青子が保健室のベッドから起き上がったのは、それから3時間後のことだった。
今まで泥のように眠っていたらしく、つい数分前に目を閉じたばかりな気がしてならない彼女の身体は、まだまだ睡眠を欲していることよく分かった。その声を無視して起き上がると、傍に山城が居ることに気がついた。
山城からつい先ほどまで鳶丸も青子の体調を案じ待機していたことを聞き、最近彼には借りばかり作ってしまっているため、本格的にお返しを思案しなければならないフェーズに入ってしまったかと頭が痛くなる。
普段、気さくな教師を演じながらも生徒とは一定の距離を保っている山城から、計3回は送迎の提案を貰った。これ以上断るのも気まずいので、最後に質問だけして早々に学校を立ち去ることにした。
狙われるのは私だけで良い。そう考えながら校門を出たものの、ソロモンの影も形も無い。いつもの寒い夜だった。
眠った分回復した体力を帰宅のために使うだけだ。ただ、脚の深刻なダメージは残ったままなので彼女の歩みはおぼつかなかった。毎日すたすたと歩くこの通学路も速さを抑えるだけで違う道に見えてしまうのだから面白い。
丘の上の屋敷にもだいぶ慣れたとは思っていたが、痛むこの脚で坂を上がった途端、それがうぬぼれであったことを自覚させた。三咲町は坂道が多い地域だしあまり目立たないのだろうが、それでも登っていく道中で既にこの町の全景を拝めてしまうこの坂はやはり異常なのだ。
それにしても学校の関係者に被害が出なくて幸いだった。山城曰くあの出来事は認知もされていないようだった。魔女様々である。正直なところ、青子ひとりで戦いに臨んでいたら、危なかったと思う。
敵を舐めていたわけではなく、ソロモンの大胆さに対応できず躊躇と感情の揺れを誘発されてしまったのだ。しかし、戦場をコントロールするのは年の功の成せる技で、場数が違うのだと思うことにした。
とはいえ、反省すべき点は見つかったのだから同じ失敗はしたくない。青子にとって感情の操作は難しい。むしろ向いてないとも言える。自分でさえ思い通りにいかないのだから。
魔法を使えるだけではきっと足りないのだ。一人前の魔法使いになるにはそれ以外の素養も身につけないといけないはずで。そんなことを考えているうちに久遠寺邸に着いた。通常よりも3倍の時間がかかってしまった。
門をくぐると、屋敷のリビングには明かりが付いていたので、導かれるように歩いた。
その灯りは青子を多少なりとも安堵させたようだ。
「ただいまー」
青子は普段と同じようにと意識しながら澄ました顔で帰宅した。
有珠と草十郎の2人はソファに深く座り、紅茶を嗜んでいた。この時間リビングで本を読んでいない有珠は珍しい。
「お帰りなさい。生徒会長は大変ね」
危険な状況にいたことは把握しているだろうに、素っ気ない言葉を投げかける有珠のブレなさに青子は何だか嬉しく思えた。
「ほんとに、まったくよ」
草十郎はすぐに青子に駆け寄ると、労いの言葉をかけた。
「お疲れさま。リハーサルってこんな時間までやるんだな」
労いというよりも同情の念が強い気がした。
「本番前の最後のリハーサルだから仕方ないわよ。あー疲れた」
先ほどまで草十郎が座っていた場所に、青子はどさっとソファに身を預けた。
「それにしても蒼崎が学校の行事でここまで疲弊しているのは初めて見たな。何だか安心したよ」
「なんでよ?」
「君も人間なんだなって」
「…………」
青子は、どついてやりたい欲望に駆られた。
どちらからともなく青子と有珠の目線が合う。有珠が目を閉じるとそれが合図となった。
「そうえいば今日職員室に行ったらさ、先生達が集まって期末試験の話をしてたのよ。そしたらさー、くくくっ」
青子は手で口を押さえ笑いを堪えている。
そんな彼女にすかさず有珠が反応する
「なによ、気になるわね」
念のため、有珠は普段そんなこと決して言わない。会話が盛り上がっていようが興味のある分野であろうが、基本夜はは本の虫になっている子なのだ。
青子は一瞬、草十郎をちらりと見てから、
「実はさあ、草十郎の期末試験の結果が悪すぎて先生みんなで頭を悩ましてたのよねー」
と嬉々と語る。
草十郎の顔は言わずもがなすぐに青ざめてしまった。
「それは教えて良かったの?」
「草十郎本人が一番良く分かってるんだし良いじゃない」
青子はあっけらかんともの申す。
「いや、そうだな。知らせてくれてありがとう。身が引き締まるよ。はははっ」
ぎこちのない感謝を述べる草十郎だが、明らかに無理しているようで、その証拠に渇いた小さな笑いが止まらない。
「草十郎君の学力は仕方ないことでしょう。勉強を必要とする環境にいなかったのだから。まだ小学生高学年か、せいぜい中学生の仲間入りといったレベルじゃない」
「有珠さ。それで彼をフォローしてるつもり?」
「なぜ? 私は少なくとも彼を庇っているつもりだけど」
青子も本音で話すタイプだが、これでも学校の生徒代表だ。場面場面での使い分けはできるし、ある種の度は超えないようこれでも調整しているつもりだ。しかし、有珠こそ本音しか言わない、いや言えないのだ。咀嚼など一切せず心と口が一体化したすなわち無自覚無意識殺戮マシーンなのである。
「いーえ、草十郎をご覧なさい。最近覚えた元素記号を暗唱し始めたわ。これは紛れもなく有珠のせいよ」
有珠はぎょっとした。
「ほ、本当だわ。しかも、水兵リーベ“俺”の船って言ってる。序盤から間違うなんて、あんまりよ……」
有珠は、本の中でしか見たことのない絶滅動物を目撃してしまったかのように絶句し、開いた口を手で覆った。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺って……そんなにまずいのか? まずいよな」
肩を落とし涙が止まらない草十郎。
今まさに危うい彼に、有珠は躊躇も無くとどめを刺すのではないかと青子はヒヤヒヤしてしまう。
「草十郎君はどうしたいの?」
「どう、したい? うーん。難しいな」
「そりゃ成績を上げたいんじゃないの」
「良い成績を上げたいとは思わなかったかな。多分だけど、目立ちたくない、が正確なのだと思う」
なるほどと2人は理解した。
「まあでもやることは一緒ね。…………と、言うわけで」
青子と有珠はおもむろに立ち上がると、草十郎を挟み囲んだ。
草十郎は良い予感がしなかった。
「こんなところでゆっくりしてる暇はないでしょ」
「まだここの片付け終わってないんだけど」
「私がやっておくわ。だから草十郎君は自室へ」
「そういうこと」
「いや、しかし」
「おやすみなさい」
有珠の一言は効果抜群だった。
「うん。それじゃあ、勉強するよ。おやすみ」
きっと自分が出ていくまで2人は引かないだろうから、ここは潔く従うしかないだろうと草十郎は諦めたのだ。彼だって出来ることなら勉強はしたくないし、苦手なのだ。
ドアが寂しくゆっくりと閉まった。
2人は何事も無かったかのようにソファに座り直す。
「ちょっとかわいそうだったかしら」
「あははっ、大丈夫よ。ああ見えてあいつも強くなってるんだから」
感情を一旦洗い流し、スイッチを切り替える。
今日の日常はこれで終わり。
リビングの空気が一気に変わった。
「まずはお疲れ様。とりあえず無事で良かったわ。それで、…………殺したの?」
有珠は、青子に一番気になっていることを単刀直入に聞いた。
「いーえ。残念だけど。一筋縄じゃいかなかったわ。プロイを使っても手強かったし、今回倒したのはあくまで使い魔か操り人形よ」
「何よそれ。まるであなたのお姉さんじゃない」
「どっちが質悪いのか判断するのは難しいわね。でも、しぶとさは姉の人形以上だったわ」
「相手は何者?」
「いかにも教会の神父みたいな格好をしていたわ。メレム・ソロモンって名乗ってたけど」
「……メレム、ソロモン……」
聞いた覚えがある気がして、けれど刻まれた記憶をいくら探ってもその名は取り出せそうにない。でも、どこかでーーーー。
「もしかして」
「いいえ、ごめんなさい。勘違いだと思う。話の続きをお願い」
今は少しでも奴の手がかりが欲しいところだが仕方ない。青子は話を続けることにした。
◇
「私のプロイがなかったら、あなた死んでたわよ」
青子の話を聞いている間、有珠は何回ぞっとしたことか分からなかった。
「やっぱり有珠もそう思う? 正直なところもう駄目かもって思った瞬間あったのよねー」
青子は渇いた笑いをするが、有珠は険しい表情をした。
「でもでも、プロイを発動させてからずっと気を保ってたのは、初めてにしては上出来じゃない?」
胸を張る青子。
「確かにそこは予想外だったわね。そ・こ・は・ね。今回は終始青子らしくないと思うけど、そのあたりどう考えているの?」
無事だったからといって、容赦はしない。相棒だからこそ許せない。有珠が魔女と呼ばれる由縁はこの厳しさからも来ているのかもしれないと青子は常々感じていた。
「序盤はいつも通りだったと思うわよ。けど、学校に風穴を開けられてからね。あれ以降は冷静な判断が出来てなかったと感じてる」
「そうね、私もそう考えるわ。けれど、学校が戦場になることはあらかじめ分かっていたことだし、だからこそ私も準備を手伝った。心の準備はできたはずよ。今回は単なるあなたの甘さじゃないの?」
「んー、それを言われると言い訳になってしまうんだけど、心づもりはしていたのよ。ただ、私の予想以上に相手を許せなくなってしまった。それ以上でもそれ以下でもないわね」
青子はあっけらかんとそんなことを、自己弁護するわけでもなく、本音だけを口にした。
「そう。予想外も本当なんでしょうね。いつものあなたなら冷静に対処できたはずだから。ロボットが現れた時点で選択肢を誤ってた気がするわ。ソロモンを追いかけるのが最善手だったと思うけれど」
新たな敵を前にして未知の猛攻撃を凌ぎながらあの場でその判断ができるのかと言えば、正直なところ並の魔術師には厳し過ぎる。だからこそ有珠は青子にそれを当然のものだとして求めるし、期待もしているのだ。
「現状、ソロモンの手がかりは無いに等しいのだから、取り逃がすと後で面倒なことになる。あとは、ソロモンにターゲットを絞ることでプロイで一網打尽にできた可能性までも潰した。最後に、ソロモンが不意打ちを考えていたとしたら、あなたはほぼ殺されていたわ。……まだ有るけどもう十分ね。所詮、結果論なのだし」
「でも反論はないわ。私も同感だもの。学校を破壊されるのが許せなかったのよ……。反省しているわ」
青子も有珠の想いは分かっているのだろう。有珠の厳しさを甘んじて受け入れている。
「青子をこれ以上攻めても面白くないから、今後の話をしましょうか。あの唯一のアテはどうなの?」
「情報は無いわね。渋っているわけではなくて、本当に知らないみたいだから」
「となると、次の行動を予測するしかないわけね」
「そうね。狙いは草十郎で間違いない。ただ不安なのは、私が魔女であることが最初から奴にバレていたことね。どこまで向こうがこっちの情報を持っているのか」
「青子の存在を知ってしまっている以上、情報を持っていなくてもこの場所にたどり着くのは時間の問題ね」
「なら、こっちから攻めてやりましょ」
精神も体も戦闘ですり減り、皮一本で繋がっている意識の中でも前向きな発言をしてしまうのは、青子の生まれ持っての熱と天性としか説明が付かないだろう。
「なら尚の事こちらが先に居場所を特定しないといけないわね。手がかりになりそうなことなら何でも良いから、ソロモンの情報をもう少し話してちょうだい」
青子は顎に手を添えながら真剣な顔をしてみた。
「えーと、そうね。プライドが高そう、偉そう、姑息、性格が悪い。ずばり老害よ!」
「…………なにそれ」
「今、自分で言ってて気がついたんだけどさ、そんなプライドの高いしかも高齢のおじいさんが日本に来て野宿なんてするかしら?」
有珠は頭を横に振った。
「さあ、どうかしら。日本にも教会の支部なんていくらでもあるだろうし。そこを根城にするんじゃないの?」
「少ししか言葉を交わしてないんだけど、そんな玉じゃないと思うのよ。人を小馬鹿にしているというか、孤高な自分が気持ち良いみたいに感じている残念な奴なのよ」
「大して話してないのに、何でそこまで分かるの?」
「最近まで普通の学生生活を送ってきた身としては、ああいう変わった人間は鼻につくというか考えていることが逆に分かるのよね。この世界は変人だらけでしょ。最初から異常者だと認識しておけば対応しやすいわけ。だからこの常人の感覚というものを大切にしているのよ」
「青子ならではの嗅覚というわけね」
そういうこと、と指を立てる青子に有珠は緊張の糸を少し緩ませた。
「じゃあ次の段階。私の予想なんだけど、彼はホテルに宿泊していると思う。しかも、高級な、ね。教会の用意した質素なベッドじゃ腰が痛くなるでしょ。あんなプライドの高いやつが生活レベルを落とすだなんて我慢できないはずだから」
青子は自分で言っていてソロモンをからかうのが面白くなってしまったようだ。
「楽しそうね。私としても反論は特にないわ。その筋で探っていきましょうか」
「あら、有珠にしては早い決断ね。珍しい」
青子の意見にはだいたい否定から始まるのでそれは事実だった。
「手がかりが無いのだし、現状はあなたの推論にすがるしかない。それだけよ」
ふん、と有珠は顔を背けた。
なんだろう。今日はやけに不機嫌に見える。おそらく、あんな強力なプロイを貸し与えたにも関わらず、進展は無いし何も解決していないのだから当然か、と青子の中で腑に落ちた。
【次回予告】
らしくない青子