「があぁ があぁ」
巨大な鴉の鳴き声が聞こえる。
きっと、痛みが引いて戻って来たのだろう。
引き続き卵を守るためか、そうでなければ、『かな』に復讐するために。
鴉は頭がよく、自分に悪さをした人間の顔を忘れないという話は、有名だ。
「お兄さん」
そんな鳴き声を聞いて、いつの間にか目を覚ましていたらしい『かな』が、男に向かって話しかける。
「お兄ちゃん、変わりかけてた」
『かな』が思い出すのは、卵の中に見た、変わり果てた兄。
健康的だった小麦色の肌ではなく、ピンクと、赤と、白に彩られ、しかし安らかな表情で横たわっていた、兄だったモノの姿。
「……
「……じゃあ、お婆ちゃんと、お父さんは?」
「………………」
たった1週間だ。
たった1週間で、兄はあそこまで変わり果てた。
ならば、それよりもずっと長い間この穢れた夜に居るであろう祖母は、父は、一体、どのような姿になっているのだろう。
「それを伝えるのは、俺の役割じゃあない。自分の目で確かめて────そして、認めて、サヨナラを言ってやる。それが、嬢ちゃんのするべき事だ」
そして、それをサポートしてやるのが、今の俺の役割だ、と。
男が立ち上がり、『かな』の手を握る。
「次は、西に行く。西にある、川。そこに、嬢ちゃんの父は居る」
「川……」
勿論、『かな』はそこに行った事がある。
ショッピングモールと同じく、何度も、何度もだ。
夏なんて、父の休みの日の度に遊びに行ったのを覚えている。
「……お父さん、お魚さんになっちゃうのかな」
父は、泳ぎが上手だった。
そんな父が、川にいるのだから、父は魚になっているのではないか、と『かな』は思った。
「自分の目で見て、確かめるといい。君のお父さんが、一体何になったのか」
手を引かれて、街の西にある川へと歩いてゆく。
そして、堤防から川を覗き込んで見れば、そこにあったのは、やはり『かな』の知っている川では無かった。
川幅は『かな』の知っていたはずのそれに比べて倍以上に広く、比較的穏やかだったはずの流れは、大雨が降った後よりも急で、そして────
「……島?」
川の中心には、『かな』の知らない島があった。
いつも『かな』が遊んでいた、ブランコと鉄棒、砂場とベンチのある公園が、すっぽりと入ってしまいそうなほどの島だ。
そして、その島には、こちら側の方から伝わる、古臭い木の橋がかかっているようだった。
「あの島って……」
「穢れた夜だからこそ現れるものだ。あの上に、嬢ちゃんのお父さんはいるぞ」
堤防を降りて、河川敷へ。
普段はとても開けていて、スポーツの練習に励む人達の姿がよく見えたはずの河川敷は、しかし今はとても背の高い草に覆われていて、ほんの数メートル先すらよく見えない。
「げぇこ、げぇこ」
冬だというのにも関わらず、蛙の鳴き声が響き渡る。
「げぇこ、げぇこ」
「げぇこ、げぇこ」
「げぇこ、げぇこ」
「げぇこ、げぇこ」
「げぇこ、げぇこ」
「げぇこ、げぇこ」
「げぇこ、げぇこ」
「げぇこ、げぇこ」
「げぇこ、げぇこ」
「げぇこ、げぇこ」
いないはずの蛙が鳴く。
蛙が鳴く、蛙が鳴く、蛙が鳴く。
茂みの中から、無数の瞳がこちらを見つめている。
何百匹、何千匹もの蛙が。
舌なめずりをして、今か今かとわたしを待っている。
食べられる。
きっと、食べられてしまう。
あっという間に。息吐く間さえ無く。一瞬で。
気が付いたら、わたしはきっと彼らの胃の中に入っているのだ─────
「わっ!!」
「きゃあぁ!?」
真横から響いて来た大声に、『かな』は悲鳴を上げる。
キーンと、耳が鳴った。
「お喋りをしよう。ここは静かにしているといけない」
「お、おしゃべり……?」
「そうだ。たわいのない話を、大きな声で、誰を憚るわけでもなく、歩きながら。ではまず俺から話そうか。俺は小さい頃、どうしてもトマトが食べられなかったんだ。どうしても、あのグチャって感覚が嫌いでな」
「……わ、わたしも、トマトは嫌い……だよ?」
「おー、そうだよなそうだよな! やっぱりトマトは嫌いだよな! まぁ、かくいう俺はもうそんなの克服して、今や大のトマト好きなんだけどな! あっはっはっはっは!」
「え、えぇ……!? なにそれ! ずるい!」
「ふっふっふ、大人はずるいものなのさ、嬢ちゃんも大人になればわかる……ああ、トマトといえば、俺の友人にな────」
草をかき分け、喋りながら、二人は前へと進んでゆく。
蛙の鳴き声は、もう聞こえなくなっていた。
そして、数分も進んでいれば、遂に二人の目の前に木の橋が姿を現した。
「さて、それじゃあ嬢ちゃん。今からこの橋を渡るわけだが……お喋りはここでお終いだ。目を瞑って、出来る限り息を殺し、足音を立てないように、ただ俺の手だけを頼りに歩きなさい。何があっても、決して反応してはいけないぞ」
「……わかった」
当然、なんで、とか、どうして、とか。
『かな』の中にはいくつもの疑問が浮かび上がって来ていたが、しかし男がそうすべきなのだと言ったのだから、そうするべきなのだと思った。
目を閉じ、息を殺して、足音を立てないように、手の引っ張る方へと進んで行く。
かた、かた、と。
一人分の男の足音だけが、川の流れる音に混じって聞こえてくる。
間もなく、酷い悪臭がツンと『かな』の嗅覚を刺激した。
気にしないように努めつつ、手の引っ張る方へと足を進める。
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
自分の足元を、赤子の鳴き声が通り過ぎて行く。
気にしないように努めつつ、『かな』は、ひたすらに手の引っ張る方へと足を動かし続ける。
「あはははははは」
「うふふふふふふ」
男女の笑い声が、やはり自分の足元を通り過ぎてゆく。
気にしないように努めつつ、『かな』は歩き続ける。
「…………っ」
初めて。『かな』の呼吸が乱れる。
足首を掴まれた。ひんやりと濡れた何かに、足首を掴まれて、引っ張られている。
だがやはり、『かな』は努めて気にしないようにしつつ、手の引っ張る方へと進んでゆく。
自分の足を引っ張ったのが『何』であれ、今の『かな』にとっては、左手に感じる温もりと、左手を引っ張る力こそが信じるべき全てなのだ。
そうして、それから永遠に感じられるような時をずっと歩き続けて────
「……もう、いいぞ」
手を引っ張る力が消え、上から声が降ってくる。
恐る恐る目を開けば、どうやらもう島に着いていたらしい。
「今回も、俺はここまでだ。この先に、嬢ちゃんの父はいる。今回もまた、しっかりとサヨナラを告げて来なさい。終わったら、またここでおかえりと言ってやる」
「……うん」
男と手を離し、途端に刺すように感じられる寒さと恐怖に抗いながら、島の中心へと『かな』は歩いてゆく。
そうして、島の中心にそれは居た。
地を這うのは8本の脚。体を覆う殻は酷く澱んだ玉虫色で、所々に出来た腫瘍のような紅い肉の芽が、グロテスクに蠢いている。
ぴょこんと飛び出た一対の目玉には真っ赤に充血した白目と、茶色の虹彩、開いた瞳孔を持っていて……そして、一対の鋏は、人の手の形をしていた。
「……お父さん」
カチカチと、巨大な蟹が鋏を鳴らす。
『かな』が視線を向けるのは、その左の鋏。
左の鋏の人間で言う薬指にあたる位置に、暗闇の中で確と光を反射する指輪を嵌めていて。
その近くには、ケロイド状の火傷跡が見て取れた。
それは『かな』がひっくり返してしまった、お茶の入った湯呑みから、『かな』を守ろうとして負った火傷だったと、誇らしげに摩っていた父のそれと、全く同じ形をしていた。
「……今、サヨナラするからね」
■
「……ふぅ」
軽く息を吐き、タバコの煙を吐く。
いやはや、危なかった。
やはり彼岸と此岸を渡す役割を持った『橋』は、霊的に見てとても危険だ。
特にこの橋など。
『
故に────この場所には、多くのモノが流れ着いた。
腐った食べ物、人の汚物、流し雛、土左衛門(水死体)、船に乗った赤子の死体。
上流の方で、『よくないモノ』とされ、流されて来たそれらの多くが、流れの関係でこの街の近くに流れ着く。
だからこの街には昔からよくないモノが溜まりやすく、川なんて近寄れたもんじゃない。
それだと困ってしまうから、近くにあんな神を祀ったのだろうが……
結果はまぁ、この通り。
人は川を穢し、街を穢し、社をも穢した。
神様が頑張って浄化してくださっていたのを蔑ろにするかの如く、だ。
その所業は神の逆鱗に触れ、その在り方を歪ませるのには十分すぎた。
だからこの街の夜は穢れて、川に流れ着いたモノも、浄化される事は遂になくなってしまった。
ここには、多くの穢れが流れ着くというのに。
「下手に霊感のある奴に見せたら、ひっくり返って死ぬんじゃないかね、コレ」
この島は、この橋は、即ち穢れそのもの。
溜まりに溜まった歯垢が、歯石となって固形化するように。
溜まりに溜まった穢れが具現化し、物質化した、穢れの塊とでも表すべきモノ。
当然、渡ろうとすれば、普通の人間ならばロクな目に遭わない。
少女と俺が平気なのは、俺と少女が少々特別だったからだ。
俺には特別な力があるし────少女には、酷く不本意であるが、この
だから、この橋を渡り切ることが出来た。
……まぁ、原作では俺がいないから、一旦家に帰って庭の隅に捨てられている『結婚指輪』を回収してこないといけないのだが。
さて、そろそろ彼女は戻ってくる頃だろう。
慕っていた父親との別れに、きっと大きな心の傷を負っているはずだ。
しっかりと、おかえりを言ってやらなければな────
■
「……お父さん」
そう呼ばれた1匹の大蟹は、もうぴくりとも動く事はない。
最後の最後、『かな』を仕留める寸前で突如として動きを止めたところを、新たに川から現れた4匹の蟹に八つ裂きにされたのだ。
アレは一体、なんだったのだろうか。
あのまま鋏を振り下ろしていれば、『かな』は今頃潰れた肉塊に変わり果てていたはずなのに。
ただの気まぐれか、偶然か。それとも、かつて父親だったモノとしての、最後の足掻きか。
何が正解であるかはわからない。
何故他の蟹たちが急に現れたのかも、そして『かな』に見向きもせずに川の中へと戻っていったのかも、わからない。
ただ理解できるのは、父とはこれでお別れであるということだけだ。
「今まで、ありがとう。お父さんのおかげで、わたし、ここまでおっきくなれた」
手を、合わせる。
「……サヨナラ」
『かな』がそう言った瞬間、父だった蟹は朽ちた。
後に残ったのは幾らかの殻の欠片と、月明かりに照らされる白金の指輪。
それらにもう一度手を合わせると、『かな』はその骸に背を向け、歩き出す。
背の高い草を掻き分けて、橋のところにまで出れば、やはり男はそこに変わらぬ様相で待っていた。
タバコを咥え、ゆらゆらと煙を漂わせて、変わらずにそこに居てくれた。
そうして、男はすぐに『かな』が帰って来たことに気付くと、にこりと微笑んで────
「────おかえり」
「……ただいま」
そう言って、『かな』は男の腰に抱き付く。
タバコの匂いの染みついたそのズボンに顔を埋めると、父との別れで空いてしまった心の隙間が、すっかり埋まる心地がした。