「災難だったな」
『そら』が目を覚ましたのは、この村で唯一と言っていい、ベンチの上だった。
体には黒くて大きなコートがかけられており、目の前にはその持ち主であろう、白い髪の毛の男の人が座っている。
少なくとも、村の人ではない。
村の人たちはこんな近代的な装いはしないし、そもそもこんなに若い男の人はこの村にいない。
何より、こんなに格好いい人が居たならば、間違いなく『そら』自身が覚えていたはずだ。
「えっ、と」
「体の調子は大丈夫か? どこか違和感があるんなら、すぐに言ってくれ。本当に、ちょっとした違和感でも。……事態が思った以上に深刻なもんでな。いつ何が起きてもおかしくない」
男がタバコの煙を吐くと、白い煙が周囲に広がる。
その時初めて、辺りに光源らしきものがないのにも関わらず、自身の周囲が明るくなっていることに『そら』は気付いた。
「……え、あ、その……うーん、と……」
『そら』は男に対して何か口を利こうとするが、しかし上手く言葉が見つからない。
相手が初対面の、それも見た目からして非常に格好いい男性で、緊張しているというのもあったが、そもそもあんな事があった直後である。
自分自身がそう思っている以上に、『そら』の思考は混乱していた。
「……あの、だれ……ですか?」
高鳴る胸の鼓動を必死に抑え、やっとの思いで『そら』が質問を絞り出すと、男は少々困ったような表情を浮かべる。
「ンー……ちょっとばかし名乗りが難しいな……取り敢えずまぁ、お兄さんとでも呼んでくれ。何にせよ、嬢ちゃんを助けに来た事に変わりはないしな」
「わたしを……助けに……?」
「……っと、そうだ。そのためにはまずこれを聞かなきゃな」
そう言って男が煙を一つ吐くと、『そら』の方に向き直る。
「助かりたいか?」
「……ぅ」
どうなんだろう。
質問を向けられて、『そら』はほんの一瞬だけそう思ってしまった。
きっとここで頷いたのならば、男は絶対に自分を助けてくれるのだろう。
この狂気に満ちた悪夢の中から、自分を連れ出してくれるのだろう。
しかし、それで、どうなる?
『そら』は未だに8歳という幼さではあったが、決して無知ではなかった。
むしろ同年代の人に比べれば、頭ひとつ抜けて聡明とすら言えた。
だから世の中が自分が思っている以上に世知辛く、面倒臭く、絶望に塗れたものである事は、十二分に承知していた。
『そら』は生まれも育ちもこの村だったが、両親はそうでなかった。
村の人たちの家々から離れた場所にポツンと建った我が家が、その証明だ。
家庭に降りかかった数多の不都合が、彼女を賢くしたのだ。
それ故に、思ってしまった。
ここで助かったところで、どうなる?
この先の人生は、明るいものと言えるだろうか?
当然、是とも否とも分からない。
しかし、望みは薄いだろうと言うのは、何となく察していた。
──だが、それとこれとは話が別である。
「うん、助かりたい。すごく助かりたい」
がしり、と。
差し伸べられた男の手を掴む。
世の中の無情さを察していたとしても、このまま死んでいいのかと問われれば、無論『そら』にとっては否である。
確かに生きる事は辛いかも知れないし、苦しいかも知れない。
だが、だからと言ってこんなにつまらない人生で終わっていいわけがないのだ。
手が差し伸べられたのなら、その手を掴むどころか絡め取ってよじ登るくらいの気概を見せねばならない。
それは彼女が逆風を受けながら育つ環境で身に付けた処世術だ。
あまりにも凄惨すぎる一連の流れですっかり見失っていた『そら』本来の剛毅な性格が、明確な希望を得て蘇りかけていた。
「生きてどうにかなったら東京にいきたい」
「……はっは、うん。意志があるのはいい事だ。そっちの方が……まぁ、俺も色々と都合がいい」
困ったように、しかしどこか嬉しそうに、男が呟く。
「だがまぁ、まだもう少し休もう。色々とやって貰わなきゃいけない事はあるんだが、体力は回復させなきゃな」
それもそうだ、と。『そら』は男の言葉に理解を示す。
疲れていては満足に体を動かせない。それはこの8年の人生の中でも痛いほど思い知った事実である。
「さて、そんなわけで休憩の時間なわけだが……まず、これを舐めるといい」
差し出されるのは、色の無い透明な飴。
包み紙を取って口の中に放り込めば、独特な甘味と共に塩気を感じる。
どうやら、塩飴だったらしい。
どうにも味が薄いのは、未だに『そら』が緊張状態にあるからだろうか。
「で、状況の説明はいるかな?」
「ほしい」
飴を口内で転がしながら、答える。
流石にあんな事になっておいて、『何も分かりません』では流石に納得できない。
今までの日常は何だったのか、そして現状は何事なのか、現実を理解しない事には何も始まらないだろう。
「……大丈夫か? 軽率に状況説明を申し出た俺も俺だが、色々ありすぎて現実逃避の段階に入ってないか?」
「え? でも知らないとなにもはじまらないよ?」
『そら』がそう言うと、男は手で顔を覆って空を仰いだ。
「あー……うん、そうだな。そうだった。……流石は三部作最凶だ……えーっとな、じゃあお言葉に甘えて状況を説明するんだが……まず、嬢ちゃんはこの夜の中に閉じ込められている」
「夜の中に?」
と言われても『そら』にはどうもピンと来ない。
少なくとも『そら』の認識において夜とは勝手に流れていくものであり、それは『そら』にもその他の誰にもどうしようもない事である。
閉じ込められたとは説明されたが、それは一体どのような状況を指しているのだろう。
「まぁ、これに関しては分かりやすく説明が出来るからありがたいな。……さて嬢ちゃん、このお話は知っているかな?」
男が懐から取り出したのは、手のひらサイズの絵本だ。
表紙には『かぐやひめ』とあり、可愛らしくデフォルメされた和装のお姫様が月の下に座っている。
彼女も読んだことのある話だったので、こくりと頷く。
「じゃあ質問だ。このお話じゃあかぐや姫は最終的に月に帰っちゃうわけだが……どうすればかぐや姫が月に帰らないように出来ると思う?」
「できるの?」
それは実に純粋な疑問であった。
理屈だの何だのを弄するまでもなく、直感とでも言うべき感性で以て、『そら』は男の言い出した事は絶対に不可能であると結論づけた。
だって、そうだろう。物語はかぐや姫が帰って終わるのだ。それが物語の結末なのだ。
どう足掻いても、それが変わる事は決してあり得ない。
だからこそ、そういう疑問が口をついて出て来たのだ。
そんな『そら』の言葉に、男はほんの一瞬だけ驚いたように目を見開くと、口元に笑みを浮かべた。
「よくわかってるじゃないか。そう、出来ないんだ。普通ならな。だが……」
と、男が絵本のページの一枚を千切り、『そら』に渡して来た。
おじいさん は きがつきました
ちかごろ かぐやひめ が つきをながめて
つらそうなかおをするじかん が ふえているのです
白い紙面には黒いインクでそう書かれていて、裏を見れば、恐らく前のページの内容の挿絵だったのだろう、かぐや姫が求婚されているシーンが描かれていた。
「そのページだけを渡されて、『かぐや姫』は月へ帰れるか?」
「……あー」
納得した。
確かにこれだけならば、かぐや姫は月には帰れない。
何せ、物語の続きがないのだから。
『そら』はこの後にも物語が続き、最終的にかぐや姫が月に帰る事は知識として知っているが、それだけである。
このままでは、永久に同じところを読み続けるしかない。
「それと同じことが起きてるのさ。この場所は、この村は、一枚のページとして現実から切り取られてる……ってより、折り畳まれてる、のほうが近いだろうな」
「どういうこと?」
「ページ自体は切り離されていないけど、外から中の様子は見えないし、中から外も見えない。そして中では同じ文章の最初と最後がつながって、ぐるぐる読み続けるしかない。そんなところだ」
だから今日になるまで見つけられなかった、と。
何とも悔しそうに男は呟く。
「でも、この方法だと致命的な欠陥が一つある。分かるかな?」
「ちめーてきなけっかん?」
「あー……要するに、すごくダメなところだ。ヒントはそのページそのものだな」
ダメなところ?
男にヒントを貰って、『そら』は頭を使ってみるが、しかし納得のできるような答えは見つからない。
「わかんない」
「ンー……まぁ、難しいよな。じゃあ答えを言っちゃうとだな……ページが腐っちゃうんだよ、それじゃあ」
「……あぁー……」
確かに、男の言うことは『そら』にも詳細な言語化こそ難しいものの、感覚的には理解できる事だった。
どうやったら物語は終わらないように出来るか、と言う質問に対してじゃあページを一枚切り取ってしまえば良いと回答したとして、そのページが腐り落ちてしまったのならどうなる?
そこにあった物語がぐちゃぐちゃに崩れて、無くなってしまったとして、その時物語の中の世界はどうなっている? それは本当に『終わっていない』のか?
男が言っていることはつまりそう言うことで、『そら』が今いるのは、その腐ってしまったページの中だということだろう。
「今はもう腐り落ちる寸前だな。脱出できる最後のチャンスだ」
「だから……つづきをみつければいいってこと?」
続きが無くなっていて読めないのなら、続きを探し出せばいい。
例えば今のかぐや姫の話なら、男から続きの載っているであろう絵本を奪い取れば良いのだ。
そうすれば、少なくともこの腐敗した世界からは抜け出せる。
『そら』はそういう風に理解した。
「惜しいな。正確には、自分で続きを書くって感じだ」
それに対して、男はそう訂正した。
「いいか? 今ンとこ嬢ちゃんは絵本の中の人間だ。そのページの中に、書かれている側の人間だ。それに対して、俺は読み手側」
『そら』は再びページに視線を落とす。
「当然、絵本の中の登場人物は動かないし、動けない。自分で勝手に物語の続きを書き足すなんてことはできない。かと言って読み手側も、上から色々と書き込むことは出来るだろうけど、それに元々ある物語を変える力はない」
鉛筆でいくら物語を書き足しても、それは消しゴム一個で消えてしまう。
そうすれば残るのは、元々あった物語だけだ。
根本的に変わったと言うには、確かに無理がある。
「物語を根本から変えようとすると物語の中の人物が無理矢理書き足すしかないわけだが、しかし物語の中の人物は動かない。だから普通はどうしようもない。しかし幸いにも今、嬢ちゃんにはそれが出来るだけの立場がある」
「……そういえば、どうしてわたしだけ……?」
話を聞く限り、このお話の登場人物は『そら』含めた村の全員であるはず。
その結果として、あのような姿になるものなのだと考えれば、『そら』だってああなっているはずなのだ。
だと言うにも関わらず、『そら』はそうなっていない。
「まぁ、細かいことは追って説明するんだが……とにかく、嬢ちゃんは今、少々特殊な立場にあるって事だ。だから、物語を書き換えられるだけの力を持ってる。ってなわけで嬢ちゃんが助かるには、自分で物語の続きを書くしかない」
「お兄さんは?」
「お手伝いはするつもりだけど、それ以上は難しい。……元々繋がりが薄いところに無理矢理介入してるわけだからなぁ。まぁ、嬢ちゃんのおかげで若干は出来ることも増えたわけだが……」
そこまで言って、男は煙を吐き、立ち上がる。
「さて、もういいだろう。早速行くぞ、大丈夫だとは思うが、時間制限も無いわけじゃあないからな」
「うん」
差し伸べられた男の手を取って、立ち上がる。
胸の鼓動の高まりは、何故か未だにおさまらない。