ギルドの紙粉の匂いがまだ袖に残っているうちに、ぼくらは柱脚の市へ向かった。
“拡張”された市民権の緑色の点滅[※1]が、改札の端末で一度だけ柔らかくなって、通路が「こちら側」になる。レンは帳簿を持ったまま歩き、ぼくとミナとコトは、その後ろを少しだけ早足で追う。
「——で、記念」ミナが言い出す。目はもう屋台の布地へ吸い寄せられている。
「なにの記念」レン。
「初仕事」ぼく。割り込むのが早いのは良くないけれど、言葉は逃がすと戻ってこない。
「私は部品」コトは油の匂いがする指先で自分を指す。「小物でいい。スナップ端子、熱収縮、ミニベアリング。耳(EARS)の遅延を“気持ちよく”したい」
「私は布」ミナは言い切る。「ベッドの天板、可愛くない。柔らかい布、できれば可愛い色。可愛いは強さ」
レンは半歩だけ黙って、ぼくを見る。「ハルは?」
「本」ぼくは言ってから、少し照れる。「紙がいい。雑誌でも、古い整備マニュアルでも。文字が、欲しい」
「文字は食えないぞ」
「わかってる。でも食べられる気持ちになる」
レンは笑いそうになって、やめた。代わりに帳簿の端を折る。「ルール。今日の“贅沢”は一人一点。金額は——」
「上限、出す?」コトが顔をしかめる。
「出す。上限は水カートリッジ一個ぶん。残りは弾と電池に回す。いいな、ガレキ」
「いい」三人で重なった。
柱脚市(ピラー・マーケット)は、吊り棚と配管と屋台の合奏だ。上には配水ライン、下にはワゴン。布の屋台、部品屋、中古紙屋。匂いは乾燥海藻と油とインク。
最初にコトが弾かれたように部品屋へ向かう。
「スナップ端子、二号。逆刺し防止の“出っ張り”が優しいやつ」
「優しい?」店主の女が首を傾げる。
「夜中でも間違えにくい、って意味」
レンが横から値段を聞く。店主は数字を出し、レンは眉を上げ、コトは店主と目で笑う。
「これ、ミニベアリング——“芽ベアリング”に似てる。混ぜて使うと面白い音がする」コトは自分にだけ通じる比喩で楽しそうだ。
「音は計測に入らない」レン。
「でも強い」コトは反射の速さで返し、端子と熱収縮とフラックスの小瓶を会計箱に並べる。上限の三分の二。ちゃんと残す。えらい。
次にミナが布の屋台に吸い寄せられる。反物が風でゆらぐ。
「この色、いい」ミナが示したのは、くすんだ薄緑。復水膜の朝を思わせる。
「柄は?」店主は布の端をめくる。小さな点々が等間隔。畝みたい。
「等間隔はドールの好物だけど、人の寝床には“安心”だ」ミナは指先で点と点の距離を測る。「可愛いは強さ」
レンが上限の計算をして頷く。「その布、二メートル。糸も付けてもらえる?」
「糸はおまけできないけど、端のほつれ止めなら今やる」店主は手際よく縁を走らせる。ミナはじっと見て、最後に小さく礼を言った。言葉の数より角度の正しさが伝わる。
ぼくは最後に、中古紙屋へ。段ボールの箱に雑誌とマニュアルが積まれている。“月刊実用メカニクス”“家庭修繕”“週刊園芸”。
ページをめくる。紙が音を立てるのは、砂利よりやさしい。
“合意層に接続する家庭用ガーデン・アシスタントの——”そこだけ黒く塗られている。都市の検閲。
別の冊子に手をのばす。“旧型杭打ち機の手入れ”。
「それ、人気あるねえ」店主の爺さんが笑う。「土木屋が持ってって、戻ってこない」
「戻る本もある?」
「物語は戻る。マニュアルは戻らない。直し方はみんな腹に入ってしまう」
ぼくは首だけで笑って、“週刊園芸”と“杭打ち機”の薄冊子と、机の下に寝ていた“合成素材の接着”のパンフを選ぶ。
レンが見に来て、上限の計算をする。
「……文字は食えないぞ」もう一度言い、それでも財布を閉じなかった。
買い物の袋を抱えて、四人で影道へ戻る。
「ベッド、今日から柔らかい」ミナは上機嫌だ。「天板の木の音を忘れられる」
「ラビットの耳、もっと優しくなる。遅延が“気持ちよく”なる」コトは袋の中身を撫でる。「あと、ベアリングの音も」
「音は——」レンが言いかけ、言わない。
「計測に入らないけど、強い」ぼくが代わりに言う。
レンは笑って、やっぱりやめた。彼は笑い方の節約を知っている。
ハウストレーラーに戻ると、最初にミナの布から。
二段ベッドの上段に布を張り、ほつれ止めの縁を丁寧に折る。布は“天井”になり、光を柔らかく割る。
「——可愛い」コトが素直に言う。
「強い」ミナは即答だ。
ぼくは紙の匂いを広げる。中古本の紙は海藻と油の街の匂いを吸っている。
“杭打ち機の手入れ”。目次。グリースの種類、温度の逃がし方、軸受の“うたせ湯”——比喩が古い。
「うたせ湯、って何」ミナが覗く。
「昔の風呂。水を上からかけて、肩を——いや、機械にかける。熱を落として、気持ちよくする」
「気持ちよく、は強い」コト。
「だから計測に入らないって」レンが笑い、今度は笑い切る。
コトは部品を広げ、スナップ端子を袋から出して並べる。
「見て、この“出っ張り”。夜でも間違えない。耳の基板の端子、次の遠征の前に付け替える。ノイズ、減る」
「作業、今やる?」レンが問う。
「やりたい。でも寝る。人間の脳に“遅延”が出てる。今日は柔らかい布で寝て、強くなる」
「了解、スパナ」レンは軽く敬礼して、台帳に数字を書く。支出、残額、弾薬、電池、乾燥食。数字にも柔らかい布があればいいのに、とぼくは思う。
ミナは布の下に潜り込み、顔だけ出す。「雑誌、読んで」
ぼくは“週刊園芸”を開く。畝の等間隔、植え方、風の通し方。“機械の好む規格”と“植物の好きな規則”のあいだに、不思議な重なりがある。
「畑は、ちゃんと“人の都合”でもあるんだよ」ぼくは声に出す。「等間隔は、食べるための都合」
「等間隔を“人の都合”って言い切れるの、強い」ミナ。
「強いは——」レンがまた言いかけ、今度は黙って頷いた。
夕方、乾燥食の“肉っぽいほう”を分ける。今日は豪勢だ。芽ベアリングの前金分で、味の濃いソースもついた。
「次の依頼、どうする?」ミナがスプーンを口に入れたまま言う。
「昇降路の障害除去に“C+”が出てる」レンは端末をちらと見て閉じる。「でも今は喋らない。寝ろ」
「耳、寝る前に拭く」コトは工具をしまい、布の端を触って満足そうにする。「可愛いは——」
「強い」三人で言って笑う。
ライトを落とす。布の天井が小さく波打つ。トレーラーの外では、柱の骨が夜の温度に合わせて鳴る。
ぼくは雑誌のページを一枚だけ、暗闇で撫でる。文字は食えない。でも、胃の形が少し広がる感じがする。
“観測は作戦だ”。見ること、触ること、読むこと。どれも道を作る。
ガレージ・キッズ——ガレキの一日は、部品と布と紙で、ほんの少し重くなった。
重いものは、足場になる。明日、そこから跳べる。
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[※1]市民権“拡張”バッジは、期限つきの利用権。色は緑→黄→赤の順で薄くなる。赤のままゲートを通ると、紙より硬い音がする。