スキルを自作できるようになった俺、好奇心で世界をリセットし続けたら人類悪になっていた 作:パラレル・ゲーマー
世界は、驚くほど静かだった。
『転生林檎(緑)』が一部の富裕層――『金色の奴隷』たちによって独占されてから半年。かつて世界を焼き尽くした暴力的な混沌の炎は、完全に鎮火されていた。後に残されたのは、燃え尽きた荒野に薄っすらと降り積もる、冷たい灰のような諦観だけだった。
99.9%の持たざる者たちは、もう怒りさえも忘れていた。
楽園は存在する。だが、それは自分たちのためのものではない。それは、生まれた時から手の届かない、ショーウィンドウの向こう側の物語。ただ、それだけのこと。
彼らは、日々の退屈な、しかし安定した労働にその身を埋没させた。そして稼いだわずかな金で酒を飲み、ギャンブルに興じ、刹那的な娯楽にその空虚な心を浸した。テレビをつければ、今日もどこかの億万長者が何百億円で緑の林檎の欠片を落札したという、自分たちとは無関係のおとぎ話が流れている。人々は、それに何の感情も抱かなくなっていた。
そして、そのおとぎ話の主役である金色の奴隷たち。彼らもまた、別の種類の地獄の中にいた。
シリコンバレーの若き帝王、ジュリアン・ソーンは、今や世界最大の「林檎中毒者」となっていた。彼は、自らが設立した『プロジェクト・エデン』に天文学的な私財を投入し、GADO(全世界リンゴ流通機構)を事実上、私物化していた。彼のおかげで、転生林檎の収穫率はわずかながら向上した。そして、その貴重な果実のほとんど全てが、彼の胃袋へと消えていった。
彼は、一日のほとんどの時間を「夢」の中で過ごした。
ある日は、ネパールの貧しい羊飼いとして家族の愛に涙した。
またある日は、古代ローマの剣闘士としてコロッセオの喝采を浴びた。
またある日は、宇宙船の船長として未知の銀河を探検した。
だが、どんなに素晴らしい夢を見ても、必ず覚める時が来る。
そして彼が目覚めるたびに、現実のマンハッタンのペントハウスは、より一層冷たく、そして空虚に感じられた。
彼はもはや、現実の世界に何の興味も持てなくなっていた。仕事も、女も、金も、全てが色褪せて見えた。彼の魂は、完全に偽りの人生の虜となっていた。
世界は、停滞していた。
支配する者も、される者も、共に緩やかな精神の死へと向かっている。
それは、あまりにも静かで、あまりにも退屈な地獄だった。
そして、その退屈を何よりも憎む神が沈黙を破るのに、それ以上の理由は必要なかった。
その日、世界中の全てのスクリーンが、再びあの道化師のアバターにジャックされた。
人々の心に最初に浮かんだのは、怒りでも恐怖でもなく、「ああ、またか」といううんざりとした感情だった。
『――やあ! 邪神君の放送、開始だよー! いえーい! みんな、テンション上げていこうぜ!』
そのあまりにも場違いな明るい声が、静まり返った世界に響き渡る。
SNSのコメント欄が、ゆっくりと動き始めた。その流れは、以前のような熱狂的なものではなく、どこか白々としたものだった。
『……うわ。出たよ……』
『今度はなんだよ……』
『もう、ほっといてくれ……』
『えっ? なにそのテンションのだだ下がりっぷりは! ひどいなあ! 僕がわざわざ、君たちの退屈な日常を彩ってあげようと、こうして舞い戻ってきてあげたっていうのにさあ!』
邪神は画面の向こうで、心底傷ついたような素振りを見せた。
『うん、まあごめんね。ちょっと反省はしてる。いやー、あの緑の林檎。あんなに君たちが夢中になって現実を放り出しちゃうとは、正直思ってなくてさあ。今の君たち、目が死んでるっていうかさ。生きてるのか死んでるのか、よく分からないゾンビみたいだよ? あれは、ちょっとやりすぎたかなーって。……うん、ごめんごめん』
『今日はこの沈みきった君たち、特に緑の林檎に飽き飽きしてる金色の奴隷の君たちのために、とっておきの新商品を用意したんだ!』
『今の転生林檎が気に入ってくれてるなら、次の転生林檎も絶対に気に入ってくれると思うなー! というわけで、今回僕が世界の理に追加で書き加えたのは、これ!』
『ジャジャーン! 透き通るような、青の転生林檎でーす!』
画面に、CGで作られた美しい青い林檎が、きらきらと回転しながら映し出される。
『今回の転生林檎は、一味違うよー! なんとこれを一口かじれば! 君たちが今まで、この魂に刻み込んできた全ての転生した人生を、再び歩み直していくことが出来るんだ!』
過去の転生。
その言葉の意味を、人々はまだ理解できずにいた。
『おっと、その前に転生の仕組みをちゃんと説明しておかないといけないね!』
邪神は、楽しそうに指を一本立てた。
『いいかい? 君たちが「時間」って呼んでるもの。あれは、いわば巨大な蛇なんだ。お腹を空かせたウロボロスの蛇が、自分の尻尾を食べようとしてぐるぐるとぐろを巻いている、そんなイメージだね』
『そして君たち蟻んこみたいなちっぽけな人間は、その蛇のお腹の上を、尻尾の先から頭の先まで一列になって、ただひたすらに歩かされているだけ。だから君たちに取って、時間は過去から未来への一方通行にしか感じられないだろ?』
『でも、本当は違うんだなー、これが。実際はもっとこう、タイミーワイミーなんだよ!』
タイミーワイミー。
その意味不明な言葉。
『えっ? 意味が分からない? うーん、時間の概念って君たち三次元の脳みそには難しいかなあ。ようはさ。蛇は、時々寝返りをうつんだよ。頭と尻尾がくっついたり、胴体の真ん中あたりがぐにゃーって捻れたり。ようは、グチャグチャなんだ!』
『ああもう! 説明がだるいから、省略するね!』
邪神は、面倒くさそうに頭を掻いた。
『ようは! 君たちが考えているような綺麗な順番通りに、魂が生まれ変わってるわけじゃないってこと! 転生ってのは、ランダムな時間軸の上で起きているんだ!』
『つまり! 今生の君の次の人生が、古代エジプトの奴隷だったり! あるいは、君の最初の前世が、31世紀の火星コロニーのパイロットだったり! ってことも、全然あり得るってこと! 面白いだろ!?』
その、あまりにも常識を逸脱した宇宙の真実。
人々は、もはや思考を放棄していた。
『そしてなんと! この青い転生林檎は、それを一口口にした瞬間、そのランダムな全ての過去生の記憶が、君の脳内に一気に流れ込んでくるんだ!』
『つまり! 林檎を食べまくれば、いつか「当たり」が引けるってこと! 自分が過去生でクレオパトラだったり、織田信長だったり、あるいは名もなき英雄だった、その輝かしい記憶を引き当てることができるかもしれないんだ!』
『どうだい? 緑の林檎の偽物の人生とは、訳が違うだろ? これは正真正銘、君自身の魂の歴史なんだからさ!』
『この青い転生林檎は赤い林檎を食べた瞬間にランダムで口の中で変換されるよ!』
『さあ、みんなでリンゴガチャして、SSRの過去生を引き当ててみよう! ってこと!』
『じゃ、伝えたいことは伝えたし、バイバーイ!』
その声と共に、放送は終わった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、そして全世界の人々の心に新たに植え付けられた、一つのあまりにも根源的で、あまりにも危険な問いだけだった。
「――本当の自分は、一体誰なんだ?」
邪神のあの悪戯に満ちた放送の後、世界は新たな「ガチャ」の熱狂に包まれた。
最初の青い林檎は、世界中のメディアが血眼になってその行方を追う中、日本のどこにでもいるような、一人の中年サラリーマンの手によってもたらされた。
男の名は、鈴木健太。45歳。中小企業の課長代理。
彼の人生は、灰色の連続だった。満員電車に揺られ、理不尽な上司に頭を下げ、減っていく預金残高と増えていく体重にため息をつく毎日。失われた楽園の記憶が、その退屈な日常をさらに色褪せたものにしていた。
この灰色の人生から、ほんの少しでも逃れられるのなら。
彼は、その林檎を口にした。
そして、彼の魂は覚醒した。
彼が見たのは、無数の惨めな過去生ではなかった。
彼が見たのは、ただ一つ。
あまりにも鮮烈で、あまりにも輝かしい、たった一つの栄光の記憶だった。
彼は、ヴァイキングだった。
名はビョルン。「鋼の腕」と呼ばれた、伝説の船長。
肌を刺す北の海の冷たい潮風。荒れ狂う波間を突き進む竜の船首。背後で雄叫びを上げる、屈強な仲間たちの熱気。
彼は、未知の大陸の岸辺に初めてその斧を突き立てた。彼は、敵対する部族の王と一対一の決闘を演じ、その心臓を奪った。彼は、仲間たちと酒を酌み交わし、歌い、そして美しい女の胸で眠った。
彼の人生は、常に死と隣り合わせだった。だがそこには、現代の灰色の日常には決してない、燃えるような生命の実感があった。
彼は英雄だった。彼は自由だった。彼は、生きていた。
そして、夢から覚めた時。
鈴木健太は、自らの狭いマンションのリビングで、一人号泣していた。
目の前には、安物のスーツと飲みかけの缶コーヒー。そして、作りかけのエクセルの売上報告書。
彼の脳裏に焼き付いて離れない、北の海の広大な水平線との、あまりにも残酷なギャップ。
「…………違う……」
彼は、震える声で呟いた。
「俺は……。俺は、こんなちっぽけな男じゃない……。俺はビョルンだ……。『鋼の腕』のビョルンなんだ……!」
彼は、自らのたるんだ腹と細い腕を見下ろした。
違う。これは、俺の体じゃない。
これは、俺の人生じゃない。
彼の心に、一つの狂おしいほどの渇望が生まれた。
「――もう一度!」
「もう一度だけ、あの人生に戻りたい!」
その魂の叫びは、鈴木健太一人のものではなかった。
青い林檎を口にした全ての人間が、同じ呪いにかかった。
誰もが英雄だった。誰もが王だった。誰もが天才だった。
ニューヨークのホットドッグ売りの屋台の主人は、自らが古代エジプトの偉大な書記官であったことを思い出した。
パリのしがないアパレルの店員は、自らがフランス革命を導いた美しき女闘士であったことを思い出した。
北京の交通整理の警察官は、自らが三国時代の一騎当千の猛将であったことを思い出した。
誰もが、自らの灰色の現在を呪い、そして金色の過去の栄光に焦がれた。
世界は、狂った。
それはもはや、静かな停滞ではなかった。
それは、「俺は本当はすごいんだ」症状の、全世界的なパンデミックだった。
『大退職時代』が、再び訪れた。
だがそれは、以前のような無気力なものではない。
「なぜ、かつてローマ帝国を統治したこの私が、ハンバーガーを焼かなければならないのだ?」
「かつて千の詩を詠んだこの私が、なぜデータの入力をしなければならない?」
人々は、プライドが許さなかった。今のちっぽけな仕事を続けることが、自らの輝かしい魂の歴史を汚す、最大の屈辱だと感じた。
彼らは、次々と職場を放棄した。
そして彼らは、自らの栄光を取り戻すための、滑稽で、そして悲劇的な「ごっこ遊び」を始めた。
東京、日比谷公園。
そこには毎週末、何百人という「元・武士」たちが集結した。彼らは木刀や傘を刀に見立て、自らの過去生での流派を名乗り、そして決闘を繰り広げた。
「我こそは、新陰流、柳生石舟斎!」
「笑止! 我が天然理心流の前に、ひれ伏すがいい!」
彼らは、本気だった。その瞳は、狂信的な熱に満ちていた。
ニューヨーク、ウォール街。
そこには「元・アトランティスの賢者」を名乗る者たちが集まり、独自の経済理論を展開し、市場を大混乱に陥れた。
彼らの主張は、支離滅裂だった。だが、そのあまりにも自信に満ちた物言いは、多くの人々を惹きつけた。
人間関係は、崩壊した。
「すまない、ハニー。僕の魂は、君を覚えていない。僕の魂が求めるのは、ジャンヌ・ダルクと共に戦った、あの聖処女だけなのだ」
夫はそう言って、妻と子供を捨てフランスへと旅立った。
価値観は、転覆した。
現代での成功など、もはや何の意味も持たなかった。
ノーベル賞を受賞した科学者よりも、過去生で「火」を発見したというホームレスの方が、尊敬を集める。
そんな倒錯した世界が、生まれた。
IAROも、黒田も、もはや無力だった。
どうやって、取り締まれと言うのだ。
「あなたは本当はヴァイキングではありません。ただの鈴木健太です」と説得して、何になる?
それは、もはや犯罪ではなかった。
それは、時代の病だった。
そして、そのあまりにも滑稽で、あまりにも人間的な巨大な茶番劇を。
空木零は、自室のモニターで腹を抱えて笑っていた。
彼の目の前には、お気に入りの激辛カップ焼きそば。その湯気で曇るモニターの向こう側で、人間たちが最高のエンターテインメントを演じてくれていた。
「はは……ははははは! 素晴らしい! これだよ、これ!」
彼は、涙を拭いながら呟いた。
「絶望に沈む人間も良いけれど! 栄光の記憶に溺れて、滑稽な王様ごっこを始める人間は、もっと、もっと最高だ!」
彼は、知っていた。
この狂騒も、長くは続かないことを。
やがて人々は、気づくだろう。
いくら叫んでも、いくら演じても、自分たちがもはやかつての英雄ではないという、残酷な現実に。
そしてその時訪れる、本当の虚無と絶望。
それこそが、この悪趣味な喜劇の、本当の幕引きなのだ。
彼は、モニターに映る木刀を振り回す「元・ヴァイキング」、鈴木健太の、その狂気に満ちた、しかしどこか悲しげな瞳を大写しにした。
「うんうん。良い顔を、するじゃないか」
「さあ、存分に踊るがいいさ、かつての英雄たち」
「君たちのその滑稽で惨めなダンスを、僕が最後の最後まで、特等席で見ていてあげるからねえ」
神は、笑う。
自らが与えた栄光という名の猛毒が、人間たちの魂を内側から完全に破壊し尽くす、その瞬間を心から待ち望みながら。
彼の退屈な日常は、今日もまた世界の新しい悲劇を糧として、静かに、そして永遠に続いていく。