炎が、尽きる。
後に残ったのは一山の灰と、そこから細く立ち上る煙。
「……」
灰の山に向けて『かな』は目を閉じ、手を合わせ、頭を下げる。
助けて貰ったのだから、お礼をするべきだと思ったからだ。
心の中で何度かありがとうございましたと唱え、そうして暫くして顔を上げると、隣で男も同じように目を閉じ、手を合わせていた。
「……さて」
男が、ゆっくりと顔を上げた。
「これで、嬢ちゃんと母親の縁は完全に切れた。これでようやく、嬢ちゃんはこの穢れた夜から抜け出す事ができる。夜明けを迎える事ができる」
膝を折り、目線を合わせた男が、『かな』の頭に手を置いた。
男の手が、ゆっくりと『かな』を撫でる。
たったそれだけで『かな』の心は、暖かさで満たされてゆく。
「だから後は、この夜を晴らすだけだ」
撫でる手を止め、男が立ち上がる。
物足りない気持ちを抑え、『かな』は男の視線が向いている方を見る。
『かな』の記憶と、土地勘が正しいのであれば、そちらの方にあるのは確か、立ち入り禁止になっていた領域があるはずだ。
「……あっちの方に、お母さんがいるの?」
半ば確信を持って、『かな』は男に問いかけると、男は小さく頷いた。
「お母さんを、どうするの?」
『かな』は男に問いかけるが、やはり『かな』は母親がこれから一体どうなるのか、大体の察しはついていた。
しかし、あれだけ酷い事をされたとはいえ、幾ら縁を完全に断ち切ったとはいえ。
それでも優しかった頃の、変わってしまう前の母の記憶は、『かな』の中に残っているのだ。
もう二度と会いたくはないが、出来る事ならば、ひどい目には遭ってほしくない。
そんな幼稚で曖昧な願望を捨てられるほど、『かな』は大人ではなかった。
「……」
そんな『かな』の想いを知ってか知らずか、男は一度煙を大きく吐くと、ばつの悪そうに話し始める。
「……悪いが、俺に嬢ちゃんの母親を助ける事はできない。母親は、あんまりにも……そう、あんまりにもやり過ぎてしまった。神を愚弄しすぎてしまった。神は確かに寛容だが、それは決して大御神を貶めて赦される程ではない」
「そっ、か」
それはきっと、仕方のない事なのだろう。
祖母を、父を、兄を、あんな事にしてしまったのだから、当然のことだとも言える。
むしろ、そうされなくてはならないのだ。
でも、それでも。
母親が大罪人として裁かれるのだと思うと、『かな』は悲しみと憐憫を覚えずにはいられない。
「思えば、あのお方がここまで力をお貸しになって下さったのも、親の大きすぎる罪を子が背負わないようにと言う御慈悲だったのかも知れないな……いや、今はそれを考える時じゃないな」
夜明けが近いと呟いて、男はタバコを吸い、煙を吐く。
「嬢ちゃん。俺は今から、この夜を終わらせに行く。それに嬢ちゃんがついて来るかついて来ないかは、嬢ちゃんの自由だ」
「行く」
男の問いに、『かな』は即答した。
そのあまりの返答の早さに、男は面食らったような表情を見せる。
「……見ていて気持ちのいいモンじゃないぞ」
「大丈夫。行く」
「…………わかった。それじゃあ、行くか」
男が諦めたように手を差し伸べ、『かな』がそれを掴む。
そうして二人が向かうのは、立ち入り禁止の柵を乗り越えた先、北の禁足地だ。
朽ち果てながらも、幾つもの家が立ち並んでいたであろう様から、かつて栄えていた場所であったのだろう事が窺える。
「手に負えなくなったんだろうな」
二人の行く道を阻むように現れた黒い壁を蹴破りながら、男は呟く。
「一番最初が何かはわからない。それは元々人間だったかも知れないし、動物や霊、化生だったかも知れない。もしくは、元々神だったって可能性もある。ただとにかく、ここの人間は川に流れ着く穢れを浄化するために、一柱の神をここに祀った」
二人を包もうとするように、黒い霧が現れる。
しかし、二人を包むタバコの煙によって、それが二人に触れる事は決して無かった。
「鰯の頭も信心からって言うが、人間の信仰心は即ち力の源。それはきっと、立派な神になったんだろう。こんな最悪の立地がここまで立派な街になったんだから、その力は認めていい」
二人の目の前に、黒く腐った巨木が倒れる。
男の靴の爪先が触れた途端、それは黒い土に変わり、色とりどりの花を咲かせた。
「だが、堕ちた。堕ちて、穢れて、人を祟るようになった。しかも元の力が強かった分、強力な祟りが起こった。その結果、祭りを始めとした神事は行われなくなり、信仰心は恐怖心に変わって、夜は穢れた。原因は戦後の再開発か、日本の生活態度の変化か、川の水質汚染か……はたまた、その全部かって言ったところだろう」
道を塞ぐように現れた怪物は、男に触れた瞬間、霧散した。
「勿論、信仰心を失えば神は零落する。だが、一度力を得てしまったそいつは力に執着した。結果、そいつは力を得るためには手段を選ぼうとせず、恐怖と穢れ、そして模倣に由来した、卑しい力を求める獣畜生に堕ちた」
道が石畳に変化する。
長年手入れされていない事が窺えるそれは、殆ど土に埋まりかけていたが、しかし先へと続いていて……その先には大きな、しかし朽ちて崩れた鳥居があった。
「憐れだとは思えない。大御神を模倣し、貶めようとした時点で、その余地は消えて無くなった。神でさえ、やって良いことと悪いことの区別はある」
ぴたり、と。鳥居の目の前で男が立ち止まり、そして『かな』から手を離す。
「……さぁ、嬢ちゃん。今までは嬢ちゃんに色々とやって貰っていたが、今回は俺だ。危険だからこれを握って、決して手を離さないように」
「うん」
そう言って男が懐から取り出すのは、緑色の変な形をした石だ。
『かな』はそれを受け取ると、しっかりと手に握りしめた。
「よし、それじゃあ────行くぞ」
男が朽ちた鳥居を蹴り飛ばす。
すると、顕になるのは神社の境内。
広い参道と、大きい拝殿は神社の格を表しているようだが、しかし今やその栄華は見る影も無い。
両脇に立つ狛犬は落ちて砕け、白かったであろう砂利は穢れで黒く染まっている。
神木だったであろう木は、既に枯れて、折れていた。
「……………………おまえ」
そして、拝殿の屋根の上。
即ち崩れ落ちた瓦礫の上に、誰かが座っていた。
それは、『かな』の母親だった女だった。
「おまえおおまおえなんだなんだまおまえなんだんんななんだなくくるなくるなくるな」
女の顔にもはや生気は無く、喋る言葉に人間味は感じられない。
「……家族との縁が切れて、辛うじて保っていた人間としての在り方を大きく失ったか。これじゃあ、本格的に獣だな」
男はゆっくりと、参道を真っ直ぐに歩いてゆく。
「やめろややめやろろやろめやめろくるくなくくななく」
地面から穢れが噴き出し、形成された槍の如き触手が、男の体を刺し貫こうとする。
しかし男の体に触れた瞬間、穢れはパンと弾けて消えた。
「いいだいやだやだやだいろきえきききろええろろきえろ」
穢れで出来た弾丸が男に殺到する。
しかし男は涼しい顔を保ったままだし、足を止めることもない。
「そんなに俺が怖いかね。……いや、怖いか」
パチン、と。
男が指を鳴らす。
すると、男の懐から紙の人形が一人でに浮き上がった。
「結界を張れ。逃すな。
その男の声に、紙の人形は境内の四隅へ動き、その地面に刺さった。
「こいいこいここここいはややくややくはくははややははやははくや」
「……んお」
「があぁ! があぁ! があぁ! があぁ!」
悍ましい鳴き声が響き、女と男の間に降り立つのは、巨大で悍ましい鴉。
ショッピングモールの上にいた、あの大鴉だ。
主の危機に、急いで駆けつけたのだろう。
「……んー、ちゃんとした結界の用意をしておくべきだったな、面倒臭い……まぁいい。どうせ八咫烏の模倣だろ。だったら対処は簡単だ」
男は咥えていたタバコを手に持つ。
「八咫烏は大御神の使い、それ即ち太陽の御使い。ならば太陽こそが、神聖なる火と光こそがその力の源である。しかして穢れは神聖なる力の対極。となれば、穢れの鴉は八咫烏の対極。八咫烏の力の源が聖なる火と光ならば、穢れの鴉が火と光に触れれば、その力を失う。そうだろう?」
そう言って、男は手に持っていたタバコを鴉に押し付けた。
「があぁ!? がぁぉ、ごぁ」
その瞬間、大鴉の体から羽が凄まじい勢いで抜け落ちてゆく。
肉は羽が抜け落ちた側から新たな羽と化して抜け落ちてゆき、最終的に小さな鴉の干からびた死骸が一つ、参道に横たわった。
「うそだそうそだうそだそうそばかなかばばかななばばかはやくやはははくははやくは」
女が喚けば、今度は拝殿の後ろから何かが飛び出してきた。
長い耳に赤い瞳、丸々とした体を持つ黒色のそれは、きっと兎であるに違いない。
「…………ここまで来ると節操無しどころのレベルじゃあないぞ。何処まで堕ちるんだお前は」
まぁいい、と。
先程鴉に押し付けたタバコを、今度は顔の前に持って来る。
「白兎は神聖なる植物の粉によってその傷を癒した。となれば穢れにより反転した穢れの黒兎は、神聖なる植物の粉で傷を受ける。そしてこのタバコは、さる方のご神木である。神聖であることに疑いの余地はない」
そう言って、ふぅと息を吹きつけ、煙を飛ばす。
すると、兎の体は見る見るうちに削れてゆき、最終的に潰れた肉塊が残った。
「なんでなんででんででででなんでなんでででなんなんんいやだややだややだやだだい」
女は喚き散らしながら腕を振るう。
黒い槍、黒い矢、黒い剣、穢れで出来たあらゆる武器が男に殺到するが、やはり男は涼しい顔だ。
「あんな言葉遊びに対抗できない時点で、お前の底はもう見えた。普通に考えて大御神の御威光がタバコの火に代替できるわけないだろうが。もう無駄だから、大人しく滅べ」
「いやだだいやいややだだやいやだだやいいいいやだいやいだいやだ!」
女がそう叫んだ瞬間、女の体から黒い靄が這い出し、哺乳類とも爬虫類とも鳥類ともつかないような、巨大な獣を形作った。
その巨大な体を必死に動かして、男とは反対の方向に逃げ出そうとするが、見えない壁に阻まれる。
「結界を張っただろうが。見てなかったのか」
呆れたように男が言う。
獣はそれでも必死に外に出ようとするが、無理だと理解して、振り返った。
「ししねしねねねしねしねしねしねねねねしししね!」
獣の口が裂け、男を呑む。
その瞬間、獣の口が内部から破裂した。
男はやはり、平気な顔だ。
「触ったな? それじゃあ、終わりだ」
そう言って、男はパチンと指を鳴らす。
「いやだいやややいいいだいやだいややだいやあだいあああああああいだいいだいああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ぐちゅり、ぐちゅり、ぐちゅり、と。
黒い靄が捩れ、潰れ、折りたたまれてゆく。
そして──────
ばちん!
と、大きな音を立てて、消えて無くなった。
「……ふぅ」
手をグッパと握って、男が一つ、息を吐いた。
そうして踵を返し、『かな』の側へと歩いて行く。
言いつけ通り、『かな』は石を握りしめて待っていた。
「さ、戻るぞ。じき、朝が来る」
「……うん」
そう言って『かな』の手を取り、二人は来た道を戻って行く。
二人の進む先で、遠くの空が、かすかに白み始めていた。
参考:『ダークドレアムvsデスタムーア』