─────今から、嬢ちゃんの家に行く。
男の口からその言葉が飛び出た瞬間、『かな』は男の近くにいるというのに、寒さを覚えずにはいられなかった。
その場所は、今の『かな』にとって、恐怖の象徴とも言える場所だったからだ。
「…………なんで?」
震える声で、『かな』は口を開く。
嫌だ、行きたくない、とは言わなかった。
男がそれを言うということはつまり、それが必要であるということだからだと、理解していたからだった。
「嬢ちゃんと、嬢ちゃんの母親の縁を切るためだ」
「わたしと……お母さんの、縁を……?」
「ああ、そうだ。兄、父、祖母との縁を解いた今、嬢ちゃんを
男が、遠くの方を見やる。
ちょうど、『かな』の家が……家だった場所が、ある方角だった。
「だが、親子の縁……特に、実の母と子の縁は、信じられないくらいに強い。何てったって、十月十日もの期間を母親の胎の中で母親から養分を受け取って成長し、そして母子共に命の危機に瀕しながら必死に出産を行って、更にはそこから何年もの年月を母親と共に過ごすんだ。逆に弱い方がおかしいって話だろう」
それは、そうだ。その通りだ。
母は、今でこそあのようになってしまったが、実の母である事に変わりはない。
『かな』は母が頑張ってくれたおかげでこの世に存在するし、母が育ててくれたからここまで大きくなれたのだ。
その事実を否定することは、出来ない。
「本当に、本当に強いんだ。母子の縁は。血、肉、名前、愛、恐怖、信頼、憎悪、記憶、物品、環境……関係があんまりにも密接だから、霊的な面で良い繋がりや悪い繋がりがごちゃ混ぜになって絡まって、互いを結ぶ一本の太い縄みたいになってる」
神社のしめ縄もびっくりな太さの縄だ、と。
そこまで言って、男は一度タバコを吸い、煙を吐いてから続きを話す。
「だから正式な手続きを踏めば簡単に切れる社会的な縁ならともかく、霊的な縁はそう簡単に切れるもんじゃない。仮に互いが互いを完璧に忘れようが、臍の緒と胎盤を通じた血と肉の繋がりがある以上、縁はある。死別でさえ、その縁を完全に断ち切ることはまず不可能だ」
死んでも、繋がりは切れない。
男のその表現を聞いて、『かな』は顔を青くする。
『かな』の体を刺す寒気が、更に強くなった。
「じゃあ、どうしたらいいの……?」
「……なぁに、そう心配に思うことはない。切るのは難しいって言っても、それは人間に限って言えばの話」
不安げな少女の表情とは反対に、ニヤリと楽しげに男が笑う。
そうして、自らの顔の前でわざとらしく音を立てて合掌すると、タバコを咥えたままに口を開いた。
「神様に頼るのさ」
「……かみ、さま…………?」
「そう、神様だ。……不安に思うかもしれないが、大丈夫だ。絶対にうまく行く」
男は自信満々な顔で『かな』にそう語りかける。
なら、大丈夫だ。男がそう言うのならば、きっとうまく行くのだろう。
不安なんて、何一つも無い。
「それじゃあ、行こうか。嬢ちゃんの家に」
「うん」
こくりと頷いて、『かな』は自らの家だった場所へと歩いてゆく。
目に映るのは、見知った道だ。
記憶と何一つ変わらない、『かな』の知っている道、知っている家々、知っている自販機、知っている標識、そして─────記憶と同じ、かつての我が家。
「…………」
家の扉を開けようとして、手が震え、足がすくむ。
つい数時間前の出来事は、すっかりと『かな』にトラウマを植え付けていた。
「…………だいじょうぶ」
だが、すぐそこに男がいてくれている。
男の吸うタバコの匂いが、濃く香っている。
なら、大丈夫。あの男が襲いかかって来ても、きっと男が助けてくれる。
そんな確信のもと、『かな』はゆっくりと扉を開いて────
「…………なに、これ」
そこは、少なくとも『かな』の知っている家ではなかった。
『かな』の家だった場所の廊下は、こんなに長くなんてない。
『かな』の家だった場所の廊下は、こんなに広くなんてない。
『かな』の家だった場所に、こんなに多くの部屋も、襖もない。
というかそもそも、この家のあの外観の中に、これほどの空間が存在するはずがない。
明らかなる異常が、この場所には起きていた。
「……ああ、そうか。縁が消えたから、
『かな』が信じ難い光景の前に絶句している隣で、男が納得したように呟いた。
「どういうこと?」
「ん? あー……そうだな。まず、
少女の問いかけに、男はタバコの煙を吐き出しながら答える。
「家の主人は、当然その家に住んでいる人間だ。家との縁がより深いのも、当然その家に住んでいる人間。しかも家によっては、神棚に何柱もの神々を祀ってる。だから、
だが、と男は言葉を続ける。
「この家に住んでいた家族は、もういない。祖母も、父も、兄も、みんないなくなって、縁も切れて……嬢ちゃんにとっても、この場所は安全な場所じゃなくなっちまった。この家は、安全地帯としての役割を失っちまったんだ」
再び、男が煙を吐き出した。
玄関に、煙の匂いが満ちる。
「しかも、
「…………そうなんだ」
ほんの少しだけ、『かな』は悲しいと思った。
もう既にこの家は『かな』にとって恐怖の象徴であり、帰る場所ではなくなっていたが、しかしそれでも『かな』にとっての家はここだったのだ。
祖父母が頑張ってお金を貯めて築いた家。
父が汗水垂らして瓦を直し、塗装をし直していた家。
『かな』と兄の身長の伸びを、柱に刻み続けた家。
祖父母と、両親と、兄と一緒に過ごした、思い出の詰まっている場所である事に、変わりはなかった。
それが、ここまで変質してしまった。
兄と、父と、祖母と同じように。
ならば────
「サヨナラ、しなくちゃ」
「……そうだな。この場所にも、サヨナラを告げるべきだろう。……さぁ、行くぞ。集めなきゃいけないものが、幾つか───っと!」
ズドン!
突然、男が動き出したかと思えば、凄まじい衝撃が『かな』を襲う。
家の中だというのにぶわりと風が吹いて、『かな』はその場に尻餅をついてしまった。
尾てい骨を襲う痛みに耐えながら、涙目になりつつ目を開ける。
「うおお あ ぐうえ」
すると、『かな』の視界いっぱいに映ったのは、信頼する男の背中と……こちらに向けて手を伸ばす、新しい父親を名乗った、『かな』を犯そうとした変態だ。
「ひっ!?」
『かな』は痛みを忘れ、悲鳴を上げて後ずさる。
『かな』を犯そうとした変態の目と口はぽっかりと空いた真っ黒な穴になり、ぼたぼたと穢らわしい液体を垂れ流している。
脂肪を纏った体は、数時間前に見たそれよりも一回りも二回りも大きく膨れ上がっていて、そのままの太さの足と腕は相対的にとても細く、ひどくアンバランスに見えた。
「涎を垂らして少女に突っ込むかよ、ジャンプスケアって言えば赦されると思うんじゃねぇぞペド野郎が!」
ドン、と。
男が異形と化した変態を蹴り飛ばす。
「お ぶ あ」
凄まじい力で蹴り飛ばされた変態は、廊下で何度もバウンドすると、廊下の向こうに見える柱に激突して止まった。
そんな変態に対し、男は自らのコートの内側に手を突っ込むと、何枚かの紙の人形を取り出して、タバコの煙を吹きかけた。
「あの変態を押さえつけておけ。
男がそう言うと、紙の人形はふわりと浮き上がり、柱の近くで呻く男に張り付いた。
すると、変態の体から急激に色がなくなってゆき、白と黒のモノクロになったと同時に、その動きを止めた。
「大丈夫か、嬢ちゃん。怪我はしてないな?」
「……すごい」
「嬢ちゃん?」
「……あ、うん。平気。ありがとう、助けてくれて。……それで、あれは……」
「あの男の方は、
男の伸ばしてくれた手を握り、『かな』は立ち上がる。
「嬢ちゃんも、式神くらいは使えたほうがいいかもな。
「……うん」
そんな約束をして、二人は変質した家の中を探索し始めるのだった。
■
ってなわけで、少女の家だった場所を探索したわけだが……あまりにも気持ち悪すぎる。
ゲームでプレイした時は単純に不気味って印象だったが、色々な知識をつけた上で見ると、死ぬほど気持ち悪い事になっていた。
ゲームをプレイしていた頃の俺では決して理解できない事だったが、この家の造り、どうやら伊勢神宮を模倣しようとしたらしい。
鳥居と橋っぽい奴の位置で大体察した。
アメノウズメだけでは飽き足らず、かの大御神にすらあやかろうとするか。
呆れてものも言えないというのは、まさにこの事を言うのだろう。
小判鮫にも劣る畜生の所業だ。浅ましい事この上ない。
こんな事をしたところで自身の神格が上がるどころか、卑しい化生としてより穢れるだけだろうに。
そもそも、こんなところに社を構えたところで、それがまともなものになるはずが無いのだ。
風水的にも良くないし、何よりただの家を穢れで捻じ曲げ、拡張したところで、それはただの家でしかない。
神聖な境内どころか、穢れの溜まりに溜まった温床だ。
というか、むしろそうする事こそが目的なのか?
穢れを増やす事で、自らの力を増やそうと?
ならば模倣すべきは大御神ではなく、アマツミカボシだろうに。
……まぁ、いい。
必要なものは、手に入った。
原作では、これは母子の縁を強める事で、ラスボスに対抗するためのアイテムだったが。
しかし原作では、それこそが致命的に裏目に出た。
ただでさえ家族を失い、心に大きな傷を負った主人公に、母子の縁を通じてラスボスが入り込んだのだ。
これをそのままにしておけば、彼女は決して
だから俺は、これを逆に用いて、母子の縁を切らせてもらおう。
■
がり、がり、と。
『かな』の家だった場所の庭に、男が作業する音が響く。
四角に区切られた領域の四隅には割り箸と紙で作られた幣が立ち、その中心に安置されるのは、『かな』の臍の緒が入った小さな木箱。
「……よし、こんなもんでいいだろ。さ、嬢ちゃん。こっちへ」
辺りに煙の匂いが満ちる中、男はそう言って立ち上がり、手招きをして『かな』を呼ぶ。
「神様の中でも相当な大物をお呼びするんだ。本来なら、体を清めるべきなんだろうが……まぁ、今はいい。
「……わたしは、どうすればいいの?」
「これだ。この棒を持っていてくれ」
男が差し出すのは、先端の方に白い何かの巻かれた木の棒だ。
『かな』はおずおずと、差し出されたそれを握る。
「よし、それじゃあ───」
男が頷くと、男は中空に向けて指を差す。
瞬間、空気がピリと張り詰めた。
辺りに厳かな雰囲気が満ちて、息をするのも苦しくなる。
居る。
『かな』は、その事を直感的に理解する。
自分の目の前に、四角に区切られたその空間に、誰かが居る。
それはきっと、神様だ。
それも、ただの神様じゃない。
熱を感じる。
揺らめくような、強い熱を。
じわり、と。
『かな』の額に汗が滲んだ。
「───拝領します」
ぽっ、と。
男がそう呟いた瞬間、男の指先に、蝋燭を思わせる小さな火が灯った。
見た目は、ただの小さな火のようだが、しかし『かな』には理解できる。
これは、とても有難いものだ。
本来、人間ごときが触れてはいけないものだ。
男の指先から、目を離す事ができない。
ほんの一瞬目を離したら、その瞬間にも炎が燃え上がって、自分の体を焼いてしまうのではないかと思ったからだ。
そして、男が少女が持っていた棒の先端に指先を近づけると、白い部分がごうと音を立てて燃え始める。
「……さぁ、嬢ちゃん、やりなさい。その棒を落とせば、嬢ちゃんと母親の縁は切れる」
「…………うん」
こくりと小さく頷いて。
『かな』は、静かに手を離した。
■
「……ひどいこじつけだ」
メラメラと燃える炎を見て、俺は静かに自嘲する。
俺が呼び出したのは、カグツチ、あるいはホムスビ。
日本神話における火の神様で、母親であるイザナミを焼き殺した神でもある。
そのせいでイザナミは黄泉の国に堕ち、そして黄泉の国と現世は隔てられ、イザナミの子らは二度と母に会う事が出来なくなった。
「故に、その炎は母と子を分け隔てる。神の母子すら隔てるのだから、人間の母子の縁など、容易に焼き切れる……あのお方が融通を利かせてくださって、助かった」
そうでもしなければ、うまくいかなかっただろう。
「…………っと」
気づけば、少女が俺のコートの袖を掴んでいた。
体はカタカタと震えていて、その目からは、一筋の涙が流れていた。
「……ごめんな。こんな辛い事させちゃって。絶対に、絶対に助けてやるからな。だから、後ほんの少し。ほんの少しだけ、頑張ってくれ」
そう言って、俺は少女を抱き寄せる。
そうしてやれば、少女の震えはおさまった。
……後は母親と、それに憑いたラスボスだけだ。