「
「……ううん」
『かな』が泣き止んだ頃、男はゆっくりと口を開いた。
聞き覚えのない単語だったので、『かな』は首を横に振った。
「……文字通り、穢れてしまった夜の事だ。どうして穢れてしまったのかとか、そういうのは様々だが、多いのはこういう、急な開発が進んだ地域……それも、元々『守り神様』みたいなのがいた地域は、こうした
男が煙を吐く。
「嬢ちゃん。最近、何か変わった事がなかったかい?」
男の問いかけに、『かな』はゆっくりと口を開いた。
祖母のこと、父のこと、兄のこと。……そして、母のこと。
覚えている限り全てのことを、出来る限り丁寧に、鮮明に話した。
「……成程ね。嬢ちゃんのお母さんは、多分だけど
「みい、られる?」
こてん、と。『かな』は首を傾げる。
「言葉が難しかったかな……心の隙間、って言ってわかるかい? 例えば……そうだな。寂しい、とか。悲しい、とか。そういうのを感じた時、胸に変な感じがするだろう」
こくり、と。『かな』は頷く。
ちょうど祖母と父、兄が居なくなった時、そういう気持ちになった。
「その他にも怒りとか……嫉妬とか、そういうのもそうだな。とにかく、そういう心の隙間が出来てる時に
夜が、入り込んでくる?
『かな』は頭の中に、真っ黒な夜が自分の胸の中に入り込んでくる姿をイメージした。
「うーん……まぁ、似たようなもんだな。そうして心の中に入り込んで、囁くのさ。お前の願いを叶えてやるぞって」
願いを、叶える。
「
「……じゃあ、お母さんの願いって」
『かな』の脳裏に浮かぶのは、祖母の顔。
そんな、ありえない。嘘だ。
だって、お母さんは、あんなにもお婆ちゃんと楽しそうにしてたのに。
祖母が居なくなった後の、傍若無人な母の姿を必死に考えないようにしながら、『かな』は嘯く。
「嫁は姑が鬱陶しいモンだ。大して珍しくもない」
男は、『かな』の間違っていて欲しいという予想に、容赦なく正解の丸をつけた。
「……そうして、一度願いを叶えてしまったら、そいつはもう
……そうだ、よく知っている。
だって、『かな』はそれを自分自身で体験して来たのだから。
「そして嬢ちゃんも、近いうちにお前の婆ちゃんや兄ちゃんみたいになっちまうだろうな」
「……どうすればいいの?」
「…………」
縋るような思いで『かな』が問いかければ、男は一度煙を吐いて、『かな』の目を見た。
「嬢ちゃん。死にたいとは思ってないな?」
こくり、と頷く。
だって、そうだろう。
『かな』にはまだ、やっていない事が多すぎる。遊園地に行った事がないし、海外旅行に行った事もない。憧れのウェディングドレスも着ていないし、流行りのスイーツも食べた事がない。
そして、綺麗なはずの夜の街も、まだ見れていない。
だから、まだ死ねない。死にたくない。生きていたい。
「そうか。……それじゃあ、そのためには、嬢ちゃんがこの
「……わたしが?」
「嬢ちゃんが、だ。俺じゃあ、ちょっと縁が薄すぎる。俺が何とかしようとしても、良くて一時凌ぎ、悪くて事態の悪化だ」
口惜しそうに、男は呟く。
それを聞いて、『かな』は絶望した。
ようやく、ようやく頼りになってくれそうな人が来てくれたというのに。
希望を持てたと思ったのに。
期待を抱かせるだけ抱かせてからそんな事を言うなんて、酷すぎる。
「……そんな顔をするな。俺にも出来る事がないってわけじゃあないんだ」
そんな『かな』の内心を見透かしたかのように、男は言う。
「……それは?」
「何、簡単な事だ。俺が、お前にとっての『安心』になってやる」
『かな』は、男が何を言っているのか理解できなかった。
「わからねぇか? まぁ、仕方ないよな。じゃあ分かりやすくしてあげよう。こういう事だ」
と、男は『かな』の手を優しく握った。
温かくて、大きくて、ごつごつしている、男の人の手だ。
そうして、男は街灯の光の外へと歩いてゆく。
当然、男と手を繋いでいる『かな』も、暗闇の方へと足を進める事になった。
瞬間、『かな』が感じるのは恐怖だ。
この光の外は、とても寒いし、暗いし、何よりあの異形たちがいる。
その事実が、ほんの一瞬だけ『かな』の足を止めようとするが、しかし男に引きずられ、『かな』はとうとう光の外へと、恐怖の世界へと足を踏み出してしまう。
だが。
「……あれ?」
確かに、寒いし、暗い。
少し目を凝らせば、きっとあの異形の影が浮かんで見えるのだろう。
だが、不思議と『怖い』という感情が湧いてこなかった。
つい先程まで感じていたはずの恐怖が、一瞬で霧散する。
それどころか、むしろ絶対に平気であるという確信すら湧いて来た。
「どうだ? 怖くないだろ?」
上から声が降ってくる。
そちらの方を向いてみれば、暗闇の中でニヒルに笑った男の顔が辛うじて見えた。
その瞬間、『かな』が気付いたのは、自分の右手を覆う温もり。
男の手の温もりが、自らにこのような安心感を与えているのだと、『かな』は理解した。
「まぁ、ずっとこうしていてやれるってわけじゃあないがな。だが、それでも、無いよりかは絶対にマシだ……そうは思わないか?」
コクリ、と。『かな』は頷いた。
それを見て、男も満足したように大きく頷く、
「さぁ、行くぞ。これから、お前に絡まった因果の糸を、一つずつ解いていく。まずは東……ショッピングモールに行くぞ。そこに、嬢ちゃんの兄
「……お兄ちゃん?」
「……だった、だ。期待はしないでおけよ」
男に手を引かれ、夜の街を歩く。
やはり、一人で歩く時とは比べ物にならないほど、安心して進む事が出来た。
「……お兄さんは」
そうして歩いていると、『かな』は不意に、とある事が気になった。
「ん?」
「お兄さんは、なんて名前なの? どうして、わたしを助けてくれるの?」
「……俺のことは、ただの『お兄さん』でいいよ。特に大した人物じゃあない。そして、どうして嬢ちゃんを助けるのかって言えば、それは俺が助けたいって思ったからだ」
「……そんな理由?」
「何も悪くないはずの少女が、とばっちりを受けて死ぬってのが嫌でね。せっかく助けられるんなら、助けたいって思ったのさ」
「……そうなんだ」
そんな会話をしつつ、道を歩いていれば、見えてくるのはショッピングモール。
何度も、何度も。家族と一緒に出掛けて、一緒に買い物をした、思い出の詰まったショッピングモールだ。
そのはず、なのだ。
「……あれ、何?」
それは、とても大きな巣のようだった。
幾重にも樹木が積まれ、その中に鉄筋やコンクリート片が混じった、カラスのそれを彷彿とさせる、巨大な巣。
「……
「……どうすればいいの?」
「切る、或いは解く。それしかない」
偶然空いていた場所から、ショッピングモールの中に入り込む。
中は、『かな』の記憶にあったそれと大差ない様相を呈していたが、しかし明らかに普通ではない。
所々に、羽の生えた芋虫とでも言うべき、悍ましい怪物たちが蠢いているのだ。
「……ここの、屋上だな」
怪物たちを押し除けながら、屋上へと向かう。
怪物たちの見た目は勿論、鳴き声や断末魔は、まるで『かな』の心を根底から震わせているようで、『かな』は必死に男に縋り付いていた。
そうして非常用の階段を登り切れば、屋上につながる扉へと出る。
「……ここを開けると、あの巣に繋がるだろうな」
「そう、なんだ」
この中に、本当に兄がいるのか。
もし本当にいたとして、わたしはどうすればいいのか。
縁を切る、縁を解くって、一体何なのか、と。
男に聞こうとして────不意に、繋いでいたはずの手が離された。
「……え?」
なんで、と。声が漏れ出る。
急に、寒さが体を刺すような感覚に襲われる。
カタカタと、体が震え出した。
「俺が干渉出来るのは、ここまでだ」
「ついて来て、くれないの?」
「助けてやりたいとは、思う。だが、これは嬢ちゃん自身がちゃんとケリをつけなくちゃいけない事だ」
「……」
「安心しろ。俺はここでしっかりと待っていてやる。色々終わらせて来たお前を、ここでしっかり受け止めてやる。お前の戻るべき場所になってやる」
だから、と。男の目が、真っ直ぐに『かな』を射抜く。
「お兄ちゃんと、しっかりサヨナラして来なさい」
「………………」
脳裏に浮かぶのは、兄との記憶。
意地悪で、自分勝手で、それでも優しくて、いっぱい遊んでくれた兄の姿が、頭の中に浮かんでは消えて行く。
そしてその兄は、もういない。
もう、前に戻ることはできない。
だから、『かな』自身が、しっかりと別れを告げなくてはならない。
「うん」
逡巡の果てに、『かな』はこくりと頷いた。
そうして男に背を向けて、屋上につながる扉を、ゆっくりと開いたのだった。
■
そんな『かな』の後ろ姿を見送って、俺はタバコに火をつける。
懇意にしている神社の御神木、その葉を用いた、特別なタバコだ。
味は全く良くないが、しかし効果は凄まじい。
少なくとも、これでこの空間は最高に安全になった。
「……ふぅ」
とりあえずは、ここまで来ることが出来た。
色々とギミック無視はしたが、この程度であれば問題はないだろう。
「……俺の存在が、変な方向に作用してなきゃいいんだが」
本来の『
会話できるキャラは基本的に敵だし、絶対に敵が出ないと保証できる空間は存在せず、メニュー画面を開いてもゲームは止まらない。
ありとあらゆる存在が、主人公、ひいてはプレイヤーの精神をすり減らしにかかる。
そうして最終的に、心をすり減らしにすり減らした主人公は、
だから、俺があいつの心の支えになってやらなければならないと思い、ああいう風に接触したわけであるが……
「……さて、そろそろボス戦も終わる頃だな」
と、そう呟いたところで、がちゃりと、扉の開く音がして────
■
兄は、卵だった。
屋上の巣に安置されていた、幾つもの卵。
そのうちの一つが兄であることを、『かな』は直感で理解した。
だが、卵は非常に大きく、そして頑丈だった。
小さく、非力な『かな』では、どうしようもなかった。
だから─────
「があぁ があぁ」
『かな』は、親玉であろう鴉らしき異形を利用して、卵の殻を砕いた。
そして、嘴を襲った激痛に呻き、飛び去った鴉を見送って、『かな』は砕けた卵の中を見る。
「……お兄ちゃん」
少なくとも、それは人間であるとは言い難かった。
ピンク色に塗れ、ドロドロになったそれは、間違いなく人の原型を保っておらず、今まさに変質している瞬間なのだろうということは、理解できた。
だが、それでも兄は兄だった。
「今まで、ありがとう」
安らかな表情を浮かべ、眠っていた兄に、手を合わせる。
その瞬間、兄は黒ずんで、腐り落ちた。
震える足で立ち上がり、ふらふらと扉へ向かう。
寒い。寒い。寒い。
屋上に吹く風が、『かな』の体から容赦なく体温を奪ってゆく。
早く、早く、早く。
お兄さんのところに行きたい。
その一心で、力を振り絞ってガチャリと扉を開ければ、鼻をつくのはタバコの匂い。
「────おかえり」
そして、目に映るのは、優しげな表情を浮かべた男の姿。
「ただ、いま」
ふっと、体から力が抜けて、膝がカクンと折れ曲がってしまう。
そうしてそのまま床に倒れそうになって……男に抱き止められた。
「……よくやったな。少し、休むといい」
そんな台詞を聞き終えて、落ちる瞼を受け入れて、『かな』は睡魔に身を任せる。
その頬に、一筋の涙が伝ったのを、男は静かに拭ってやった。