冬の夜風が撫でるのは、今年で10になる少女の体。
ただでさえ小さい体はコートを着込んでいても既に冷え切っていて、顔色は青白い。
すぐにでも温まらなければ低体温症で死んでしまいそうな少女だが、しかしもはや彼女に帰るべき家など存在しない。
故に少女は震える体を抱えながら、悴む手で懐中電灯を握り締め、夜を歩く。
「 あ う」
そうして、懐中電灯の光が『それ』を捉える。
黒い、人のような姿をした、しかし明らかに人ではない異形。
目に当たる部分にぽっかりと空いた孔は虚で、しかし明確な悪意を抱いている事が見て取れる。
視線の先に居るのは、少女だ。
少女は凍える体に鞭を打ち、体の軋む音を努めて無視するように夜の道を駆ける。
後ろから追跡するのは、姿こそ見えないが先程の異形に違いない。
捕まってしまえばどうなるかは、少女にはある程度の想像がついていた。
「……なんでっ」
走りながらに漏れ出るのは、疑問の言葉。
なんで、どうしてこうなってしまったのか。どこからおかしくなってしまったのか。
思い出が、走馬灯のように脳裏に湧き出てくる。
当時、『かな』には4人の家族がいた。父と母、祖母に、兄だ。
その時の『かな』は、まだ幸せに暮らしていた。
優しい両親に、少し厳格だけど甘やかしてくれる祖母。意地悪だけど何やかんや気にかけてくれる兄。
何もかもが順調。すくすくと『かな』は育ってゆき、そしてこれからも健やかに育ってゆくと、誰しもが疑っていなかった。
ただ、当の『かな』本人には、どうしても納得いかず、そして不自由に感じている事が一つだけあった。
それは、夜の街に出る事が許されていない事だった。
『かな』には、夜の街に対する憧れがあった。
いつもテレビで見る、キラキラとした夜の街。
イルミネーションで彩られた街路樹や、ライトアップされた噴水。
そして夜の闇に映る綺麗な花火。
そんな夢のような景色の中に、夜の街に、自分も行ってみたい。
『かな』は常々そう思っていたが、しかし周囲の大人たちはどうしても許してくれなかった。
行くことはおろか、家の中から見ることすら、だ。
日が暮れると家の至る所に鍵がかけられ、雨戸が閉められ、そして子供たちは部屋の中に押し込められて、外側から鍵をかけられてしまう。
すぐそこにあるはずなのに、見ることすら許されない。
そんな現状に、『かな』はどうしても不自由を感じずにはいられなかった。
全ての平穏が崩れ始めたのは、きっと祖母が居なくなってからだ。
ある日、朝起きたら、祖母が居なくなっていた。
父と母、そして兄は、きっと夜に外に出てしまったのだろうと話し、祖母はもう諦めるべきだと言った。
一応、行方不明として捜索の依頼はしたが、誰もがその結果に期待していなかった。
父と母は、『かな』に、祖母とはもう会えないが、忘れないでやりなさいと言った。
これから祖母の居ない生活をしなければならないのだと、『かな』も幼いながらに決意を新たにしたのを覚えている。
そして、祖母が死んでから、明確に母親の金遣いが荒くなった。
今までは祖母が家の金を握っていたが、祖母が居なくなって、祖母の資産ごとその役目を母親が受け継いだから、母親が金を好きに使えるようになったのだ。
最初は、母親から買い与えられる、祖母が金を管理していた頃とは比べ物にならないほどおしゃれで高価な服に、兄と一緒に『かな』も喜んだ。
だが、次第にその数は少なくなって、母の買う母の財布や鞄、服がますます豪華になっていくのを、2人も、そして父親も、いいことだとは思えなかった。
母親が段々と家事をおざなりにするようになったのも同様だ。
これが母の元来の姿で、祖母の存在が母親をあのような『良い母親』にしていたのだと出来のいい子供達が理解するのに、そこまで長い時間は必要とされなかった。
両親が喧嘩する事が増えた。
あれだけ仲が良さそうだったのに、2人は今ではとても険悪な雰囲気で、今にも殴り合いにでもなってしまいそうだった。
兄は、もしかしたら近いうちに2人は離婚するんじゃないかと心配していた。
『かな』は両親と離れ離れになることなど想像もつかなかったが、しかし最近の両親の姿を見て、あり得るとは思っていた。
だが、2人の予想に反して、両親が離婚することは無かった。
父が失踪したからだ。
そうして新たな生活が始まったが、当然ながらいつも通りになんて暮らせるわけがない。
まず、兄は学校を辞めさせられ、働きに出された。
小学生だった『かな』はまだ学校に通うことは許されたが、しかし中学校を卒業したらすぐに働くようにと何度も念押しされた。
父親という大黒柱がいなくなってしまったから仕方がない。私も頑張るが、若いあなたたちと私では稼げる額が違う。だから頑張って。
それが母の言い分だった。
そして確かに、母が家に帰ることは減ったが、それが仕事によるものではなく遊びによることであるなど、もはや明白だった。
母親にとって目障りだったはずの祖母と父が消え、自分たちは働きに出され、母親だけは遊び放題。これが絶対におかしいと思える程度には、子供達は賢かった。
母親が祖母と父に何かをしたのだというのは、子供達にとってもはや確定的だった。
そんなある日のことだ。
母親が、夜に外出して行くのを、2人は見た。
2人は驚いた。
だって、この街の『夜』は、あまりにも危険だからだ。
父も母も祖母も、『夜』だけはダメだと言っていたし、兄もその『夜』を見た。
『かな』だけは未だに『夜』を見た事がなかったし、やはり夜の街への憧れは強く残っていたが、しかし夜に出ることはダメだということは理解していた。
だというのにも関わらず、母は外へ出た。
絶対におかしい。
絶対に何かがある。
2人がそう確信するが、しかし外に母の行き先を調べに行けるほど、兄に勇気はなかった。
仕方ないので『かな』が外に行こうとするが、しかし必死な形相の兄に止められる。
明日の朝、母親に聞こう。
そう決めて、2人は布団の中に潜り込んだ。
翌朝、兄はいなくなっていた。
一体なんで、どうして。
そんな言葉が喉から漏れ出た。
それは、『かな』が孤独になってしまった事を意味していた。
次の瞬間、バタンと扉が開き、ズカズカと母親が入ってくる。
そして、『かな』を見るなり母親は『かな』を殴った。
どうしてお前じゃないんだよ。
言っている意味がわからなかった。
どういう事、と聞く前に、殴られた。
チッ、仕方がない。
母親は『かな』を粗方殴り終えると、そう吐き捨ててどこかへ消えてゆき……
1週間もしないうちに、新しい父親を名乗る人物がやって来た。
そして、『かな』を犯そうとした。
だから、『かな』は逃げた。
まだ暗い夜の中を、部屋着の上に慌てて掴んだコートだけを着て、そのポケットに入っていた懐中電灯を頼りに。
そうして、『かな』は生まれて初めて目にしたのだ。
この街の、あまりにも悍ましく、穢れ果てた夜の姿を。
「……うぅ」
『かな』は走る。走り続ける。
そうしなければ、黒の異形に捕まってしまうから。
「痛い……」
顔が、耳が、足が、手が。
厳しい寒さに、体が悲鳴を上げているのがわかる。
だが、それでもやはり、足を止めるわけにはいかない。
どこに行けばいいのかなど、わからない。
どうすればいいのかなんて、勿論わからない。
ただ、絶対に家には帰れない。
『かな』を動かし続けているのは、あるかどうかすらわからない、幼稚な希望。
もしかしたら、この『夜』のどこかに祖母や父、兄が居るのかもしれない。
母親が『夜』に来て、翌朝何事もなく帰ったように、何か生き延びる方法があるのかもしれない。
そんな淡い希望を求めて、少女は冬の穢れた夜を歩くのだ。
だが。
当然ながら、そろそろ10になる程度の少女が、コート一枚で冬の夜を耐える事ができるほど、自然というのは甘くない。
時間が経つたびに少女の動きは鈍くなり、瞼は重くなる。
それでも必死に足を動かすが、背後から迫る気配はどんどん強くなる。
もう、駄目だ。
『かな』が、心の中でそう思った。
そんな時の事だった。
「よう、嬢ちゃん。こんな寒い夜にどうしたんだい? 急いでるようだが」
数メートル先にある、街灯の真下。そこに1人の男の人が居た。
身長は180センチほどで、服装は黒のコート。白い髪の毛と、口に咥えたタバコが特徴的な、20歳前半くらいに見える青年だ。
「……っ、たっ……っ……!」
『かな』は、目の前の男に対して声を上げようとするが、しかし『助けて』と言えばいいのか、『逃げて』と言えばいいのか分からず、口ごもってしまう。
更には、今まで走ることに注力して来たところを、いきなり現れた男に意識を奪われたことで、足がもつれて転んでしまう。
幸い、雪が積もっていたのでそこまで痛くはなかったが、後ろから迫って来る存在がいる中で、それはあまりにも致命的だった。
迫り来る恐怖に、『かな』は反射的に目を瞑り……
「おっと」
しかし、いつまで経っても何も起きない。
一体何がと思って薄目を開けて見れば、そこに映る景色は実に衝撃的なものだった。
「あんまり幼女に盛るんじゃねーぞ、ロリコンがよぉ」
「 ぎ 」
黒い異形が、男の手によって掴み上げられていたのだ。
異形は身を捩り、男の手から逃れようとするが、しかし男はビクともしない。
「とっとと、消えろ」
男が力を込めた瞬間。
異形は霧散し、消えた。
そうして男がその事を確認すると、男は一度煙を大きく吐いて、振り向いた。
「……随分とまぁ大変だったな、嬢ちゃん。……とりあえず、そこの街灯の下に来な」
そう言って、男は街灯の下、光の灯るそこへ移動する。
『かな』も、そうするべきだと思ったから、男に従った。
「ここは安全だ。少なくとも、この街灯の下はな。安全だし……何より、温かい。寒かったろう」
こくり、と『かな』は頷く。
事実、街灯の光の中は、とても温かかった。
「タバコ臭いのは……まぁ、我慢してくれ。コイツは少々特殊でね」
男が申し訳なさそうにしつつ、再び煙を吐く。
しかし、『かな』は煙の匂いがそこまで嫌いではなかった。
祖母の失踪より数年前に亡くなった祖父がタバコ好きで、よく吸っていたのを面白がって近くで見ていたからだ。
だから、何だか懐かしい雰囲気がして、タバコの匂いはそこまで嫌いじゃなかった。
むしろこの匂いを嗅いで、ようやく人心地つけたような気分さえする。
暖かさと懐かしさに包まれて、『かな』の目から涙がこぼれ落ちた。
「……」
静寂の包む夜の街に、小さな啜り泣く声がこだまする。
男は、そんな『かな』の近くに、黙ったまま立っていた。
ゲームの雰囲気は『夜廻』を想像してください。