夜も更け始め、町に濃淡の闇が広がる。
魔女が好む暗闇にはほど遠いが、ひとたび黒衣をまとえば途端に背景へと溶け込んでしまうくらいには暗く、そして音までもが闇に染まっていた。
この三咲町でおそらく最も有名な建物であろう丘の上の洋館。
昼間でさえ近づく者は滅多にいないその屋敷に、澄み渡る夜空の下を滑るようにして向かう者たちがいた。
言葉を交わすこともなく、その歩みに迷いもなし。
単にこれから成すべきこと、為すべきこと、生すべきことに思いを馳せているだけのこと。
街灯の数がまばらになるにつれ、坂道もより険しいものとなる。
丘のふもとにたどり着くと、すでにそこは軽く結界の中。
魔女の領域である。
「ここからは殺気を消してください、特に唯架さん」
「そんなことは百も承知です」
「そうですか、ならば結構です」
「姉さん、何をニヤついているのですか」
「べっつに~」
「おしゃべりはここまでにしましょう」
長いマントを揺らすこともなく、詠梨神父は先陣を切り、神秘の世界へと足を踏み入れた。
◇
紅茶を飲み終えた有珠は、明日から忙しくなるわと喚く青子とその飼い犬とも表現して差し支えのない草十郎を居間に置き去りにし、先に自室へと戻った。
本棚の前で立ち止まると、おもむろに書物を引き出す。
彼女は毎日べッドに入る前、必ずお気に入りの書物を机に座りながら読むのだ。
本を読み始めてどれくらいの時間が経ったか有珠は知らない。まぶたの重たさを感じ始めると、栞をふわりと落とすように挟み込み本を閉じた。
ライトスタンドの灯りを消し、冷え切ったベッドへと潜り込む。
まるで人形のように生気のない有珠の純粋な寝顔を見た者は、この世で未だたったの二人である。
そんな人形の目が突然開いたのは、ベッドに入ってからものの五分後のことであった。
(魔力感知の合図……まさか……)
◇
同時刻。
青子の部屋にはまだ明かりがついていた。
人を殺めることができそうな分厚い本が、机の上には何冊も積み重なっていて、ドアからでは彼女の顔は本に囲まれ拝むことはできない。
残された小さなスペースで、同じくらい分厚い魔術書を広げ、仰々しく頭を抱え込んでいた。
「情報はすべて揃ったはずなのに。あー、考えれば考えるだけ遠のいてる気がするのよね」
椅子の背もたれに身体を預ける。
その視線は天井に向くが、頭の中ではきっとはるか先を視ているのだろう。
意識を宙に手放していると、青子の魔術回路が開かれる感覚(錯覚)があった。
「これって有珠の……違う、結界か……ということは侵入者!?」
パジャマから普段着への着替えを1分以内で実行する彼女の早業も、もはや魔術の領域であった。
青子は部屋を出て足早に廊下を進む。
玄関前ではすでに有珠が正装した姿で待っていた。
◇
「おふたりとも、結界の影響は出ていますか?」
「特に何ともないですよー」
「私も特には。詠梨神父は大丈夫なんですか?」
「大したことはないのですが、私の四肢が刻々と重たくなっている気がしましてね。あと、おふたりの姿が先ほどからウサギに見えているのが気になるくらいでしょうか」
「はい? ウサギ、ですか?」
「ええ、二足歩行の白いウサギに」
「私自身は認識できないので、おそらく」
「えー私、ウサちゃんじゃなくてカエルが良かったのにー」
「姉さんは黙っててください。おそらく久遠寺のプロイキッシャーの影響だと思います。私たちは魔術抵抗の法衣を来ているので影響が出ていないのでしょう。困りました。裏をかくのは結構ですが、奇襲決行による準備不足は否めませんね。どうにかして解除しないと」
「仕方ありません。まあ、あまり支障はないのですがね。気にはなるといった程度です。ただ、例えばですけど、周囲の魔術の痕跡を感知することは可能ですか?」
「できますよー!」
「そうですね。御法度な姉さんなら可能かと」
「では律架さん、お願いできますか?」
「はいはい。でも詠梨神父。たくさんありますよ」
「場所さえ分かれば問題ありません」
さすがですと意気揚々に、律架が歩きながら辺りの茂みを指さしていく。
すると、擦れた音が聞こえてきた。
彼女が何かを指先で指し示していくたびに、詠梨神父のマントがわずかに揺れるのである。
事象としてはただそれだけだった。
◇
「裏をかかれたわね」
「まさか今夜来なさるとは予想つかないわ。有珠、加勢してくれるのね」
「ここは私の家(領域)よ。ここが戦場となるなら、出ないわけにはいかないから」
「あたしだけじゃ辛いから助かるわ」
「むしろ青子には可能な限り魔力を使わないでほしいのよ。壊れるから」
「ぐっ、否定はできない」
有珠は玄関の扉をゆっくりと開ける。
耳が痛くなるほどの静寂。
とても今から戦いが始まろうなど誰も思うまい。そんなことは微塵も感じさせない程の夜の静寂は逆に不自然だ。
門には向かわず、森の中へと入っていく。
枯れ木が多く、月明かりでも十分周りは見通せる。
青子の目にはいつもの毅然とした態度の有珠が映っていた。
しかし、彼女の内心は実はそれではなかった。
突然の襲来により、有珠も青子も準備不足は否めない。
プロイキッシャーを行使できても、それは一部のみ。
あらかじめ触媒を新調する必要もあれば、構築するうえでの材料の調達、もしくは単に充電に時間がかかるものも中にはあるのだ。
故に手持ちのカードすべてを投入できるわけではない。
そこに一抹の不安が彼女にはあった。
ただし、戦いの場が結界の強い洋館の近くであるならば話は別である。
また、文明の行き届いた場所よりもこうした自然の中の方が有珠の童話力は強まるのだから。
有珠が立ち止まる。
「近い?」
「ええ。ここで迎え撃つわ」
「初撃はどうする?」
「グレートスリーを出すわ」
「まさか、あれを? ……味方になるとほんと頼もしいわね」
青子の苦い記憶が蘇ると同時に、霧が周囲から発生し、有珠の周りを囲むように漂い始める。まるで生き物のように霧が揺れていた。
「青子は双子を。私は詠梨神父の相手をするわ」
まあ、そうなるわよね、と青子。
「詠梨は有珠でも手強いわよ」
「青子は手の打ちが読まれていそうだから仕方ないわ。だって、兄弟子なんでしょう?」
「兄弟子は語弊よ。あいつ魔法はまったくだもん。知識だけは無駄にあるけど。本当の実力も未知数。ただひとつだけ言えることは、剣技だけは一流よ」
「そう。なおさら私のほうが相性は良さそうね」
「ただし、あいつには近寄らないこと。頼んだわ」
もう後れは取らないと、二人は待ち構えるわけでもなく、突っ込んでいった。いざ戦いとなれば、超好戦的な面が現れることについては、珍しく似ている部分もあるのである。
詠梨たちも二人の存在に気が付き、立ち止まる。
「こんばんは。こんな真夜中にどうしましたか?」
「それはこっちのセリフでしょう。暗闇に紛れて土足で来るなんて、いかにも教会の人間って感じよね」
「おやおや。レディーが揃って夜更かしなんていけません。久遠寺嬢はあの時以来ですか。その後、お身体の体調は?」
「おかげさまで。あの時はどうも。あれを最後にしたかったのだけれど。とても残念だわ」
「ふふっ、ずいぶんと嫌われたもんです。相容れぬ存在なのは世界共通のようですね」
「楽しく会話をしに来たわけじゃあないんでしょう?」
青子が身構える。
「ええ。事を起こすなら早計にと思いまして。そちらのご準備は?」
「準備不足は否めないわね」
詠梨神父は目を細めて笑う。
「結構です」
彼の身に付けているマントの中から細くしなやかな腕が飛び出すと、それに付随して銀色の線のようなものを視認した青子と有珠は、瞬時に次に取るべき行動を判断する。
有珠にまとっていた霧が一瞬にして詠梨との間に立ち込めると、彼から飛んできた衝撃を吸収するかのように相殺した。
青子の魔術回路は既に開かれ回転を始めた。有珠の霧の動きから遅れることコンマ5秒。青子から放たれた魔弾は一旦上空へ浮いた後、3方向へと分かれた。
詠梨、そして彼の背後から左右に飛び出してきた律架と唯架にも魔弾が襲う。
詠梨は魔弾を真っ二つにする。その姿勢は微動だにしない。
双子は避けることもせず、青子たちへと突っ込んでいく。まるで魔弾が見えていないかのように。
魔弾が着弾すると衝撃音と共に青白く閃光が走った。しかし、その光の中から双子が無傷の状態で現れた。
青子はそれに動揺することもせず、双子がかけている黒衣のマントが怪しいと睨む。詠梨の周りを有珠の霧が囲んだのを確認すると、青子も勢い良く双子へと距離を詰めた。
「練習台になってもらうわ」
青子の魔術回路がさらに加速する。