巽」
「タツミ、巽──そう。うん、覚えたわ」
意図を理解しないまま、巽は答える。
名乗った名前を少女は復唱し、納得して頷く。
「公然とあんな堂々と告白してくるなんて、貴方、面白い人ね、巽」
「い、いや、誤解なんだ! アレはただ謝ろうとして……!」
「──パニックになったと、見れば分かったわ。凄い可愛かったし」
「はッ──!? 可愛ッ──!?」
「ふふ、そうそう、そんな感じの反応よ」
思わぬ評価を聞いて、巽の顔が赤く染まる。
可愛い。可愛いと来た。
大の男が、同い年ぐらいの女子に可愛い、なんて。
羞恥とショックでどうにかなりそうだった。
「赤くなったり、蒼くなったり、忙しいのね」
「……一体誰のせいなんだよ」
「あら? 自業自得じゃなくて?」
「返す言葉もございません……」
正に少女の言う通りだった。
元はと言えば巽が勝手に少女を撮影したことに端を発する一人芝居。
少女を責める資格も理由も、何一つ正当なものが巽にはなかった。
「ふふっ、物分かりが良くてよろしい」
満足したように頷く少女。
本当に……悔しいぐらいに綺麗な人だった。
「面白い、面白いから──友達から始めましょうか、巽」
「え?」
意図が分からず、問い返す。
鳩が豆鉄砲を受けたような、間抜けな顔。
それにまた少女はクスクスと笑った後。
「さっきの素敵な告白の返事よ。一目惚れしたんでしょう? 私に」
「あ、いや、それは──」
「違うの? やっぱり、ただの盗撮魔さんなのかしら? なら警察に行かないと」
「それも違う! 決して、断じて、違う! 確かに俺は君を勝手に撮ってしまったけど! アレはただ──」
「ただ──?」
「ただ──……見惚れてたのかもしれません」
「あはははははは!」
しゅんとなって返事する巽。
あの時抱いた感情と状況……よくよく考えれば反論の言葉が見つからなかった。
正直な返答に少女は大笑する。
人目もはばからず笑う癖に、上品さが崩れていない。
「やっぱり、面白い人──それじゃあ、分かったわ。巽、貴方、私の友達になってよ。今回の件はそれでチャラにしてあげる」
「えっと──その、良いのか?」
「ええ……実のところ、私、そんなに怒っていないし。貴方の間抜けな顔を見れば、貴方が下心で撮影したわけじゃないのは十分に分かったもの」
「間抜け……」
「ふふ、だから──」
少女が右手を差し出す。
「仲直りと──友好の、握手。どう? これで許してあげるけど? 嫌?」
「……嫌、じゃない……分かったよ」
──來野巽は平々凡々な高校生だ。
大した取り柄はなく、大した特徴はなく。
普通の日常を、普通に過ごして、普通にやってきた。
けれど──今日、この日。
巽は目を奪われるような、美しい少女に出会った。
嗚呼──それはなんて。
「──俺、俺の名前は來野巽。今年高校に入学したばかりの普通の学生だよ。その、よろしく」
「よろしくね、巽! ──ああ、そういえばまだ名乗っていなかったわね」
また、風が吹いた。
真正面から少女を見る。
その顔──その、瞳が、一瞬だけ揺らいだ気がした。
「私は、
舞い散る時間の中に、止まったような在り方をした少女がいた。
瞬きほどに過ぎない刹那の幻想。
されど、その姿はきっと、一生を経ても忘れられないだろう。
その日、少年は──運命に出会ったのだ。